魔法少女育叡計画 scientia est potentia   作:pseudok

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第3話 盤上必然の輸贏

 一週間後、護は庚江に正式な対局を申し込んだ。「正式な」というのは罰ゲーム「負けた方が勝った方のいうことをなんでも一つだけ聞く」を確実に履行させるための方便でしかなかったが、庚江の動きは早かった。祖父に頼んで八寸盤、木製の駒、脇息、その他備品、母屋の庭園に面した和室、着物、果ては専属の着付け師まで借りる約束を取り付けたという。

 大人が複数人駆り出されているのに「正式とは形式張るという意味ではない」などと今更いうわけにもいかず、庚江にされるがままだ。既にペースを握られている。

 なお庚江の祖父は意外にも乗り気で、観戦したいとまでいいだしたが、「真剣勝負に不純物を混ぜたくない」といって断ったらしい。配慮としては助かるが、流石に不憫だ。

 

 対局開始三十分前、対局室に入室する。

 荘厳な雰囲気の和室、外には広々とした日本庭園、そしてお互い普段と違う服装、化粧、髪型。別世界に迷い込んだようで、息の仕方も忘れてしまう。

 護が借りた着物は、萌黄を基調として全体に杜若(かきつばた)をあしらった、春らしく明るい雰囲気のものだ。髪はアップにして簡単にバレッタでまとめている。

 一方の庚江の着物は菫色を基調にポツポツと白い花のようなものが描かれている。髪は護と同じアップスタイルだが、長髪を後頭部にしっかりとまとめ上げるのは素人には簡単に真似できそうにない。着付け師の仕事ぶりが窺える。総じて落ち着いた色の着物と、日本人離れした薄い色素の髪のコントラストが映え、憎たらしいほどに──

「綺麗だよ、護」

「臆面もなく恥ずかしい台詞を吐かないでください」

 庚江はなにかを待つように黙って護を見つめている。護は意味がわからず視線を逸らした。

「君からは私になにかないのか?」

 横目で見る庚江はただそれが当然であるかのように超然と構えている。不満そうに口を尖らせたりしていれば多少は可愛げがあろうに、これでは純然たる嫌がらせだ。

「はいはい、お嬢も綺麗ですよ」

「そうだろう?」

 庚江は着物の袖を護に見せつけるように振り回しながら、ころころと笑っている。こんな茶番のなにが楽しいのか。

「ちょっと、はしたないですよ」

 護の身体をかすめる袖を避けていると、白い柄が花ではないことに気がついた。

「その着物の柄、なんですか? 動物……?」

「これはラッコ柄だよ。誕生日祝いに祖父から贈られたものだ」

 庚江の着物にはデフォルメされたキャラクターのようなラッコがそこかしこに描かれている。一度認識してしまえば、遠目からでも目が離せないぐらいに目立っていた。

「どんなセンスですか。着物にラッコって……」

「とても可愛らしいじゃあないか。私は気に入っているよ」

 屈託なくいわれてしまうと、もうそれ以上貶すわけにもいかなくなる。人小路のことだから、この風変わりな着物もフルオーダーで云百万だとかする代物なのだろう。金持ちの道楽というものは本当に理解できない。

 

 対局開始十五分前、盤の前に正座する。

"対局者情報を自動設定します"

 対局の時間管理は、事前にシャドウゲールがチェスクロックを改造して作成しておいた「記録係君」が行う。盤面を自動で認識し、時間の記録と棋譜を読み上げる機能を持ち、チェスクロックのボタンを押す手間を省いてくれる。なお、勝負に対して口を出すことはない。

 シャドウゲールの魔法『機械を改造してパワーアップできるよ』はあくまで改造であるため、改造元の機械が持つ性質の方向性と異なる機能拡張はできない。そのため、ただの目覚まし時計に記録係の機能を持たせることはできず、わざわざチェスクロックを買いに行く必要が生まれた。できないと思った改造がプフレの助言によって可能になった経験もあるため、あくまでシャドウゲールの認識が基準ではあるが、プフレと違ってシャドウゲールは自己洗脳の技術など持たないため、改造可能な範囲は現状狭い。この魔法が便利なのか、不便なのか、護にはよくわからない。

 だが、プフレは「いざという時のために魔法が適用可能な範囲は限界まで広げておくべきだ」といって訓練を強制してくる。「いざという時」というのがどんな時なのか、想像もつかないシャドウゲールからすれば、それが苦痛で仕方がない。

"上手 人小路庚江 女流アマ魔王"

"下手 魚山護 アマ十級"

「ん? なんですか、そのふざけた称号みたいなの」

「……まったく、プライバシーを貫通するとは、君の魔法はつくづく応用範囲が広いな」

「なにか心当たりがあるんですか?」

「戯れに出場した棋戦で優勝してしまってね。公式対局において一年間はこの肩書を名乗らなければならないらしい」

「それって、今お嬢が日本一強いってことですか?」

「いや、この大会に男性・プロ棋士・女流棋士・奨励会員は出場することができない。男女差はともかくとして、プロとアマではレベルが違う」

「ハンデなしでお嬢が負けるところが想像できないんですが……」

「買いかぶり過ぎだよ、護。将棋の強さはどれだけ認識できるパターンの種類を増やせるかに懸かっている。その域に達すれば盤面を見た瞬間、脳内で駒を動かさずとも次の一手が『見える』んだ。本番で一手一手読んでいたのでは全くスピードが追いつかない。私は飽きっぽくて一つのゲームを長く続けられないから、将棋に人生の全てを懸けている者達には全く歯が立たないさ」

「そういうもんですか……」

「この称号すら相当な過褒だよ。優勝できたのはたまたま指運が良かったからに過ぎない」

「ユビウン……?」

「指運とは、同じぐらいの良さの手が複数ある時、最終的にどの手に指が伸びるかは運次第になるという意味の言葉だ」

「え? 将棋には運要素がないとかいってませんでしたっけ?」

「ゲーム理論の範囲では間違いなくその通りだ。しかし……この先は哲学、脳科学、神経解剖学、ニューロンの発火、創発性、意識のハードプロブレムといったジャンル・テーマの前提知識が必要になるが、話を聞く気はあるかな?」

「わかってていってるでしょう……」

 

 対局開始十分前、庚江は盤の下から駒箱を取り出すと、にわかに先程まで護をからかっていた表情を消し、一礼した。護もつられて頭を下げる。

 庚江は駒箱から取り出した巾着袋を盤の上で開き、全ての駒を盤面に広げた。庚江は姿勢を正した上で山の中から王将の駒を探し出すと、駒の底が盤に描かれた線とぴったり一致するよう、ゆっくりと下段真ん中の枡に置いた。そして護に目配せを送る。

 その行為になにか神聖なものを感じた護は、同様に山の中から玉将の駒を探し、可能な限り庚江の動作の真似をしながら盤に置いた。庚江は護が玉将を置くのを待ってから次の駒を探し出す。以下金将、銀将、桂馬、香車、角行、飛車、歩兵の順に並べ、四十枚を並べ終わった時には、先週プラスチックの駒を好き勝手に並べた時とは全く異なる、奇妙な達成感が生まれていた。

 最後に庚江は自陣から金将、銀将、桂馬、香車、角行、飛車を拾い上げ、余った歩とともに駒箱に仕舞うと、盤の下へと押し込む。護はそこでようやく駒落ち戦であることを思い出したが、並べた上で取り除くその行為を、二度手間だとか、無駄骨だとは全く思わなかった。

 

 対局開始五分前、もはや二人の間に言葉はない。先に目を逸らした方が負けだといわんばかりに視線をぶつけ合う。室内が静寂に包まれると、遠くで微かに鳴っていた車のエンジン音すらも徐々に小さくなり、護が没頭する世界の中は完全な無音となった。

 

 対局開始直前、庚江がおもむろに口を開いた。

「確認だ。手合は十枚落ち。持ち時間は各1時間、チェスクロック方式。持ち時間を使い切ったら一手六十秒以内に指さなければならない。その他ルールはプロ公式戦に準ずるものとする」

「承知しました」

"定刻になりました。人小路庚江女流アマ魔王の先手で対局を開始してください"

「よろしくお願いします」

 

◇人小路庚江

 

「よろしくお願いします」

 対局が開始され、挨拶を終えた庚江は、駒ではなく、脇に用意された盆へと手を伸ばした。電気ケトルから緑茶葉の入った急須へ湯を移し、姿勢を戻す。

 十枚落ちの対局に長大な読みなどは発生しない。持ち時間一時間とは時間無制限と同義である。それは護にとっても同じだ。時間を使って読みを入れるとは、修練が必要な技術であり、初心者は時間を持っていても使うことができない。庚江とは逆の意味で時間が価値を持たないのだ。

 ゆえ、まずは多くの人々を動かして作り上げた対局場の空気をしっかりと堪能する。

 数十秒の後、湯呑みの上で急須を傾けると、湯呑みは鮮やかな薄緑の液体で満たされ、湯気が立つ。庚江は淹れた緑茶を唇を湿らせる程度口に含み、舌の上で転がした。茶葉が発する花のような爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。カフェインにそこまでの即効性はないが、その事実を知ってなおプラセボは発生する。ドーパミン、エンドルフィンといった脳内物質を自家生産し、集中力を高めていく。

 湯呑みを置き、深呼吸して清涼な空気を体内に取り込んでから、護を見る。一向に初手を指そうとしない庚江を見ても文句一ついわない。ただ黙って庚江を睨みつけている。その視線は、普段庚江が真剣に護を見つめたところで「こんなやつは相手するだけ無駄だ」といわんばかりに目を逸らす、普段の護とは全く違う。まるで、今にも獲物の喉笛に噛みつかんとする野生の獣の目だ。その視線が、とても心地いい。

 庚江はゆっくりと盤に手を伸ばし、王将の駒を人差し指、中指、薬指の三本の指で掴んだ。祖父から借り受けた将棋駒は年代物だが、よく手入れされており、椿油の香りが漂う。作者は龍文、材質は島黄楊(しまつげ)、木地は虎班、書体は水無瀬、彫りは盛上となっており、時価百万を超える祖父自慢の逸品である。島黄楊は限られた島からしか伐採できない上、乾燥に十年を要する希少素材だ。その独特のしなりは触り心地、打った時の感触、響く音に関わる。じっくりと手の中で弄びながら、人差し指と中指で挟む形に持ち替え、力強く盤面に打ち付けた。衝突のエネルギーは盤の内部を通じて底部の血溜まりに至り、そこから室内、屋外へと高らかな音を響き渡らせる。

 庚江は王将をぐっと盤面に押し付け、指を離した。

 ──まずは誰が君を唆したか、見せてもらおう。

"上手 人小路庚江女流アマ魔王 6二玉"

 

【挿絵表示】

 

 瞬間、護の目がほんの僅か、驚愕に見開かれる。もちろん庚江はその数ミリの動きを見逃さない。

 庚江はあのおつかい以降の一週間、ずっと護の背後に何者かの存在を感じていた。庚江は考える。護の交友関係の中に将棋に詳しい者はいない。とすれば道中に偶然の出会いをするしかない。護が行きずりで仲良くなれるタイプの人間など限られる。女、年上、少なくとも表面上は柔和、だが内には情熱を秘めている……いや、情熱と呼ぶにはもう少し黒い情動か。これは少なく見積もって八割方当たっているだろう。

 そして6二玉に対する驚愕。これにより初手4二玉以外を教わっていないことが確定する。定跡を過信する、常識に囚われる、規律に従う、そして従わせる、軍人のようなタイプ。庚江の目に「見えて」いる護の背後の人物の像が明瞭度を増す。

 庚江にとって最も与し易いタイプの人間だ。これによって庚江が敗北する可能性は、万に一つから億に一つまで低下した。

 この局面、角成を一手遅らせることに何の価値がある? 十枚落ちにおいて最善手、評価値、棋理追求などという概念は塵芥ほどの価値もない。悪手に次ぐ悪手、勝負手に次ぐ勝負手、それだけが盤面を支配する狂気の海。その中に長く潜り続けた者だけが勝利の美酒に酔うことができる。

 護は動揺を隠せない。隠そうと努めているが、視線、姿勢、発汗、腕の筋肉の動きなど、全ては庚江に伝わり、護程度に行える隠蔽工作などなんの意味も持たない。

 護は落ち着きを装いながら7七の歩を掴み、7六にペチと打ち付けた。指を離すと置いた歩がくるりと回転し、護は慌てて向きを修正した。盛上駒は掘った字に漆を流し込んだ後、更にその上に漆を重ねるという高度な職人技術の粋の結晶である。その立体性は見て良し触って良しの特長を備えるが、盤との摩擦が少なくなるため初心者には扱いづらい。

"下手 魚山護アマ十級 7六歩"

 以下、護は馬と竜を作ることを目指し、庚江はその隙に玉を7筋から敵陣へと運んでいく。下手は7筋に飛車を回ることで玉を追い返すこともできたが、護には2筋から飛車を脱出させる手しか見えておらず、それを読んだ庚江は堂々と玉を進めた。そして十九手目。

"上手 同玉"

 

【挿絵表示】

 

 ここまでスムーズに指していた護の手がついに止まる。あまりに簡単に竜と馬を作れることを不審がっている様子だったが、作った時点でここまで玉が進出している局面を見たことがないのだろう。護にインストールさせたアプリのCPUなどはこんな危険な手は絶対に指せない。なぜなら上手玉に九手詰めが発生しているからだ。だが護が相手ならそんなことは関係がない。護の今の棋力なら一手詰に十数秒から数分、三手詰に五分から数十分、五手詰めに一時間以上はかかるだろう。つまり五手詰め以上は一切考慮する必要がない。

 そして護は自陣をほとんど見ていない。桂馬や銀を動かした結果駒を取られるという経験がトラウマになっているか、あるいはそのように教えられたか。どちらにせよ付け入る隙だ。

"下手 2三馬"

 護は迷った末にとりあえず歩を取る手を選択したようだ。だがこれはとんでもない悪手だ。7七と8八の地点の利きが消える上、2筋に歩が立つ。2九の桂馬の危険度が一気に増した。

"上手 8七玉"

 更に玉が単身で敵陣へと切り込む、怒涛の踏み込み。依然として上手玉は詰んでいる。だが実際に詰まされることはない。

"下手 5三龍"

 再び歩を取るぼんやりした一手だ。一手先で駒が取られる状況でない限り自陣には触らないのかもしれない。庚江は更に攻勢に出る。

"上手 8八歩"

 

【挿絵表示】

 

 この手に対して護は即座に反応し、歩に手を伸ばしたが、そこではたと手が止まる。桂頭の歩は銀で取れば助かると思っていたのだろう。ここで護は時間を投入する。

 庚江は膝の前に置いていた扇子を開き、ゆっくりと扇いだ。「楽未央(たのしみいまだつきず)」と直筆で揮毫されている。

"下手 7八銀"

 長考の末に繰り出したのは、金の紐を利用した銀による王手で玉を追い返し、その隙に桂馬を逃がすことを見越す、読みの入った手だ。庚江は扇子を鳴らし、心の中で護を讃えた。なお代えて7八金とすれば歩が払える上、そもそも5五竜以下七手詰があるため最善手ではない。

"上手 8九歩成"

 

【挿絵表示】

 

 桂馬を逃したまでは良かったが、ここで護が苦悶の表情に陥る。銀でと金を払えば桂馬の紐が外れ、と金を放置すれば香車が取られる。今まで香車や桂馬を取られるところから自陣の崩壊が始まるという経験を何度もしているのだろう。

"下手 6三龍"

"下手 3二馬"

 やられる前にやるの精神で寄せを意識したのか、護は竜と馬で玉にプレッシャーをかけに来る。

"上手 9七玉"

 

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 これは庚江にとってこの対局中最も重要な一手だ。この手のために香車を取りに行ったといっても過言ではない。だが尋常の将棋指しには絶対に理解できない一手だろう。

 なにしろ8七馬までの一手詰めだ。見た瞬間血が逆流するかのような悪手中の悪手。だが庚江は護がこの詰みに気付くことはないという百パーセントの確信を持って躊躇なく指した。

"下手 7九金"

 護が珍しく能動的に自陣の駒に触る。入玉だけは絶対に許さないという意志を護から感じる。

"上手 9六玉"

 ならばそれを利用する。庚江は入玉に挑んだが失敗したという態度を装い、無様な後退を始めた。

"下手 8七銀"

 

【挿絵表示】

 

 「玉は包むように寄せよ」の格言通り、下手による包囲網が完成しつつある。護の目は爛々と輝き、勝利への確信を帯び始めている。庚江の狙いに気付いている様子は全くない。

"上手 7一香"

 馬が7筋に侵入するのを防ぎつつ桂馬を取りに行く攻防手のようで、実際には何の意味もない。この手の意図は持ち駒の存在を意識させることにある。

"上手 9五玉"

 

【挿絵表示】

 

 最終局面だ。次の護の一手で全ての勝敗は決する。時間は三十分以上残っているため、時間切れは全く考える必要がない。

 護は興奮している。盤を見、庚江を見、ということを繰り返し、なにか見落としがないか確認している。

 庚江は表情からは情報を与えず、じっと姿勢を正して護を見つめ続ける。

 ──さて、勝負だ。君はこの局面に「詰み」が存在することに気付けるか? 

 盤駒と二人以外存在しない小宇宙の中で、庚江の挑発はもはや言葉を経由せずとも視線と盤面を通して伝わる。護はそれに応えて震える指で駒を掴み、盤を割るかのような勢いで打ち付けた。護が指した手の中では初めて、部屋中に響く高音が鳴り渡る。

 護の着手を確認すると、庚江は、ふっと相好を崩した。

 庚江を睨みつけている護に対して、これ以上ない満面の笑みを送った。

「強くなったね、護」

 心からの称賛の言葉を告げる。

 そして庚江は、駒台に手を翳し、深く頭を下げ、明瞭に、力強く、その言葉を発声した。

「負けました」

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