魔法少女育叡計画 scientia est potentia   作:pseudok

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第3話 インモラルマインドアクセラレーション

◇酒己達子

 

 達子はベッドに倒れ込み、千円札を天井に翳した。目を眇めながら蛍光灯の方に向けると、綺麗な透かしが見える。正真正銘の千円札。

 とてもじゃないが使う気になんてなれない。もちろん捨てることもできない。まるで呪いのアイテムだ。お金をもらって嬉しくないことがあるなんて思いもしなかった。

 香織はなぜこんなものを渡してくれたのか。

 

 今日の出来事を一から反芻する。

 喫茶店に入る辺りまでは良かった。前売り券を買いに行った時に下見をしておいたおかげで、スムースに事を運ぶことができた。

 問題はそこから先だ。映画について話している最中に、明らかに香織の様子がおかしくなった。達子に怒っているというより、達子を嫌っている人の態度に思えた。小学校の時に達子をいじめてきた相手を彷彿とさせる。

 きっと喋り過ぎたのが良くなかった。普段は黙して語らないのに、アニメ漫画の話になると突然饒舌になる。完全にオタクの悪いところが出ている。気持ち悪いやつだと思われた。恥ずかしい。あんなに好きだったのに、今は本棚に並んでいる「SeVeN HeLLs」の単行本を視界に入れたくない。恥ずかしい。

「あああああああああああ!」

 ベッドの上で頭を抱えて転げ回った。

 

 心に深い傷を負ったが、事実を認めた上で声に出して吐き出すことで少しだけ楽になれた。嫌われているかどうかは一旦脇においておく。

 そこから先の会話は更に問題だ。

 「もし達子が龍児で香織が獅央だったら?」という質問に深く考えずに答えてしまった。あの時の香織の態度や後の言葉からすると、香織は獅央の復讐を正当なものだと捉えているらしい。確かにネット上には「獅央が一族皆殺しにするところが見たかったのに残念」という意見もあった。とはいえ少年漫画でそこまで反社会的な内容が描けるはずもないし、一種のジョークのようなものだと思っていた。そして香織の考えはそういった「残酷なものが見たい」という単純な発想とは違う気がする。

 次にした法の不備についての話は、難しくてついていけなかったが、冷静になってゆっくり考えてみると、拡大解釈が過ぎる気がした。法が間違っていると思ったとしても、勝手に無視するのはやっぱり良くない。確か三権分立とかなんとかの話で、法律は変えることができると公民の教科書に書いてあった。こんなにぴったりの反論があったのに、あの時いえなかったのが悔やまれる。

 その後コーヒーを飲んで落ち着いてからいった「現実を見れば譲歩せざるを得なくなる」という意見は、時間をかけたおかげでうまくまとめることができた。けれど、香織の反応は思わしくなかった。それどころか香織の目は暗い淀みを帯びており、恐怖すら感じた。なにか触れてはいけないものに触れてしまったのかもしれない。それがなんなのかはわからない。

 香織は「根は良い子」というフレーズにも引っかかっていた。達子は普段から香織のことを「根は良い子」と感じているが、「葉は悪い子」という言外の意味が表出してしまうので口には出さないようにしている。言葉自体が地雷なら、なおさらいわないほうがいいだろう。

 結局作品についての話は消化不良で終わってしまった。香織は復讐についてなにか思うところがあるのだろうか。よくよく考えてみれば達子は香織の中学校以外の人間関係については寡聞にして知らない。家族の話や小学校の時の友人の話などを一切香織の口から耳にしたことがない。これでよく香織のことを知っているなどといえたものだと思う。恥ずかしい。

 

 パパ活の話はもうどうしようもなかった。香織も達子が答えられないことを前提にした冗談としていっていたような雰囲気だったので、よしとする。よし。

 万引きについては漫画好きとしての知識が役に立って卒なく答えられた。これは香織も納得していたように思う。

 大麻の話はかなりの難問だ。香織の話が本当なら、理屈の上ではなにも悪いことはないのに、感情的には絶対ダメなような気がする。何度考え直しても変わらない。法律で大麻が禁止されている国で生まれ育って、所持しているだけで大罪として報道されるところを何度も見ているせいで、大麻が悪いものと思い込まされているだけなのだろうか。こればっかりは別の国で生まれ育たないとわからないかもしれない。

 「犯罪者の香織が香織に思えない」という意見は、それまで感じていた引っかかりを過不足なく言葉にできたように思う。現実の香織が罪を犯すとは思えない以上、犯罪者の香織は人格、家庭環境、金銭状況、交友関係など、なんらかの要素が現実の香織と異なっているはずだ。達子とも出会っていないかもしれない。現実の香織と別の人生を歩む知らない誰かでは達子の対応も同じにはならないので、議論の根底が崩壊する。

 しかし、香織はその後達子を巻き込んで実際に犯罪者になってみせた。つまり、香織は犯罪者に成り得ないという認識が間違っていたのだ。

 

 その後はあれよあれよという間に事態が進行して深く考える暇がなかった。今思えばあの時の香織は全ての言動が演技っぽかった。しかし意図的に疑いの目を向ける余裕を奪われていた。

 ただ水が溢れたのは本当に店員のミスだろう。あの時の香織に一切怪しい動きはなかったし、グラスと香織の距離が離れ過ぎている。おそらくこの偶然を利用するところから香織の計画が始まったと考えるのが自然だ。

 本当にお釣りを間違っていたかどうかは微妙なところだ。なにしろ香織の財布を直接確認したわけではない。しかし、確かにあのプレッシャーがかかった状況ならミスをしてもおかしくないと思うし、嘘であって欲しいという気持ちが目を曇らせているのかもしれない。ここは本当にミスをしたと考えるべきだ。

 ピッチャーにレモンが入っていたというのは、おそらく嘘だ。今考えてみると透明なピッチャーにレモンなんて入っていたら印象に残るはずだし、家に帰るまでに乾いたスカートに一切濡れた跡は残っていない。スカートを汚されたと思った瞬間、店員に対する嫌な気持ちが大きくなったのを感じたので、これに気付かなかったのは悔しい。

 結局最後には「他人のせいでこんな不幸な目に遭ったなら、ちょっとぐらい報われなきゃ辻褄が合わない」という思考に屈してしまった。

 

 このモヤモヤを晴らすために今からでも千円を返しに行くべきだろうか。わざわざ電車で何駅も先の店まで? 店員はどう思うだろう。感謝するのだろうか。もう過ぎたことなのに面倒な仕事を増やすな、と思うだけな気がする。そもそもお店のお金が減ったところでアルバイトの懐が痛むわけではない。

 その上、今は全て香織の狂言という別の可能性に気付いてしまっている。その場合は全くの無駄足で、恥のかき損だ。

 やはり退店した直後が最後のチャンスだったのだ。その時すらできなかったのに、何段も高いハードルを越えられるわけがない。

 

 返さなくていい理由ばかりが頭に浮かんで嫌になる。

 もしなにかの間違いで達子が犯罪者になったら、その高潔な心はきっと罪悪感に苛まれるだろうと思っていた。

 しかし今の達子を支配しているのは罪悪感ではなく、「恥ずかしい思いをしたくない」という感情だ。

 もし今達子を逮捕するために警察がやってきたと想像すると、思い浮かぶのは「家族に知られたくない」とか「近所の人に見られたくない」といった考えばかりで、申し訳なさなど感じる余裕はない。

 あまりにも心が醜い。

 断罪者の立場に立って香織と議論していたのが恥ずかしい。

 

 改めて千円札を眺める。

 たったの千円ですべての景色が一変してしまった。

 澄ました顔をしている偉人が憎たらしい。

「こんなものがあるから!」

 達子は千円札の上部を両手で掴み、憎しみに任せて引き裂いた。

 あっけなく千円札は二枚の紙切れに成り下がる。

「あ……」

 やってしまった。確か、紙幣を損傷させるのも良くない行為だった気がする。

 慌ててスマートフォンで検索をかける。

 適当なワードを入力すると、同じようなことが書かれているブログやQ&Aサイトが大量にヒットした。硬貨の場合は犯罪だが、紙幣の場合は犯罪ではないらしい。それに銀行に持っていけばそれぞれ五百円と交換してもらえる。

「よかった……」

 とはいえ、使う気がないのに戻してもらう意味があるだろうか。

 

 少し心を落ち着けてから二枚の紙切れを見ていると、香織の顔が思い浮かんだ。

 香織は達子の手を握りながら満足気に笑い、「共犯」だといってくれていた。にもかかわらず、なぜ達子一人で問題を抱えているのだろうか。

 ──もう一度香織ちゃんと話がしたい。

 達子は破れた千円札を学校の鞄に放り込んだ。

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