魔法少女育叡計画 scientia est potentia 作:pseudok
第1話 春の二人零和有限確定完全情報ゲーム
◇魚山護
玉を逃さなくてはならないが、適切な逃げ場所がわからない。見込みがあると思った場所がついさっき考えた末に切り捨てた手だった、といった徒労の繰り返しで、思考の堂々巡りに陥る。
一方、テーブルを挟んで相対する
護を見ている庚江を見ている自分を客観視すると、彼我の意識の高低差に気付かされ、急激に考える気力が失われていく。なぜこんな遊びに本気になっているのか。馬鹿馬鹿しい。
護は玉の駒を手に取り、それらしき枡目へと移動させた。プラスチックの駒は薄い上に軽過ぎて掴みづらい。
「護、その手は禁じ手──反則だ。指すことはできない」
「え? 王様は全方位動けるんですよね?」
金や銀ならともかく、玉の動きは覚えやすいため間違えようがない。念のため脇に置いた動き方の表を参照するが、やはり間違ってはいないようだ。
「そこは桂馬が利いている」
庚江は護の玉とその右上の桂馬を白く細い指で示した。
「あぁ……うっかりしていました。だったら取ればお嬢の勝ちじゃないですか。反則とは?」
「将棋のルール上、相手の玉を取る手段は存在しないんだ。取ることが可能な状態で相手に手番を回した時点で反則負けとなり、対局は終了する」
「……よくわかりません。どっちにしろ勝敗は変わらないんじゃないですか?」
「いや、これは取った駒を再利用できるルールと合わせて、非常に重要な要素だよ。将棋は戦争のメタファーでありながら、盤上に『死』が存在しない。戦後間もない頃、
楽しんでるのはお嬢だけですよ、という言葉が喉から出かかったが、いくらなんでも卑屈過ぎるので飲み込んだ。
「なんだか胡散臭い話ですね……。わざわざボードゲームを規制しようとする感覚がまずわかりませんし、その反論で納得するのも意志が弱過ぎると思います」
「ほう、なかなかに慧眼だね。君のいう通り、あまりに話が出来すぎているため、後世の創作だとする説も一部では見られる。だが、この話が受け入れられるだけの文化的土壌があったのも確かだ。娯楽に懸ける情念が軍国主義を打ち破る、一つの寓話として見ても十分に興味深いだろう?」
「はぁ……」
別に興味は湧かない。なにより自分から話を振っておいてその話の信憑性が低いとは、洞察力を褒められているとしても上から試されているようで気分が悪い。上手く丸め込まれている気がする。
「盤面に話を戻そう。指した後の駒から手が離れた時点で戻すのも反則になるが……今回は特別に看過するから、もう一度考えてみたまえ」
庚江はそういって護の玉を元の位置に戻すと、再び手の上に顎を乗せる。わざわざやり直させるということは、起死回生の一手が隠れているのだろうか? 改めて一つ一つの手を洗い出してみる。
真上は今しがた否定された。
右上は歩を取ることができるが、更に右上から角が睨んでいる。
右は歩と飛車の両方が利いている。
右下は銀──斜めと前に移動できる──が利いている。
下は左上の桂馬が利いている。
左下は左の銀が利いている。
左は銀の腹だから助かるようで、どこまでも進める飛車に狙われている。
左上は桂馬を取ることができるが、その上に歩がある。
「これ……どうやっても逃げられなくないですか?」
「ほう……なぜそう思う?」
「だって……」
護は頭の中で考えた手順を実際の盤面で再現して見せた。
「本当にそれで全部かな?」
「はい。たしかに八方向検証しました」
「ふむ……」
庚江は意味ありげな表情で自身の持ち駒をいじり始めた。
「あ! 持ち駒は好きな所に打てるんでしたっけ。だったら……」
護は玉と飛車の間に持ち駒の歩を置いた。
「合駒だね。残念ながら、それも反則だ。同じ列に歩を二枚並べることはできない。まあ、この場合は仮に打てたとしても飛車で取れるから無駄合いになるが」
「は? だったらやっぱりどうしようもないじゃないですか」
「なるほど……どうやらそのようだね」
「どうやらって……白々しいんですよ。私に気付けたならお嬢はとっくの昔に気付いていたでしょう。なんだったんですか今の時間」
「私が気付いているかどうかは関係がない。君は自力で考え抜いた末に『詰み』という結論に到達することができた。これほど尊い時間はないよ」
庚江の相貌は普段通りの穏やかな微笑みを湛えている。護はその笑顔の奥にあるものを掴もうと、過去何度となく試みていた。しかし、掴んだと思ったそばから想像を超える言動により護の理解の網をすり抜けていく。そんな経験が繰り返された結果、護の心はもはや諦めの境地に近付いていた。
庚江は他人が苦しんでいる様子に喜悦を覚えている、といわれても全くもって納得できてしまう。
「どこに動かしても反則なら、まさに打つ手なしってことじゃないですか」
「そのための投了だよ。作法は知っているかな? 敗北の意思さえ示せればどのような方法でも問題ないとされているが、『負けました』と発声しながら駒台に手を添え、頭を下げるのが一般的だ」
いわれてみればテレビのニュース番組で、そのようなシーンがピックアップされていた覚えがある。納得はしたが、実際に行動するかは別だ。さんざんおちょくられた末に、庚江に指示されるような形で頭を下げるのは癪に障る。
護は自玉の尻を押して先程と同じ、桂馬が利いている位置にそっと移動させた。
「その手は反則だと先刻承知のはずだが……」
「別にいいですよ。反則負けでも」
「まあ、君が望むならその意志は尊重しよう。ありがとうございました」
庚江はそういって深々と頭を下げた。護はそんな庚江を見ながら所在なく申し訳程度に目を伏せる。同じお辞儀でも勝者と敗者では全く意味が異なる。
「さて、十枚落ちで上手勝ちとなると、次は十九枚落ちということになるが、どうする?」
十九枚落ちということは、歩をすべて取り払い、玉のみで戦うということだろうか。それは……あまりにも人を馬鹿にしている。さすがに負けるとは思えないが、庚江の余裕ぶった態度からは、負けてやるという気が全く感じられない。万が一に負けた時の心情を想像すると、その惨めさに耐えられる自信がない。
「二度とやりませんよこんなクソゲー」
いってから庚江以外にも愛好家が数え切れないほど存在していることを考えると過言だとは思ったが、吐いた唾は飲み込めない。
「おや、すっかり機嫌を損ねてしまったようだね。護には将棋の面白さや奥深さを知って欲しいと思っていたのだが、どうやら私には教導者としての才覚が欠落しているらしい」
どれだけ教えるのが上手かろうと、教えられる側に適正がなければどうしようもない。明らかなアイロニーに満ちた言葉を吐く際に見せる表情の陰りも、どこまでが同情を惹くための演技かしれない。
「だいたい、なにが面白いんですか。こんな、逆転の要素もないし、上位者が下位者を蹂躙するだけのゲーム」
まるで子供の駄々のようだとは自覚しつつも、自己正当化を止めることはできなかった。
「なにが面白いとは、なかなかに哲学的なことを訊くじゃあないか。同格者同士であれば逆転も頻発するのだが、なるほど、君の意見にも一理あるかもしれない。少し考えてみよう」
庚江は唇に指を当てて沈思黙考を始める。別に答えが知りたくて発した疑問ではない。どこかずれたコミュニケーションをしていると思う。
「将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームだ」
「は? ふたりぜろわ……なんの呪文ですかそれ」
「二人はそのまま、一対一の戦いであること。零和はどちらかが得をすればもう一方が損をし、WIN-WINやLOSE-LOSEはないということ。有限は無限ループに陥らず、必ず勝敗が決すること。確定はサイコロを振るといったランダム要素が存在しないこと。完全情報は多くのカードゲームのように手札が伏せられておらず、全情報が公開されていること。厳密には異論もあるが、概ね全てを満たしている」
「はぁ……」
護の理解は全く追いついていなかったが、庚江は構わず続ける。
「現実世界の戦いといったら、多人数で、両者負けもあり、いつ終わるともしれず、運が絡み、常に隠し札を予測しなければならない。これほど単純明快で思考に没頭でき、息抜きにも適しているゲームはないだろう」
「こんな頭痛くなるゲームを息抜きって……。その思考に没頭するというのが凡人からしたらどれだけ辛い作業か、お嬢みたいな人にはわからないんですよ」
「そうだろうか? その点で人と人との間に本質的な違いはないと、私は信じているよ。必要なのはきっかけだけだ」
「きっかけ、ですか……」
遊びは息抜きに行うものと、ついさっき庚江がいったばかりのはずだが、その息抜きを自己の変革をしてまで行う意味はあるだろうか。
「何より運の要素がない点は重要だ。例えば、私と君がくじ引きで勝負をすれば、二分の一の確率で君が勝つ」
「くじ引きでも勝てる気がしないんですが……」
「それは、私がイカサマをするということかな? ずいぶん信用がないね」
「するでしょう」
「遊びの勝負ならしないよ」
「遊びじゃなければするってことですよね?」
庚江は質問には答えず、ただ笑みを返す。そういう態度のせいで信用を失っているのだが、自覚がないのだろうか。
「それで、仮に君が勝ったとして、その勝利を喜べるか?」
「それは、あんまり……でしょうね。そもそも遊びでくじ引きをする意味がわかりませんし」
「だとすれば、麻雀やポーカーのようなゲームでは、勝利の喜びは少なからず薄められているといえる。純然たる勝利を味わうためには、運の要素は排除されなくてはならない」
「でも、勝てなければ喜びもなにもないですよ」
「なら、研鑽を積むしかないね」
庚江は平然といってのけるが、護からすれば信じ難い苦行だ。
「結局のところ強者の理屈じゃないですか。だからやりたくないんです」
「君もなかなかに強情だな。無論強制はできないから、やりたくないといわれればそれまでだが……」
護は話しているうちに多少冷静さを取り戻していることに気付いた。今の突き放すような言葉も、さっきまでのスタンスを急に変えられないから出たに過ぎない。庚江を困らせている現状に申し訳なさなどは微塵も感じていないが、庚江ほど傍若無人な人間ではないという自負はまだ捨てていない。かくあるべしと思う自分と、もう全部どうでもいいと思う自分との間の板挟み。
「その……二人なんとかゲームっていうの、将棋以外にもありますよね? 将棋じゃなければダメなんですか?」
「たしかに、将棋である必要は特にない。だが、将棋のルールは非常に完成度が高いと私は考えている。将棋は先手後手の勝率差が少なく、プロアマ問わず五十二対四十八程度に留まる。約四百年前からほぼ大きなルール変更がない歴史的事実に鑑みると、これは驚嘆に値する」
「四百年前ですか……」
「そう、江戸時代の棋譜が数多現存し、現代将棋の知識があればそのまま参照できる」
雰囲気に飲まれて話を繋いでしまったが、この話の着地点はどこにあるのだろうか。護がやる気を取り戻さない限り庚江のプレゼンテーションは終わらないのだろうか。感情的になっていたことを差し引いてなお再戦する気は沸かない。今となってはなぜ勝負に熱くなっていたかも思い出せない。
「チェスは終盤に向かうほど盤上から駒が減っていくというゲームの性質上引き分けになりやすく、後手が引き分けに持ち込めば実質勝ちとさえいわれるほど先手が有利だ。一局で実力差が計りづらいため、公式戦は基本的に先後交代で二局行う」
「はぁ……」
チェスは駒の動かし方すら知らない。一体なんの話をしているのだろう。将棋の話ではなかったのか。話の内容は右から左へ抜けていき、今はただ時間が過ぎるのを待っている。
「囲碁は先手有利を是正するために後手に組み込まれたコミというハンデ制度がある。これは時代を下るごとに増大しており、現在の国内公式戦では六目半となっている」
「……」
囲碁はルールすら知らない。ふと窓の外を見ると、花が散ってしまった桜の木の枝に、雀が止まっている。日差しを受けた羽が白い輝きを放ち、とてもあたたかそうだと思った。
「連珠は先手必勝である五目並べを競技化するために改良したものだが、先手のみに課される多数の禁じ手は複雑怪奇極まり、覚えるだけでも一苦労だ」
連珠、五目並べ、先手……。
「ふぁ……」
「……護?」
「……あ、はい。なんというか……どれも先手が有利なんですね」
「後手有利のゲームも存在するよ。だが……今はこれぐらいにしておこう」
庚江はあくびを噛み殺している護の様子を見て目を細め、肩を竦めた。
「ともかく、奇跡のようなゲームバランスが見て取れるだろう。現代のコンピュータをもってしても完全解析にはほど遠く、戦型の正解も発見されていない。昭和の遺物と看做されていた矢倉が近年復活を遂げるなど、未だ流行は変遷を続けている」
「そうですね」
護の美しく理想的な生返事に対し、庚江は軽く溜息を吐いた。
「では、十九枚落ちを指す気になったかな?」
「いやです」
護は勢いで了承するであろうという庚江の狙いを読み切った。見えている罠に引っかかるほど正体は失っていない。
「そうか。これは君とってはチャンスだったんだが、仕方ない。一勝〇敗だ。当初の取り決め通り、罰ゲームを受けてもらう」
「あっ」
「まさか、忘れていたとはいうまいね」