オリンピックの開かれぬまま2020年が過ぎ去り、クレタ島における電撃的侵攻から一週間後、凄まじい奮戦を見せたトルコ・ギリシャ両国の陸軍将兵の活躍により、早くも全島の制圧が終わろうとしていたその日、久遠はヴィルヘルムスハーフェンのEU海軍統括参謀本部を訪れていた。
「…本当に良いんだな、久遠大佐?」
「ええ。もう日本海軍の次席大元帥には話を通してあります。もうあの国に戻ろうと、私の立場は変わりはしないでしょう」
目の前のデスクに腰掛けるのは、イタリア海軍中将であり久遠の元上司でもあるあのヴィルジニオ・フォスカレーリ。左手には書類を、右手には新品の准将の階級章と、EU海軍の十二個の星で錨を囲んだエンブレムの徽章を手にしている。
「わかった。宣誓文は覚えてきたか?」
「はい。ラテン語は流石にしんどかったですね」
軽口を叩く久遠を厳しい目で見やったフォスカレーリは、暫し瞑目したのちに、重々しく口を開いた。
「汝リュウジ・クドウ、貴官はこれよりヨーロッパ連合軍事参謀部海軍の軍人となり、軍令の命ずるままに兵を率い、軍令の命ずるままに祖国を見捨て、共同体の運命に殉ずる義務が生じる。その上で、ここに問う。
貴殿はヨーロッパ連合海軍への忠誠を誓うか?」
フォスカレーリは、デスクの上に一冊の本を置いた。毎年更新される欧州戦線の戦死者名簿に手を置いた久遠は、迷わずこう言い切った。
「我、リュウジ・クドウここに誓う。自らの誇りと、敬愛する二人の元上官にかけて、祖国が滅びに瀕しようとも、共同体への忠誠と義務を果たさん事を」
胸元から万年筆を取り出した久遠は、ゆったりとした優美な筆跡で誓約書にサインを書き込んだ。
大佐の階級章を外し、准将の階級章を身につけ、桜と錨をあしらった日本海軍の徽章を外し、EU海軍の徽章を襟元に止める。久遠は、正式にヨーロッパ連合の軍事組織の一員となった。
「さて准将、まずは昇進を祝おう。これは先のオトラント海峡遭遇戦、及びクレタ島奪還作戦における、貴官の奮戦を讃えてのものだ。ここに入っている勲三等ヨーロッパ連合鉄十字も、それに基づくものだな。それと、まだこれは内内示の段階だが、スエズ運河攻略後には、貴官は戦艦アルザスの艦長職に就く。ウォースパイト中将と並んで、ドーリア大将閣下の直卒だ。ドーリア閣下の人使いの粗さはわが軍の中でも有名だ。覚えておくことだな」
「承知いたしました。しかし、閣下が人事部に異動したとは知りませんでしたな。艦隊司令官だった閣下が、なぜこのような場所に?」
艦隊司令官を解任されてから早や二か月が過ぎ、現在フォスカレーリはEU海軍の人事課長職についていた。本来はEU海軍参謀本部の兵站部門で要職に就くはずだったのだが、どうも彼自身がその人事を蹴り、人事課長に収まったらしい。
「そもそも、いくら人材不足の折とはいえ、私のような軍政畑の人間に艦隊司令官をやれなどというほうが無理難題なのだ。私の本分は折衝と調整だからな。今のポストには、十分満足しているよ」
それだけじゃないだろうと久遠は突っ込もうとしたが、人事の不興を買うのはマズいと経験上痛感している。彼は行儀よく黙っていた。
「話はこれで終わりだ。おとなしく艦隊勤務に戻り給え」
久遠は大人しく統括参謀本部を去り、キール市中央駅から出る軍用列車に乗ってアテネに向かうため、ドイツ国鉄のヴィルヘルムスハーフェン駅へと足を進めた。
「……本当に良かったのですか、大淀さん?」
「はい。それが久遠さんの意志ならば、私がとやかく言うことはできませんからね」
偶然にも時を同じくして、はるか東方の横須賀海軍基地のコンクリート岸壁の上で、二人の艦娘が寂しく笑ったことなど、久遠は知る由もなかった。
クレタ島に戻れば、慣れ親しんだ血と硝煙の臭いが久遠を待っている。存外にあっさりと修理を終えた艦隊は、トルコ・ギリシャ両国の協力で、すでに臨戦態勢を整えていた。
「貴官があのクドウ准将か?戦艦棲姫を捕虜にしたとかいう」
「はい。先日付でEU海軍に正式配属されました、リュウジ・クドウ准将です。閣下は…」
「フェズィ・デミレル、トルコ陸軍中将だ。短い間だが、よろしく頼む」
デミレル中将は黒い顎鬚をたっぷりと蓄えた、背丈こそ久遠と同程度ながら比較にならないほど頑強な肉体を持つ男だった。
「こちらこそ、宜しくお願いします。それでは、小官はウォースパイト閣下に招聘されておりますので、これで」
「ああ。長旅で疲れているだろう?クレタ島は良いところだ。ギリシャ行政府との引き継ぎはもう完了しているから、貴官も多少身体を休めると良い。我が共和国としても、貴官には期待しているのだ」
「お褒めに預かり光栄です。ご期待、しかと心に留めておきます」
芳醇なコーヒーとキツすぎないパイプの香りをそこはかとなく漂わせながら、デミレルはゆったりとした足取りで、海軍臨時司令部の反対側にある陸軍駐屯地へと歩き出した。
「ああ言うのをジェントルマンって言うのかね。…ったく、今年で二十七の准将にゃ荷が重いよ」
イラクリオンの澄み渡った冬空に、白い溜息はふうわりと消えていった。
「失礼します、ウォースパイト閣下」
「あら、誰かと思えばクドウだったのね。ひとまず、昇進おめでとう。とりあえず、そこのソファに座って。すぐ紅茶を淹れるから」
紅茶の香り漂う一室で、久遠と同じように階級を進めたウォースパイトは静かに久遠を待っていた。
「閣下、作戦要綱が…って、クドウ大佐殿じゃ無いですか!ヴィルヘルムスハーフェンに行ってたんじゃ?」
「もう用事は済ませてきたのさ、マルコ少佐。それと、もう私は大佐じゃないんだ。そこの所、よろしく頼むよ」
入ってくるなり素っ頓狂な声を上げたマルコも、久遠と同じように階級を進め、佐官になっていた。物動計画を練り上げ、久遠の副官としてイエラペトラ沖海戦における大勝利に貢献した功績を認められての昇進である。
「っと、失礼しました、閣下」
「構わないよ。それより、スヴォーロフ大佐は…お、噂をすれば、と言うやつだな」
「よう、准将閣下。全く、昇進で先を越されちまうとはな」
「そりゃ失礼。だがな、ご生憎様だ。軍歴と積み上げた死体の数だけは俺の方が上なんだ」
続いて、1人だけ昇進を逃したスヴォーロフもやって来た。彼の場合、直接戦闘ではなくあくまでも陽動という役割に徹したのがその原因だった。
「それに大佐は勲一等EU鉄十字と、報奨金も俺より貰っているじゃないか。それも、豪邸一軒が軽く建つくらいのを」
久遠のそれより一回り大きいヨーロッパ連合鉄十字を首元に佩用したスヴォーロフは、その指摘に黙って首をすくめた。
「あら、ちょうどいいところに集まったわね、三人とも。せっかくの機会だし、スエズ運河攻略作戦の大詰めにかかりましょうか」
ティーポットとカップを載せた銀製のお盆を手に戻ってきたウォースパイトの一声で、スヴォ―ロフはPCを引っ張り出し、久遠が戸棚から丸められた海図を取り出し、マルコがちまちまとテーブル上に駒を並べ、瞬く間に執務室は作戦会議室へとその姿を変えた。
「現状私たちが掌握しているのが、海軍戦艦六隻からなる東地中海艦隊と、イタリア海軍の特設海兵師団一個師団」
緑に塗られた凸型の駒一つと、戦艦を表す駒六つをウォースパイトがクレタ島に置いた。
「そこにトルコ陸軍の歩兵師団七個と機甲師団三個、それにギリシャ陸軍歩兵八個師団が加わって、陸上戦力が総勢二十三万といったところですね」
赤く塗られた凸型の駒十五個と、戦車を模した駒三個が、マルコの手によって追加でクレタ島に置かれた。
「正直、姫級を潰した今なら雑に突っ込んでも良い気はしますね。艦隊の士気は最高潮です。ここは下手に策を練るより、戦意のままにさせた方がいいのでは?」
「流石に雑すぎるだろうが、それは。スエズだぞ?鬼が出るか蛇が出るか、はたまた悪鬼羅刹が出てくるか分かったもんじゃない。姫級が後三隻居座っているくらいの想定で進めた方がいいだろう」
「流石にそれは過剰警戒じゃないですか?少なくとも、一海域に姫級が二隻以上いた記録はこれまでありませんよ?」
「それが甘いと言っているんだ、少佐。経験上、深海棲艦はチョークポイントくらいは理解している。ましてやスエズ運河は連中にとっても大事な拠点のはずだ」
だんだんとボルテージの上がってきた議論は、ぱんぱんと手を叩くウォースパイトによって中断された。
「はいはい、そこまでにしておきなさい。それよりも、ドーリア閣下からの電報が入ったわ」
一瞬にして注目が彼女に集まる。次期艦隊司令官であるドーリア大将の話題は、艦隊の誰もが気にすることだ。若干の気後れを見せながら、ウォースパイトは手にした紙切れを要約する。
「まず一つ目は、ドーリア大将の人事の遅れね。諸般の引き継ぎがうまく行かず、あと三ヶ月ほど遅れるそうよ」
部屋全体に( またかよオイ… )という空気が漂った。何を隠そう彼の赴任の遅れはこれで三度目である。自由に鉈を振れるウォースパイトとしては別に構わないのだが、とりあえず使える戦力が欲しい久遠やスヴォ―ロフにとっては困り物の案件だ。
が、今回のドーリア大将は一味違う。
「ちなみに、閣下はこうも言っているわ。『この度の失態の埋め合わせとして、ウォースパイト東地中海艦隊司令官代理に、航空母艦アクィラ、ベアルン、クレマンソー、そして戦艦リシュリュー、ジャン・バール、およびガスコーニュからなる第一艦隊の指揮権を委譲する』…と、ね」
戦艦三隻、空母三隻、重巡洋艦十二隻、軽巡洋艦十八隻、駆逐艦三十三隻からなる大艦隊。実に現状のウォースパイト率いる艦隊の半分にあたる大規模増援である。
「く、空母の増援ですか!?」
「こいつはデカいぞ…到着はいつになりますか?」
スヴォ―ロフがひっくり返り、久遠が食い気味に尋ねるほどの規模の艦隊の到着はなんとわずか一週間後。イタリア海軍きっての猛将だけあって、使えるコネも多いのだろう。
「これで私たちの戦力は戦艦九隻、空母三隻、巡洋艦四十二隻に駆逐艦五十四隻。これだけあれば殴り込めるわ。狙うのは…」
一旦そこで言葉を切った彼女は、駒を二つ手に取り、勢いよく地図に叩きつけた。
「ポート・サイドとエル・アラメイン、それに陽動としてアレクサンドリア。この三つの港町よ」
機動戦の本領は、衝撃力によって敵前線を突破、或いは敵のストロングホールドを迂回し、最終的には敵部隊を包囲、撃滅ないし無力化する事にある。
「要塞化がなされたアレクサンドリアにわざわざ突っ込んで、上陸部隊を死なせる義理なんて私達には存在しない。そんなに都市が大事なら、都市と一緒に心中してもらいましょう」
そこで、何事かを考え込んでいた久遠が口を挟んだ。
「それならば、これはどうでしょう?挟撃を行うのは良いですが、スエズの東側に対する警戒も必要です。私はアレクサンドリアへのハラスメント攻勢と同時に、ベイルート上陸、それにキプロス島の攻略を進言します」
久遠は重巡洋艦を表す駒を手に取ると、キプロス島とベイルートにそれぞれコトリと置いた。
「エーゲ海の制海権確保がなった以上、トルコ陸軍は師団数に余裕があるはず。深海勢力も先の海戦でかなり叩けました。これを機に、中東方面へ大規模進撃を行うべきです。この二つの地域には、重巡級を旗艦とした艦隊で十分でしょう。」
久遠の言葉には一定以上のメリットがある。東地中海最大の海岸基地であるクレタ島を攻略し、駐屯していた艦隊を根こそぎ轟沈させた今、東地中海は一時的に人類が制海権を掌握している。
「むむ…よし、マルコ少佐、デミレル中将を呼んでちょうだい。トルコ陸海軍にコンタクトをとってもらう必要が出てきたわ」
すっ飛んできたデミレル中将の紹介でトルコ陸海軍上層部とオンライン会談でコンタクトを取った久遠は自らの作戦案を話し、さらにギリシャ陸海軍の首脳とソ連赤軍コーカサス方面軍の司令官が呼ばれ、話は雪だるま式に大きくなっていった。
単なるスエズ攻略を確実にするための陽動だった上陸作戦はいつの間にか数十個師団単位が参加するノルマンディークラスの上陸作戦へと変貌。テルアビブ、ハイファ、そしてトリポリが上陸地点に追加されたのであった。