「そう言えばハイト砦はどうなった、ケネスの話では最後に居た時は亜人達が警備していたらしいが…」
「まさかアナスタシアめ、そこに逃げ込んではいないだろうな、念の為に見てくるか」
霧の森の中腹、廃墟復興の為に付近に住まった凶暴な獣ルーンベアーと戦いを演じそれらを打ち倒したネフェリ、自らを最初に王と呼んだ忠臣たる男が治めていた砦がこの場所にある事を思い出す。
目を離した隙を突いて行方をくらました凶悪な罪人の存在もある、捜索ついでに暫く手付かずだった砦の様子を確認することに決めた。
「ケネスによれば敬意を持って接すれば亜人もまた隣人足り得ると言うが、壊れかけの律から解放されたこの世界ならそれも叶おうか」
ネフェリは霧の森の探索を続ける、今いるのはルーンベアーから取り返した復興予定の廃墟、ハイト砦とはここより南に進んだ海岸付近にある。
「さぁ行くか」
ネフェリは霧の森のさらなる奥地へと進み始めた。
・
・
・
歩き続けて暫く、次第に先の見えない濃霧が僅かに薄まっていくのが解った、南の海岸から吹く風が霧を飛ばす、つまりハイト砦が近付いている。
「もし…もし、そこの人…」
「ん?」
その道中、道行くネフェリに話しかける声があった。
霧の森の居住地は廃墟と化して久しく、この森に住まう者がいるとは予想していなかった、覇気のない男の声の元にネフェリは向かっていった。
「何か…何か買っていっておくれよ…時代が変わっても…儂らはずっと貧しいままだ…」
それはハイト砦へと続く道の逸れた場所に焚き火と野営の寝床を敷いて陣取る壮年の男だった。近くには痩せた馬が繋がれ、男の顔は口布と帽子で目元だけが露出し、夜の寒さに耐える防寒の毛皮が付いた旅装束を纏う。
「旅商人か、黄金樹が消えた今も狭間の地に残っている者がいたとはな、それもリムグレイブの辺境に」
「我ら元より何物にも縁なき者、今更旅を続ける気力も残っておらん、ならば世界がどうなろうと私には関係の無い事よ…それよりも…」
「何か買っておくれよ、商品はあるが客が居ない、前は近くの砦の連中とも取引した事だってあるんだ」
「ほう?」
「商品だけじゃない、お恵みをくれるならこの森で起きている危険な事に付いても教えてやれるよ…」
「成る程、解った、代金はルーンで良いのだな?」
「おぉ…ありがとう…」
ネフェリはこの旅商人が自分の知るべき知識を持っていると判断した、話をするにはまずこの男の望みを叶えてやるべきだと旅商人に歩み寄り、かざした手より生命の輝きたる黄金のルーンを幾ばくか分け与えた。
「助かるよ、これでまた生きていける…!」
狭間の地において売買の取引とは物々とその価値に見合った量のルーンによる交換である。旅商人は代金のルーンを生きる糧とし、有益な道具類を手に入れた者達はそれぞれの旅や戦いにそれを活用する。
だが今ネフェリが必要と感じた物は敷かれた布の上に並べられた商品ではなく森の異変という商人の言葉の真意だった。
「この森の危険と言ったな?」
「そうだよ、アンタが何の目的で霧の森に足を踏み入れたか知らないが今この森は嫌にざわついている」
「ルーンベアー共を見たかい?奴らもそれを感じ取ったのかやたらと気が立っていてね」
「あぁ、私がこの森に来た理由がそれだ」
「まさか…奴らの遠吠えが聞こえた後、何やら静かになったと思ったが……いや、それは良いんだ、問題なのはルーンベアーだけじゃない」
「アンタ…ハイト砦を知っているかい?」
「あぁ、ここより南の海岸にある砦だろう?」
「そう、昔は亜人達とその女王と和睦し有効的な関係を築いていたと言う」
「だからこの先にある森を抜けた海岸には亜人達が居るんだが、ソイツらをここ最近まるで見なくなった」
「何やら不穏な気配っていうのかね、そんなのを感じて海岸とその近くのハイト砦に行ってみたんだ」
「そこで…見てしまった…」
「何をだ?」
「亜人達を殺す連中を、血に染め上げられた砦、悍ましい血の肉腫に覆われた野犬共とその飼い主…」
「あれほど気味の悪い連中を私は初めて見た」
「どんな様相だった?」
「赤と金の刺繍が付いた黒ローブに呪われた忌み角の様なものが生えていた、手には刺剣…だと思う、あんな形状の武器は見たことが無い」
「ここに居たら不味いと思ってね、すぐに引き返したが…今にして思えば過去もあの砦は奪われている」
「ふむ、確か血に狂った騎士長が亜人の女王を殺し砦を我が物としていたのだったな」
「あぁ、だから今回も…」
「そいつ等が砦を奪ったかも知れないと?」
「恐らく…だからハイト砦には近寄らない方が良い…」
「例えアンタがルーンベアーを倒せる猛者だとしても」
「成る程…情報と忠告に感謝する、だが起きている異変を知った以上は私がそれを捨て置く事は出来んのだ」
「そうか…ならせめて祈らせてくれ、アンタの無事を」
「あぁ、そうしてくれ…そうだ、ついでに一つ、貰いたい商品があるんだが」
「おぉ、何だい?ここにある物なら何にでも」
「コレを貰おう、フフ…勇者の肉塊か、懐かしい」
「物で釣る訳じゃ無いが城の皆には気苦労をかけているからな、土産の一つでも持って帰るとしよう」
ネフェリは商人との会話もそこそこに目的であったハイト砦の方角へとまた歩き出した、海岸から吹く風がより強く感じられ、やがてとうとう森の木々が途切れ始めた。
・
・
・
そうして歩き続け霧の森を抜け出し海岸付近の草原へと到達する、遠目にはハイト砦が聳え立ち、そこへ続く道から逸れた先に大地を抉り抜いたかの様な巨大な大穴があった。
「流星が落ちて開いた大穴」
「これがそうか、この目で見るのは初めてだったな」
それは大穴という形容では物足りない程に強大な破壊の痕跡だった、砦一城分程の面積の地面が消失し、底がまるで見えない深淵と化している。
如何なる力の働きか、砕け散った地面だった岩片が大穴の上空で浮遊している、明らかに真っ当な現象ではあり得ない神秘の類、狭間の地でもここまで異様な景色はそうそう無い。
「何かしらの魔術の力か?岩石を浮かせる重力の魔術は見たことがある、確かエンシャ殿が修めていたな」
「だがだとしてもここまでの芸当が出来るものか…?」
ネフェリが大穴に近寄って見てもやはりその光景は幻影の類でも無く確かにそこに存在している、ネフェリはその大穴の奥底から漂う言い様の無い力の存在を知識ではなく感覚で察知する。
薄煙の様に静かな、冷気を帯びた神秘の気配。
「…何の因果でどれ程の力の元にこの様な破壊が起きたのか私には理解できん、だが少なくとも砦の異変とは関係無いようだ」
ネフェリは視線をハイト砦に向ける、遠間だがその輪郭はハッキリと確認できる、雲行きの怪しい空から降りる影が砦を薄暗く彩り、それだけが理由では無い不気味な雰囲気が漂っていた。
「…砦へ急ごう」
ネフェリはその気配を感じながらもハイト砦へと向かっていった、この先で起きる戦闘を予感しながら。
砦への道を辿ること暫く、遮る物の無い平原の道は砦への距離がわかりやすい、やがてハイト砦の城門近くの尖らせた丸太で組んだ防護柵が見えてきた。
「ん?…あれは…!」
ネフェリの優れた視力はその位置からでも砦の状況が確認できる、突き出す大槍の壁の如き防護柵の周りに打ち捨てられる様に転がる亜人達の血に濡れた死体。
中には防護柵の丸太槍に串刺しになった者もあった。
「砦にいた亜人達か…? やはり…ッ!」
明らかな異様に直ぐ様ネフェリが駆け寄った、だがそれと同時に砦へと近付くネフェリに向けて風切音を立てて飛来する高速の影があった、ネフェリの感覚も素早くそれを認識する。
「クッ」
走る勢いのまま、硬直無くその体を右へと投げ出してローリングする回避、すると次の瞬間にはネフェリがいた地面に3本の矢が鋭く突き刺さった。
「バリスタの矢か」
ガシャンという駆動音が遠間から聞こえた、どの方角から、如何なる方法でこの矢が放たれたかなど顔を上げて確認するまでも無く、ネフェリは近くの身を隠せる岩場へと駆け出した。
「やはり砦は奪われている…正確な姿は見えなかったが、確かに城壁でバリスタを撃つ影があった」
「亜人達を手に掛け砦を奪った、商人の言っていた気味の悪い連中なのだろうか?」
「さて、どうする、此方には撃ち返す矢も弓も無い、いや…考えるまでも無いな、私にできるのはこの双斧を持って道を切り開くことだけだ」
砦に備え付けられた固定バリスタの射撃は一度目で止んだ、だがそれは攻撃の終わりを意味しているのでは無い、射手は今も岩場の影から標的が姿を表すのを標準を定めて待っている。
そしてネフェリが意を決して岩場から飛び出した。
「奪われたのなら返してもらおう」
そして直ぐ様聞こえる駆動音、バリスタが装填を行うその音は攻撃の予兆、ネフェリは砦の壁から突き出す足場でバリスタを構える人影を見た。
そしてまた大弓を超える速度と鋭さの矢が放たれた。
(バリスタは一台だけか、容易い)
ネフェリは発射の瞬間を見切って回避する、矢の速度は凄まじくともその軌道は直線、矢その物を見切らずとも発射のタイミングで射線から身を逸らせばそれだけで矢は当たらない。
躱した瞬間に駆けるネフェリ、バリスタはクロスボウと同じく次の矢を放つのに装填を挟まなければならない、そしてその隙に防護柵を潜り抜け、城壁の真下まで潜り込んだ今のネフェリを狙う術はもう無かった。
「さぁ、ここまで来たぞ」
バリスタ砲が見下ろす道を超えた先には横向きのハイト砦入口、踊り場のある階段を登った先から入城できる、回り込んで階段を登ろうとすれば丁度目の高さの位置に踊り場が見えた。
ネフェリがそこを通過しようとしたその瞬間、そこからネフェリ目掛けて飛び出す影があった。
「!」
「ガアアッ」
短い咆哮と共に踊り場から奇襲を仕掛ける、ネフェリはその攻撃と正体を瞬時に認識した。背後に飛び引けば眼の前に敵影が躍り出る。
「リムグレイブでは見たことが無い、気味の悪い連中とやらが連れて来たのか?見張り代わりの番犬と言った所か」
「ウウウ…」
唸りを上げる四足の影は獰猛な野犬だった、死体と共にルーンを取り込み格段に身体能力と殺戮本能が増した危険な肉食獣、狭間の地では有り触れながらも侮り難い怪物の一種。
だがその野犬の体は普通では無かった、痩せた体の至る所に不快感を禁じ得ない赤黒い肉腫が浮き上がり、濃密な血の匂いと動物のすえた異臭が混ざり合う。
「商人が話していた肉腫に覆われた野犬とはこれか」
「グガアッ」
血に狂った獰猛な野犬は本能のままに攻撃を開始する、四足による俊敏な疾走、そして一直線の軌道は間合いに入る直前でサイドステップの様な回り込みに派生する。
一瞬で獲物の横方向へ移動する、迎撃を掻い潜りその牙を届かせる、この撹乱する動きこそ多くの標的を食い殺して身に付いた狩りの技法だった。
しかしそれも歴戦の戦士たるネフェリには通じない。
「見た目通りただの獣では無いようだな」
常人ならば目で追うこともできないその動きに対応してみせた、横合いから片足を狙った高速の噛み付きを高く飛び上がって回避する。
「ガッ」
そして上空から肉腫の野犬を踏み付けた、その体を足場として更に跳躍、空中で一回転して着地、今度はネフェリが野犬の背後へと回り込んだ。
「ガアア!」
肉腫の野犬もそれは気付いている、攻撃を躱されただけでなく、踏み付けにされて逆に翻弄された怒りを込めて振り向きざまの噛みつきを繰り出した。
そしてその行動は致命的な失態だった、その場で眼の前へと飛び出して仕切り直す判断が出来れば戦いはまだ続いていただろう。
「永遠に大人しくしてもらうぞ、狂犬よ」
攻撃と同時に振り向く野犬、そしてそれよりも速いネフェリの嵐鷹の斧が巻き起こす落雷を伴う戦技たる嵐、数多の強者を屠ったその技は断末魔の悲鳴を上げる暇も無く肉腫の野犬を粉々に打ち砕いた。
肉腫の野犬が持つ牙は血油で汚れ、一度それで傷つければ甚大な出血を相手に与える、だがその力を発揮すること無く絶命した。
「これは想像よりも厄介な事態かも知れないな」
今倒した野犬以外にその場には他の敵影がいない事を確認し、ハイト砦の正面入口まで回り込む、階段を登ると開いた門の先に砦内の様子が伺えた。
「何だ、これは」
そこには醜悪にして悍ましい光景が広がっていた、垣間見える砦内の地面は赤一色で染め上げられる、漂う濃密な血の匂いがそれらが全て生物の血液だということを示している。
所々に見えるは積み上げられた亜人達の死体の山、血を流し尽くし、あるものは赤黒い肉の塊と化していた、その死肉の山には蛆と蠅が沸いている。
砦の中は地面の広場と少し進めば石床の奥部屋がある、そして取付けられた階段を登り、その途中には見張り台、そして登り切ると砦上部の屋外広間と監視塔がある。
地面、床、壁、全てが血で塗り上げられていた。
「…やはり捨て置けんな」
余りにも異様で異質な空間と化していたハイト砦、ネフェリは躊躇いなく間違い無く危険が潜んでいるであろう砦の中に堂々と踏み入った。
「ウウウ…」
「砦の中にもいたか」
その気配を察知して砦内の積み上がった物資や死体の山の影に隠れていた肉腫の野犬が姿を表す、その数は三体、それにつられて別の敵影もやって来る。
「ア…ア、ア」
奥の部屋からよたよたと蹌踉めきながら現れた人型、野犬と同様に全身を肉腫に覆われた人間だった、ただし胴体は切り開かれた様に大きく抉れて損傷、その皮膚は腐り落ち、人の面影を残すのは二足で歩くその形だけ。
狭間の地をうろつく死に切れぬ亡者達であった。
「良いだろう、来い」
敵影がネフェリの命を奪わんと一斉に駆け出した、防護柵や置物を器用に避けて野犬が迫る、亡者達は奇妙な膨張を始めながら走り出してそれに続いた。
「ギャウウッ」
まずは一撃、一直線に走り寄った一匹目の野犬を右腕に持つ斧の強力な横薙ぎで切り裂いて吹き飛ばす。
そして二撃目、横から回り込んだ二匹目の野犬を方向を素早く変えて左腕の斧で地に縫い付ける様に叩き付ける、倒れた野犬を蹴り飛ばしてまた吹き飛ばす。
「うぐっ…!」
三匹目の野犬の一撃が遂に届く、二匹よりも遅らせて迫った攻撃は結果として先んじた仲間を囮として成功する。
背後を向けた形となったネフェリの右肩に血に狂った野犬の牙が突き刺さる、その箇所が尋常の生傷よりも熱を持った焼け付く痛みを肉体に広めていく。
「毒か…!?」
肉体的に優れた戦士であるネフェリは痛みへの耐性も高い、牙が更に深く食い込む前に噛まれた右肩を前へと振り払うと野犬が離れ、前方に降り立つ。
「ガガッ…!」
身を捻り無駄な好き無く着地した野犬、仕切り直しと威嚇の声を上げるがそれ以上何かをする暇は無い。
ダメージを受けた右肩でそのままネフェリが斧を振り下ろすことは予想外だったのか、吠える頭部は縦に両断された。
「これであとは手負いが二匹…ん?」
優勢となるかと思われたその時、肉体を膨張させた肉腫の亡者が遅れてネフェリの元へと到達した。
「これは…!?」
肉腫の亡者は全身から赤黒い淀んだ血液を噴き出しながら駆け寄った、接近が近づき血の匂いが鼻腔を刺激する距離までくればネフェリの体は異変を察知する。
肉腫の亡者が撒き散らす血やその匂い、それを浴びた肉体の奥底がジリジリと焼けるような危険な兆候たる痛みを訴える、まるで肉体がこれから起ころうとする致命的な何かに戦慄く様な。
「くっ…」
危険を感じて亡者への迎撃を中断して距離を取る、戦士としての本能が攻撃して排除するのは危険だと理屈を超えて警告した、そして吹き飛ばされていた敵がその隙に反撃を繰り出す。
「ガアッ」
「ッッ…!」
二体の狂犬が連携して攻撃する、ネフェリの一撃は致命傷となりかけていたがダメージなど無いかの様に肉腫の野犬は本能のままに獲物を追い立てる。
別方向から迫る二匹の牙を完全には躱しきれず、僅かな傷跡が褐色の素肌に浮かび上がった。
そしてその傷口からまた感じる不穏な焼け付く疼き、本能の警告は更に増し、肉体が何かしらの危険に陥ってるとネフェリは理解した。
そして遂に蓄積した危険が炸裂する瞬間が訪れた。
「アア…アァア!」
また肉腫の亡者が膨張し血を噴き出して接近、そしてネフェリのすぐ近くで全身の血液を濃密な血煙に変えて広範囲に爆裂させて噴き出した。
「!!」
亡者は生命の全てを使い切ったのか完全に死体となって崩れ落ちる、そしてその血煙の爆発を浴びたネフェリの傷口が激しい灼熱を持ち、込み上げる吐き気の様に細胞一つ一つの疼きが頂点に達した。
「ぐ…ぐああっ!」
そしてネフェリの肉体までもが体内の血液を大量に噴き出した、肌が張り裂けて体の至る所から生命の源たる血液が一度に消失する。
「ぐうう…!」
大量出血による目眩、意識の消失まではいかなかったが肉体的には甚大なダメージ、それは狭間の地の逸脱的生命力を持つ怪物達が相手でも有効打となる恐ろしい状態異常の戦法。
出血、褪せ人の間ではただ一言にそう表現されるその肉体の異常は勿論、ただの傷から流れ落ちる流血の事では無い。
余りにも不自然な傷口からの大量出血、それは一際鋭利な刃物や忌まわしい邪法や呪物の類で発生する常ならぬ現象、蓄積された傷が限界を超えると堰を切った様に血液が溢れ出す。
「成る程…通りで血塗れ…」
ネフェリもその技法の心得こそ無かったがそれを発生させる鋭利な武具や爪牙の持ち主と戦った事は何度かあった、最も自らの肉体を爆発させて発生させる敵にはあったことが無かったが。
全身の力が抜ける、だが同時に滾りかけていた血が失われ、ある意味では冷静な状態となる。
「ガアガアッ」
だからか、危機的状況に好機として迫る二匹の野犬の動きにも冷静なまま反撃を繰り出した。一匹目が跳躍からの噛み付き、もう一匹がその攻撃への対処を行ったネフェリの隙を狙うために足に力を込める。
「簡単に食い殺されてやる訳にはいかない」
飛び掛かる野犬に右の斧を投擲、縦に円を描いて回転するそれは野犬の飛び掛かる勢いと合わせてその体を縦に腹のあたりまで引き裂いた。
「ガウウウ」
動いて隙を晒したと判断した野犬が遅らせた飛び掛かりを繰り出す、だがネフェリの想定のうち、もう片方の斧で迎え撃つ為にその場から動かずに片方を仕留めたのだ。
「私の勝ちだ」
両手に持ち替えた斧の一振りが野犬の攻撃に合わせられ、突き出されたその首を切断して宙に吹き飛ばす。
「ア、ア」
残った亡者が最後の抵抗と言わんばかりにまた血煙の爆発を行う為の膨張を見せた、当然黙って見ている筈もなく野犬から引き抜いた斧を頭頂部に叩き込んだ。
斧を引き抜くと同時に蹴り飛ばす、するとやはり血煙を撒いて爆発、今度は煙を浴びることは無かった。
「バリスタを操作していたのはコイツか、自ら実行する知能が残っている様には見えないが…」
「…まだ終わっていない、上に居るな」
ネフェリが階段を登った先の屋外広場を見る、やはりそこも大量の血で汚されている様だが、何よりもそこに居る存在の威圧感を肌で感じていた。
いつ来るかもわからない奇襲を警戒し、一段一段を踏みしてて慎重に階段を登り切った、その先で見えた吹き抜けの広場の様相にネフェリは少し目を見開く。
「此処に居たか、褪せ人食い」
「ぐ…ううっ」
吹き抜けの広場は石床と首元辺りの高さの壁で囲まれた空間だった、横合いに進めば監視塔に登れる。
その広場に椅子に縛り付けられて拘束されたアナスタシアが居た、労働を命じられた坑道から、そして霧の森の廃墟から逃げ出した罪人だ。
力無く椅子に座らされて縄を巻かれている、その腹部から流れる酷い出血で白かった巫女服は足元まで赤く染まっている。
「武器も無く、手足も折れているのに無茶をする」
「まだ生きているな、ここの連中にやられたのだろうが、もし死んでいたら追い詰めた私もそれに加担した様なものだ、凶悪な罪人とて無益に命を奪ったとなれば忍びない」
「よくも…巫山戯た、事を…お前も、何時か…!」
「得意気に…なんて…まだ…」
「あぁ、解っている」
ネフェリが油断なく双斧を構えて鋭く睨む、アナスタシアが縛り付けられた椅子の隣、その血に濡れた地面が突如として沸き立ち始める。
深度など無いはずがその床の箇所から噴水の様に吹き上がり、やがて赤黒い影がその中からゆっくりと浮上してくる。
そうして出来上がった赤黒い影はやがて輪郭を鮮明にしていく、それは一見すると人に似た姿だった。
「ソイツは…血の貴族…」
「血の貴族、成る程な、そういう事か」
「かつて義父が言っていた血の君主なる存在に使えているという謎の存在、悪名高き血の指と関係があるとされてきたが」
「この砦の様子を見れば納得だ」
「……」
血の貴族の外見は旅商人の言う通りの物だった、黒金と赤を基調とした貴族の名に合った風格と気品を思わせるローブ、忌み子の特徴である忌み角の様な突き出した捻れ角。
その手に持つそれは異形の重刺剣、鮮血が形を成したかの様な色合いと、有り余る害意を具現化したような凶悪な裂傷を与えられる形状。
その恐ろしいほど冷たい殺意を浴びずとも、誰しもが一目見てそれが邪悪の部類に入ると理解するだろう。
「ようこそ…我らの王朝へ…」
「なに?」
「あぁ、偉大なる王、荘厳なる王朝…そうだ、この場所こそがそうなのですね…!そうなのでしょう…?」
「王たる貴方様が滅びる筈など無い…王朝は不滅だ!」
「何を言っている、王朝とは何の事だ」
「…耳を貸す必要は…無いわ…」
「コイツらは…主を失い狂った…敗残の兵」
「何か知っている様だな、まぁ今は良い」
「言葉は不要か、では力尽くで砦を返してもらう」
「あぁ!素晴らしきモーグウィン王朝よ!」
ネフェリが血の貴族へと踏み出すのと、血の貴族が袖口から取り出した刃を横に薙ぐ軌道で投擲したのは同時だった、飛翔するその刃もまた、血の貴族の獲物と同様に複雑な傷跡を残すための歪な形状だった。
「この鋸にも似た赤黒い刃、あの野犬共の牙と同じ役割か、まともに受けては先の二の舞いだ」
ネフェリが迫りくる歪んだ刃を斧で弾き飛ばす、そのままローリングで距離を詰めて間合いに入る。
そのまま斧を振り下ろそうとするが、血の貴族も迎撃に動く、手にした重刺剣の刃先で石床を削り取る様に傷付ければ、まるで生き物の肌でそうした様に血液が石の床から吹き上がった。
血の貴族が剣を振り払えば飛び散る血液は床を這うように一気に広がり、間合いに踏み込むネフェリの足元まで届いた。
「くっ…」
床に広がった血液は酷く淀んで泥濘んだ、それを踏む足からまたあの恐ろしい出血の前触れである焼け付く痛みの感覚を認識してネフェリは飛び引いた。
「さぁ血を流すが良い!」
そして血の貴族が異形の重刺剣で攻撃を繰り出す、切っ先を突進と共に一直線に突き出す戦技、貫通突きによく似た一撃。
褪せ人の間でも広く普及していた戦技である貫通突きは凄まじい殺傷能力を発揮し、多くの褪せ人の戦いで活躍した、その動きと酷似した血の貴族の一撃も同様の破壊力を秘めている。
「良いや、これ以上流す訳にはいかないな」
重さは槍と同等の刺突突進を横に転がり回避する、そして武器を持つ腕を伸ばし切った血の貴族を横合いから狙う。
「!」
だが振り上げた斧の一撃を中断してまた飛び引く、血の貴族は伸ばした獲物を素早く引き戻し、体の中心に沿わせるように片腕で獲物の切っ先を向けて構える。
刺剣の突きの構えに似ていたが何かが違う、迎撃の為の一撃ならこちらが速い、だがネフェリは今まで培った戦闘経験からその構えの真意を読み取った。
「ほう、良くぞ気が付いた、我等が王朝に不遜にも忍び込んだ賊などにしては腕が立つ」
(今の構えは…パリィと言うやつか)
脱力しながらも神経を研ぎ澄ました目で相手の一撃を待ち構える、ネフェリはこれが武器を用いた受け流しの技法だと予想した。本来なら盾を用いて行うが一部の武器でそれを実践する者達もいると聞いていた。
(洗練された技巧、私には縁の無い技であったが…)
「そろそろ終わりにしようか、双斧の戦士よ」
「…あぁ、そうだな」
血の貴族がまたも切っ先を水平に構えた貫通突きの構えを取る、これ以上の駆け引きは無用と判断した。
自分には強烈な重刺剣の一撃と出血の技、そして受け流しの技法を用いれば速度に劣る斧の攻撃を無力化することは可能だった、不安も躊躇いも無く突進を繰り出した。
「我等が王朝の礎となれ!」
血の貴族が突き出す重刺剣がネフェリに迫る、そこから回避する素振りもしないネフェリ、そして重刺剣の切っ先がネフェリに届かんとしたその時、
激しく鼓膜を震わせる金属を打ち付けた甲高くも重量も伴った轟音が鳴り響いた。
「な、なに!」
血の貴族の重刺剣の一直線だった切っ先は狙っていたネフェリの胴を貫くこと無く、強烈な力で血の貴族の右腕ごと弾かれ、それに引きずられ血の貴族の上体すらも右後ろへと傾いた。
「こ、これは…どうやって…!?」
「見様見真似だが、成功か」
それはネフェリが繰り出した一撃が血の貴族の獲物と衝突しそれを弾き飛ばした、ネフェリのこれは受け流しの技法から発想を得た動き。
本来、パリィの類は余計な力を脱いた脱力状態で敵の振るう獲物の最適な角度とタイミングを見切り、横合いから加える力で攻撃を弾いて隙を作る。
「決着をつけさせてもらう」
ネフェリのは結果は同じでも過程が違う、脱力では無く真逆である全霊の力を持って振り払う、そうして当たった武器は相手の武器を力付くで弾き飛ばす。
だがこれは切っ先を見切るネフェリの反応速度、それに合わせる熟達の勘、横合いからの一撃、そして人外じみた筋力、全ての要素が合わさって可能となる。
前提として相手より膂力で勝らなければならないこの力任せのパリィは、しかし優れた戦士であるネフェリが使えば戦いの選択肢たる技になり得る。
「があぁ…ッ」
血の貴族の胴体へ叩き込まれるネフェリの斧、骨と内臓を破壊し次の一撃で胴体に致命的な損傷を与える、崩れ落ちる血の貴族が尚も重刺剣を握る力を込めるが、それよりもネフェリのトドメの一撃が速かった。
「お前が何を持って大義とし忠誠とするのか私には解らん、だがこの地を穢す事を見過ごす事はできない」
「血の貴族とやらよ、さらばだ」
戦闘が終わり、血の貴族が倒れた事でハイト砦の敵対者の気配は完全に消えた、勝利を治めたネフェリは森の探索を続けた本来の目的へと歩み寄る。
「さて、次はお前だ、褪せ人食い」
「…坑道には戻らないわ…!」
「そうだな、坑道での労働程度じゃお前を心変わりさせるには足りない様だ、もっと頑丈な檻が必要か?」
「ぐっ…お前…!」
「褪せ人食いよ…お前のその衝動、どうやっても抑えつける事の出来ないものなのか」
「なに…?」
「時代は変わった、もう同胞同士で血を流して奪い合う必要は無い、略奪者を強いられる世界は終わった」
「お前のその衝動が初めからあったものなのか、変わってしまった結果なのか、何方にせよ新たな世界で真っ当な人生を歩み直すつもりは無いのか」
「…何を言うかと思えば…私の事を知っているでしょう、そんな言葉に今更意味があると思うの?」
「あぁ、お前は凶悪な殺人者だ、だがお前もかつては同じ祝福を宿した狭間の地の同胞だったんだ」
「もし少しでも望みがあるのなら…その可能性を信じてみたいと思う、城に来て罪を償え、アナスタシア」
「私はもう戦って敵の命を奪うだけの戦士では無い、この地の王だ、同じ人間を有害だからとただ切り捨てて終わりにはしたくない」
「…………」
そう語るネフェリの瞳をただ眺めてるアナスタシア、その目の中に何かしらの隠された意図を探るも澄んだ目の中にそれらの陰りは少しも無かった。
「随分と…甘い奴…大層な腕を持ちながら…」
「正直、お前の事はここで殺すべきなのかも知れない、この選択で後に後悔するのかも知れない」
「だがお前がこの手を取るのなら信じよう」
ネフェリがアナスタシアを拘束している椅子の縄を切り裂いて解く、アナスタシアが立ち上がるも血を大量に失い力が入らず膝を付いて倒れる、差し出されたネフェリの手を、沈黙のあとアナスタシアは掴んだ。
「フン…なら望み通り何時か後悔させてやる」
「つまり今は大人しくするという意味か?まぁ、お前にしてはマシになった方だな」
「抵抗なんて…したくても出来ないでしょう…」
「それもそうだ、では帰還するとしよう」
ネフェリがアナスタシアに肩を貸して背負うように歩く、不浄な血で穢されたハイト砦から霧の森へ、そしてストームヴィルの城へと罪人と王は帰還する。
「…あら、周りの匂いで気付かなかったけどお前も血を流しているのね…ふふふ、良い香りね」
「やっぱり今…少しだけ味見しようかしら」
「…やはりここで始末するべきか?」
「ハァ…砦を元に戻す必要があるな、何より…」
「随分と長くなった、またケネスに小言を言われる」
人知れず奪われていた砦の奪還に成功したネフェリはその日のうちにストームヴィル城へと戻って行った。
アナスタシアは兵達に引き渡され、城内での拘束を課せられたが、それに抵抗の類は無かったという。
王から仔細を聞いたハイト砦のかつての領主である腹心は、深い感謝の念を抱き、口にする小言の数も少しは減ったと言う。