月。地球の衛星。夜空に浮かび、金色に光り続ける小さな丸。
地球と木星との戦いでは、随分前から最前線で有り続けている。
……それこそ、ナデシコが火星から戻ってきた時にはもう。
大体の目安として、地球に向いてる側が連合軍の勢力圏。
地球から外を向いている側が、木星トカゲの勢力圏のままである。
小競り合いで多少は変動するが、膠着状態といって過言でない。
ま、着々と地球側が領地を剥ぎ取っていってもいるんだけど。
ただ、このペースが続くとなると、何時まで経っても終わらない。
何時かはきっちり白黒をハッキリさせる必要が出てきていた。
――そして、そのタイミングがようやく訪れた。
木星トカゲも、有人戦艦や有人兵器の運用に遂に乗り出し始め。
今を逃せば、月全面を攻略する機会は中々訪れないだろう。
月方面軍の第二艦隊は月面フレームと新型戦艦を大量に投入。
現在、かなり総力を込め、月裏面の最終攻略を行っているのだが。
そんな中で、このナデシコにも一つの役割を任されたのである。
ナデシコに託された役割は“主砲”。敵艦隊の殲滅役である。
Yユニットにある、相転移砲というシステムによる攻撃だ。
設定された空間を強制的に相転移、フィールドでも防げない。
ボソン砲が木星トカゲ側の必殺兵器なら、こちらは相転移砲。
勿論、汎用性や範囲といった大きな差もあるんだけれど。
どちらもフィールドでは防げず、殺意満々という共通点はある。
結局ナデシコは、第二艦隊を囮として背後から忍び寄り。
敵陣後列にある有人戦艦と有人兵器を中心とした敵主力艦隊を。
その相転移砲で一撃する、作戦の要を託されたのである。
この作戦を知らされたのは、作戦実行の80分前で非常に急な話。
役割としては、確実に対人相手にオーバーキルの砲撃なんだけど。
案外誰からもNOという声は聞こえず、静かに実行に移され始めた。
……いや、それになんら問題があるとは思ってないんだけど。
流石に意外だなとは感じた。急で反応が追いついてないのかな。
とにかく、隠密で敵の裏側に回ることから始めたのであるが。
所定の位置まで向かう途中敵別動部隊と遭遇、戦闘となった。
敵ゲキガンタイプ2機に対して、エステバリス隊が出動、撃破。
敵戦艦も接近、ナデシコでなくテンカワ機が対応へと回った。
テンカワ機とアカツキ機が人工的なボソンジャンプを試み。
テンカワ機は成功、アカツキ機は経過観察で危険であると中止。
敵戦艦の元にジャンプしたテンカワ機によってボソン砲を破壊。
正直、有人ボソンジャンプに不安を隠しきれないんだけど。
テンカワさんがやる時には、脳裏に大丈夫だという判定が降りて。
アカツキさんの時は何のデータも思考には飛んでこなかった。
とにかくナデシコはエステバリスを回収後所定位置まで前進。
一時はボソン砲で、一瞬であれど後退を考えた状況からしたら。
邪魔は入ったけど上手くいっている感じではあるんだけど。
俺も作戦行動中ということもあり、念の為IFSは加速せず起動。
意識の移行に掛かる時間を考慮して、中から外を見る感じ。
要は主体を電子の中に、身体をデバイスとして認識するんだが。
――遭遇戦闘終了後、数分も経たない内にクラックを受けた。
何処かからナデシコに侵入した誰かが、俺の世界を埋め尽くす。
速いは速い……けれど、それほど強いやつではないと思った。
だけど、その速さが今の俺にはものすごく相性が悪かった。
IFSユーザーは基本的に攻撃力に振っていて、防御力は高くない。
その上俺は電子に思考を落とし、防衛機制を切っているのだ。
奪われて、最悪消されても身体が死ぬわけではないんだけど。
少なくとも今ここで思考している俺の、連続性は失われる訳で。
出来れば、そう出来れば。あんまりしたくない事ではあった。
とにかく防壁を起動し、どこまで逃げればいいのか周りを見る。
敵攻撃力はやっぱり低く、オモイカネには手出しすら出来てない。
……その割に、何故かYユニットは完全に取られちゃっていて。
Yユニットも防御が甘いわけじゃない。寧ろ機構が単純で堅い。
じゃあ、もしかしたら物理的に取られちゃってるのかしら、と。
そこから俺と、他のIFSの補助電脳が取られてるのを確認した。
灼かれても身体に走る痛みじゃない。神経に走る痛みじゃない。
そうは判っていても、流れる衝撃は俺にとっては現実で。
――抜け出せたその瞬間にも、意識は結局維持しきれなかった。
電子の世界で、何かが起きたんだろうなってのは直ぐに判った。
流石に思考が完全に途切れて、残ったのはバラバラの残骸。
そんな状況だったから、普通に“前の俺”が灼かれたのかと気付く。
ただ、ここまで必死に逃げ出してきてるっていうのは。
もしかして持ち帰りたい情報があったりしたのかなとは思い。
そうでなくても、データがあるからには修復せざるを得ないのだ。
そして、それと関係しているであろう事件も同時に勃発する。
Yユニットの武器管制コンピューターサルタヒコのアクセス異常。
同時に、実際の通路でも高圧電流や重力制御のカットで通れず。
相転移砲を撃つ為にはサルタヒコが動かなきゃいけないのだが。
アクセスを排除されている現状では、そんなのできるはずもなく。
だとしたら、Yユニットから直接制御するしかって話なんだけど。
……いやいや。なんでアクセス拒否されてるのかってさ。
普通にどこかの誰かから手を出されてるってことだと思うんだが。
それも推測するに、恐らくはYユニットの内部からではないか。
だってそうでもなけりゃ、ホシノさんに気づかれずにこんなこと。
俺でも大量のバックアップで、外部から漸く出来る可能性がでる。
なので、内部に誰かいると判断するのが正解じゃないかなって。
中に誰かがいるとしたら、確実に敵が侵入したってことである。
いや流石に、味方が勝手に入って利敵行為とか本当にないですし。
先程の遭遇戦の時に、入り込まれたってのが妥当かな、と思う。
それを提言したところ、戦闘能力があり操作を可能とする人達。
俺と、ホシノさん以外のIFS保持者、詰まるところパイロット組。
彼らが行くことになったのだが、どうも様子がおかしいらしい。
“幽霊が見える”と言いだして、軽い恐慌状態のご様子であり。
その幽霊、ヤマダさんやアカツキさんのお兄さんが見えていると。
ホシノさんや艦長まで言い出したので、これはまたアレである。
俺のデータが壊れてる件も含め、推測されるにIFS障害かなと。
正しくは調べないと判らないけど、クラックによる影響だろう。
軽い認識障害だから、それほど影響はないと思うんだけども。
こういう時に解説しにくるイネスさんも、特に何も言わないし。
俺の言葉を聞いた艦長指示により、パイロット組はYユニットへ。
テンカワアカツキマキ組と、スバルアマノカザマ少尉組である。
高圧電流と無重力に対しては、整備班特製自転車で対応。
その他の予測されている障害物、或いは無人兵器には銃器で対応。
ま、どう考えても俺もホシノさんも行けるお仕事じゃないよね。
作戦実行までそれ程時間はなく。ナデシコも前に進むのみ。
パイロット組サポートをメグミさん、ナデシコ管理を他2名で。
残った俺は、状況整理の為にデータの修築に急ぐわけである。
まあ、俺自身がどうして壊れかけになって戻ろうとしたのとか。
持ち帰ろうとした情報に興味があるってのも確かなんだけど。
それと同じくらいに、一応自身の連続性を保つ必要を感じもする。
あんまりぶつ切りが続くと、なんか身体と精神に悪そうだしね。
そんなことを考え、Yユニットに進むパイロットを見ながら。
俺はどうにかしてバラバラになったコードを繋いでいくのである。
そのパイロットの皆さんも。
なんだかテンカワさんの口調が、何時もよりも勇ましかったり。
アカツキさんがちょっとなよってして賭とか言い出しちゃったり。
スバルさんが弱々しかったり、アマノさんが静かだったり。
マキさんはいつもおかしいが、方向性が若干変わっていたり。
特におかしい様子でないのは少尉ぐらいのものであったりした。
――んで、一通り元の記憶に近いと思われる所まで修復すると。
その理由がなんとなくではあるが、判ってきたりするわけで。
まずは、状況について報告することを当然優先することにした。
つまり、Yユニットが無人兵器に物理的に乗っ取られており。
その際にコミュニケ経由でIFSの補助電脳が奪われていて。
みんなの認識障害と俺のデータクラッシュはそれで発生したと。
「――皆さんの人格も。
これが影響してるっぽいですねぇ」
「どんな風に?」
「IFSの人格防衛機制が取られたので。
……普段は表に出してない性格が出てる感じ?」
本体、もとい本物の脳についてる防衛機制は取られてないが。
普段より一枚上着を脱いでいる状況と言えば、そうかもしれない。
それでも普通の人と同じ状況になっただけなのではあるけども。
テンカワさんは、本来的に割と暴力的というか。男の子だしね。
オドオドしているアカツキさんは、普段は虚勢もあるのだろうか。
スバルさんもそういう仮面というか、素振りをしてるんだね。
元々考えてしまう感じなのを、アマノさんは勢いで単純化して。
いつもよりちょっと普通なマキさんは、狂人の振りかもしれない。
変わって見えないホシノさんは……まあ裏表がまだないのかね。
「……それにしてはぁ。
イツキちゃんは変わってないけどぉ?」
「そう、ですねぇ。
少尉はあんまり変わられてないかも」
ん、ミナトさんに言われて考えてみると、確かにその通り。
少尉からは、いつもと余り変わったような様子は見受けられない。
いつもと同様に、真面目に静かに奥へと進んでいる感じである。
まあ、他にいるのが弱々しい乙女スバルさんと悩みアマノさん。
引っ張るようにひたすら前に進んでいるが、進み具合は微妙である。
なんだかんだで威勢のいいテンカワ組の方がより早く進んでいた。
……特に何もなければ、それはそれでいいんだけどさ。
何かあるなら困っちゃうので、確認しておこうかと結論が出た。
そこで手が空いた俺に回ってきたので、ウィンドウを開く。
「少尉、IFS異常ですけど。
何か自覚されてる症状はありますか?」
「……タキガワさん?」
「はい俺です。
何かあったら早めに言ってくださいね?」
自転車に乗ったまま、進行方向斜め横のウィンドウの俺を見て。
カザマ少尉は、どうも少しぼんやりとした視線を向けてきた。
それを見て体調が悪いか、それとも何か影響が出てるのではと。
しかし先程からの動きを見る限りは体調も判断力も悪くなさそう。
てきぱき動き、他の二人を先導する様子はいつもと変わらない。
だけど自覚症状次第では、一人だけ戻らせるのも選択肢の内だろう。
その少尉は「じゃあ言わせてもらいますけどぉ」とのんびり言う。
いやいや君そんな口調だっけと思いながら、俺は言葉を待つ。
……なんだろうか、形容し難い嫌な感じを何処かに感じながら。
「なんでぇ、私を少尉って呼ぶんですかぁ?」
「……いや、階級ですし。
っていうかそれ今関係ないですよね?」
「他の皆さんはイツキと呼ぶのにぃ。
あなただけ私を少尉って呼ぶんですよぅ」
やべえ話が通じねえ。っていうかやばい方向に何かがまずい。
なんかスッゲェ、喋り方が柔らかいっていうか、間延びしている。
いつもの軍人らしいカッチリとした口調はどこに置き忘れたのだ。
「線引かれてる感じがして寂しいです。
あなたもイツキって呼んでくださいよぅ」
「いや、それは」
……ふむ。推測されるに、真面目と冷静部分が薄まってしまって。
その分を甘えたがりな女性成分が前面に出てきた感じだろうか。
表情は問題なく、行動も見る限りは平時と同じで、口調と思考か。
いや、冷静な分析はともかくとしても。この場でそれはまずい。
別にイツキと呼ぶこと自体には言われりゃそうする程度だけども。
何がまずいってここはブリッジ、明らかにまずい人達が見ている。
「あらぁいいじゃない。
イツキちゃんもトオルって呼んだらぁ」
「お揃いでいいですよねー」
そうミナトさんとメグミさん、この二人に見られたい光景ではない。
いや、別に恥ずかしがるようなことはしてないしされてもないが。
っていうか、それ以前に二人のことも名前で呼んでいたりする訳で。
「――わっかりました!
イツキさんと呼べばよろしいですね?!」
「私もトオルさんってぇ」
「呼んでくださって構いませんので!」
別に呼びたくなくも呼ばれたくなくもないんで、本当に。
それよりも、なんかニヤニヤと見られることの方が普通に嫌なんで。
色々と勘弁して欲しい。俺は人に好奇心で見られるのに慣れてない。
正直、取り敢えず大丈夫そうだというか。症状の内容は判ったし。
何かあったら報告をお願いしますと伝えるだけ伝えて、切った。
話している間にも前に進んではいたし、おそらく大丈夫であろう。
……それにしても本当になんなのだ。余に何を求めているのだ。
その程度のことならば、別に普段でも言えばいいだけのことだろう。
それなりに話すのだから、呼び方くらい何時でも変えられるのに。
気にしてたんだとは思っても、気にされてるんだと思い上がる程。
そこまで自惚れても勘違いするつもりもないけどさ、なんとも。
こう、好奇心の目で見られることの辛さを、ほんのちょっと実感した。
――予想通り、Yユニット中枢に無人兵器はぴったり張り付いていた。
無人兵器を奥まで辿り付いたテンカワさんが銃撃によって撃破。
作戦も、相転移砲の一撃によって脱出者多数だが範囲内全て撃墜。
奥に辿り着くまでに、色々な幻覚を引き続いて見たようだけど。
俺は見てないし、パイロット陣もそこには触れて欲しくなさ気で。
ま、そういう様子ならそこまで深く突っ込むことでもないだろう。
イネスさんも、色々と終わってから解説のためブリッジにきた。
みんなのいつもの人格は中で記憶麻雀とやらをしてたとのことだが。
そこに、イネスさんと艦長がいた理由については一切不明であると。
……というか、巻き込まれてたんですねって感じなんですけど。
道理で、いつもと違って俺が状況予測を解説するはずである。
そういやぁメンタルチェックの時も、一切話に出てこなかったなぁ。
ともかく、そんな感じで事後ながら色々とイネスさんが解説し。
みんながそれぞれの持ち場とか、休憩に以降とする中で。
俺は一人の背中をキョロキョロと探し、走りよって呼び止めた。
「イツキ・カザマ少尉」
「……タキガワさん」
あ、トオルさんじゃないんだ。まあ俺はどっちでもいいんだけど。
無人兵器の撃破で、俺以外のIFS所持勢と艦長とイネスさんは平常に。
記憶麻雀とやらの記憶と、その間の現実の記憶を持っているらしい。
勿論、俺がここでフルネームに階級で呼び止めたのもその関係。
あの時正気を失ってた訳じゃなくても、平常でなかったのは事実。
そんな時にした約束を、果たして守ってほしいかって話なんだけど。
どうしてか、少尉は俺の顔を見ると顔を引きつらせて逃げようと。
背中を向けてしまったので、思わず服の裾を軽く掴んでしまった。
ピンと張られた化学繊維。少尉はゆっくり俺を伺うように振り向き。
「――イツキさんって呼べばいいですか。
それとも、少尉のままで良かったですか」
「…………し、知りませんッ!」
俺の純粋な質問に逃げ出すように、というか走って逃げていった。
……ええと、なんだろうなぁ。取り敢えず面白いとは思うけど。
呼び方ぐらいなら恥ずかしいことでもなんでもない気がするんだが。
ん、それとも、あの時のあの口調のことだったりするのかな。
あれはあれで平常時じゃなかったんだし、仕方がないのではないか。
寧ろあの口調でも理性はちゃんとあったみたいで、びっくりだ。
どうしたもんか、と結局置いていかれて途方にくれた俺に。
いつの間にかニヤニヤと複数の視線が送られてきたので、逃げた。
……次からは、本当にどっちでお呼びすればいいのかな、困った。