不審な男について情報共有したが、結局、有力な証拠を手に入れたわけではないので静観するしかない。根拠も確証もない俺の直感など当てにできなかった。
星歌さんのおかげで――正確には他の店のオーナーなんかも協力しての要請らしい――周辺の見回りは強化されるらしい。しかし、警察をそれ以上動かすのは難しい状況。
なんとも、焦ったい。どうしても不安がつきまとう。
問題はこの事を虹夏さんに伝えるかどうか。
それについても三人で話し合ったが、星歌さんは伝えるのを渋っている様子で。初ライブを無事に終えるまでは、不安にさせたくないとのこと。
オーディションがどうなるかも分からないのに、とリョウさんはそれに反対し、なるべく早く伝えるべきだという意見。
星歌さんも分かっているようだが、妹の思い出に不穏な陰を感じさせたくはない。なので折衷案として、オーディション不合格の場合はその時に伝える、合格の場合は初ライブ日を前倒しする、遅くても8月になる前には伝える事を約束してくれた。
リョウさんも一応の納得を示し、とりあえずオーディション合格のために練習を頑張るとのこと。
俺は変わらず虹夏さんに付きつつ、後藤さんや喜多さんを気にかける役割だ。星歌さんには、自分の事も考慮して深追いせず、勝手に行動しない事を約束させられたけど。万が一の場合、俺は全力で盾になる所存です。
……という感じの方針で、それぞれ注意して日々を過ごしている。
だが、俺が追いかけた影響なのか、それとも巡回する警察官を嫌ってか、特にこれといったことはなく。後藤さんが何やら悩んでいるのを見守りつつ、オーディションがいよいよ明日に迫っていた。
日中の暑さが少しずつ高まり、本格的な夏の到来を予感させる。しかし、通学するために家を出る時間帯での空はまだ薄暗く、ほんのり心地よい涼しさを感じられた。
俺は雲一つない空模様を眺めつつ、いつものように出かけついでに家のポストを確認。
朝刊やチラシなんかの特にこれといったことのない普段通りの紙束。重要そうな書類や郵便物は、今日は特になし。
いつもみたいに玄関内に置こうとポストの中身を手に持っていく。
「……ん?」
その中の一つが目に止まる。
小さな茶封筒。何の変哲もなさそうな、薄っぺらい物。
おかしいのは、宛名も何も書かれていないことだ。
違和感と疑問。その衝動のまま、貼り付けられてもいない茶封筒の口へ手を入れる。
「――イッ!?」
指先に鋭い痛み。
急いで手を引き指を見る。右手の薬指に赤い線が走っていた。
ジン、ジン、と痛みの熱が伝わってくる。少し深く切れてしまったようで、溢れる血の隙間から肉の断面が見えた気がした。
郵便物が血に濡れないよう左脇に抱えつつ、茶封筒の中身を恐る恐る視認する。
――血濡れたカッターがこちらを向いていた。鮮やかな赤い血が奥へ奥へと滴っている。
手が、震えた。痛みだけではなく、恐怖と困惑で。
反射的に周辺を見回す。……誰もいない。
けれど、見えない何かが、誰かが、俺を見ているように思えて。
俺は恐怖に押されるように、ゆっくりと家へ戻った。
――――――
俺はいつも通り学校に登校した。
何故か。それは、後藤さんを一人にするのが怖かったからだ。
もし彼女を一人にして何かしらの事件や事故に巻き込まれでもしたら後悔どころではない。心配してくれて学校を休むよう言ってくれた両親には悪いが……。俺の安全より大事な事が今はある。
例のカッター入り茶封筒は俺の血と共に保存し、被害届と一緒に警察へ提出するそうだ。そう言っていた両親の表情は怒りを隠すように能面だった。母はおもむろに包丁を研ぎ出してめちゃくちゃ怖かったけど……。
この影響で、俺の個人情報がネットに流出した際に、危険や迷惑な人を遠ざけるために設置を検討していた玄関の監視カメラの案が前倒しになった。早くて7月中。遅くとも8月上旬の間には設置するらしい。
俺の安全のためにここまでしてくれる両親には感謝しかなかった。今度、それぞれにプレゼントとケーキでも用意しよう。もちろん、スターリーで働いた分のお給料内で。
それはさておき、今回の犯人は誰なのか。
両親はネットの動画を見た人が住所を特定したか何かでの仕業ではないかと疑っていたが……。俺は、もしかすると、虹夏さんのストーカーではないかと思っている。
ストーカー男は虹夏さんを狙っていて。すると必然的に周囲の人間も把握できるはずだ。結束バンドの面々、星歌さんやPAさん、そして俺。
この中で一番厄介な存在となっているのは、自惚でなければ俺だろう。
最初の目撃者であり、追いかけられたこともある人物。なにより、狙っている女性の周りをうろちょろする男として。ストーカーが憎悪や敵意を抱く理由としては十分だ。
その手段がカッター入り茶封筒だとは予想外だったが。
かなり悪質で、意地汚い。おそらく、茶封筒にもカッターにも指紋は付けていないだろう。
最初の発見時と、虹夏さんが急に飛び出したことで姿を見れた時以外ではストーカー男を視認していない事実もある。用心深く、慎重で、陰湿。今回の件も含め、酷く厄介な人物だ。
まあ、ヘイトが俺に向いているうちは問題ない。俺は俺で対処していくし、虹夏さんへの執着が少しでも薄れて暴力的な意識を俺に割いてくれるなら、結束バンドの面々の安全も増すはず。
後は、ストーカー男の情報収集と証拠の確保。逮捕、が難しいとしてもストーカー男の異常な精神状態をどうにか正気な方向に誘導できれば万々歳なのだが……。そう上手くいくとは思えない。
とにかく、大怪我を負わせるような直接的な手段に出てこないことを祈るしかないか。
「あ、あの、佐藤くん……?」
「ん……?」
「そろそろ、か、帰りませんか……?」
「……ああ、もうこんな時間か」
朝からずっと緊張状態と警戒が抜けきれず、安心できるスターリー内でのバイトの時間ではほぼ思考停止で働いていた俺は後藤さんの声で我にかえる。
布巾で拭っていた机から顔を上げ、時計を見た。
もうすぐ9時。本来なら10時前まで働くのだが、俺たちの家が遠いことと、ストーカー男のような危険な輩がいることもあり、星歌さんの厚意で俺たち遠出組は早めに帰宅することになっている。
当然、お給料はその分少なくなってしまうが。安全には変えられないので仕方ないと受け入れている。後藤さんに至っては働く時間が減って喜んでいたし。
とりあえず、今やっている机拭きを切りが良いところまでして、特に忘れ物がないかを確認して星歌さんに声をかける。下北沢で家が近い信号機トリオには挨拶をそこそこ、オーディションに向けて緊張感を高めているので邪魔しない程度に。
気をつけろよ、という星歌さんのお言葉を頂戴してスターリーを出た俺たちは特に何か会話するでもなく、一定の距離を保ちながらとぼとぼ駅へと歩いていく。
「…………」
「…………」
後藤さんとの間で頻繁に発生する沈黙は全く苦ではない。むしろ、不思議なほど穏やかに過ごせてしまう。それはおそらく、後藤さんも似たような感覚で。無理に話題を提供したり、何かしないととテンパったりはしない。
けれど、今日は少し落ち着きがない。確かにここ最近はバンドとしての成長に悩んでいる様子だったが、一番の原因は俺の右薬指に巻かれた絆創膏だろう。朝からずっと、何度も何度もチラチラ見てきている。気になって仕方ないといった様子だ。
星歌さんには本当の事を報告して気を付けるよう言ったが、虹夏さんたちには紙で切ってしまったと言った。
その際、後藤さんは別のとこにいたので理由を聞いておらず、でも聞いていいのか触れていいのか不安で聞けずにいる、といったところか。
「……気になる?」
「あ、う、うん……。大丈夫かなって……。お昼見た時、痛そうだったから……」
そういえば、昼食の時間に絆創膏を貼り替えていた。血は固まっていたが絆創膏にかなり滲んでおり、傷口も痛々しいと言えば痛々しい。
あまり見られないようにささっと貼り替えたが、じっくりと観察されていたようだ。
彼女の優しさを感じて俺は微笑む。不安を少しでも和らげるように、首をゆっくりと横に振った。
「……ありがとう。でも、本当に大丈夫だから。あんまり気にしないで」
「ほ、ほんとに……?」
「うん。ほんとに」
「……わ、わかった。でもっ、その、病気とかには、気をつけてね……?」
「うん。気をつける。……本当にありがとう」
それからまた無言の時間となる。
しかし、先ほどより落ち着きがあった。引っかかっていた不安が少し緩和されたため、後藤さんはソワソワしなくなり、バイトの疲労感を表すようにぼんやりし始める。
彼女が転んでしまわないよう見つつ、さりげなく周囲を見渡して怪しい男がいないか確認して歩く。
「――ぼっちちゃーん! みのるくーん!」
背後から聞き覚えのある声が。
知り合いの声音である事が分かり、急いで振り返る。笑顔でこちらに駆け寄ってくる虹夏さん。軽快な足取りで目の前まで来た虹夏さんは、戸惑う俺と後藤さんをよそに自販機へ向かった。
そして、俺は察する。アニメでこんなシーンあったな、と。
「ごめんごめん、驚かせちゃって」
「あ、いえ……」
「二人とも、コーラでいい?」
「ええっ、あ、え、えっ、はい……?」
突然の展開に挙動不審の後藤さん。奢られることに慣れていないのか、疑問だらけの返事を返す。
虹夏さんはそんなの全く気にせずに躊躇なくコーラを買い、後藤さんと俺に手渡してくれる。俺はそれに感謝を述べて、二人から少し距離を置いたところに離れた。
これは確かバンドとか将来の夢とかそういう話だったはずだ。ファン0号(自称)の俺は変に引っ掻き回さず見守っていよう。
話し始めた二人を横目に、改めて周囲を見回して人影が一つもない事を確認する。もちろん、物陰に潜んでいる可能性もあるので油断はしない。
俺はスマホを取り出し、妹がいなくなって焦っているかもしれない星歌さんへとロインを送る。スターリーからそう離れていない路地だが、用心に越したことはない。
すぐに既読が付いて即返信が来た。
『安心した』と簡潔な文。続けて、『近くなら大丈夫だろう』とのこと。ただし、『今から十分以内に戻って来なかったら探しにいくから』だそうだ。
俺は『了解』と送り返し、自販機前で話す二人を見やる。
「――ぼっちちゃんにはまだ秘密だよっ!」
人差し指を立てて、にひひと笑みを浮かべた天使が元気よく走り去っていく。
これはまさに名場面。夜を照らすような可愛らしさで胸がいっぱいになる。守りたいあの笑顔。尊さでキュン死してしまいそうだ。
「……帰ろっか」
「……うん」
嬉しげに頬を緩めた後藤さんと共に歩き始める。
すると、
「――ちょっ! わっ、わわわわわーー!?」
やたら変な奇声が背後からやってきた。
後藤さんと顔を見合わせて首を傾げつつ後ろを見る。
「み、みのるくんっ! お、おたすけー!」
「え? 虹夏さん?」
虹夏さんだった。
彼女はトレードマークの大きなリボンと長いサイドテールを振り回しながら、大慌てで俺たちの所へ走ってくる。
「ぼっちちゃんもこっち!」
「あ、え!?」
後藤さんの手を引っ張り、状況が飲み込めず固まっていた俺の背に虹夏さんは隠れてしまった。
なにがなんだか分からずにいると、虹夏さんが逃げてきた方向から人影が。
「ッ!?」
――まさか、ストーカー男か!?
そう考えたと同時に疲労感が吹っ飛び、急速に頭へ血が昇っていく。とりあえずスマホをコール画面にしておいて、いつでも110番出来るようにする。
持っていた鞄をその辺に投げ捨て――るのは躊躇われたので後藤さんに押し付けさせてもらった。
いざとなったら背後の二人の盾にならなければならない。少しでも身軽になって、暴力沙汰に発展しそうな場合はストーカー男を取り押さえる。その隙に二人には逃げてもらおう。
自然と今朝のカッターを思い浮かべる。自身の血液が刃を滴り落ちていく光景。浅くない指の傷が痛みを発して疼き出す。
バクバクとうるさい自分の心音を感じつつ、人影を睨みつける。
「……え? 4人?」
しかし、その人影はいつか見たストーカー男ではなかった。
「にげんなよー。つい追いかけちゃうだろー?」
「っべー! あの子マジっべー!」
「んあ? んだこの男?」
「つか女の子増えてね? うっわギター? ロックってやつ? ……てかなんで全身ピンクジャージ?」
やたらとチャラチャラした見た目と雰囲気の大学生っぽい四人組が、値踏みするような見下した目をしながら、ズケズケと俺たちの前へ歩き出てきたのだった。