スターリーから逃げ帰って数日。俺はイキった心をへし折られ、未だに心がどんよりと落ち込んでいた。
後藤さんと話せるようになったからといって、俺自身が成長したわけではないことを実感させられる。事前知識がありアニメで見たことがある場所や人であろうと、現実で接すれば怖いし、ビビるし、言葉を上手く出せなくなってしまう。
そのせいで、ものすごく不審な言動をしてしまった気がする。何か勘違いされていたり、変に警戒されたりしていなければいいのだけど。次に会った時が、ちょっと怖い。
後藤さんと昼食を取れるようになったのは奇跡みたいなことで。根暗陰キャ同士のシンパシーみたいなものが働いたのかもしれない。
「ふぅ……」
電車の吊り革を握り、出来るだけ他の人に当たらないよう配慮しながら、俺はこっそりため息に似た吐息をはく。これ以上考えて落ち込んでも仕方ない。
窓の外へ目を向ける。景色が流れていく様をぼんやりと眺めた。
学校まで片道二時間ほどの電車通学。親しい人も楽しいことも嬉しいことも見つけられなかった地元から、少し離れてみようと決めた高校までの長い道のり。最初は面倒で戸惑ったが、同じ行程を繰り返していると数日経った時点で慣れてしまった。
困るのは、人が多い日は本当に多く。手狭になる瞬間があるところか。その時はどうしても人との距離が近くなって、移動するのも億劫だ。
椅子に座れればまだいいのだが、残念なことに今日は立ちっぱなし。しかも、今日は人が多く、動こうとすれば鞄や手足のどこかしらが誰かに当たってしまう状況だ。苦ではないが、疲れてしまう。
ふと、視界の隅にピンク色が見えた。
「あれ……?」
気になってよく見る。それは後藤さんだった。
彼女は電車通学だったか、と疑問に思う。そういえば、どの辺に住んでいるのだろうか、と。
俺の知識は曖昧で、アニメにおける大筋しか思い出せていない。他のこと、些細な台詞や設定などは、思い出せることもあれば、記憶の底に沈んでしまっているものもある。
とにもかくにも。
あのピンクのロングとサイドではねたくせっ毛、人混みの中でも割と目立つピンクジャージは間違いなく後藤ひとりその人だ。猫背で俯き縮こまっている。
友人、とまで呼んでいいのか分からないが、学校で唯一話す顔見知り。なので、せっかくだから近付いて声でもかけよう。
会話を望んでいるわけじゃない。ただ軽く挨拶を交わし、電車内では肉壁も兼ねて隣にいようかなと思っただけ。今日の混雑は、パーソナルスペースが広い彼女には辛いだろうから。側にいて少しでも安心材料になれれば、となんとなく考えていた。
「す、すみません……すみません……」
周囲の人に小声で謝りつつ、邪魔になることを承知で移動していく。電車の揺れに気を付けながら、後藤さんの隣にゆっくりと立った。
彼女はまだ気が付いていない。
すると、駅に着いた電車のドアが開いた。何人かが降りて、それ以上の人数が車内に流れ込んでくる。途端に人の波がざわめいて、隣の人と常にどこかが当たってしまう状況になってしまう。
後藤さんは大丈夫だろうか。伺うように見ると、未だ俯き、俺に気が付いた様子はない。
少し、違和感を感じる。俺の知っている彼女なら、こんな窮屈で苦しい状況をブツブツと小声で嘆きながら周囲をドン引きさせてちょっと距離を置かれる風景を簡単に作ってしまうだろう。もしくは、溶けるか萎れるかして物理的に小さくなる可能性もある、かも。なんにせよ、こんなに大人しく、奇行も独り言もせずにただ立っているだけなのは、彼女らしくない。
「後藤さ……」
名前を呼ぼうとし、後藤さんの表情を見て思わず閉口する。
相変わらず目元は見にくく、端正で可愛らしい顔をしっかり見ることは出来ない。しかし、口元は簡単に見れた。
その口が震えている。下唇を噛み締めて、耐えるように。微かに見えた眦に、水滴が見えてしまった。
おかしい。後藤ひとりの怯え方はもっとヘンテコで、奇行じみていて。決してこんな、苦しそうで悲しそうな、見ていて辛くなる表情ではない。
何かがある。何かが彼女の身に起こっている。それはなにか。
ここは電車だ。しかも混雑している。人と人との距離感は短く、その鬱陶しさに全員が辟易して目を閉じるか斜め上を見ていた。何かを掴むために上へ伸びた手は視認できるが、下に伸ばした手が何をしているのかパッと見分からない。
ゾクリ、と嫌な感覚が背筋を震わせる。俺は慌てて下に目を向けた。
手が伸びている。無骨で厚い手のひら。男性の手。それが、後藤さんのスカートを皺くちゃにして、ゆっくりと蠢いていた。
気持ちが悪い。吐きそうになる。恐怖で下唇が震えた。
どうする。
――考える前に手が伸びていた。
無意識に男の手首を捕まえる。しっかりと握る。握りしめる。
「ぃつ!?」
「……あ」
痛みに呻いた声で我にかえった。力の抜けた俺の手から、男の手が抜け出そうとする。それを慌てて掴んで、見るのも嫌な男を確認した。
どこにでもいそうなスーツ姿の男性だった。歳は三十半ばほどに見える。顔は青ざめつつも、苛立ったように俺を睨んでいた。
「離せよ」
怒りを孕んだ声。明確な敵意。
怯む心を抑え、汗ばむ手で触りたくもない男の手をしっかり握る。決して、逃がさないように。
「だ、ダメです。だって、その……」
後藤さんの隣で具体的なことを言うのは躊躇われて。
思わず、彼女の様子を見た。
「あ、え……佐藤、くん……」
目があう。初めて真正面から後藤ひとりの顔を見る。
しっかりと開いた目が俺を捉え、不安そうに俺を見つめていた。間近で見る彼女の顔は凄まじく可愛くて。流石は主人公を張る人物だと、こんな状況にも関わらず感心してしまう。
俺は、少しでも安心させられるように、上手く出来ているかも分からない笑顔をつくった。
「も、もう大丈夫。大丈夫だから……」
「あっ……その、あり、ありが」
――俺の手首が力強く握られる。驚く俺の手首を、痴漢男が逆に握りしめていた。その力は強く、手首が痛みを発する。
訳がわからないまま、俺は握られた手を頭上に掲げられてしまった。
「こいつ痴漢だ!!」
「は? え……?」
瞬く間に車内が騒めきに包まれる。あらゆる人たちの目が一斉に俺を見て、侮蔑の視線を向けてきた。
頭が真っ白になる。突如、左右から力強く抑えつけられた。
「この野郎!」
「大人しくしろ!」
スーツ姿と私服の男が二人、左右から俺の腕を捕まえている。
彼らは痴漢男のグルなのか。それとも、痴漢に対して正義感を発揮させた普通の人たちなのか。
分からない。何も分からない。
視界が回る。体が打ち付けられる。
いつの間にか、車外に放り出されていた。知らぬ間に駅へ着いていたらしい。
落ちた視界の中、襲いかかってくる勢いで俺に飛びかかってくる男二人と、見下すように嘲笑う痴漢男が車外に。その横には呆然とした後藤さんが真っ青な顔で俺を見つめていて。それを落ち着かせようと、一人の女性が肩に手を置いている。
「ぐぁっ!?」
取り押さえにきた男二人が暴力的なほどがむしゃらに俺を押さえつけてきた。見上げるその顔は必死で、真剣に痴漢犯を捕まえようと焦燥する表情。嗤っているのは、俺のうなじに肘を置いて体重をかけてきている本物の痴漢男だけ。
横向いた視界に、車外から飛び出てきた私服の女性が俺を見て。顔を青ざめせながら、懐から無線機みたいな物を取り出して何かを喋りはじめる。
その奥からは駅員が二人こちらへ走ってきていた。更に奥から、何故だか知らないがスーツ姿の男が何人もこっちへ走って来ている。
意味が分からない。何も考えられない。でも、一つだけ確かなことが。
このままでは、俺が痴漢として捕まってしまう。
それでは、両親に迷惑がかかる。前世のせいで小さい頃から暗く元気がなかった俺に精一杯の愛情を注いでくれて、最低限の日常生活を送れるまでに支えてくれた優しい人たち。こんな冤罪での恩返しは、絶対に嫌だ。
それだけは、ダメなんだ。この人生の両親を悲しませるのだけは、許容できない。
「うっ、うああああああああああああぁぁぁぁぁっ!!」
「な、なんだ!?」
「暴れるなっ、このっ!」
無我夢中で身体を動かす。出鱈目に拳や蹴りを男たちへ繰り出して、離れた隙をついて転がるように立ち上がる。
「逃げるぞ!」
「待てっ!」
「あ、君、ちょっと待っ」
俺は何もかも無視して、伸びてくる腕を振り払って。
全てを置き去りに、身一つでその場を逃げ出した。
無線機を取り出していた女性は今回の痴漢男をマークしていた私服婦警さん。駅員の後ろにいたスーツ数名は婦警さんの呼んだ応援です。
この後、痴漢男はきちんと取り押さえられ捕まっています。
主人公を取り押さえていた男性二名とぼっちちゃんを慰めていた女性は善意に溢れている一般の方たちですね。悪いのは痴漢男。