「はぁっはぁっはぁっはぁっ……」
近くの壁へ倒れるようにもたれかかる。荒い呼吸が脳を揺さぶり、噴き出る大量の汗が顔を伝って地面へ落ちていく。
酸欠で狭まる視界。痛む脇腹、肺と喉。微かに痙攣する手足。
苦しい、辛い、死ぬ。そんな益体もないことばかり頭に浮かんでは消えていく。
それから、どれくらい経っただろう。俺は座りこみ、汗でびちょびちょの気持ち悪い衣服の感触を鬱陶しく思いながら、ぼんやり空を見上げていた。
幸い、と言っていいのか分からないが、俺がいる場所は人気がない。俺が回復している間も、おそらく誰も通らなかった。そのおかげで不審にも思われず、連絡を受けた警察が来ることもない。
しかし、問題は他にある。
まず、パニックになって逃げてしまい、あの後どうなったのか分からないことだ。本物の痴漢男、正義感に駆られて俺を捕まえようとした男性二人、何やら無線機を持っていた女性、駅員とその後ろにいた何人かの男たち。いろいろ思い出すが予想がつかない。間違いなく、俺のことは探しているだろうけど。
次に、何よりも心配な人、後藤さんのことだ。逃げる際に親切そうな女性に寄り添われていたのを見ている。だが、恐怖と混乱に続いて、知らない人に事情聴取されるであろう後藤さんの心境を思うと心配でならない。キャパオーバーして気絶したり奇行したりしていないか不安になる。それに、俺のことで変に落ち込んでいないといいのだが。
そして最後に。俺が何にも持っていない手ぶら状態であること。左右のポケットに入ったハンカチとポケットティッシュのみ。スマホは駅に放り出してきた鞄の中、財布はもちろん家の鍵まで。本当に、使えそうなのが手元にない。
「どうしよう……」
途方にくれる。上空を呑気に漂う雲が憎たらしく見えてしまう。
学校に行く気力はない。だからといって、ここから家まで帰るとなると距離があるし、両親にどんな顔をして説明すればいいのやら。警察に相談するのは気が引けて怖い。頼れる人や友人はいない。そもそも連絡手段がない上に金もない。
どうすればいいか分からない。考えれば考えるほどどうしようもなさだけが気分を重くする。
ふと、路地に人が歩いてくるのが見えた。このままでは怪しまれるのでとりあえず立ち上がって、とにかく足を動かす。
人目について通報され、警察に補導されるのは勘弁だ。特に今は。
俺は目的もなく、ただ歩く。
胸の奥が、冷たい何かに突き刺されているような。そんな苦しさを感じながら。
――――――
当てもなく進む。どこに行っているのかも分からずに。
足は棒切れみたいで。全力疾走による急激な負荷のせいか太ももとふくろはぎが時々痛む。全身も怠く、出来るのなら、寝転んでしまいたい。
けれど、足を止める気も、座り込むことも、しようとは思えなかった。ただただひたすら、無気力に歩いている。
このまま消えてしまいたい。俺の存在が世界から消え去ってほしい。そんなことを思いつつ。
もう、何時間歩いていただろう。人目を避け、気配を消し、彷徨い歩いていたら、気付けば日が沈みはじめていた。
空は夕焼けに染まりつつある。ろくに水分を取っていない喉が、微かな痛みを発していた。時間感覚が、どこかにすっ飛んでいたらしい。
流石に喉が渇いて水分補給が出来そうな所を探そうと、周囲を見渡たす。
ふと、どこか見覚えのある感覚があった。その正体を確かめるために、じっくり景色を見つめ、鈍った頭で考える。
「……ここ、下北沢」
掠れた声が口から出てきた。
今いる場所は、先日スターリーを探そうとぶらついて彷徨っていた見慣れぬ景色。ここから少し行った場所でスマホを確認し、マップで見ればそう離れていない場所にスターリーがあったはず。
自然と足がスターリーの方へ向く。しかし、先日の疑わしい伊地知星歌の目を思い出して足は止まる。行ったところで頼れるわけではない。状況が好転するとは思えなかった。
立ち尽くす。疲労感が全身にこびりついている。頭も回らない。
もう、帰るべきだ。意地を張らずに親へ謝る。そして頼るのだ。俺一人ではどうにもならない。現実逃避に彷徨っていても、何も解決に向かっていない。
だが、帰るにしても、手段を考えなければ。
歩いて帰るのは論外だ。ただでさえ疲れている上に、居場所が分かったとはいえ家まで歩くのは時間がかかりすぎる。到着する前に俺が倒れるだろう。
タクシーは有り、か。今の俺に所持金はないが、家に着けば払える。その場合、両親に拝み倒すこととなるので気は進まないが。
最終手段としては、警察に送ってもらうとかか。事情を話すなりなんなりして家までパトカーに乗せてもらう。俺については知っているだろうし、知らなくとも確認してもらえば情報共有は簡単なはずだ。その場合、家に送る以前に捕まる可能性と、パトカーで家に帰った場面を近所に知られたら世間体が悪くなってしまうことがリスクか。
歩いて帰るのは気が遠くなる。警察の厄介にはなりたくない。無難なのは、タクシーしかないだろう。
ゆっくり時間をかけて結論を出す。鈍った思考で、タクシー乗り場を探そうと決めた。
――ぱさり。
ふと、そんな音が耳に届く。見ると、二、三歩離れた地面に黄色い手帳が落ちていた。
思わず拾う。少し先を歩いていた女子高生二人組のどちらかが落としたのだろうと、よく見た。そして、目を見開く。
黄色い髪に長いサイドテール。特徴的な大きなリボン。隣に立つショートの青髪の子へ話しかける様は快活で可愛らしい。
間違いない。彼女は。
「伊地知、虹夏……」
「え……?」
無意識にこぼれ出た声。不思議と通った声音が女子高生二人組に聞こえ、驚いたようにこちらへ振り返る。
困惑と疑問に満ちた伊地知虹夏の目が俺を見つめていた。
中性的な見た目ながらも男女共に惹きつけるルックスの山田リョウは目を見開き。次いで、警戒するように目を細めた。
予想外の状況に、俺はたじろぐ。
「君、誰……? その制服、秀華高校の人だよね? どうして私の名前……」
「えっあっ、いや……今のは違くて……」
言葉に詰まる俺を、何故か山田リョウが敵意を孕む目つきで睨んできた。強い拒絶の視線。不審感ならまだしも、初対面の相手にここまで敵意を向けられる理由が思い当たらない。
彼女は俺から守るように伊地知虹夏の前へ一歩出た。一瞬だけ見た半目の眠そうな目が、今は鋭く俺を見ている。チクリと胸が痛んだ。
「どうして虹夏の名前を知ってるの」
「あ、えっと……」
当然の疑問。俺は自分自身の迂闊さを呪う。
ふと、手元に持った黄色い手帳を思い出した。
「こ、これっ! これに書いてあったから読んでみただけでっ! どっちかが落としたと思ったから、渡そうとしてて……」
「嘘。その手帳は確かに虹夏のだけど、まだ名前も書いてない新品。分かるはずない」
「う、あ」
本当だろうか。しかし、それを確かめて反論する前に俺は露骨すぎる反応をしてしまう。
失敗。咄嗟の嘘はあっさり看破された。
「リョ、リョウ? どうしたの急に? そんな、怖い雰囲気で……」
「虹夏は下がってて。どうしてここにいるの?」
虹夏を庇うように下がらせつつ、冷たい声音で俺に質問してくる山田リョウ。
どうしてここにいるのか。俺は、その質問に答えようがない。偶然などと言っても、警戒している相手に信じてもらえようはずがない。
そんなことより逆に聞きたい。どうして、そんな目で俺を見るのか、と。
「どうしてって、そんなの……」
「この前みたいに、スターリーに行くつもりだったの?」
「なんでそれを……?」
「見てたから」
納得した。異様なまでの警戒と敵意。それはおそらく、伊地知星歌の不審感を聞いたからだ。
あの日の俺を再び恨む。イキった結果、面倒ごとしか招いていない自分に嫌気がさす。
しかし、落ち込む暇はない。山田リョウの片手にはスマホが握られていた。何かのきっかけがあれば即通報する姿勢だ。
「ち、違うんだ! あれは、その、誤解みたいなもので……!」
「ふーん。じゃあ、これもそうなの」
「え……?」
山田リョウが手に待っていたスマホの画面を突きつけてくる。
そこには一つの動画が再生されていた。電車の車内と思われる場所から撮影されたソレには、駅のホームでがむしゃらに手足を振り回し叫びながら無我夢中で逃げだす制服の男が映っている。モザイクのない男の顔は、毎朝鏡で見る顔と同じで。
正しくそれは、朝、俺が逃げた場面だった。
顔から血の気が引いていく。唇が微かに震えだす。
「これ、間違いなく君でしょ。動画のタイトル、痴漢男が逃げたってあるけど。……これも、誤解?」
「えっ、なにそれ! ちょっと見せて!」
硬直した俺を置いて、伊地知虹夏が山田リョウのスマホを奪い取り、動画を確認する。低音質のみっともない男の絶叫が聞こえてきた。
まさか、と思う。やっぱり、とも思った。その動画はおそらく、SNSで拡散されたもの。あの時、車内にはたくさんの人がいた。あれだけの騒ぎを動画で撮影する人は何人もいただろう。
そして、面白半分にSNSへ投稿する人も。
震える俺の顔を、伊地知虹夏が驚きに目を見開いて見つめ、スマホを見て、俺を見てを何度も繰り返す。
「た、確かに顔が同じ……」
「もう、話す必要ない。スマホ返して。通報する」
「あっ、ま待ってっ!」
「ひっ……!?」
俺は慌てて二人に近付こうとする。しかし、少し近づいた途端、反射的に伊地知虹夏が怯えた声を出した。
恐怖を顔に浮かべた彼女を山田リョウが庇い、厳しい目で俺を睨みつけつつ、スマホのコールを押している。よく見れば、山田リョウの足は震えていた。
怖いのだ。それでも恐怖を必死に抑えつけて、親友を守ろうと強い自分を装っている。なんて美しい友情か。なんて気高い意志か。
その様に俺は、言いようのないショックを全身に受ける。
ダメだった。この場において、俺は完全に悪だった。
『――事件ですか、事故ですか』
スピーカーになっていたスマホからそんな声が聞こえてくる。
俺は手帳を二人の足元に投げ捨て、踵を返して逃げだす。
もう、何も考えたくなかった。