スマホの画面をタタタッといじくり回す星歌さんの指音が、沈黙の下りたカーテン内で呑気に響く。
真っ白になりかけた頭に理性を騒動し、俺はどうにかこうにか喉を引き絞り声を出す。
「ちゅ、中止って、そんな……」
「あ? ……いや、当たり前だろ? みのるは結構怪我してるし、虹夏とぼっちちゃんも冷静になる時間が必要だしな。今の状態で無理矢理しても、絶対にロクな音にならないし」
間髪入れずに返ってきたド正論にぐうの音も出せなかった。
「……まあ、心配すんな。お前らの高校の終業式そろそろだろ? その日の放課後に時間取ってするから、ちょっとした延期って程度だよ」
「よ、よかった……」
終業式など一週間と経たずにくる。
数日の猶予があるなら、虹夏さんたちの心の整理もつくだろうし、特に大きな怪我もない俺も問題なく見に行けるはず。
「8月までには初ライブも間に合うから、こっちはあんま心配すんな。お前はまず自分の心配しとけ。それと、ほれ」
星歌さんがスマホの画面を向けてくる。誰かに電話をかけていた。
表示されている名前を確認する間もなく、ワンコールもしないうちに相手方と繋がる。
――ドアップで虹夏さんの顔が! スマホ画面を可愛らしいお顔とお目目と黄色い髪が突如として埋め尽くす。
『――みのるくん起きたのっ!?』
「わひゃっ!?」
怒鳴り声に似た切迫した大声がスマホ越しに目の前で響き渡り、驚きのあまり変な声が喉から溢れててしまう。
『え、あ、みのるくん!? お姉ちゃんは!? てか大丈夫!? どっかおかしいところとか……』
「あー、とりあえず落ち着け。ちょっと驚かせただけだから。……ぼっちちゃんは?」
『あっ。ほら、ぼっちちゃん! ちょっ、ベッドの下に入らないでー!』
スマホからしばらくガサゴソドタバタ、ビクビクシクシク陰気なオーラが聞こえてきた。
俺たちはなんとも言えない顔で待つこと十数秒、ようやく画面内に虹夏さんが戻ってきた。……隣にぷるぷる震える後藤さんを伴って。
『か、かかかカメラ通話とかはじっ、初めてでぇ……。その、きき、緊張してつい暗い場所に……』
「そ、そっか……」
後藤さんらしい理由に納得しかない。
こ、今回は一応顔見知りなのだし、次第に慣れてくるだろう。たぶん。きっと。おそらく。
心なしか徐々に身体が下方向へ沈んでいっており、フェードアウトしようとしているのは気のせいだろう。うん。
まあ、いつもの後藤さんの行動はさておき気になることが。
「二人とも、大丈夫? 怪我してない?」
『いや、それはこっちのセリフなんだけど……』
「さっき教えたろ……。心配なのは分かるけど……」
『まま、まずはご自分の体を心配してくださいっ……!』
お前が言うな、と言外に伝えられる。
いやまあ、星歌さんが言ってたことを疑うつもりはないが、やっぱり顔を見るとつい聞いてしまうよね。
『……えと、その……。わ、私がちょっと膝を、その、擦りむいちゃっただけで……。あっ、悪化とかはしてないからっ。それだけだから、だ、大丈夫ですっ……! ……たぶん』
「……なら、よかった」
自信なさそうな最後の声はともかく、本人からそう聞くと改めて安心できた。
俺が体を張った甲斐があるというもの。身体中の痛み程度はなんのそのだ。
『――ありがとう、みのるくん』
「虹夏さん?」
『お礼。ちゃんと言えてなかったから』
虹夏さんが表情を引き締め、画面越しに俺を真っ直ぐに見つめてくる。それに倣うように、後藤さんも真剣な瞳で俺を見つめていた。
『みのるくんのおかげで、私たちは無事だった。もし、あの場に君がいなかったらと思うと……。だから、本当に、ありがとう。助けてくれたこと、心から感謝してる』
『わ、私もっ、です……。本当に、あ、ありゅがっ! あッ!? ……アリガトウ』
スマホの画面から、カタコトのか細い声を最後に後藤さんの霊圧が消える。……これは、まあ、仕方ない。肝心なところで言葉を噛んでしまい死にたくなる気持ちはよくわかりますとも。
虹夏さんはあっちゃーと額に手を添え、気を取りなおすようにコホンと咳をした。
『えー、何はともあれ、ぼっちちゃんも私も本当に感謝してるからね! みんな無事で良かった! イェイっ!』
「あはは……」
『でもっ! それはそれとして、みのるくんは安静にするように! 大きな怪我がないからって無理しちゃダメだからね?』
「はい。わかりました」
『よろしい! ……しっかり元気になってね。私たちのライブ、君にはちゃんと見てほしいからさ』
「……ええ。絶対に」
『ふふ、ならいいんだ。ふぅ……、みのるくんの顔見たら、なんだか安心しちゃったなぁ……。少し、疲れちゃった』
溌剌とした声音と明るい笑みを浮かべていた表情はやや陰り、不安や心配や安堵感やらを滲ませた疲労を感じさせる。
きっと彼女は、今まで気を張り詰めて気丈に振る舞っていたのだろう。後藤さんを不安にさせないように気を遣い、俺のことを心配しつつ、ナーバスにならないように気張っていたのかもしれない。
なにより、ガラの悪い男四人に暴行されかけたのだ。女子高生に関わらず誰だって疲れを感じるし、恐怖感だって簡単には拭えない。
「虹夏さんも、きちんと休んでくださいね。寝つきにくいかもしれませんけど……。まあその時は、後藤さんを抱き枕にでもしてください」
『エッ!?』
『あははっ! それもいいかも。……うん。とりあえず、今日はこれで。あ、ぼっちちゃん。電話切るけど、最後に何か言っとく?』
『アエッ!? なな、何かって言われても……!?』
画面がブレる。後藤さんの顔が上下左右にブンブンと現れては消えていき、ピンク色の残像が薄っすらと見えた。
虹夏さんが後藤さんにスマホを手渡したらしい。
落ち着きのない画面がしばし続いて、後藤さんのピンクジャージの胸元が映る。肝心の顔は出てこず、画面上部に後藤さんの顎先しか見えない。
『あ、うっ、えっとぉ、そのぉ……』
なんともコメントに困る画面だ。星歌さんは呆れ過ぎて口を抑えて笑ってしまっている。
俺としては直視しかねる光景だ。色気もへったくれもないジャージではあるが女子の胸元。その先に結束バンド一の標高があると思うと、こう、ね?
『み、みのるくんがすっ、好きだって言ってくれた私たちのこと……。ちゃんと、見ててほしいから。だからっ、その、今日はありがたかったです。けど……、こ、怖かったです』
意識を失う前、自身が口走った告白みたいなストレート過ぎる陳腐なセリフを思い出す。思い出してしまった。
――身悶えたくなる羞恥心が全身を駆け巡る! あの時は焦りとアドレナリンでどうかしていたのだ! 嘘を言ったつもりはないが、もっと他の言葉がなかっただろうか。恥ずかしくて毛布に潜りたい……。
笑いを抑えつつもよく分かってない様子で首を傾げる星歌さん。他の人に知られるのを避けるために、後藤さんの前半の言葉をスルーして、恐怖に共感するように慌ててうんうんと頷く。
「こ、怖かったよね本当に。これから夜中に歩くのが怖くなっちゃうくら――」
『――みのるくんが、傷付いてたのが、怖かった』
「――――」
言葉が、止まった。
『ボロボロで、意識なくしてて……。し、死んじゃうかって、思っちゃって……ぐすっ……。救急車で運ばれるの見てたら、ひっぐ、ほんとに怖かったんだよぉ……!』
息が詰まって、声が出せない。
頭が真っ白になり、胸が痛い。
画面に映るピンク色の、ちょこっと見える彼女の下顎に、透明な雫が流れていく。
『も、もっと、自分をっ、ぐずっひぅ、大事にしてください……!』
「……うん」
喉がカラカラに渇いて。絞り出すように、了承する声を出すことしか出来なかった。
画面が揺れる。泣き出してしまった後藤さんを抱きしめる虹夏さんが見えた。虹夏さんの目元も涙で濡れている。そして、言葉少なに『おやすみなさい』と残して通話は途絶えた。
病室に残るのは痛々しい沈黙だけ。
何も考えられず。俺は、俯くことしか出来なかった。
「……そうそう、お前を気絶させた四人組だけどな。もう捕まったってさ」
それは、とても喜ばしいことだ。
とても、嬉しくて安心するはずなのに……。素直に、喜べない。
「素行不良の大学生四人、ってだけならよかったけど、薬物の検知に引っかかったそうだ。警察の人から聞いたけど、明日は家宅捜索して証拠品探しだと。このままいけば薬物所持法違反とかで逮捕らしい。それに、最近下北沢の夜遅くに遊び歩いてたガラの悪い連中がこいつらだったらしくて、ついでに治安的な意味でも解決だ。……ま、ストーカー野郎が残ってるから油断はできないけど」
守れたと調子に思い、自身に誇らしささえ感じていた。
冷や水を浴びせられたように、気分は冷たく沈んでしまう。
俺は、なんて――。
――ぽん、と頭に手が置かれる。
そのまま優しく、包むように、ゆっくりと撫でられて。
顔を上げると、穏やかに微笑む星歌さんがいた。その眼差しはとても温かくて、優しいもので。
「あんまり考え過ぎるな。自分を追い詰める必要もない。だって、みのるは何も悪くないんだから」
「……でも」
「悪いのは四人組だ。そして、大人で雇用主の私に責任がある。間違いなく、みのるは非のない被害者で、虹夏とぼっちちゃんを守ったのは事実なんだ。……そのやり方に少し問題があった。それだけの話さ」
ぽんぽんと頭を撫でて星歌さんは離れる。
「お前は最善を尽くしたよ。ただ、自己犠牲が嫌な人もいる。……私も、好きじゃないしな」
彼女は溢すようにぽつりと呟き、俺から背を向けた。
「私は佐藤さん……、みのるのご両親を迎えるから下のロビーで待ってるよ。あ、起きたこと看護師さんには私から伝えとく。それと、リョウたちにも連絡しとけよ〜」
星歌さんはそう言い残し、病室から出て行ってしまう。
しばしの静寂。
疲労感と重力に引かれるまま、起こしていた上半身をベッドに倒す。あれこれ考える気力もなく、ぼんやり天井を見上げた。
いろいろなことがあり過ぎて、頭の中がごちゃごちゃしている。反省も後悔も、達成感も自己嫌悪も、何もかもが疲労感に塗り潰されてしまう。
重たい手を動かして、ロインで『起きた。もう大丈夫』という事務的なメッセージをリョウさんと喜多さんに送り、返信を気にせずにアプリを閉じてスマホを横の机に乱雑に置く。
……疲れた。
眠気はないのに、疲れがすごい。
俺はゆっくりと、目を閉じた。