伊地知虹夏は困惑していた。
佐藤みのるという青年に対して形作っていた脳内イメージと、後藤ひとりという少女を前にして浮かべる困ったような嬉しいような、けれどとても苦しそうな表情。これまで見聞きしてきた噂と目の前にいる彼は、致命的なほど違っているように思えて。
しかし、以前の初対面時に自分の名前を知っていた事実は確かなこと。幼馴染の山田リョウや姉は何も教えてくれないが、スターリーに訪れていたらしいことも虹夏は察している。例の動画に映っていたのも確かで、入学式でのカツアゲ写真も学校の友人に見せてもらったことがあった。
だからこそ、危ない人なのではと考えていたし、自分の名前を知っていたのはストーカー的なアレだからではと疑いもしていたのだ。トゥイッターやイソスタで囁かれる犯罪歴の中には、いくつか本当のことがあるかもしれないとも。
けれど、違った。突然の出会いでもなく、一対一で話すでもなく。後藤ひとりという少女を通して見えた「佐藤みのる」という青年は、ごく普通の男の子に見えてしまって。転けた少女を助け起こす様には確かな優しさがあった。
想像と現実の違い。
それにモヤモヤしつつも、時間がないので強引に疑念を無視して、後藤ひとりごとスターリーへ連れていくことにする。
(お姉ちゃんとリョウ、怒るかな……どうしよう……)
絶対に何か言うであろう面子を思い浮かべ、自分の感情も整理できないまま、虹夏は気が重い足取りでスターリーへと向かっていった。
――――――
スターリーへと向かう道すがら。
少し前方を歩く黄色とピンクの二人を見ながら、重い足を動かして後をついていく。
流されるまま歩いているが、本当にいいんだろうか。今更ながら心がうじうじしてくる。スターリーに向かう道が怖い。
数日前に向けられた目を思い出す。伊地知星歌と山田リョウの警戒と敵意に満ちた厳しい視線。明らかに怪しまれ、不審がられ、遠ざけようとしている。絶対、歓迎されない。されるわけがない。
背筋が震える。歩くのが辛い。このまま行けば傷付く。嫌な目にあう。逃げたい。帰りたい。一瞬で世界から俺の存在を消してしまいたい。
でも、できなかった。
何度も後ろを振り返る後藤さん。俺が着いてきていることにほっと息をついて伊地知さんの背中に隠れる。
やや控えめにちらりと見てくる伊地知さん。どこか複雑な目が俺を確認して、スターリーに歩いていく。
これから逃げられるだろうか。少なくとも、俺にはできない。逃げられなかった。逃げたく、なかった。
心構えが出来ないまま俺たちはスターリーに行きつく。
「着いた! ここだよ」
後藤さんと共に地下へと続く階段を見下ろす。
隣のピンクが青い顔で「魔境……?」と呟いているのを聞きつつ、俺はイキってここに来た時を思い出して気分が悪くなった。開店時間も確認せず、伊地知星歌の質問にしどろもどろで。自分のアホっぷりに嫌気がさして死にたくなる。
恐る恐る階段を降りはじめた後藤さんが、動かない俺を心配そうに見上げてきた。下の扉の前で伊地知さんも俺を見つめ、表情を不安げに染めている。
止まっていた息を肺から吐き出し、足を動かす。
「ただいまー……」
「し、しし失礼します……」
俺がいるせいか。伊地知さんは声を控えめにそっと中へと入っていく。
彼女の背に隠れるように進む後藤さん。その背中に少しでも隠れたくて、俺は中腰の変な姿勢で店内へ滑りこむ。周りを見るのが怖い。顔は自然と俯いて、無意味に床を見つめてしまう。
「やっと帰ってきた」
「あ、リョウ……。はは、その、ごめんごめん……」
体が固まる。
「おい虹夏! こんな時にどこ行ってたんだよ! しかも一人で。危ないって言っただろ」
「お、お姉ちゃん……。いやー、それはそのぉ……」
「ひぅっ……! いい、イキってすみません……」
「ん? なに、この子」
しかも、山田リョウだけではなく伊地知星歌まで。最悪だ。やっぱり来なければ良かった。
自然と足が出口に向かう。
「この子は後藤ひとりちゃん。今日のサポートギターをしてくれます! なんと偶然、公園で会ったんだ!」
「へぇ、良かったな」
「虹夏、運がいい」
「んで、そっちの男は? なんで背中向けてんの?」
「あー……。じ、事情があるっていうか、その……」
「秀華高校……あの背中……っ!? 店長!」
「あ? ……まさか」
足音が近付いてくる。恐怖で強張った体は上手く動かなくて。逃げることもできず肩を掴まれグイッと引っ張られた。
俺の顔が、周囲の目に晒される。
「あ……」
「ッ! お前なんでここにっ!?」
「虹夏、下がって。君も」
「ちょっ、二人とも……」
「あ、うあっ」
伊地知星歌が驚愕の表情を浮かべて慌てて距離を取り、山田リョウが素早く伊地知さんと後藤さんを背後に庇った。スターリー店長の叫び声はライブハウス内によく響き、待機していた他バンドやスタッフさんが何事だとこちらを向く。
「どうして中にいるんだ! いつの間に……。まさか! また虹夏の後を!?」
「とりあえず、通報する?」
動揺して睨みつけてくる伊地知星歌。山田リョウはそれを見て、どこか冷静にスマホを取り出していた。
「リョウやめて! お姉ちゃんも、少し冷静に」
「虹夏? ……もしかして、虹夏が連れてきたの?」
「う、うん……。その、勢いで」
「ぁっ……あっ、の」
「勢いって……お前な。この前ちゃんと教えただろ!? こいつは女からカツアゲする不良で痴漢とか軽犯罪を平気でする危険人物だって!」
「ぅぅぅ……」
めっちゃ誤解してる。完全に、初対面の時に怪しまれて調べた結果、今現在トゥイッターやイソスタで拡散中の動画や写真、ほぼ捏造の噂話を目にしているだろう。
分かっていたことだが、改めて口に出されて糾弾されるとこう、クるものがある。しかも、伊地知星歌から直接睨まれながら。
結構、ショック。
「そんな……そこまで言わなくても……。所詮は噂だし、ネットの情報だし……。まずは、きちんと話してみようかなって」
「虹夏、忘れた? この人は初めて会った虹夏の名前を知ってたこと」
「え、うん。覚えてる、けど」
「不安にさせるだろうから言ってなかったけどな。こいつ、お前のストーカーかもしれないんだぞ? じゃなきゃスターリーに突然来たことも、私が虹夏の姉だってことも知ってるはずがねぇ!」
「そ、それは……なにか事情が……」
言葉は尻すぼみで小さくなり、伊地知さんは不安げに俺を見て困ったように視線を落とす。俺を遠ざけようとする二人の圧に何も言い返せず、口をぎゅっと閉ざした。
その様子に彼女の優しさが伝わってくる。
俺のことなど何も知らず信用も信頼もない中、身内の言葉を真っ先に信じるのが普通なのに。俺を傷付けまいと言葉を選び、少しでも庇おうとしてくれて。でも、二人の言っていることに事実も含まれているので否定しがたく、はねのけられない。
伊地知さんの心遣いを見れただけで、少し、嬉しかった。
「とにかく、出ていってもらう。これは店長の決定だ」
「そもそも、まだ入店時間じゃないから部外者は入っちゃダメ」
やはり、無理だった。想像していた通りの展開。
心に冷たい棘が突き刺さる。その苦しさから逃れるために、俺は硬直した体を無理矢理動かした。
「すみません……お邪魔しました……」
「ぁ……」
出入り口への階段を上がろうと足を上げて。
「――だっ、だだだだあああぁぁーーーー!!」
「ういっ!?」
意味不明なかけ声と共に腰に衝撃を受けた。慌てて足を下ろして揺らいだ体幹を支え、近くの手すりを掴む。
「ひとりちゃん!?」
「ご、後藤さん……?」
突進してきたものの正体は後藤ひとりだった。
彼女は俺の腰を後ろからがっちりとホールドし、絶対に離さないと言わんばかりにぎゅぅっと力を込めている。僅かに感じられる女の子の柔らかさに少し緊張し、ふわりと漂ってきた芳しい――防虫剤の匂いにスンとやや落ち着きを取り戻す。
「い、行っちゃダメですっ……!」
「……後藤さん」
「今帰ったら、ほ、本当に取り返しがつかなくなる気が、して……。それはっ、それだけは、嫌だから……」
後藤さんの声は悲痛に満ちていた。顔を俯かせ、肩を振るわせている。
俺が何も言えずにいると彼女は俺に背を向けて。――勢いよく土下座した。
「えっ」
「お、おい何して」
「ひとりちゃん……」
三者三様の驚き。俺へ向けられていた全ての目が、床にひれ伏すピンク髪に集まっていく。
分からない。俺は、後藤さんがどうしてここまでするのか、全く分からなかった。俺みたいな奴のために、どうして頭を下げるのか。
唇が震える。迫り上がってきた何かを喉奥で押しとどめる。
「ぁっ……おねっ、お願いします! 佐藤くんを、ここに居させてください……!」
体を震わせ、声を震わせ。彼女は必死に懇願した。
「わ、私がこんなでも声をかけてくれたんです……! 私なんかと一緒にお弁当も食べてくれたんです……! この前も、その、助けてくれて……。でも、変な噂が学校で広まってて……。それに巻き込まれないようにって、距離をとって……。私、何もできなくて、その」
ゆっくり、けれど確かに。後藤さんは怯えながら、焦りながら、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「ほ、本当はっ! 本当はとっても優しい人なんです……。それを、知ってほしくって……えと、だから、その……。ううっ、噂じゃなくて、ちゃんと見てあげてください! 佐藤くんを……、私のとっ、とととっ、友達ぃ、をぉ……ぅぅ……」
上手く言おうとして、失敗して。友達と言おうとしてものすごく詰まり変な言い方になってしまっていた。
不器用な言葉だ。しかしだからこそ、真っ直ぐと届く。
伊地知星歌と山田リョウは困惑した表情で顔を見合わせ、どうするべきか迷っている。その目からは敵意や警戒が薄れ、探るように俺をチラチラと伺い見るものに変化していた。
伊地知さんはオロオロと姉と親友を眺め、気遣わしげに俺と後藤さんを見ている。
「後藤さん……」
結論が出るのにしばらくかかりそうな様子を横目に、俺は未だ土下座でぷるぷる震えている後藤さんの隣に膝をつく。
彼女の背中にそっと手を置くと、ぴくりと跳ね、ちらりと顔を覗かせて不安げに俺を見上げてきた。
「どうして、俺なんかのために――」
「ぁ……うへ……」
「……あれ? 後藤さん?」
突然、彼女からがくりと力が抜ける。白目を剥いてぶくぶく泡を噴きはじめた口元。
恐る恐る背中に置いた手を揺する。眼前で手のひらをふる。鼻をつまむ。
反応が一切ない。
「気絶してる……」
口にしようとしていた疑問が吹っ飛んだ。唖然と口を半開きにして驚きと呆れで頭を真っ白にしてしまう。
そして悟る。
俺というイレギュラーのために行動した結果、ただでさえ少ないエネルギーがゼロになってしまったのだ。普段の後藤さんからは考えられない行動力で俺を引き留め、見ず知らずの人の敵意から全力で庇い、あまり使わない喉を酷使して言葉を話した。だからこそ今、返答の沈黙を待つプレッシャーと疲労に耐えきれず電池切れのように意識を失ってしまったのだろう。
「あーその、だな……。とりあえず……って、どうした!?」
「……口から泡出してる。痙攣してて不気味」
「え、ひとりちゃん!? なに!? 何があったの!?」
肝心なところで意識を失った後藤さんを見て、慌てだすスターリー組。特に伊地知さんが、びっくりした顔でこちらに駆け寄ってきて、後藤さんを揺さぶり心配していた。
「……まあ、見てわかる通りというか。気絶しました」
「気絶!? ちょっ、えっ!? なんでいきなり?」
「いや、えっと、彼女は人見知りの引っ込み思案な性格で。他の人よりエネルギーが少ないので……。今頑張った反動かなぁ、と……」
「ど、どうしよう……?」
本当にどうしようか。
俺のことはひとまず置いておき。この後ライブをしなければいけないのに。ここで気絶してライブに出れなくなっては困る。単純に申し訳ないし、結束バンドが始まらない可能性があるのだ。
どうにかして起こさないと。
「……エネルギーか。なら」
鞄を漁る。確かこの前、入れたはず。
それは鞄の下、奥の方にあった。柔らかい容器を掴み、なんとなく買っていて忘れてしまっていたエネルギー補充のゼリー飲料を取り出す。
後藤さんの泡をティッシュで拭き取り、ゼリー飲料を口に突っ込んで流し入れていく。
「ええ……なにしてるの……?」
淡々と後藤エネルギーをチャージさせている俺を見て、伊地知さんが引いた様子で問いかけてきた。
当然の反応ではある。俺だって目の前でこんな行動されたらドン引きだ。だが悲しいかな。彼女もいずれは適応していく。
とりあえず今は、後藤さんを回復させるのに集中しよう。
「あの、エナジードリンクとかあります? そういうのを飲ませれば、復活すると思うので。できればお願いします」
「え、あ、いいけど……。ええぇ……?」
伊地知さんは困惑しながらも、奥にあったらしいエナドリを持ってきてくれて。
呆然とこちらを見ている伊地知星歌と山田リョウを尻目に、せっせと後藤ひとりへエネルギーを注入していった。