2023年4月2日12時より、壱の段を公開いたします。
弐の段、参の段、終の段も順次公開予定です。
事の始まりは男と女の逢瀬でした。
山の奥の寂れた神社へ至る石段を登る男と、それを鳥居の陰から息を潜めて見つめる女。
男は女と何を話すかに息を弾ませ、女は到着が待ち遠しくもその姿を眺め続けていたいと葛藤する。森の新緑が濃い中、青い春のひとかけらがそこにはあったのです。
ようやく男が登頂を果たすころになってもまだ、女の天秤は揺れ続けていました。女自身は、かけることすらも出来なかったと思っていたようですが。
実の所、男は巫女に手を出すことが何を意味するのかをよく理解していませんでした。それが神聖なものであると、触れてはならぬものだとは露知らず、ただの一人の女の子としてしか見ていなかったのです。
境内の横の縁側で、二人は寛いでいました。煎餅を頬張り、冷たい麦茶で流しながら、男は機を見て口を開きました。次の日曜日に予定はあるか、と。
折り悪く女にはその日『三古の儀』という、年に一度の祈祷の儀式をしなければなりませんでした。彼女の住まう神社が祀っている古神様に祈りを捧げる大事な用事です。
ではまた今度と男が言うのが先か、それが逢瀬の誘いだと女が理解するのにかかる時間はいかばかりか。
女は男の裾を掴み、大きな瞳を潤ませながら男の目を見つめていました。
曰く、儀式は祖母にお願いしておくから、と。
大事な行事なら、と男は遠慮しますが、今の私にとって一番大切なのは、と言葉を濁しながら、女はしおらしく食い下がります。
愛おしい一途な想いに応え、喜びのあまり男は女の手をとりました。
その瞬間の女の顔色といえば、まだ春も半ばに差し掛かって間もないというのに、顔に紅葉を散らしたかと思えば、今度は雪化粧をし、血の気の満ち引き具合は真夏の驟雨も真っ青な気圧の乱高下の有様でした。
取り乱す女の姿に、男はありし日の情景を思い出します。
それは、男と女があって間もない頃の事。
声をかけられた女が、余りの衝撃で気を失ったのです。女が目を醒ますと、男の顔が目の前にありました。
魅了され吸い込まれるように女は背中を振るわせて――といった所で女はふと我に返り、男の頬を強く張り倒しました。何と言うこともありません。彼女はとてつもなく初心だったのです。
意中の異性に声をかけられるだけで倒れるようなおぼこが、その顔を間近に見るなど耐えられる訳もなく。ついつい手が出てしまうのは仕方のない事でした。
酷いことをしてしまったと、忘れなくなった右手の感触を確かめながら、平謝りするしかない女を、笑って許す男。その態度にもまた女は惚れ込み、入れ込んでしまうのでした。
女は神を信仰するもの。その心は、神以外の何ものにも向けてはならない存在。
その女に、男は思いの丈を訴えたのです。言葉を受けた女は、たまらず男の胸の中に飛び込みました。
それは、高嶺に咲く桜を戯れに手折るような愚行。
どれほどまでに罪深いことなのか、知らぬは彼ばかりか。
神にその純潔を捧げるべくして、かく在るべきと育てられた、清々しいほどに、いっそ憐れましさすら覚えるほどに清らかなる彼女にとって、その感情は余りにも甘い猛毒でした。
決して口にしてはいけない禁忌の味。身の破滅に導くと理解していながらもなお吐き出すことを体が拒否し、果ては呑込み、その上で中らないよう祷る他ない兜率天の食。
赦されざる背徳であり、許されざる涜神。
神に仕える者としての理性と、女としての人間的な本性。どちらが勝つかなど、言葉にするまでもなく。
――結局の所、巫女も、神子も、人の子だったという、それだけの話。
しかし。
どうかくれぐれもご容赦ください。
無垢なる女、巫女なる彼女――七宮伊織にとっては、それが初めての、身を焦がすほどに燃えるような、新芽の萌えるような恋だったのです。
故に彼女を止めることは、彼女自身にさえ出来ません。喩えその先に如何な壁が立ちはだかろうとも。
壱(石)の段 『春先に
――世の有様の様々を、ひと時に見る、舟遊び。
近松門左衛門『今宮の心中』より。
弐の段公開は2023年4月2日14時を予定しております。