傘が奏でる雨音が鼓膜を包む。
大降りではないが小雨でもない雨の中、水気の多い下北沢をとことこ歩いていく。
「雨、いい……。空が暗いと落ち着く……」
いつもより余裕がある声音で後ろから着いてくる後藤さんの呟きが薄っすら聞こえてきた。
歩きながら後ろをちらりと確認すると、彼女は俯き地面を見つめて、傘で顔を隠すように歩いている。何かの拍子で濡れた感じはなく、足元を見ているので転ぶ心配もあまりない。
視線を戻し、変わらぬ歩調でスターリーを目指す。
今日は喜多さんを迎えてのミーティングの日。結束バンドのミーティングなのに俺が行っている理由は、後藤さんをしっかり送り迎えするため。
まあ、ほとんどおまけのような存在だ。一応ミーティングにも出席していいと言われているが、特に何か発言したり役割を得ようとはしない。
理由は他にもあるにはある。けれど、別に今日じゃなくていいし、スマホで済む用事だ。重要だが、急ぐほどではない。
ふと、周囲に視線を走らせた。よく見える通りの道ではなく、電柱の陰、物陰、細い路地裏などへの小道など。人が身を潜められそうな場所を見ていく。
人影はない。
下北沢に来てから続いている緊張が僅かに緩みそうになる。それを引き締めて、俺は背後を気にしながら歩き続けた。
手持ち無沙汰な道中。
スターリーの奥で星歌さんと話した時のことを思い出していた。
――――――
「――虹夏にストーカー?」
俺が見た怪しい男のことを話すと、星歌さんは怪訝そうに眉根を寄せて顔を顰める。そして、言われた内容を整理するようにしばし沈黙した後、頭を掻きつつ口を開く。
「私が言うのもあれだが、お前の勘違い、ってことはないよな?」
「……否定は出来ません。勘違いであって欲しいとも思います。でも、確かに見たんです。男が電柱の陰から虹夏さんを撮影してるところを」
「…………」
星歌さんは黙り込んでしまい。頭を悩ますように険しく顔を歪め、重苦しいため息をはく。
「証拠、とまではいかなくても、その男の写真とかは?」
「……すみません。突然だったから動揺してて、声をかけたら逃げられました……。撮っておけばよかったと思ったのはその後で……」
「そうか……。いや、仕方ない。同じ状況なら私だって冷静に行動できたか分からないしな」
――キイ、と扉の音。
誰だと急いで出入り口に顔を向ける。出てきたのは、青い紙で片目を薄っすら隠した中性的な顔立ちの女性。リョウさんだった。
彼女はすすっと中に入ってきて、すぐにそっと扉を閉める。
俺と星歌さんは、虹夏さんに聞かれたわけではないことを悟ってほっと一安心。ついで、星歌さんは呆れた表情でリョウさんを見やった。
「リョウ……。お前もしかてまた……?」
「聞いてた。大丈夫、虹夏はぼっちたちで忙しいから、こっちには気付いてない。そんなことよりも」
スタスタと気後れなく近寄ってきたリョウさんは俺を見据えていて。
「今、ストーカーって聞こえた。みのるのことじゃないよね。本当なの?」
「……はい。俺の勘違いでなければ」
「警察には?」
「まだだ。それをこれから話そうとしてたんだよ。……まあ、リョウならいいだろ」
諦めるようにため息を吐いた星歌さんは軽く頭を掻き、気を引き締めるように真剣な表情を浮かべる。俺の話を聞いてから浮かんでいた様々な気持ちを置いて切り替えたような険しさ。
「まず、ストーカー男を見たのはみのるだけで、証拠も何もない状態だ。それはいいな?」
頷きを返す。リョウさんもまた、こくりと頭を動かし同意した。
「正直、信憑性はない。私とリョウはみのるの事で勘違いしたのもあって、無闇矢鱈に疑うのはちょっと怖いのもある」
「うん。……でも、だからって警戒しないのはもっと危険」
「ああ、その通り。それに、みのるの言ったことを信じたい気持ちもある。だから、みのるとは違う本物のストーカー男がいる前提で話を進めてくぞ」
「2人とも……」
実のところ、見間違いや疑われて信じてもらえないという可能性も考えていたのだ。でも、星歌さんとリョウさんは信じる方向で動くと言う。
嬉しかった。二人の善良さに救われる気持ちになる。重苦しい事実を共有できる人たちの存在が頼もしかった。
「で、だ。一番ベストな対策は決まってる」
「警察に相談」
「リョウが言ったように、それが無難で、確実だと思う。……向こうが動いてくれればだけど」
「……証拠がありませんからね。明確な被害も、虹夏さんの様子を見るに無さそうですし……。リョウさんに心当たりは?」
「……ないかな。虹夏も今は大丈夫そう。そもそも、みのるの事で片付いたと思ってたから。油断してた」
あのストーカー男がいつから尾行していたのか知らないが、結果的に俺が隠れ蓑になってしまっていたのだろう。つまり悪いのは俺。リョウさんが気を抜くのも仕方ないと思われる。
警察がどのラインで動いてくれるのかは調べなければ分からない。しかし、俺の中では何某かの明確な証拠や被害が出てきてから腰を上げる組織というイメージがある。ストーカーかもしれないから調査して、逮捕して、という要求は通らないはず。
なので、現状においては警察を頼りには出来ない。相談する事は可能かもしれないが、本当に相談だけとなるだろう。
「警察が無理なら……、本人を見つけて直接、ストーカーはやめろって言う、とか?」
「ちょっと厳しくないか? そういう手法もありってのは知ってるけど、私たちが言ってどうにかなるならストーカーなんてしてないんじゃ?」
「虹夏にきっぱり言ってもらうのは?」
「却下。危険だろ。常識があって聞き分けのいい奴とは限らないんだぞ? 逆ギレして襲ってくるかもしれない。というか、直接会う以前に相手の顔も名前も分からないんだ。情報が足りな過ぎる」
そう、情報が足りない。俺がこの目で見ただけで、確定していない「かもしれない」という曖昧な可能性を前提にして話し合っても、根本的に解決出来そうな方法はなかなか見つからなかった。
うむうむ、と三人で頭を悩ませる。しかし結局は、警戒して虹夏さんを一人きりにせず守っていく、という対処療法的な案しか出せなかった。
「この事、虹夏さんには伝えるんですか?」
「……いや、まだいい。今の時点じゃ、変に不安にさせてストーカーの警戒心をあげるだけだろ。それに、虹夏に直接的な被害がまだ出てないからな……。勘違いって可能性も、ちょっとは、ほんの少し、あると思うし……」
姉の星歌さんがそう言うので、俺とリョウさんは黙っておくことにする。後藤さんと喜多さんにも、極力は伝えない方向となった。
明確なストーカー行為や危機感を感じられるまで、不安を抱かせたくない。その気持ちはよく分かる。結束バンドのみんなには妙なことに気を引っ張られず、明るく前向きに青春を謳歌して欲しい。
虹夏さんの様子を見つつ、言うべき時に星歌さんが伝えるそうだ。それまでは、虹夏さんが単独行動しないように注意して周囲を警戒することになる。
「2人には迷惑かけるが、虹夏を頼む」
「はい。もちろんです」
「言われなくても」
虹夏さんだけでなく、他のメンバーにも被害が行かないよう、これからより一層注意しなくては。
「あと、警察には私から相談しとく。この件じゃ動かないかもしれないけどな……。まあ、元々別件でこの辺の見回りを増やしてもらおうと思ってたとこなんだ。丁度いいといえば丁度いい」
「別件……?」
「……ああ。虹夏とリョウにはもう伝えてたけど、みのるとぼっちちゃんにはまだだったか」
「最近、変な人たちが騒がしいって。特に夜中」
リョウさんの言葉を頭の中で検索する。だが、思い当たる件はない。
「私も具体的には知らないからな? ただ、なんかガラの悪い奴らが増えたって知り合いに聞いてな。直接見たわけじゃないから、この近くじゃないんだろうけど……。みのるとぼっちちゃんは帰るのが遅くなるし、道も遠いだろ? 心配だし、念のため見回りを増やしてもらおうか相談しようと思ってたんだ」
「店長……。ありがとうございます」
照れくさそうに目を逸らす星歌さんに深く頭を下げる。見えないところでしっかり気を配ってくれていたのだ。今度、何かお返しでも送ろう。
その気配りに応えるためというわけではないが、代わりに後藤さんの送り迎えとボディガードは出来る限りこなそう。この身にかえても後藤さんは守る。
そんな決意と共に、俺たちは話を終えて虹夏さんたちの元へ戻った。これからは電話やロインで情報共有を積極的にしていくことを約束して。
ストーカー男への漠然とした不安を、胸の内に抱えながら。
――――――
今のところ、ストーカー男は見ていない。上手く隠れているのか、警戒しているのか。なんにせよ、俺に見られたことが影響して少し距離を置いているのかもしれない。
「ぉーぃ」
リョウさんも星歌さんも、それらしい人物は見ていないという。
ストーカー男の陰も形も見えないので、肝心な情報も一切集まらない。どうにももどかしい現状に、もやもやとした不安感と焦燥感が募るばかりだった。
「おーい! みのるくーん!」
「んはっ!? あ、え、ど、どうしました?」
いきなりかけられた大きめの声音に驚き、慌てて声音の主である虹夏さんを伺い見る。
「どうしたのはこっちのセリフだよ〜。なんかさっきからぼーっとしてたけど、ちゃんと話、聞いてた?」
「え、あー、えーっとぉ……」
まずい。何にも聞いていなかった。
助けを求めるようにこの場にいる他三名へ視線を送る。
後藤さんはそっと目を逸らし、喜多さんは少し心配げに俺を見て、リョウさんは俺が持ってきた菓子類をモリモリ食べていた。特に助けはない。
仕方ないので必死に頭を回す。朧げでほとんど頼りにならないアニメの記憶をどうにか引っ張り出していく。
ハッと思い出して、慌てて口を開いた。
「ご、後藤さんがパリピでナイトプールでサーフィンする女になることですか!?」
「うへぁッ!?」
「え、そんな話まったくしてないんだけど……。ていうか何それ。ぼっちちゃんがサーフィン……?」
「それ、すっごく面白そうだわ! ナイトプールって響き、なんだか大人っぽくて素敵よねー。後藤さんっ、機会があったら一緒に行きましょう!」
「モグモグ」
ダメだ、違ったらしい。
虹夏さんは呆れつつも想像してしまい笑って。お目目キタキタの陽キャに照らされた後藤さんは絶望的な表情で俺を見て萎んでいく。リョウさんは変わらずお菓子を貪りながら意味もなくサムズアップ。
なんとも結束バンドらしい光景に、心の不安感が少し晴れる。
この人たちを応援し、見守っていく。結束バンドを害意から守る決意は揺るぎなく俺の心に突き立っている。
故に、虹夏さんの日常を脅かす存在を許しはしない。
そう胸に刻み、進展のない状況で弱気になりつつあった精神を引き締めた。
……それはそれとして。後藤さんがいじけてゴミ箱に隠れてしまい、俺は虹夏さんに叱られてしまったのだった。