リムグレイブ 新たなる王政   作:ポジョンボ

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霧の森の奪還

 

 

 

「ハァッ…ハァ…何だというのッ…!」

 

 

リムグレイブの何処か、辺り一面を深い濃霧で包まれた森を移動する影があった、その顔には焦燥が刻み込まれ、衣服の背や脇を滲み出す汗が湿らせる。

 

その霧深き森林、リムグレイブに住む民であればその特徴だけでそこが何処なのか、どの様な場所なのかすぐに理解できる。

 

 

「あんなヤツがこんな場所に!」

 

 

慎重に、しかし立ち止まることは決して無く、何度も辺りを念入りに確認しては隠れ潜める場所を探して森を彷徨い歩いていたのは一人の女だった。

 

元は穢れない純白であったであろう、白布のローブを身に纏う。今や色褪せて汚れている、それは何も森の中を移動していたからだけでは無いだろう、それより以前から染み付いたものだ。

 

 

旅などには適さぬその出で立ち、知識ある者が見れば女の身に纏う衣服はそれを着る者の素性を示すものだと理解するだろう、即ち、指の巫女、かつてこの狭間の地にて重要な責務と意味を持っていた、今は姿を消した者達の服装だ。

 

 

 「武器さえ奪われなければ…」

 

 

女の名はアナスタシア、指の巫女の装衣を纏い、しかし指の巫女ではないこの女の正体は褪せ人だ。

 

正確には褪せ人だった、かつての呼び名は〈褪せ人喰いのアナスタシア〉、狭間の褪せ人達がこぞって恐れ、憎んだ、同族殺しの褪せ人であった。

 

 

「こ、こんなところで…!」

 

 

そのアナスタシアは今、明らかに何かの存在を恐れ、リムグレイブの森の中を息を潜ませ逃げていた。

 

 

 

 

 

 

「各地の廃墟や野営地の再興…進展はどうだ」

 

「兵士達の尽力もあり順調に進んでおります、王よ」

 

 

ストームヴィルの王座の間にて、今日も今日とて新王ネフェリと忠臣ケネスがリムグレイブの再興の為にその務めを果たす。

 

運ばれたテーブルの上にはリムグレイブの地図が広げられ、各地に点在した復興途中の廃墟や野営地には印が書き込まれている、ケネスが説明のたびにその箇所を指差している。

 

 

「各地の廃教会もいずれ居住区として建て替える予定です、今手付かずの場所は…」

 

「啜り泣きの半島か」

 

「はい…あそこはリムグレイブでも取り分け危険な区域、凶暴な混種や危険な怪生物、あの場所は長い事放置されてきました」

 

「モーン砦からの報せは未だ来ないか」

 

「残念ながら…砦を任されている者も何やら姿を消して久しいとの事です」

 

「ふむ…早く手を付けなければいけないな」

 

「えぇ、それ以外にも問題が…もう一つ、ある理由で復興の進んでない場所が」

 

「それは何処だ」

 

「霧の森でございます、王よ」

 

「霧の森か…お前が治めてきた砦がある場所だな」

 

「ハイト砦の事は、まぁ…私もすぐに戻るつもりはありません、今は置いておきましょう、問題は霧の森の中腹に位置する廃墟です」

 

「ゆくゆくはその場所も、と思っておりましたが、かの森には兵士達とて迂闊には踏み入れず、したがって物資の運搬も出来ずにいるのです」

 

「かの森に住み着いた…恐ろしい獣によって」

 

 

「ルーンベアーの事だな」

 

 

「その通りです、ルーンベアー、この狭間の地に住む獣の中で一際の強靭さを誇る怪物」

 

「人食いの大蛸、混種の戦士、トロル、亜人の群れに動く怪植物…この地のどの生物と比べても屈強にして凶暴」

 

「かの邪悪なる飛竜アギールが褪せ人に討たれ姿を消して以来…奴らがリムグレイブの頂点捕食者です」

 

「ゴドリックが狂って以来、民の住む場所は手つかずとなりました…かつては森の奥深くにしか居なかったルーンベアーも、今は森全体を縄張りとしているのです、つまり…」

 

「つまり、凶暴なルーンベアーがいる限り、廃墟の復興もハイト砦を再興するのも不可能、奴らを排除しなければならないということか」

 

「……えぇ、そうです、今、討伐隊を募っております、失地騎士で結成された精鋭揃いの隊であれば…」

 

 

「いや、その必要は無い」

 

「私が霧の森へと赴こう、それで終わらせる」

 

 

ネフェリの迷いの無い、澄み渡った風の様な堂々とした一声が王座の間にもたらされた。

 

 

 

 

 

 

それから暫しの時が経ち、霧の森前の草原。

 

眼前には広大で鬱蒼とした森林が広がり、まるで地面から沸き立つ様に濃い白霧が充満して漂っている。

 

霧の森の名に違わぬ風景、ともすれば幻想的とも見えるが、この狭間の地にて人の手の届かぬ場所には決まって悍ましい何かが潜んでいる。

 

まるでこれから森に踏み入る者達からその潜んだ何かを濃霧が覆い隠しているようだと、そこに立つ者達には感じられた。

 

 

「今更私が何を言おうと止まらないのでしょうね」

 

「またお前に苦労をかける事、すまないと思っている、だが私一人が血を流す事で要らぬ犠牲を無くせるのなら躊躇う事はない」

 

 

 

静かに獲物を誘い込むかのように聳える霧の森の前に立つ人物、質の良いローブを羽織る男ケネス・ハイト、その顔は僅かに歪められ、何かやり切れぬ想いを写していた。

 

もう一人の毛皮で作られた軽装鎧を着る女はネフェリ・ルー、元は蛮地を故郷とする褪せ人の戦士、現在のリムグレイブを統治する新王である。

 

 

 

「…えぇ、わかっておりましたとも、王がその様な選択を選ぶ事も、そんな貴女だからこそ我等は付き従うのです」

 

「それに王の力を思えば…道理に外れた選択ではないでしょう、なにせ王にはそれを為せる力がある」

 

「力こそが王たる故、かのゴッドフレイも斯様な言葉を残しておられるのです、単身でかの獣を打ち倒す事も王にとっては無謀ではない」

 

「ゴッドフレイか…確かにな、かの王がこの場に居たらきっと私と同じ事をするだろうな」

 

「えぇ、霧の森の掃討は王たる貴女自身が行う、その事にもう異論はありません」

 

「ですがそれは、我等家臣が王の身を案じていないという訳ではないのです、その事をどうか御心の隅に」

 

「あぁ、解っている、お前達には感謝しているよ」

 

「勿体無きお言葉です、このケネスは貴女の王座ある場にて、何時まででも王の帰りをお待ちしておりますとも」

 

 

「フッ…本当に律儀な男だな、お前は…」

 

「ではそろそろ始めよう、森の獣狩りだ」

 

 

「ご武運を、王よ」

 

 

失われた砦と居住区を取り戻とした戦いが始まる、敵は数も知れぬ屈強極まる恐ろしい猛獣、挑むのは新しき戦士の王、霧の森の所要者の座を争う争奪戦であった。

 

 

 

 

 

ケネスにその背を見送られ、遂に霧の森へと足を踏み入れたネフェリ、踏み締める大地の感触は不気味に冷え湿っている。

 

辺りには飛び交う虫の羽音や、得体の知れぬ鳥類の鳴き声、何かが草木を掻き分ける小さな音。

 

勿論、いちいちそれらに気を取られるネフェリでは無い、ここは既に敵地、なれどネフェリには油断や慢心も、過度な緊張もまるで無かった。

 

 

「ふむ…」

 

「ルーンベアーか」

 

 

ネフェリが不意に口を開く、辺りに響かぬ様に声量は落とされている、最も、ネフェリとしてはいつ戦いになろうと構わなかったのだが。

 

 

「義父から聞いた話だと大層恐ろしい相手だとか」

 

「どの程度のものなのか」

 

「戦うとなれば初見故に…楽しみでもあるな」

 

 

心底から不意に溢れたその言葉に、数瞬の間を置いてネフェリは思わず自嘲の笑いを口元に浮かべた。考えてみれば危険と解っている場所に王自らが単身出向くなど正気では無い。

 

勿論、ネフェリなりの考えがあってのことだが、それでも戦いが楽しみだ等とは、これでは野蛮と罵られても仕方が無い。

 

 

「性根とはすぐには抜け切らんものだ」

 

「もはやこの命は私一人の物では無いというのに」

 

「だがこれも兵達の犠牲を思ってこそだ…私が赴き、全ての獣を打ち倒せばそれだけで…」

 

「…………」

 

「…いや、言い訳だな」

 

 

ネフェリは立ち止まり、暫し思考する、純粋なネフェリには誤魔化しや嘘などは、例え小さくとも、例え己であろうと捨て置くことは出来なかった。

 

 

「この身は戦いを求めているんだ、未だ戦士として闘争を欲している自分がいる、今回の事を丁度良い機会だと心の何処かで考えている」

 

「兵達の為にというのが嘘では無い、だが同時にこの衝動もまた事実…」

 

 

それは果たして王として正しい在り方なのか、自問自答の言葉を口にし、短い静寂の後、空を仰ぐように虚空に答えを探すように思考を続ける。

 

やがてまた一つ、小さい自嘲の笑みを浮かべてその思考を打ち切った。

 

 

「未熟だな、敵地で迷いに囚われるなど」

 

「かつて戦士だったとはいえ、今の私は王としてここに立つのだ、己の滾る血の為ではなく、民の為に」

 

「ゴッドフレイなら、きっとそうした筈だ」

 

 

そうしてネフェリはまた、歩みを再開させ、霧の森の奥へと進んでいった。

 

 

 

 

 

 

「安心したよ、どうやら迷っていた訳ではなかった」

 

 

それから一切足は止めずに歩き続けたネフェリ、そうして辿り着いたその場所には、古く捨て置かれ、朽ち果てた遺跡の様な有様の巨大な廃墟群が現れた。

 

それは狭間の地では珍しくない、かつては住民の居住区、或いは集いの場であった廃墟、ネフェリ達が霧の森を取り返したいのはこれらの物をまた使えるように再興させたかったからなのだ。

 

 

「これが在るということは丁度中腹と言った所か」

 

「しかし酷い有様だ」

 

「だが仕方が無いか、更地になってないだけマシだ」

 

 

ネフェリが慎重に廃墟へと踏み入った、その場所はもはや崩れかけの壁が辛うじて四方にあり、人の居た痕跡は殆ど消え去り、元の建物の形状すら悟れないほど崩壊していた。

 

石床が剥がれ、剥き出しとなった地面から伸びる草木を踏み締めながら、何枚か続く壁を回り込んで超えて進む。

 

やがて開けた場所に出た、廃墟が健在であった時は最も広い部屋だったのだろうか。

 

 

すると不意にネフェリは立ち止まる、息を殺し、その気配を瞬時に薄めていく。

 

 

「…………!」

 

 

咄嗟に口を開く様な愚は犯さず、ただ静かに目の前の光景を見据え、様子を伺う、そうするべき事態が目の前にはあった。

 

 

「グゥウウ……グッ…ウゥウ」

 

 

廃墟の広場に寝そべる巨大な何か、まるで小山のような大きさの毛皮の塊がそこに居た。ソレからは唸り声から覇気を抜いた、行き詰まった吐息の様な声が溢れていた。

 

焦げ茶色の毛皮、見上げる程の巨躯、丸太を束ねたような豪腕剛脚、腹部から胸部にかけて浮かび上がった模様、人間など簡単に口内にまるごと収められるほど巨大な頭部。

 

 

討伐対象のルーンベアーがそこには居た。

 

 

静かに引き返し、近くにあった壁の裏側に回り、その場でネフェリは状況を整理する。

 

 

(どうやら眠っているようだな)

 

(好機だ、余計に暴れられて本当に此処を更地にされては敵わない、一息で仕留められれば最良なのだが)

 

(となると狙うは頭部だ、しかし一撃でとなると容易では無い…仲間を呼ばれても面倒だ)

 

(あれ程の怪物の命を一息で奪うとなると…そうだな、特大の重量武器などなら可能だろうか)

 

 

ネフェリの脳内に浮かんだのは己の知る中で最も大きく、重く、強大な一振り、ローデイルで対峙したかの戦王が振るう特大の戦斧、剛の具現化の如きあの破壊力。

 

 

(私にあれ程の力があれば…いや、先手は此方が打てる、それ以上何を望むと言うのだ)

 

 

これ以上の思考に意味はないと判断し、ネフェリは行動を開始した。思えば森に入ってからあれこれと考えてばかりで己らしくないと気付く。

 

 

(そろそろ始めよう、ケネスを待たせている)

 

 

もうその必要は無いと言わんばかりに身を潜めていた壁から広場へと静かに歩み出る、いびきを立てて仰向けに寝転がるルーンベアーの元へと進んだ。

 

 

「先ずは一体、卑怯などと思ってくれるなよ」  

 

 

腰に差した斧の片振りを両腕で掴み振り上げる、その身に張り巡らせた力が頂点へと達した瞬間、渾身の一撃をルーンベアー目掛けて振り下ろした。

 

 

「ゴッ…!……ヵッ…!?」

 

 

それは断頭斧さながらにルーンベアーの首筋を捉えた、獣臭の染み付いた血の噴水が撒き散らされて辺りを赤く染め、信じ難い程の激痛と共にルーンベアーは跳ね起きる。

 

ネフェリの斧は首筋の毛皮を断ち、傷口は骨まで達している、ネフェリの斧が一撃の威力に優れる重量武器の類であったのなら本当にその一撃で首を切り離していただろう。

 

 

「グゥウ…!」

 

 

だがルーンベアーは狭間の地の獣、それも生態系の上位に位置する怪物、血は急速に失われ、傷口からは白い骨が覗き、それすらも斧が当たった箇所が裂傷の形に削り取られている。

 

それでも死なない、恐れもしない、尋常ならざる生命力、狭間の地の怪物は皆、完全に絶命するその瞬間まで闘争を放棄することがない。

 

敵対者の急速な排除こそが取るべき最良なのだとその本能が形作られている。

 

 

凄まじい程の激憤が込められた双眼がネフェリに向けられる、地を震わせる開戦の怒号を放とうとルーンベアーが喉を震わせて吠えんとする。

 

 

「ガッ…!…!?」

 

 

しかしそれは出来ない、最初の一撃で喉の声帯が損傷したのか、遥か遠方の敵すら打ち仕留める声の砲弾も、仲間を呼ぶことさえこれでは出来ない。

 

 

「声は封じた、集団で此処をこれ以上破壊して欲しく無かったものでな…」

 

 

その言葉を理解は出来ずとも、自分が追い詰められていることは解る、すぐさま目の前の敵を排除せんと、豪腕を振り上げて岩すら砕く叩き付けを繰り出さんとする。

 

 

「そしてこれで終わりだ」

 

 

だがネフェリの方が速い、どれだけの剛力があっても初動の速さでルーンベアーはネフェリに大きく劣っていた。

 

跳躍からの両腕に持った獲物による強攻撃、ただそれだけの単純な攻撃も、歴戦の戦士であるネフェリの手によれば必殺の戦技以上の殺傷能力を誇る。

 

振り下ろされた斧に籠もる破壊力、跳躍そのものの高さと力強ささ、吸い込まれる様に命中する精確さ、どれをとっても並の褪せ人のとは一線を画するその一撃。

 

 

「ウガッ…ゥ」

 

 

ルーンベアーの頭部、その眉間に深いバツ印の裂傷が刻まれる、頭骨を砕くその一撃は、既に体力を大きく失ったルーンベアーにとって致命傷となった。

 

小山のような巨体を地面に投げ出すようにして力尽きるルーンベアー、結果として鳴き声一つあげさせる事無く敵を排除した。

 

 

「あれ程の血を流して尚動けるとは、その強さに偽りは無しか……ん?…あれは…」

 

 

倒れ伏したルーンベアーの横、先程までは視界に無かった景色が映る、比較的劣化の少ない石床に、そこだけ切り取られた様な四角い空洞がある。

 

見ればそこには階段があり、地下へと続く入り口だということが解った。

 

 

「寝そべるヤツの下になって見なかったのだな」

 

「そういえば廃墟には地下室があると義父から教えられた事があったな…これがそうか」

 

 

覗いてみれば薄暗いながらもまだ光の届く位置に地下室への入口があった、特に何かを望んでいた訳でも無いが、見つけた以上は無視するのもおかしな話だと思い、ネフェリは階段を降りて地下室へと進む。

 

苔の生えた石階段を降り、薄暗い地下室へと到達する、一目見た限りでは中は狭く家具などの形跡も無い、マトモな部屋としてではなく物を仕舞うための場所なのだと思われる。

 

 

その地下室へ一歩、踏み入れたその時、入口側からは死角となっている入口横の間から何かの影が飛び出してくる。 

 

その人の形をした影が、振り上げた光を反射する鋭利な銀色もネフェリには見えていた。

 

 

「…!うぐっ…!」

 

「また会ったな、褪せ人喰いのアナスタシア」

 

 

突然振り下ろされた奇襲の刃、下手人の腕を掴み上げて軽々と止める、その正体は以前、邪な理由で城へとやって来た見覚えのある人物だった、両者の視線が交差する。

 

 

「お、お前は…!何故ここに…!」

 

「坑道の採掘場から逃げ出したとは聞いていたが、まさかよりにもよってこの森に逃げ込んでいたとはな」

 

「わ、私を捕まえに来たというの、お前自ら!?」

 

「いいや、違う、だが見つけた以上は野放しには出来んな……ふむ」

 

 

見ればアナスタシアの服装は乱れ、足元は土と泥水で汚れている、その顔にも疲弊の色が濃く現れていた。

 

 

「大方のところ、ルーンベアーから逃げてここに辿り着いたのか、褪せ人を恐れさせる凶悪な殺人者と言っても武器を取り上げられてはどうしようもない」

 

「そのナイフは亜人からくすねた物か?それでルーンベアーに立ち向かうのは厳しいだろう…地下室に潜んだは良いがそこにやって来たアイツのせいで閉じ込められた、そんなところか?」

 

 

「ぐっ…!」

 

 

「図星のようだな、さて」

 

「生憎縛る為の鎖も縄も無い故、手荒くなるぞ」

 

「なっ…」

 

 

言うや否や掴み上げたアナスタシアの腕を引いて体制を崩す、そのまま押し倒したアナスタシアを床に叩きつけた。

 

 

「ぐうっ」

 

 

アナスタシアが呻き超えを上げて手にしていたナイフを落とす、その瞬間に踏み付けて床へと縫い付ける。

 

 

「うぐぐ、お前…」

 

 

アナスタシアもすぐさま起き上がろうとするが、ネフェリの片足に込められた力は尋常ではない、両手をついて押し退けよともまるで動かない。

 

 

「少しばかり痛むぞ」

 

 

アナスタシアの頭上からネフェリの声が聞こえる、やがてゆっくりとネフェリの片足に体重が籠められる。

 

自分の両腕を後ろ手に引っ張られて、アナスタシアはようやくネフェリが前屈みの姿勢となり、拾い上げるかの様に自分の腕を掴んでいると解った。

 

そしてネフェリが何をしようとしているのか理解し、静止の声を上げるが間に合わない。

 

 

「や、やめろ……ぐあああっ!」

 

 

凄まじい力で一気に捻り上げ、そのまま底冷えする音を立ててアナスタシアの両腕はへし折られた。

 

 

「聞け、褪せ人喰い」

 

「どのみちこの森からは逃げられない、ここで大人しく待っていろ…既に先程仕留めた奴の同族が血の匂いを辿って集まって来ている筈だ」

 

「ハァ…ハァ…ッ、な、何…?お前一人であの獣共と戦うつもり?」

 

「元よりそのつもりでここに来た」

 

「お前…正気なの…?」

 

「フッ、まさかお前からそんな台詞を聞くとはな」

 

「さて、足の方もどちらか頂くぞ、お前はただでさえ油断ならないからな、念の為だ」

 

「なっ…まっ、待って、……ぐっ、ぐぎゃあっ!」

 

「一先ずはこれで良い、お前も褪せ人だったのだ、この程度でまさか死にはしないだろう」

 

 

「……さて、奴らとの戦いはこれからだ」

 

 

腰から二本の斧を抜き放ち、動けなくなったアナスタシアを背にしてネフェリが地下室から外へと歩いて行く。

 

 

光が指す外へと出れば、既に肌で感じられるほどの大きな気配と殺気が辺りに充満していた。

 

それを抜きにしても森の奥から漂ってくる尋常ではない濃度の獣臭が、現在の置かれている状況を如実に伝えてくる。

 

 

廃墟から出てみれば、もう目視できる距離にその姿は迫っていた、立ち昇る霧の風景に、黒く巨大な影が複数映り出す。

 

 

「一、二…三体か」

 

 

尋常ならざる殺気が濃霧に混じる、既に様子見の段階は等に超えていた、少なくともルーンベアー達にとっては。

 

開戦の口火を切ったのはルーンベアー、集まったうちの一体から地を引き裂く咆哮が鳴り響き、目には見えない破壊のエネルギーが凄まじい速度でネフェリに向けて迫る。

 

 

「なんだ…!?…うぐっ」

 

 

不可視かつ音の速度で迫るそれ、所見のまま回避する事はネフェリとて叶わない、咄嗟に防御の姿勢を取るも、全身を激しく打ち付ける衝撃を浴びる。

 

まるでトロルの振り回すハンマーの如き衝撃、強く吹き飛ばされ、廃墟の壁を打ち崩しながら叩き付けられる。

 

 

「…今のは鳴き声…なのか?」

 

 

瓦礫となって自分へと降り積もった壁だった石片を払い除けながら立ち上がるネフェリ、この程度のダメージでネフェリが戦闘不能になることは無い。

 

 

「大した攻撃だ、さながら飛竜で言うところの火炎のブレスというわけか」

 

 

吹き飛ばされたその間にもルーンベアーが巨体にまるで見合わぬ速度で地を蹴り上げて疾走し接近してくる。

 

 

「ガアアアッ」

 

「グゥウウッ」

 

 

狙った訳ではないのだろうが、偶然にもルーンベアー達の攻撃が左右から迫る挟撃の形となる。それぞれがその両腕を振り下ろす渾身の叩き付け。

 

 

(速い!)

 

 

素早く前方に身を投げ出すようにしてローリングし回避する、背後で爆発のような轟音と衝撃、土煙が巻き起こる。

 

すぐさま上げた視界に飛び込んできたのは、残る一体のルーンベアーが再び喉を震わせて先程の咆哮による砲撃を放とうとしている姿だった。

 

 

「くっ…」

 

 

全力の速度で身を右方向に回避させるも完全には間に合わず、音の砲弾がネフェリの立っていた地面へと着弾し、発生した衝撃でまたもや吹き飛ばされる。

 

ダメージ自体は無かった、軽々と空中で身を正し着地してみせた、だが、その動作もまた隙となる。

 

 

「…っ、避けきれないか…!」

 

 

既に他のルーンベアーが動き出しているのには気付いていた、全速力の突進、地を一息に踏み抜いて、まるで氷上の上を滑るかのように疾走する。

 

ルーンベアーが得意とする、何の小細工もないが故に強力無比なる、規格外の体躯と怪力が合わさった高速の体当たり。

 

 

「ぐああっ」

 

 

それは獲物の全身を強く打ち付けるだけに留まらず、吹き飛ばされる瞬間に前足で獲物を地面へと素早く叩きつけて縫い合わすことで突進のエネルギーが相まって、体重を掛けながら哀れな獲物を地面と己ですりおろす形になる。

 

ルーンベアーの人間を相手にする際の必勝とも言える攻撃、今まで遭遇した人間の殆どはこの動作だけで簡単に絶命した。

 

 

ネフェリの背面を小石などが無数に埋まる地面がヤスリとなって削る、上からはルーンベアーの重量が加わる、かなりの距離をそうして駆け抜けてようやく停止した。

 

 

「グウウウア!」

 

 

興奮のままにさらなる追撃を加えんとするルーンベアー、念には念を入れるなどの理知的な行動ではなく、ただひたすらに湧き出る殺戮の本能に突き動かされている。

 

そのまま眼下のすぐ下で仰向けのネフェリ目掛けて右腕を振り下ろす、地を震わせる衝撃がまた一つ。

 

しかし獲物をすり潰した感触だけは無かった。

 

 

「今の攻撃で…他の奴らと距離が空いたぞ」

 

「先走ったな」

 

 

その声はルーンベアーのすぐ近くから聞こえていた、素早く回避しながら起き上がったネフェリが、叩き付けを避けると同時に土煙に紛れてルーンベアーの懐、腹部の真下に潜り込んだ。

 

 

「ウガアァ!」

 

 

反応してすぐさま新たな攻撃を加えんとするルーンベアー、だがやはり今回もネフェリの方が速かった。

 

両手持ちにした斧を振り上げれば、そこに全てを打ち砕く雷鳴と暴風の混ざり合う破壊の具現たる嵐が顕現する。

 

争い合う両者の力の天秤が、傾き出す瞬間が訪れた。

 

 

 

 

 

「ガウゥガウッ」  

 

「グガガガッ」

 

 

やがて遅れて二体のルーンベアーもその場に辿り着く、だが全てはもう終わったあとだった。

 

 

「グググゥ……」

 

 

目の前には事切れた同族の亡骸、うつ伏せになった死体は腹部の方から大量の地が流れ落ち、体中に焼け焦がした様な燃焼の痕が残り、黒ずんだ煙を上げていた。

 

どの様に考えても殺したのは先程の人間、それを理解する程度の知能はあった、すぐさま五感を最大まで働かせてまだ遠くには行ってないであろう敵対者を探し始める。

 

そしてその瞬間は相手の方から訪れた。

 

 

「ガウッ…?」

 

 

不意に鼻に届いた血の香り、そしてほんの一滴の水滴が頭頂部を打つ感触も、五感を研ぎ澄ましていた為に感じられた。

 

木から滴る雨水であろうか、だが理屈を超えた本能はそれを否定する、回避せよと肉体に指令を下す。

 

だが方法が解らない、敵影が見えぬ限り避け方すらも不明瞭だ、そうこうしているうちに死神の歩みが到達してしまう。

 

 

「グウウ……!!…ガガァ…!」

 

 

次の瞬間にはその頭部に深々とネフェリの斧の刃が食い込んでいた、頭骨を突き破り、脳髄を断ち切る。

 

そして間髪入れずに引き抜かれ、もう片方の斧もまた、叩き込まれる、同じ様に頭蓋を砕いて脳を破壊する。

 

 

「ァァ……」

 

 

あれ程の力を秘めた肉体から呆気なく力が抜け落ちていく、そしてすぐに永遠に何の力も籠らぬ肉塊へと変貌した。

 

 

「高所からの落下を利用した強襲…珍しくは無い戦法だがその為に木を登ったのは初めてだ」

 

「土壇場の思いつきにしては上出来だったな」

 

 

「ガウウッ…!」

 

 

残ったルーンベアーは目の前で同族の命を奪われた怒りにより、その殺意を更に激しく滾らせる。

 

この不遜な獲物を引き裂こうと、喉を震わせてルーンベアーの戦技とも言える声の砲弾をネフェリ目掛けて撃ち放った。

 

「……!」

 

 

しかし信じ難い光景をその目が映した、音速で飛来する不可視の衝撃波を、何と目の前の人間は躱してみせたのだ。

 

確かに躱した、体を右に転げさせ、今まで人も獣も何人たりとも躱すことなど出来なかった得意の戦技を。

 

 

「攻撃自体は目で見えずとも、事前の動作を見ればどこを狙っているかは解る…厄介な攻撃だったがようやく慣れてきたぞ」

 

 

ネフェリの言葉をルーンベアーはやはり理解出来ていない、だがこの攻撃がもはやこの敵には通じないのだと言うことは理解した。

 

咆哮と共に全身に力を漲らせ突撃する、この手で直接叩き潰し、牙で噛み砕く事に決めたのだ。

 

 

「ガアアアッ グガアアア!」

 

 

だが、それもまた当たらない、悉く回避される。片腕で薙ぎ払う、両腕で叩きつける、顎で噛みつく、全身を使って突進する、それら全てが虚しく地を打ち、空を切るのみ。

 

そしてその後に振るわれるネフェリの双斧、ルーンベアーの分厚い皮膚ごと肉を裂き血を流させる。

 

おかしい、ルーンベアーは僅かに残された理性でそう思考する、敵は血を流している、同族の攻撃を確かに受けていた、いつもはそれだけで戦いは決着する、なぜ終わらない?なぜ自分は未だに戦って血を流している?

 

 

「………!」

 

 

やがてルーンベアーは自分の肉体から力が抜け落ちている事に気付く、それ程までに受けた傷から流れ出た血が多いのだ、本能が急速に萎んでいき、ようやく自分の置かれた状況を完全に理解した。

 

 

つまり、自分の力が目の前の敵より劣っている事に。

 

両者の力は確かに拮抗していた、それは単純に此方が三体で向こうが一体であったから。

 

距離が空いた隙に一体が殺された、その時点で此方が不利となっていたのだ。

 

既に自分に勝利の目は無く、その命が尽きる瞬間もすぐそこまで迫ってきている。

 

 

「……」

 

 

本能が完全に鳴りを潜め、ルーンベアーの脳内に静寂が訪れる、そうしてルーンベアーは行動を選択する。

 

 

「ガアアアッッ!」

 

 

咆哮を上げて残る力の全てを前腕に籠めて振り抜いた、狭間の地の怪物に逃走は無い、戦いが始まれば何方かの絶命の他に決着はあり得ない、その様に形作られている。

 

 

「最後まで戦うか、ならば答えよう」

 

 

ネフェリが正面から双斧を構えて迎え撃つ、怪物と戦士、両者の戦いの幕引きたる一撃が交差して、最後の血飛沫が霧の立ち昇る空を舞った。

 

 

最後まで地を踏みして立っていたのは、王たる戦士ただ一人だけであった。

 

 

 

 

 

「まったく、奴め…何という執念だ」

 

 

ルーンベアーとの戦いに打ち勝ち、その後に血の匂いを察知した新手が現れぬ事から掃討が完了したと確認したネフェリ。

 

霧の森の廃墟へと戻り、思わぬ再開を果たした罪人をついでに城へと連れ帰ろうとした、しかし地下室にいるはずのアナスタシアの姿はどこにもない。

 

 

「両腕と足の片方を折られてなお逃げ出すとはな」

 

「奴を見くびっていたか…やれやれ、仕方が無い」

 

「待っているケネスには悪いが…野放しにでもしてまた凶行を繰り返されては取り返しがつかない、森から出てはいないだろう」

 

 

ネフェリは一つ溜息を溢し、冷たい霧の覆う森の奥へとまた進んでいった。

 

 

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