「あれ……ここ、は……」
深いまどろみから目を覚まして、私はゆっくりと思い瞼を押し開けた。
「アリウス自治区の廃墟よ。地下墓所ならもう抜けたわ」
ハッとして私が視線を横に向けると、そこにはミフユが刀を抱えるようにして腰掛けていた。
アリウス自治区。かのベアトリーチェが巣食うとされる、かつてトリニティから排斥され忘れられた土地。いつのまにか周囲には夜の帷が下りていて、その風景はほとんど視認できなかった。ただ、ミフユが用意したであろう焚き火の暖かな光だけが、座り込むミフユと横になった私を橙色に照らしている。
「また気絶してしまったんですね、私……うぐっ……」
「まだ下手に動かないで。あなたの驚異的な回復力でも、そのレベルの怪我から立ち直るのには時間が足りてない。本来なら今すぐ病院のベッドにくくりつけて一ヶ月は安静にさせたいくらいよ」
「いえ……もう、休んでいる暇は……」
「だから、休めって言ってるでしょう。今のあなたがベアトリーチェの前に立ったところで、何もできずに殺されるのがオチよ」
ミフユに淡々と諭されてしまい、その言葉がどうしようもなく正しいと知ってはいたものの、それでも私は反論せずにはいられなかった。
心中を埋める焦燥感が、なんとしてもベアトリーチェへの到達を急げと叫んでいたからだ。
「止めないでください、ミフユさん! 私には、先生に代わってベアトリーチェを倒す義務があるんです! 私のせいで、色々な生徒が騙されて……先生も傷ついて、だからっ……!」
ぐぐ、と刀を杖にして立ちあがろうとする私の目の前に、ミフユが無言で立ち塞がった。
言葉で聞かないなら力づくで止めるとでも言いたいのだろうか。
思わずキッとミフユの顔を睨もうとした瞬間、聞いたこともないような大声が廃墟に響き渡った。
「このッ……おばか!!」
「ぶっ!?」
次の瞬間、垂直に落ちた何かが思い切り私の頭を打ち据えた。
その正体が真っ直ぐにしたミフユの手のひらであり、つまり私はチョップされたのだと理解するよりも早く、ミフユから猛然と言葉が飛んできた。
「私がどれだけ心配したと思ってるの!? ついさっきあなたを守るのも夢の一部だって言ったばっかりでしょうが! ええい、あなたに遠慮してたけれどもう我慢ならないわ。今すぐそこに正座して黙って私の言うことを一から百まで耳に入れること!」
「うぇ……あ、えっ? えっ?」
なんというか、雰囲気が全然違った。いつもの容姿端麗で冷静でかっこいいミフユが、まるでご家庭のお母さんじみた顔つきだった。
もしかして、コフユのような身内に対してはこんな対応をする事もあるのだろうか。だとすると、私は初等部の女の子にお説教する時と同じ態度で接されている? それはそれで嬉しいような悲しいような、いやどちらかというと情けなさの方が勝る。
そんなよく分からない思考をしているあたり、相当私は混乱しているようだ。そんな私(とはいえしっかり正座はしている)を差し置いて、ミフユは眉間に皺を寄せて続ける。
「第一に、一番あなたに言うべきことを伝えるわ。あたなは必死になって、先生の代わりだのなんだのと言っているけれど……そもそも、あなたに「先生の代わりを果たす」なんて責任があるの?」
その言葉を聞かされた瞬間、私は思わず呆気に取られて沈黙してしまった。
だってそれは、私がここまで突っ走ってきた理由を全て否定するかの如き言葉だったからだ。
「な、何を言うんですか……? ベアトリーチェの企みを全て知る人は存在しません。それに、私には先生を守れなかったうえ、キヴォトスに混乱を招いた落ち度だってあるんです。彼女を止める責任は、私にあるに決まってるじゃないですか!」
「いいえ。あなたが背負おうとしている責任は、元を正せば先生という一人の大人が担っていたモノでしょう。あなたの知る先生は、その「大人の責任」を生徒にまで引き継がせるような人間だった?」
「そっ……それは…………」
思わず閉口してしまう。
先生はかつて語っていた。大人として子供を守り、先生として生徒を守ることが己の責任であり、それから逃げる訳にはいかないと。
だが同時に、それは大人の背負うべきモノであるとも先生は言っていたはずだ。
「大人の責任を一人で引き継ぐ義務なんて、最初からチハヤにはないの。だって、私たちはまだ
「未熟な……子供……」
その言葉は、やはり以前の私がミフユに告げた言葉だった。
少し前にミカと相対した時、ミフユは私が色々なものを忘れてしまっていると言っていた。過酷な現実に追い詰められ、心をすり減らしたその果てに。
確かに──私はずっと、意図的に深く思考するのを避けていたようにも思う。冷静になって今の状況を俯瞰したら、どこかで心が折れてしまいそうだと思ったから。
でもそれは、己の信念や大切なものにも目を向けず、ただ目的のために行動するだけの機械と何も変わらない。私はロボットでもなんでもないのだから、その歪みがいずれ致命的な結果を招くということは自明だったのかもしれない。
「じゃあ……私は……未熟で無力な子供の私は、もうどうしようもないんですか? 先生の代わりになることもできずに、黙ってベアトリーチェが世界を崩壊させる様を眺めていろと言うんですか……?」
そうして──ようやく絞り出した声は、ひどく震えていた。
自分でもひどく意地悪な問いを投げかけていると自覚している。こんな問いをしたところで、私が考えを誤っていたことは変わらないのだから。
それでも自分は無力だから何もできないなんて事実を認めたくなかった。こんなにボロボロになっとも、私はまだ私を信じていたいらしい。
だがミフユは、私がそう考えることも最初から知っていたかのような顔で平然と口を開いた。
「そうは言ってない。だから、私がここに来たの」
「ミフユさんが……ここに、来た理由……? それは……自分の夢を守るため、なんじゃ……?」
彼女の抱える夢は、ミカの目の前で話した通りのものだ。天姫ヶ峰の生徒会長として、大切な学校を、生徒を、あまねく脅威の全てから守ること。彼女の「守る対象」には一生徒である私も含まれていて、だからミフユはミカという絶大な脅威にも臆する事なく立ち向かってみせた。
「まあ、それもあるけどね」
だが、どうやらミフユを動かした原動力はそれだけではなかったらしい。
彼女は寧ろそっちはおまけだ、とでも言いたげな様子で爆ぜる焚火の炎を見やった。
「生徒を、そしてこの世界を守るっていう、あの大人が抱えてる責任は……きっと、私たちのような子供が一人で背負い切れるようなものじゃない。私なんて、学校一つをなんとか守るので精一杯なんだもの。でも、その重荷を一人で背負わなければならないなんて決まりはないはずよ」
私たちの未熟さを認めたうえで、それでも私たちに選べる選択肢があるとするのなら──、
「たとえ、私たちが未熟な子供だったとしても。二人なら、なんとか背負い切れるかもしれないでしょう?」
ミフユは優しい視線を改めてこちらに向けて、優しい笑みを浮かべてみせた。
「私……は…………」
呆然とその顔を見つめながら思い出す。
私がこの旅を始めた時、私は真っ先にスマホの電源を切ってあらゆる連絡手段を捨てることにした。
それは親しい人をこれ以上の危険に巻き込みたくないからでもあり、友人が私のような犯罪者の仲間と誤解されるのを避けるためでもあり、付け加えれば逆探知されたりといったリスクを防ぐためでもあって。
けれど、そんなのは全て後付けの理由だった。
本当は、みんなと顔を合わせるのが怖かったのだ。
これまでに戦ってきた生徒たちは、そのほとんどが私と面識のない人物ばかりだった。だからどんなに憎悪を向けられても、銃弾を浴びせられても、私は戦い続けることができていた。
けれど、私の
そんな恐ろしい妄想に囚われたからこそ、私は逃げるようにスマホの電源を切ったのだ。モモトークの通知すらも怖くなって、自分から耳と目を塞いで逃げたのだ。
「私は……ミフユさんの言う通り……馬鹿ですね」
自分の失敗の本質をようやく理解して、私は掠れた声で呟いた。
なんて情けないんだろう。
疑心暗鬼に負けて、友人たちを信じることもできずに一人で暴走して。最初から私を信じてくれる誰かに助けを求めていれば、こんな結果を産むことなんてなかったかもしれないのに。
私は私以上に、誰かを信じるだけの勇気を持てなかった。
「私は、失敗して……これ以上、みんなに失望されたくなくて、憎まれたくなくて……誰かと会うのが怖くなって……! ミフユさんは……最初からっ、私のことを信じてくれてたのに……」
「……うん」
「ごめんなさいっ……! ごめんなさい、ミフユさん……!!」
私はミフユの胸にしがみつくようにして言葉を吐きながら、みっともなく嗚咽を溢した。
「……いいえ。謝るのは私のほうよ、チハヤ」
そうして、どれくらいの時間が経った頃だろうか。
暫くしたあとに、ミフユはぽつりとそう呟いた。
「だから、ごめんなさい。さっきは偉そうなことを言ったけど、あなたを独りにしてしまった原因は私にもある……と、思ってる」
「え……?」
「その……灯篭祭でした「約束」のこと、覚えてるかしら。お祭りの最後に灯籠流しをするから、その時に話したいことがあるっていう……」
思いもよらない言葉にはっと顔を上げると、ミフユは珍しくばつが悪そうな顔で目を伏せていた。
彼女が言う約束のことは、もちろん覚えている。
数日前にも関わらず遠い昔のようにも感じてしまうが、百鬼夜行灯篭祭の際にミフユはとある約束を私に持ちかけた。それは別に重大な事柄でもなんでもなくて、ただ二人で話したいことがあるというだけの内容だったのだけれど、それでも彼女から灯籠流しに誘ってくれたことは嬉しかった。
もっとも灯篭祭は花鳥風月部の事件、そしてベアトリーチェの襲撃によってメチャクチャになってしまって、約束を果たす機会も失われてしまったのだが。
彼女は無意識なのかくりくりと前髪を指で弄りながら、
「えっと……その……あなたが私を置いて一人で姿をくらました時ね。当然、あなたのことがとても心配だったけれど……同時に、この事態は私の責任でもあると思ったの」
「ど、どうしてですか?」
「あなたも薄々察していたと思うけど……私は、あなたとの距離感をずっと……その、測りかねてた。だから変な距離感ができてしまって、頼るべき時に頼れなかったんだって……そう思ったの」
ミフユは見たこともないほど肩を落として、深く息を吐いた。
その姿に、何が言葉を吐くよりも先に驚きがきてしまう。さっきの説教モードの彼女も見た事がなかったけれど、こんな風に落ち込む姿も見るのは初めてだった。
私が知る彼女は、いつも冷静でかっこよくて──でも、それは雪峰ミフユという少女の一側面でしかなかった、のかもしれない。思い返してみると、たまに様子が変になる時もあったりしたのだし(大概は妹が絡むタイミングで)。
「情けない話よね、学校を背負う生徒会長がコミュ障とか……私はもっと、あなたに勇気を出して踏み込むべきだったのよ。ちゃんとコミュニケーションを取って、信頼関係を築けていたら……あなたが変に一人で背負い込んで、こんなに傷つく必要もなかったのに……」
「────────……」
話しながらどんどん顔が暗くなっていくミフユを見て、申し訳ないけれど私はくすりと笑ってしまった。
愕然とした表情でこちらを見つめてくるミフユを見て慌てて笑いを噛み殺しながら、深呼吸して呼吸を落ち着かせる。
「謝る必要はありませんよ、ミフユさん。それは……きっと、ミフユさんだけじゃないですから」
「それは……どういうこと?」
「私も同じなんです。私も……ミフユさんが急に転校してきた私に戸惑っているのは薄々分かっていたのに、自分から声をかけられませんでした」
彼女が私とのコミュニケーションに悩んでいたと言うのなら、私だって同じ事を思っていた。
それだけではなくて、私はどこまで踏み込んでいいのかとか、変に馴れ馴れしくしたら迷惑かなとか、そんな色々な事を考えて。結果的に、雪峰ミフユというたった一人の同級生について、多くのことを知らないままに過ごしてきた。
実際、私はいま彼女が見せてくれたいろいろな姿を今日に至るまで知らなかったわけで。
「私は……中学の頃はいじめられて不登校児でしたからね。その、私も決して人と距離を詰めるのは得意じゃないというか……とにかく、踏み込めていなかったと言うなら、それは私もです」
言い訳じみた枕詞がついてしまったけれど、とにかくミフユ一人の責任にしてしまいたくはなかった。
会話が途切れて、ぱちぱちと心地良い音だけが響く。
だが、この沈黙は別に不快なものではなかった。私たちは互いに互いをまだまだ知らなくて、この沈黙はその事実とこれからの事を噛み砕くための有意義なものであると、無意識に悟っていたからだ。
暫くその沈黙を噛み締めたあとに、私はぽつりと呟いた。
「私、ミフユさんのことはずっと憧れてて……同じ生徒っていうより、私にとって特別で唯一の人だと思っていたんですけど……そんな事は、なかったのかもしれませんね」
「そう言われてみれば、確かに思い当たることがあるわ」
「え、なんですか?」
私がミフユの方を見ると、彼女はどこかジトっとした瞳でこちらを見つめていた。
「……あなたって上級生でも構わず呼び捨てにするのに、私だけはずっと「さん」付けで呼ぶわよね」
あ、と思わず声が漏れてしまった。
言われてみれば、確かに私はミフユのことを呼ぶ時に必ず敬称をつけている。
その原因はきっと、私がずっと昔にミフユの姿を見てサムライに憧れたことにまで遡るのだろう。こうして同じ学校の生徒になった今でもどこか師匠みたいに捉えているというか。とはいえ、改めて指摘されるまで気が付かなかったなんて──、
「「────……ふふっ」」
淋しく人気のない地下墓地に、雰囲気にそぐわない笑い声がふたつ響いた。
こうして笑ったのはいつ以来だろう。目尻から溢れる涙はとうに悲しみによるものではなくなっていた。ひとしきり二人で笑ってから、ミフユはこちらを真剣な瞳で見つめる。
「……チハヤ。あの夜に言えなかったことを、ここで伝えてもいいかしら」
こくり、と頷く。
彼女がずっと何を言いたかったのかはもはや薄々勘付いていて、寧ろ私から言えなかったことを申し訳なく思いつつも、それでも彼女の言葉を待つ。
「あなたが、かつての私を許してくれるなら……そして、私を受け入れてくれるのなら……」
ミフユはぎゅっと瞳を瞑り、一世一代の告白でもするかのような緊張ぶりで、それでも辿々しく言葉を紡いだ。
「私は……あなたの友達になっても、いいかしら?」
今更考えるまでもない。
その問いへの答えは、とうの昔に決まっていた。
◆
アリウスの
そこは、寂しさと静けさが形を成したかのように色褪せた空間だった。
崩落した階段や柱が転がり、天井からはカーテンだったものの切れ端がぶさらがっている。かつては荘厳な美しさを誇っていたのだろうが、長い年月によって全てが風化して崩れていた。
ただ、不気味な色彩の光が差し込むステンドグラスだけが、完全に近い状態で残されていて──その光を浴びながら、異形の人影が私たちを待ち構えていた。
「ようこそ、我が至聖所へ。てっきり一人でここまで辿り着いたと思いましたが、途中で
正面から踏み込んだ私たちを歓迎するように、ベアトリーチェは両手を掲げて出迎えた。
だがその片手には、かつて見た通りに漆黒の剣が絡みついている。神秘を殺す最悪の兵器。その武器が放つ異様な重圧と本能的な恐怖感に、私は無意識に刀の柄に手をかけた。
「ですが、褒めて差し上げましょう。まさか本当に、この短期間でここまで到達するとは思っていませんでした。あなたの力量を見誤っていたようです」
そんな私を無視して、ベアトリーチェはぎょろりと蠢く目玉で私の全身を眺める。
「とはいえ……その痛々しい姿を見れば、手に取るように分かります。八重垣チハヤ、あなたがどれだけこの世界に傷つけられ、苦しみ抜き……そして、どれだけの純粋無垢な生徒をその手で斬り伏せてきたのか!」
「────────」
「ふふ……ふふふふふ。あの大人が担う責任を凶器に転用する方法は、これ以上ないほどに効果的でした……本当に面白い喜劇を見せてくれましたね、八重垣チハヤ。あなたはまさしく聖園ミカに匹敵するミューズと言えるでしょう。互いに憎しみ合い、傷つけ合い、自ら地獄を深めてゆく……この世界の本質を、ヘドロのように醜いこの世界の在り方を、その身で示してくれたのですから」
どうやら。
ベアトリーチェの本当の狙いは私を足止めすることでも、別の犯人に仕立て上げて姿をくらますことでもなかったらしい。
その本質は先生への悪辣な意趣返しだ。大人の責任を生徒が担わざるを得ない状況を生み出し、その責任の重さをもって守るべき子供を抹殺する。もしそんな企みが叶っていれば、確かに先生の心へ二度と消えない傷を刻むことだってできただろう。
思わず、怒りで脳天が真っ白に染まりそうになる。
「どうですか? この世界の本質に触れて、あなたの考えも少しくらい変わったのでは?」
私が莫大な憤怒にかられていることも把握しているだろうに、ベアトリーチェはなおもそんな問いかけを私に投げかけた。
もはやこの女と問答するのも億劫だ。
私は無言のままに刀を抜こうとしたが、しかし私を庇うように一歩前に出た影があった。
「ベアトリーチェ。あなたの主張は聞かせてもらったわ。確かに、私にはあなたの言わんとするところが理解できる」
「ほう? あなたについて、私は知りませんが……どうやら、少しは聡明な生徒もいたようですね」
私の代わりに口を開いたのはミフユだった。
心まで絡みとるような不快な視線が、私からミフユへと移るのがわかる。
それまで、奴はミフユのことを計画に混じったノイズくらいにしか思っていなかったのだろう。だが今、彼女の興味は明確にミフユへと向けられた。奴の興味関心を大切な人に向けられるというのは不快極まりなかったが、しかしミフユは平然とした様子だ。
いつも通りの毅然とした顔で、彼女は異形の女に言葉を返す。
「互いに憎しみ傷つけ合うことを世界の真理とするあなたの言葉は、ある側面では間違いなく本質を捉えているわ。かつて、私もこの子に同じことをしたから」
ミフユは頭の微かな動きでこちらを示し、何かを思い出すようにゆっくりと言葉を続ける。
同じこと、と彼女は言った。
確かに、私たちはかつて互いに争った。あの箱舟の上で互いの武器をぶつけ合って、血まみれになるまで傷つけあった。そんな過去を有する私たちだからこそ、ベアトリーチェの言葉を全て一概にデタラメだと切り捨てることはできない。
「あなたが言った通り、私たちのような子供は未熟で愚かよ。すれ違って、何度も選択を誤って……間違って、憎しみを抱いて、無為に傷つけ合うこともある。私がかつて彼女に刻んだ傷は、今になっても消えたわけじゃない」
思わず、頬に一筋入った薄い傷跡を指でなぞってしまう。
深く悔いる過去を全て言葉にするのは、ミフユにとって耐え難い痛みを伴う行為だったはずだ。自分の罪禍を真摯に認めて言葉にするなんてことは、きっと大人でも難しい。たとえ私が彼女を許していたとしても、それでミフユの罪悪感が消えるわけではないのだから。
けれど、その凛然とした瞳に揺らぎはない。
ミフユは痛みに耐えながら、ベアトリーチェを睨みつけてこう言った。
「それでも……それがこの世界の本質だって言うのなら、あなたはきっと間違っているわ」
自らの言葉を真っ向から否定する結論を予想していなかったのか、ベアトリーチェの顔が不快げに歪む。
「なぜですか? あなたもかつて、そこの八重垣チハヤを傷つけた一人なのでしょう。どんなに取り繕ったところで、過去は永遠に不変なるもの。結論を変えて逃げたところで、犯した罪は変わらない。それでもあなたは、その主張が自らの罪悪感から逃れるための戯言ではないと証明できますか?」
「ええ、できるわ。だって──……」
不快げな表情を見せるベアトリーチェとは相対的に、ミフユは微かに笑みを浮かべて、
「私はそれでも、この子の友達になれたから」
黒々とした主張を跳ね除ける一つの答えを、ベアトリーチェに告げてみせた。
「友、だち?」
ベアトリーチェが、まるで理解できない存在を前にしたかのように頭を不気味に捻る。
けれど、ミフユは最初から理解なんて求めていない。これは最初から対話なんかじゃない。ただ自分の信念を言葉にして、刀を振るうに足るだけの原動力を再確認する、いわば宣戦布告みたいなもの。
だから。
目の前の女が理解不能な狂人を見つめる様な瞳を向けてきても、ミフユはくすりと笑っただけだった。
「たとえ憎しみあっても手を取り合える。傷つけ合っても寄り添える。
彼女はそう言い切った。
私たちのような子供は失敗ばかりだ。喧嘩して傷つけあって、矛を収めても変な事ばかり気にしてギクシャクして、また言葉をぶつけ合って、みっともなく泣いたり怒ったりして。
でも、その失敗を糧にして私たちは前に進んでいく。
ここに立つ私たちが友達になれたように。
ベアトリーチェがどんなに憎悪と不和を語っても、それより大切なもので結び付いた私たちには通用しない。
「つまるところ、結論を述べるなら」
氷が鳴るような美しい音を立てて、ミフユは鞘から刀を抜き放ち──、
「ここに立つ私たちの存在こそが、あなたの主張に対する反証になる。これが私の答えよ、ベアトリーチェ」
その言葉とともに、刀の切先を突きつけてみせた。
長い、長い沈黙があった。
至聖所に、私たち以外に物音を奏でるモノなどいない。この空間はどこまでも空虚を突き詰めている。故に、誰もが無言である以上その沈黙は当然の帰結だ。
沈黙の間、目の前の巨躯は小刻みに震えていた。
肩どころか全身を震わせて、その口端を歪めながら。本当に面白いものを見たといった様子で、しかし矛盾するような憎悪に瞳をぎらつかせて。そして、
「く……くはっ、あははははははははははっ! ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」
高らかな嘲笑が、私たちの鼓膜に突き刺さった。
おぞましき敵対者はその捻れた身体をさらに捩って、心の底から可笑しいといった様子で笑い声を上げる。
「くだらない、あまりにもくだらない! 友達、友情、そんなものが憎悪や憤怒に勝るとでも!? まさしく子供らしい、なんとも理想論極まった意見です! そんなものを獲得したところで、この世界は何も変わらな」
ベアトリーチェの言葉は、しかしそこで途切れた。
────ずずんっっっ!!!!!と。
腹の底に響くような轟音と共に、広々とした至聖所全体が大きく揺さぶられたからだ。
パラパラと細かい瓦礫が床を叩き、積もった埃と土煙が混じり合って薄い白煙をたなびかせる。至聖所とやらを構成する巨大な石柱が、真っ二つに斬り裂かれて斜めに崩れ落ちたのだ。
「いい加減に黙ってもらえますか、ベアトリーチェ」
こつん、と足音を立てて私は前に踏み出した。
石柱を瞬きの間に切断した「彼岸白雪」の切先を翻して、ベアトリーチェの喉元に突きつける。
もう、その腐った言葉に興味はない。
言いたいことは、口下手な私の代わりに私の友人が全て言い放ってくれた。ずっとずっと鬱屈していた心の靄がようやく晴れた心持ちだ。
「あなたを許すことはできません。あなたは先生を、そして先生を慕う多くの生徒たちを騙して傷付けた」
「言葉の代わりに、この刀で教えてあげるわ。この世界の本質とやらは、決してヘドロみたいに醜くなんかなくて……あなたが思うよりもずっとずっと、透き通っているんだってことを」
目に見えるきっかけなどなかった。
もはや言葉は不要と三者全てが悟ると同時に、轟然と瓦礫を引き剥がすほどの烈風が巻き起こった。
ベアトリーチェの巨躯が不気味に蠢き、その全身から絶大な殺意が発せられたのだ。ビリビリと空気を痙攣させるその威圧感に晒されながら、私とミフユは同時に刀を構え直す。
「面白い」
向けられた切先の煌めきに呼応するように、ベアトリーチェはゆっくりと黒々とした大剣を構えた。ステンドグラスから差し込む逆光を浴びて、そのシルエットは黒よりも黒く染まり切っている。
この世界に存在する中で、恐らくは最悪の兵器。
けれど、私たちだって反則級の兵器を携えている。どちらが最後に立っているかは、やってみなければ分からない。
いいや──分からないではなく、必ず勝つ。
「愚かな子供を言葉で諭すほどの暇はありません。その思い上がりを、絶望の死で覆い尽くしてさしあげしましょう」
殺意にぎらついた瞳を睨み返して、ミフユはただ一言を呟いた。
「始めるわよ、チハヤ」
「ええ、終わらせましょう──
全ての因縁を断つ時だ。
ベアトリーチェの膨れ上がった体躯が私たちめがけて殺到すると同時、二振りの刀がぎらりと輝く。
ここに、最後の戦いが始まった。