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長くなってしまった為、レース前とレースシーンで分けさせて頂いております。
桜の花も少しずつ新緑への移り変わりが始まり春も深くなってきた昨今、現在トレセン学園内のとあるトレーナールームにて、ハンチング帽子を被った一人の男性トレーナー…沖田トレーナーその人がパソコンと睨めっこをしている最中であった。
(──にしても、次はいよいよ皐月賞か………小せえ頃から不器用で、あがり症で、誰よりも直向きに努力出来て、だからこそ皆んなが応援したくなる…そんなアイツが、今や今年の三冠ウマ娘路線の最有力候補か……ったく、アイツが『恩返し』なんて言うもんだから、柄にも無く感傷に浸っちまうな…)
来週行われる皐月賞に出走予定であるウマ娘たちのデータを見直しながら、自身の愛バである“ナリタトップロード”、彼女が幼き頃から共に【トゥインクル・シリーズの頂点】という目標を目指してきた間柄であるが故か…
先日にナリタトップロードから『ここまで連れて来てくれたトレーナーさんの為に、皐月賞を必ず勝利して恩返しをしたい!』なんて事を言われてしまい、思わず感傷に浸ってしまう沖田トレーナー。
ナリタトップロードの戦績は現在4戦4勝。昨年は【GⅠ・ホープフルS】を制し最優秀ジュニア級ウマ娘にも輝いており、クラシック級の始動戦となった弥生賞でも2着に5バ身差をつける完勝。
世間の評価も間違いなく今年のクラシック級戦線の主役の一人、更には未来のウマ娘レース界を牽引する存在にもなれるだろう。と非常に高い評価を受けており、次の皐月賞でも大いに期待が寄せられている。
「けど、トゥインクル・シリーズの頂点…確かに手の届く所まで来た。この間の弥生賞でも本番に繋がる良い形での勝利、去年のホープフルSに次いで中山小回りコースの苦手意識はかなり無くなっている。まあ、だからと言って簡単に勝てる相手さん方じゃ無いんだが…」
感傷に浸る気持ちを切り替え、沖田トレーナーはそう呟きながら先日に行われた【GⅢ・毎日杯】のレース映像を再生する。
『──第4コーナーを周って直線コース! ④ビオスマスターが逃げ込みを図りますが、真ん中から①のテイエムオペラオーが一気に抜け出すか!? テイエムオペラオー抜けた! テイエムオペラオー抜けた! 楽々と後続を突き放すッ!! これは強い! 独走態勢に入った! 2番手には⑤のタゴウブリットが追い上げて来ますが、リード4バ身!5バ身! 差は広がる一方! テイエムオペラオー! 圧倒的強さを見せつけて今──ゴールインッ! テイエムオペラオー、これで4戦4勝! 無敗街道を直走りながら、皐月に向けて視界良好です!』
そこには2着に7バ身差をつけて毎日杯を勝利した、テイエムオペラオーの圧勝劇が映っていた。ナリタトップロードと同じく現在4戦4勝で負け知らず。昨年は【GⅠ・朝日杯FS】を制している、もう一人のジュニア級チャンピオンである。
あの《チームリギル》に所属している事もあってか、世間の評価もナリタトップロードと双璧、あるいはそれ以上の評価を集めていると言っても過言では無く、ナリタトップロードにとって強力なライバルとなる一人だ。
そんなライバルの走りを、自身が集めたデータと照らし合わせながら毎日杯のレース映像を繰り返し再生する沖田トレーナーの表情は、テイエムオペラオーの走りを分析すればするほど難しい表情へと変わっていく。
(流石は東条の嬢ちゃんの教え子ってところか…高い次元で纏まった欠点の無い走りだ。この走りならどんなペースやバ場にも対応してくるだろう…何よりウチのヤツと違って、瞬時にトップスピードまで持っていける器用な脚も使えるってのが、今回の皐月賞で闘う上で最も警戒しなきゃならねぇ…)
沖田トレーナーの愛バであるナリタトップロードは一完歩の跳びが大きいストライド走法であり、スピード能力やレースセンス等はライバル達に一切引けは取らない……のだが、如何せんトップスピードに乗るまでに時間が掛かってしまう不器用な面も存在する。
愛バと共に磨き上げて来た王道の走りは、間違いなくトゥインクル・シリーズの頂点を目指せる走りであると沖田トレーナー自身も自負しており誇りも持っている。
ただ今回の舞台である《中山内回りコース・芝2000m》では、その王道の走りを活かせない可能性のほうが高い。それは沖田トレーナーがずっと頭を悩ませていた懸念であった。
(中山はタイトなコーナー角の上に直線も短い…減速してから再加速するまでに時間が掛かっちまうウチのヤツじゃあ、コーナーで減速し過ぎちまうとテイエムオペラオーの様な俊敏性のある器用な脚を使える相手に勝負所で置いて行かれちまう。ようやくトップスピードに乗れたと思ったらゴール板を過ぎていた…なんて事は絶対に避けないといけねぇ…)
ナリタトップロードの未来の為にも、磨き上げてきた今の走りは絶対に崩せない。仮に本来の走り方を崩して皐月賞を勝利出来たとしても、その影響でその後のレースが勝てなくなりました。では本末転倒になってしまう。
それに何より、そんな付け焼き刃で勝てるほどライバル達は甘くないだろう…という事を沖田トレーナーは確信していた。
「コース適性は明らかに相手さんに分がある、まともな末脚の瞬発力勝負になってもこっちが不利。それに…他にも特に気をつけないといけねぇヤツがもう一人…」
そう呟きながら沖田トレーナーは《皐月賞の出走予定ウマ娘一覧表》を手に取り、ナリタトップロード、テイエムオペラオーと同じく今年の三冠ウマ娘路線の最有力候補と目されているもう一人のウマ娘──“アドマイヤベガ”のデータに目を留めた。
(ティアラ二冠ウマ娘の息女ってのと、朝練なんかで見かけた時の非凡な走りから元々注目はしていたが、それがこの半年で…《チームノヴァ》に所属してからは更に化けやがった。……ったく、スペシャルウィークをあそこまで開花させた事といい、あの坊主の手腕は一体どうなってやがる?)
ナリタトップロードと同級生であり、入学当初からも非凡な走りで注目を集めていたアドマイヤベガの事は、沖田トレーナーも以前からライバルになる存在として意識はしていた。
特に彼女が持つ一瞬で斬り捨てるかの如し天賦の末脚は、トレーナーという身分で居る者ならば惹かれずにはいられない魅力であり、沖田トレーナーも初めてアドマイヤベガの走りを見た時にはその末恐ろしいポテンシャルに驚かされたものである。
しかしそんな魅力溢れるポテンシャルを感じたからこそだろうか、同時に荒削りな面が目についた事も事実であった。骨格の歪みからか左脚に少し負担を掛けやすいフォーム、道中の追走ペース配分やスピードコントロール技術の甘さ、それ故にラストで脚が上がってしまうのがやや早い事など…
担当契約やチーム所属を行わずに自分自身だけで頑張っていた事もあってか、息長く一線級で走り続け、大舞台のレースで勝つ為に必要な細かいスキルが伴っていなかった為、仮にこのままの成長速度ならばナリタトップロードとぶつかった際には十分こちらに勝機があると沖田トレーナーは感じていた。まあその思惑はアドマイヤベガがチームノヴァに所属してから改めなくてはいけなくなったが。
(この前に見かけた時にはフォームバランスが治っていたし、ここ2走のレースを見る限りペース配分の改善、特にスピードのコントロール技術は世代トップと言っても過言じゃ無いレベルだ。その影響で元々有していた天賦の末脚がより一層鋭さを増している。これで未だキャリア2戦なのが恐れ入るってもんだ……ウチのヤツもまだまだこれから成長するだろうが、それは奴さんも同じ条件か…)
かつてナリタトップロードのコーナーワークに対する苦手意識を、軽く手解きを加えただけで改善に至る道しるべを作ってくれた事や、この間のトレーナー集会で交換できた理論、本格化前というハンデを背負いながらスペシャルウィークをあれだけ活躍させ、彼女の心の大きな支えとなっている実績。
今年でトレーナー歴2年目とはとても思えない手腕や実績を持つ彼がついている以上、アドマイヤベガがこの先どんどん強くなるのは確実。しかし沖田トレーナーの中で今回の皐月賞、『アドマイヤベガとテイエムオペラオー。選ぶのならどちらの方が恐いか?』という問いがあれば、『僅かながらテイエムオペラオーのほうが恐い』という考えを持っていた。それは皐月賞というレースの傾向から出された結論とも言える。
「…今回、コース適性から考えても条件は決して良いとは言えねぇが、悪い事ばかりじゃ無いのも確かだ」
そう口に出すと沖田トレーナーはパソコンに自身がまとめた分析データを表示し、改めて皐月賞のレース傾向およびその先に行われる【日本ダービー】との比較に目を通す。
(最も速いウマ娘が勝つ。この格言通り、皐月賞はラスト1000m勝負のマイル戦になりやすく、純粋なスピードの持続力が無いと先ず勝てないレースだ。だが日本ダービーは持続力よりも、ラスト600mをより速く走れる直線での瞬発力のほうが大切になる事が多い。アドマイヤベガの末脚の質を見る限り、奴さんは皐月賞よりダービーのほうが向いてるだろう)
勿論この事をチームノヴァを率いる彼が知らない訳は無いはずなので、何か対策を施してくる可能性が高いものの、純粋な末脚の持続力に関しては確実にナリタトップロードに分があるだろうと沖田トレーナーは確信していた。
(となると、やはり持続力・瞬発力ともに一番バランスがとれているテイエムオペラオーのほうが今回に関しては注意が必要か…東条の嬢ちゃんが今回の調整でヘマする訳も無ぇだろうからな。後は当日の天気やバ場状態、それと枠順次第ってとこか…道中を出来るだけスムーズに走る為にも下手に内枠に入るよりは真ん中から外目の枠が欲しいところだが、これに関しちゃ祈るしか無えな……本番まであと一週間、例えコース適性に難があろうとウチのヤツなら乗り切れる。最終調整をしっかりやって、後はアイツを信じて送り出すだけだ)
ナリタトップロードが小さい頃から共に頑張ってきて、それ故に築き上げられた二人の信頼関係は生半可なものでは無い。自分の愛バを信じ抜き、自身が出来る最大限のサポートをする。その決意をより一層固くした沖田トレーナーは他の担当愛バたちのトレーニングメニューなども見直しつつ、
真面目過ぎる故に一週間前にも関わらずオーバーワークをしかねないナリタトップロードを諭す方法も模索しながら、皐月賞に最高の状態で臨むための最終調整の準備に入っていった。
♢♢♢
時を同じく皐月賞が一週間前に迫った今日、ここ《チームリギル》が使用しているトレーニングコースでも現在、東条トレーナー監視の下、皐月賞に出走予定のテイエムオペラオーが、輝かしいマイル実績を誇るチームメンバーである“マルゼンスキー”・“タイキシャトル”・“フジキセキ”の三人と併走トレーニングを行なっている最中であった。
速い流れになりやすい皐月賞での追走ペース配分の感覚を養うためマイル適性が高い三人と併走しているのだが、テイエムオペラオーの元々の前向きな性格が今回は裏目に出ており、道中で差が広がった焦りから前を行く三人のハイペースに付き合ってしまっている。これでは上手く脚を溜めることができないだろうと東条トレーナーは感じた。
いくらこれまで磨き上げてきたテイエムオペラオーの末脚が持続力・瞬発力ともに素晴らしい次元でまとまった末脚だとはいっても、道中の追走で余力を失って、自慢の末脚が使えなくては意味が無い。東条トレーナーは少し考えつつ、テイエムオペラオーがペース配分を意識出来るように指示を飛ばした。
「オペラオー! 隣に“メイショウドトウ”が居ると思って走りなさい! 追走ペースが少し速すぎる! 前の三人との差が広がって焦る気持ちは分かるけれど、皐月賞をそんなペースで追走したら最後の急坂で脚が上がってしまう!」
「──っ! フゥッ、フゥッ──はいっ!」
東条トレーナーの言葉が耳に届いた瞬間、テイエムオペラオーはいつも自分について来てくれる“気弱ながら誰よりも頑張り屋なウマ娘”の事を思い出す。
彼女と一緒に走っている時は彼女が自分に向けてくれる憧れの念に最大限応えようと、自然と自分のペースを守って走る事が出来るのだが…今の自分が刻んでいるペースは、無理をして前について行っているだけの拙いペース配分だった。これでは本番の皐月賞どころか、メイショウドトウとの併走でも簡単に先着を許してしまうだろう。そんな不甲斐ない姿を…彼女にも、自身の走りを待ち望む観客にも晒すわけにはいかない。
自らの焦りを抑え、テイエムオペラオーは徐々に自身が脚を溜められるペースへと落としていく。その様子を見て東条トレーナーは満足そうに頷きながら笑みを浮かべた。
人間もウマ娘も『焦るな』や『ペースを速め過ぎるな』などの『〇〇するな』といったネガティブな指示は脳が上手く理解できない様になっている為、
この様な指示を飛ばしてしまうと上手くいかない事を東条トレーナーは、成績だけは可愛げの無いとある今年2年目の後輩と意見交換をした際に知り、自身の経験としても身に覚えがあったため取り入れるに至った考え方の一つであった。
『〇〇するな』よりも『〇〇しなさい』と指示を出す。更にその『〇〇しなさい』の〇〇の部分を出来るだけ具体的に言ってあげる。
仮に『ペースを速め過ぎるな』→『ペースを緩めなさい』と指示を変えて出しても、じゃあ私はどれぐらいペースを緩めたら良いのか? という程度が本人に伝わらない…という事になってしまう事もある。
これを防ぐ為に東条トレーナーは先ほどの指示を『隣にメイショウドトウが居るつもりで走りなさい』という、結果的にテイエムオペラオーがペースを上手く緩められるであろう指示を飛ばした。
基本的には徹底管理主義に近い方針をとっている東条トレーナーではあるが、テイエムオペラオーと自身の担当愛バではないメイショウドトウが一緒にトレーニングをしたがる時は、流石に毎回では無いものの許可を出す事が多い。
メイショウドトウと一緒にトレーニングをした際、テイエムオペラオーの集中力やパフォーマンスが向上する傾向にある事を計算に入れつつも、普通なら他所のウマ娘を自チームのトレーニングに参加させてあげるチームなどあまり無いのだが、それを受け入れているあたり東条トレーナーの懐の深さを感じられる部分である。
そして併走トレーニングでは、自身のペースに徹し上手く立て直したテイエムオペラオーがラストの直線でレーザービームの様な物凄い末脚をみせ、前の三人をまとめて差し切る形でゴール係であるヒシアマゾンの前を通過した。
「──oh! オペラオー、So fastデシタよ!」
「ええ! さっきの末脚を出せるなら、本番も問題ナッシングね⭐︎」
「序盤は少し掛かってしまっていたみたいだけど、自分のペースに徹してからは前を走っていた私にも物凄いプレッシャーが届いていたよ。これなら皐月賞でも観客の皆んなに魅せる事が出来るさ、君の“キセキ”を」
「なんで毎回ヒシアマ姐さんがゴール係を…けどまあ、最後の末脚はアタシに似て良かったぞオペラオー!」
「はぁっ、ふぅ…ありがとう、先輩方。皆さんの言葉でボクの自信が──確信に変わったよ」
「──最後の末脚の評価に関しては私も同意見だけれど、オペラオーは息を整えてから、他の四人は先に二本目の準備に取り掛かりなさい。分かっているとは思うけれど、追走ペースの感覚をより完璧にしておかないと本番では…特にあの二人に勝つのは難しいわよ? オペラオー」
「勿論ですともトレーナーさん。次の一本で必ず感覚を掴んでみせよう。不甲斐ない走りで観客を、そして…ようやく相見える運命の好敵手【リヴァル】二人を、ガッカリさせる訳にはいかないからね」
東条トレーナーとテイエムオペラオーが特に意識している二人であるナリタトップロードとアドマイヤベガ…彼女たち自身が脅威なのはもちろん、彼女たちを支えるトレーナー側も間違いなく超一流。
今回の皐月賞では最高の仕上げで臨んでくるだろうと、東条トレーナーは確信していた。
(沖田さんはレースの出走合否を愛バの仕上がり重視で決断する人…出走登録をしたからには最高の仕上げで臨める確証があるという事。チームノヴァの彼は恐らく“アイツ”と同じウマ娘の気持ち重視で決断するタイプ…だけど去年の有馬記念で明らかに体調が下降気味だったスペシャルウィークを勝利に導いた手腕を考えれば、今回アドマイヤベガを仕上げてこない訳がない…)
愛バたちが身体をほぐしながら二本目の併走に取り掛かるのを見守りつつ、東条トレーナーは手に持っていたタブレットを開き、ナリタトップロードとアドマイヤベガのデータに改めて目を通す。
(ウチのオペラオーとの比較なら、純粋なポテンシャルは三人ともほぼ互角。末脚の質に関してはオペラオーが一番バランスが取れている…けど、持続力ならばナリタトップロードに、瞬発力ならばアドマイヤベガに分があると言わざるを得ない。後はコース適性とキャリアの差でどこまでアドバンテージを得られるか…)
今回テイエムオペラオーが確実に二人より優れていると断言できる点が、対ナリタトップロードにはコース適性が、対アドマイヤベガにはキャリアの差があると東条トレーナーは考えていた。
幾らストライド走法のウマ娘とは思えないほど綺麗なコーナーワークを披露し、完成度の高い先行押し切りという王道の走りで昨年のホープフルSと今年の弥生賞を勝利しているとは言え、ナリタトップロードのベストコースが小回りの中山レース場だと言うのは流石に無理があるだろう。
現にここ2走のラップタイムを分析してみると、彼女はラスト200mのタイムが不自然な程に一番速い“超加速ラップ”で駆け抜けていた。これは即ち彼女がここ2走では思いっきり“脚を余していた”という証拠である。それで完勝してしまうのだから恐ろしい…とも東条トレーナーは思うのだが。
そしてもう一人のアドマイヤベガに関しては、確かにここまでのデビュー戦・共同通信杯で見せたパフォーマンスは桁違いの内容ではあった。はっきり言って両レース共、圧倒的な末脚の速さ故に“最後方付近から直線だけで周りをごぼう抜きして、その上で着差も突き放した”という内容……少なくとも同期でこんな事が出来るのは、間違いなく彼女とテイエムオペラオーのみだろう。
しかしアドマイヤベガは未だこの末脚を“外目を通って来て直線に向く”という形でしか発揮していない。バ群に包まれながら・内で進路を探しながら・直線で誰かと競り合いながら…等の状況下を経験出来ていないキャリアの浅さがあると東条トレーナーは分析していた。
(二人と違って、アドマイヤベガはGⅠレースの出走も今回が初めて…大舞台特有の空気感や大歓声を受けても果たして同じパフォーマンスが出来るかは未知数…仮に出来たとしても、ここ2走の様に外目を通って直線に向くレースをしてくれれば、今のオペラオーなら外から被せてブロック出来る。体幹の強いオペラオーにブロックされればどんな娘でも簡単には出られない。……さあ、彼はどうするのかしらね? スペシャルウィークの皐月賞に私たちリギルは参戦出来なかった。けど今年は違う、ウチが出走する限り去年の様にはいかないわよ?)
ここ2走の様なレース“しか”出来ないのであれば確実にこちらが勝てる。しかしチームノヴァをまとめる彼が、そんなヤワな鍛え方をしている筈もない。沖田トレーナーもそうだが、優れたトレーナーが付いているウマ娘が相手の場合、そのウマ娘だけでは無くトレーナーにも警戒しなくてはいけないのが厄介な部分となる。
ウマ娘レース界における対戦構図というのは〈ウマ娘 VS ウマ娘〉では無く、〈ウマ娘のチーム VS ウマ娘のチーム〉なのだ。ウマ娘“だけ”が強くても、その娘を支えるトレーナーやチームが弱ければレースでは勝てない。だからこそ東条トレーナーは、しっかりと〈チーム〉として強い彼らには学園最強チームの名を背負う者として負けたくないのだ。
(オペラオーが…ウチのチームが最も強い事は私が一番分かっている。今度の皐月賞、必ずリギルが勝つ!)
そんな勝利への想いを高めていると、身体をほぐし終わった愛バたちが二本目の併走トレーニングのスタート態勢に入った事を確認し、東条トレーナーの意識は再び愛バたちに向けられたのだった。
♢♢♢
アヤベさんの皐月賞を一週間前に控えた本日、時刻は既に夕方。各自のトレーニングも終えてウチのチームだけで無く他の皆さんもアイシングや片付けを行う人たちが多い中、俺は現在ある事に頭を悩ませていた。
(……ロードワーク用のシューズに履き替えたって事は、アヤベさんは今日も自主トレに行くのか…うーん、皐月賞が近いからなのか最近は少しオーバーワーク気味だからな…今は回復したけどこの前は少し体調を崩しかけていたし。だけど勝負の世界で頂点を取るためには多少のオーバーワークは乗り越えなくてはいけない…)
トレーニング方法や限度なんてウマ娘1人1人で正解が異なる以上、こればかりはオーバーワークになりながら突き詰めていくしか無い部分である。数多くのライバル達とたった一つしか無い頂点に向けて競い合うのだから、そもそもオーバーワークをしないで勝ち取れるなんて甘い世界じゃない事は明白だ。
でもやっぱり、この前に体調を崩しかけていた事もあるから心配だよな…怪我をさせないのは当然として、体調を崩した状態で皐月賞を走る事だけは避けたい。
先日、アヤベさんは季節の変わり目による春バテの影響で食欲不振に陥ってしまい体調を崩しかけていた。何とか滋養強壮のために作った、生姜・昆布・醤油・みりん・チートで出汁を取った“スッポン出汁雑炊”を食してくれた事で事なきを得たのだが。
…自分で言っといて何だけどチートで出汁取るって何なんだろうね? まあ『元気になれ〜元気になれ〜』って念じながら作ってたら本当にそうなったってだけなんだけれども。
それでも病み上がりには違いない。かと言って自主トレを止めなくてはいけない程の状態でも無い以上、折衷案をアヤベさんに申し出てみるか…最悪断られてしまったら別の方法を考えよう。
そうして取り敢えず考えがまとまったあたりで、制服に着替えたスペちゃんとマックイーンさん、そしてジャージ姿のままであるアヤベさんがチーム部屋から出てこちらに挨拶に来てくれた。スペちゃんとマックイーンさんは明日に“本番形式の一本勝負トレーニング”を行う為、本日の自主トレは遠慮してもらっている。
「お兄さん、今日もありがとうございました! 明日は一本勝負のトレーニングですから今日は早めに寝ないといけませんね。お休み前のお電話でも話し過ぎちゃわ無い様にしないと…」
「トレーナーさん、本日も変わらず実りのあるトレーニングを本当にありがとうございました。わたくしも明日に備えて、本日のところはこれで上がらせて頂きますわ」
「今日もお疲れ様。さっきの中山レース場と皐月賞の分析、どちらも分かりやすくてとても助かったわ。その…ありがとう」
「三人ともお疲れ様。こちらこそ、スペちゃんもマックイーンさんもアヤベさんも、いつも真摯にトレーニングや俺の話に向き合ってくれて本当にありがとう。スペちゃんとマックイーンさんは今日のトレーニングが軽めだったとはいっても、明日があるからゆっくり身体を休めてね」
お互いに感謝の気持ちをしっかりと言葉にして伝え合い、スペちゃんとマックイーンさんが明日に備えて寮に戻って行くのを俺とアヤベさんは二人が見えなくなるまで見送る。
何かスペちゃんから仲良しカップルがやる様な事を仄めかす発言があったけど……べ、別に北海道に居た頃から? い、家電話で寝る前にちょっと話すぐらいはよくやってたし? た、多少大きくなった俺たちが今でも電話してたって? な、何も可笑しくなんかないでしょ? あ、ある程度仲が良い者同士ならこれぐらい普通ですよ、普通。俺のチートもそう言ってる──気がしないでもないですもん。ほんとほんと、『行けたら行く』の発言ぐらい信用して下さい。
「…じゃあ、私はこのままトレーニングを続けるわ。外出許可も取ってあるから、今日はロードワークに行ってくる。走ったルートや距離は明日まとめて伝えるから、貴方も戻って大丈夫よ」
「その事なんだけど…アヤベさん、今日は俺も自主トレについて行って良いかな? この前に体調を崩しかけていたのが、どうしても心配だからね。こっちは車で後ろをついて行くだけで邪魔はしないし、何ならドリンクとかの荷物持ちや帰りに送ってあげる事も出来るから」
「別に体調に関しては問題ない。この前の貴方が作ってくれた料理を食べたら随分良くなったし、貴方も他の仕事があるでしょ? 気遣いは不要よ。何かあったら……必ず連絡するから」
「…ありがとう、アヤベさん。でも気遣いとかじゃ無いんだ。今度の皐月賞を一緒に勝つために、俺もやれるだけの事は全てやっておきたい。俺が俺自身のために、君を支える事に関して妥協したくないだけなんだ」
「……どうして貴方はそこまで…いえ、何でもない。……はあ、分かったわ。私はこのままロードワークに行くけれど、ついて来たければ…貴方のやりたい様にやってくれて良い。このまま言い争っても、貴方は譲らなそうだもの」
「──分かった! 走るルートはいつも報告してくれてる順番だよね? 先に行ってて! 俺も準備したらすぐに行くから」
「…じゃあ行ってくる……別に慌てなくて大丈夫よ…」
最後にぽそっとそう言い残し、アヤベさんは軽く身体をほぐしながら正門へと向かって行く。
俺の勝手について行く発言を最終的には受け入れてくれたアヤベさんは、やっぱり優しい娘なんだな。と改めて思いつつ、俺は準備を整え学園が貸し出してくれている車に乗り込んでアヤベさんの後を追いかけた。
そしてロードワーク中は疲労でフォームが少し乱れた際や、坂道の際に足首・母指球・つま先に力を伝えて加速する感覚を意識してもらう時などは後ろから最小限の指示を飛ばしつつも、基本的には黙々とロードワークに励むアヤベさんを見守りながら、その後ろをついて行くという時間が過ぎていったのだった。
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さて、学園を出た際は夕陽に照らされていたあたりも今ではすっかり暗くなり、現在俺とアヤベさんはロードワークを終えて車で学園へと戻っている最中である。
後部座席で膝掛けを脚に被せ、小ぶりなクッションをニギニギと触りながら車窓から夜空を眺めているアヤベさんとの会話らしき会話はここまで特に無く、車内にはとても静かな空気が流れているのだが…
この半年間、少なからず心の距離が縮まったと思える影響からか不思議と気まずさは感じなかった。まあ、俺がそう感じているだけでアヤベさんはそう思っていないかもしれないけれど。
「……ねぇ、一つお願いがあるのだけれど…この先を進むと公園が見えてくると思う。学園に戻る前に、少しだけ寄っても良いかしら?」
「公園? …ああ、そう言えばこの先にあったね。分かった、着いたら後ろに積んである上着を羽織っておいて。この時間帯は少し肌寒いし、身体を冷やすといけないからね」
「分かった…ありがとう」
こちらにお礼を言うとアヤベさんは再び顔を夜空の方へと向けた。確かこの先に軽いジョギングが出来るぐらいの広めの公園があったな……アヤベさんがトレーニング以外の事で今回の様に何かを申し出る事は滅多に無い為、俺は余程の理由があるのかな? などと思いつつ車を走らせる。
そうして10分ほど走ったところで所望された公園へと到着し、近くの駐車場に車を停め、現在アヤベさんと俺は最低限の会話を交わしながらゆっくりと公園をウォーキングするという…少し不思議な時間を過ごしているところである。
「……ここの公園はロードワークを行った帰り、クールダウンをする為によく立ち寄る場所なの。ここは周りが拓けていて星空が…よく見えるから」
「確かに…街中で星空を見上げた時よりもよく見えるな……広さもクールダウンには丁度良いぐらいだし、とても静かで良い場所だね」
ロードワークで疲労し熱がこもった筋肉をほぐす為にウォーキングするアヤベさんの少し後ろをついて行く形で暫く歩いていると、ふとアヤベさんが立ち止まり夜空を見上げながらコチラに語りかける。
…何かコチラに話したい事があるのに中々切り出せない…本当に話して良いものか? と悩んでいる……コチラに背中を向けているアヤベさんの表情は分からないが、この公園に着いてからはそんな葛藤をしている様な雰囲気をずっと感じてはいた。
だが俺はそれを無理に聞き出すつもりも無かった。もちろん彼女のトレーナーとして、勝手に支えると決めた身として、彼女の事を知りたいという欲が無い訳では無い。
しかしその欲よりも、アヤベさんがコチラに話しても良い…と思えるまで俺は幾らでも待つよ…という姿勢を彼女に示したかった。仮に話す決心が最後までつかなかったとしても、俺がアヤベさんを勝手に支えたいという気持ちが揺らぐ事は無かったから。
「………」
「………」
お互いに夜空を見上げたまま再び静寂の時間が訪れる………そしてその静寂の時間は、ゆっくりとコチラに振り向き、少し困った様な表情を浮かべたアヤベによって終わりを告げる。
「…貴方は…本当によく分からない人……私は今まで貴方に、決して寄り添って貰える様な態度はとって来なかったはず。私の事を、ほぼ知らないはず。それなのにどうして、私の事をここまでサポートしようとしてくれるのか、私には理解が出来ない…貴方の努力は、本当なら私が受け取って良いものじゃ無い…」
まだ自分の気持ちに整理がついていないのか、少し辿々しく言葉を紡ぐアヤベさん。俺の中では今までのアヤベさんの態度に不満を感じた事は無いし、彼女を支える事を努力だと思った事も無い。俺がやりたくてやっている事だったから。
しかしそういった部分を気に掛けるあたり彼女はやっぱり他人を思い遣れる優しい娘なのだと思った。そんな事を再確認しつつ、俺は黙ってアヤベさんの言葉に耳を傾ける。
「けれど今日までの時間で、私は少なからず貴方の事を知ることになった…決して悪い人では無いのだろうという事も含めて…それなのに、貴方は私の事をほぼ知らない……私だけが一方的に貴方の事を知っているのは…フェアじゃないと思う……だから──貴方に伝えておきたいの。私が…何の為に走っているのか、その理由を」
女性らしく両肘の下に手のひらを添える様な形で腕を組み、真っ直ぐとコチラの眼を見ながら、アヤベさんは覚悟の言葉を俺に告げる。
もちろん聞く事を拒む理由はない。俺はアヤベさんと同じく真っ直ぐ彼女の眼を見ながら頷く事で肯定の意を示す。
「…私には、弟たちの他にもう一人…双子の妹が居る…いえ、居たはずだった……その娘は…私の妹は…他でもない──私の身代わりとなって、生まれてくる事が出来なかったの」
アヤベさんが語り始めてくれた内容は…彼女がどこか追い立てられる様に走っている訳も、彼女が纏う危うさの正体も、彼女が背負う覚悟の重さも…今まで感じていた事が全て繋がる…とても大切な内容だった。
「小さい頃、私が初めて走った…初めてのレースだったポニーカップを走っている最中…ずっと、まるで私じゃないみたいに…楽しいって感情が溢れた…そして先頭でゴールを駆け抜けた後…今度は、どうしようも無く寂しくて…悲しい…そんな感情で涙が止まらなかった……それからだった、私の中に僅かに残った妹の欠片を──その娘の残影みたいなものをより強く感じる様になったのは…」
アヤベさんの妹さんは、残影の様な形でアヤベさんの中で存在しているのかもしれない……決して科学的な話では無く、それを証明する事も出来ない、それはただ偶然が重なった事による勘違いだと言う人も居るかもしれない…
けれど俺は幼き頃からアヤベさんが感じているその感覚を、勘違いだなんてとても思えなかった。俺自身が転生という形でこの世界に生を受けている以上、どんな奇跡が起こったって不思議では無いと思ったから。だから間違いなく、アヤベさんの妹さんは存在しているのだろう。
「その影は…レースで走るとドキドキ踊って、走って勝つと堪らなく喜んでるくれるの…きっと、走るのが大好きだったんだと思う。だから私は──妹が走れなかった、本当は走りかった分も走って……そして勝ちたい。私の中に僅かに残ったあの娘の欠片に、あげられるだけのモノをあげたいの」
その言葉は俺に向けて…というよりは、自分自身に言い聞かせる為に発している様にも思えた。
「……本当ならこんな事、貴方には関係のない…貴方が背負う必要のない話だけれど……貴方は以前、私をサポートしてくれる理由を『ただ自分の為』と真っ直ぐに伝えてくれた。だから私も、私が走る理由を…貴方に偽りなく伝えておく」
最後は少し気まずそうにしていたものの、俺は彼女の誠意をしっかりと受け取った。
「…本当にありがとう、アヤベさん。妹さんの事を、君が走る理由を、覚悟を、俺に教えてくれて。情けない話だけど…俺は自分の大切な人を失った経験が無い人間だから、今の話を聞いて…何かを言う事は出来ない。だけど、改めて俺の気持ちは伝えておきたい。今の話を聞かせてもらえた上でも…俺がアヤベさんを勝手に支えたいと思う気持ちは一切揺らぐ事は無い。それだけはハッキリと言える」
「…やっぱり貴方は、よく分からない……けれど、別に信用していない訳では無いから…皐月賞も近いし…その……明日からも──トレーニング、よろしく」
俺の言葉に少し呆れた様子を見せながら、再び背を向けて車を停めている駐車場の方へ歩き出すアヤベさん。ふと腕統計で時間を確認すると流石にそろそろ学園へと戻らないと明日に響く恐れがでてくる時間だった。
こうしてアヤベさんと俺の心の距離が少し縮まった出来事もありつつ、無事にアヤベさんと学園に帰宅し、二人で軽くロードワークも踏まえた今日の振り返りを行ってから、俺たちはそれぞれの寮へと戻ってその日を終えたのだった。
そしてその翌日からも変わらずトレーニングに励む日々を過ごし、本日の日付は日曜日…いよいよアヤベさんがクラシック三冠ウマ娘へと挑戦する、最初の関門【皐月賞】の当日を迎えたのだった──
♢♢♢
──もうしばらくで皐月賞の本バ場入場が始まる現在、私は初めて勝負服を身に纏った状態でのパドックを終え、控え室にてトレーナーさんと一緒にスタッフの人から呼び出しが掛かるのを待っていた。
雨が降る中でのパドックだった為か『身体を冷やさないように…』と、フワフワで肌触りの良い羽織ものを用意し、ストレッチを手伝ってくれた時を除いて、トレーナーさんとは特に会話を弾ませる訳でもなく殆どお互いに無言のまま同じ空間にいる訳なのだが…私は不思議とこの時間を苦痛には感じていない。
トレーナーさんが変にコチラに気を遣う事も無く、自然体でいるのだろうと感じるからだろうか…この人といい、学園で私なんかに関わろうとする人たちは全員が突き放し辛くて困ってしまう…
トレーナーさんと同じくチームメイト…と言えるスペシャルウィークさんとメジロマックイーンさんは応援の為にと先にスタンドへと向かっている。あと何故かルームメイトのカレンさんも『アヤベさん、今日は必ず応援に行きますからね♪』なんて言っていたけれど、
正直…私は彼女たちに何も返す事が出来ないので断ったのだが…最終的には押し切られる形で受け入れてしまった。この事に関しては仕方がないが、彼女たちのレースに自分も応援に行く。という形でバランスを取るしかない。
…もうすぐレースだというのに、何を考えているの私は……今は他の事よりもレースに集中し直さなければいけない。私は一度深く息を吐き、眼を瞑りながら乱れてしまった集中力を高め直す。
(やれるだけの準備はやってきた…後はただ冷静に、私がすべき事を果たすだけ。どんな舞台でも、誰が相手でも…そんなのは関係ない。曇よりも、空よりも遠い場所に…勝利も栄誉も、全てをあの娘に捧げるだけ…)
『──失礼致します。間も無く本バ場入場のお時間です! アドマイヤベガさんもトレーナーさんも、準備が整い次第ターフへと向かって下さい!』
「分かりました、ありがとうございます」
完全に心が落ち着いたあたりで控え室にノック音が響き、コチラの返事を待ってから入ってこられたスタッフの人から通達を受け取る。
トレーナーさんがお礼を言ったのに合わせて私も会釈を返し、既に準備は整っていた事もあり、私は直ぐにターフへと向かう心づもりだった為トレーナーさんに一言断りを入れた。
「トレーナーさん、最後に何か確認事項などはある? 無ければもう向かうけれど…」
「そうだな…レース前にこんな事を聞くのは変かもしれないけど……アヤベさん、レースで自分の力を最大限に発揮出来る娘って、一番強い走りが出来る娘って、どんな精神状態をしている娘だと思う?」
「…突然なに? 今ここでその質問には何の意味があるの?」
「ごめんごめん、けどこれは皐月賞も踏まえた今後の為にとても大切な事なんだよ。アヤベさんのトレーナーとして、君が今どう考えているのかを聞いておきたいんだ」
「………そうね……覚悟を背負って、かつ冷静に走れる娘じゃないかしら。…周囲がどうあっても、困難であっても、苦痛であっても、不利でも、無謀でも、未熟でも──背負うと決めたものを…やると決めた事をやり抜く…そんな覚悟を揺るぎない力に変えて、ターフの上では常に冷静でいられる。そんな娘が…私は一番強いと思っている」
「なるほど、確かに…その娘はとても強いだろうな……因みに俺はねアヤベさん、ある一つの前提さえクリアしていれば…その娘がどんな精神状態でいたとしても、それがその娘にとって一番だと思っているんだ。『勝負事においては冷静な者が一番強い』なんてよく言われるけど、もしその前提をクリアしていないのなら…俺はその娘がどんなに冷静でいられたとしても、恐らく一番強くはなれ無いと思う」
「ある前提…?」
「うん。俺は【自分のやっている事を心から信じ、愛し、そして楽しんでいる】この前提をクリアした上での精神状態で勝負に臨んでいる娘こそが一番強いと思っている。冷静でいて走る事が楽しい娘は冷静に、逆に熱くなって走る事が楽しい娘はひたすらに熱く…それこそが一番強い走りに繋がる最も大切な事だと、俺は信じている」
「なに…それ……レースでは勝たないといけないの。貴方がどんな考えを持っていようと自由だけれど、少なくとも私には…そんな感情は必要ない」
「…ああ、そうだね。楽しんでいる娘が一番強いんだという事を100パーセント証明できる証拠なんて、俺には用意する事は出来ない。アヤベさんの言う通り必要なんて無いのかもしれない。でも…それでも俺は、君に聞いてあげてほしいんだ。君の…“アヤベさん自身の心”は…何て言っているのかを」
「──っ…」
「先日、君は自分が背負っている覚悟の重さを教えてくれた。俺なんかには想像すら出来ないほどの凄い覚悟だと思った。けど君は…その覚悟を背負った代わりに、君自身の心に蓋をしてしまったんじゃないのかい?」
「そんな…こと…」
「もしそうなら、少しずつ…少しずつで構わないから、君自身の心の声を聞いてあげてほしいんだ。普段の生活でも、トレーニングの時も、誰かと話している時も、そして──レースを走っている時も…アヤベさん、君の心は何て言ってる? どんな時に楽しいって言ってる? ちゃんと聞いてあげて。それはこれから君が走り続ける為にも…とても…とても大切な事だから」
「……もう…レースが始まる。この話はレースが終わってからすれば良い。とにかく今はレースに集中したいから、私はもう行くわ」
私はそう言って強引に話を切り上げると、羽織っていた上衣をトレーナーさんに押し付ける様に渡し、トレーナーさんの返事を待たずに速足で控え室を後にした。
どうしてトレーナーさんの言葉を聞いて……『それでも私には必要のない事』だと、最後に断言出来なかったのだろう…と、釈然としない気持ちを抱いたまま……
───
──
─
先程のやり取りを考えない様にしながら地下バ道を進んで行き、ターフへと繋がる出口が見えてきたあたりで──対面から、私とは反対の道を進んできた“トップロードさん”の姿が目に入った。
彼女は何故か私を見るなり嬉しそうに、そして確かな闘志を宿した表情を浮かべながら歩みを進める。お互いの距離がどんどんと近くなり、私達は出口の近くで向かい合う形で立ち止まる。
「─ぁ!──…アヤベさん、いよいよ──」
「はーっはっはっはっは!」
「「──!」」
トップロードさんがコチラに何かを言おうとした瞬間、随分と高らかな笑い声があたりに響き渡った。
その声の主であるふざけた王様は…私たちと同じく皐月賞へと臨む“オペラオー”は、既に出口を上がっており私たちを見下ろしながら自信満々な様子でコチラに語りかけ始めた。
「やあやあ! トップロードさん、アヤベさん。ようこそ、世紀末覇王伝説・第一の章の舞台へ!」
「オペラオーちゃん…」
「………」
「クラシック三冠の冠は、このボク! テイエムオペラオーにこそ相応しい! …そう思わないかい?」
相変わらず…芝居がかった言い回しで、おかしな人…けど、彼女の実力は侮れない…
「…オペラオーちゃんが積み上げてきたものは確かに凄いです。でも、私もいっぱい練習してきました。トレーナーさんや皆さんに支えられて…だから──絶対に負けませんッ!」
トップロードさんがそう言い切ると、オペラオーは嬉しそうにしながらコチラに背を向けてターフへと向かっていく。それに続く様にトップロードさんも出口を上がって行く。
この二人は確かに強い。トップロードさんもオペラオーも、負けられない覚悟を背負っている。けど、私だって──私…だっ…て? ……今…私は何を…この二人に対して何を思って……
二人に続いてターフへ向かおうとした矢先、私の中によく分からない感情が湧いてくる…それと同時に先程のトレーナーさんの言葉が、何度も…何度も私の頭の中で再生される。
“君の心は何て言ってる?”
そんなもの…私には必要ない…必要…ないのッ…
未だ湧き立ち続けるよく分からない感情も、トレーナーさんの言葉も全てを振り払う様に、私は二人より少し遅れてターフへと向かっていった───
ここまで読んで下さって本当にありがとうございます!
下記では一部登場人物の【主人公に対する印象】と【主人公側の印象】を軽く載せております。
・ナリタトップロードさん→アヤベさんのトレーナーさんで《チームノヴァ》を牽引される凄く凄いトレーナーさん。かつてコーナーワークの悩みを改善する手助けをして下さって本当にありがとうございました!
・沖田トレーナーさん→とんでもない手腕を持つスーパールーキー。交友を深めてからはよく情報交換を行う仲。だがレースの勝ちは譲らないぞ? こっちにも先輩としての意地ってもんがあるからな。
・ツルマルツヨシさん→スペちゃんのトレーナーさんで凄い人。彼が学園に提供してくれている機材や食事メニューのお陰で、自分の体質がかなり良くなった事なども含めてとても感謝している。でもスペちゃんには今度こそ勝ってみせるッ!
・南坂トレーナーさん→とても優れた手腕を持つ後輩トレーナー。本格化前のスペシャルウィークにあれ程の活躍をさせた事については、この後輩ちょっとヤバすぎない? と思っている。
《お兄さん側の印象》
・ナリタトップロードさん←沖田さんが担当しておられる凄いウマ娘さんで、アヤベさんのクラスメイトかつライバル。ほんの少し手解きを行っただけなので気にしないで。寧ろそこから一回りも二回りも成長された事が本当に凄い。実はちょっとスペちゃんに似ている気がしている…
(※因みに以前、彼女に手解きを行った事があるとアヤベさんにバレた際には少し呆れられた)
・沖田トレーナーさん←手腕はもちろん人格も含めて尊敬している先輩トレーナーさん。特に愛バがスランプに陥った際の寄り添い方や治し方はいつも勉強させて頂いております。もちろん、レースでは正々堂々と勝負しましょう!
・ツルマルツヨシさん←スペちゃんのクラスメイトかつライバルの凄いウマ娘さん。南坂さんのサポートもあり、キツめのローテーションを乗り越えて身に付けた強さは脅威だと思っている。体質が改善にむかっているみたいで本当に良かった。
・南坂トレーナーさん←並み居る先輩方同様にこちらも尊敬している先輩トレーナーさん。ただ過酷なローテーションでも担当愛バに怪我をさせる事なく、しっかりと経験値を積ませて強くする手腕が凄すぎて…貴方のほうがヤバいのでは? と思っているのは内緒。(←お前らどっちもヤベェよ)