こころバンド(仮)   作:誰か続き書いてくれ

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「勇気なら、あたしがあげるわ!」

 花音(かのん)にとって、吹奏楽部だった頃の記憶は落としたい泥になっていた。誰だって渋々通った泥濘で汚れた靴は洗いたいに決まっている。そこで得たものも特になく、ただ重々しい疲労だけが残ったのなら尚更。

 引っ込み思案で恥ずかしがり屋で、そのくせ人が困っていれば見捨てるのも忍びないとくれば遠慮を知らない中学社会の荒波に流されるのもしかたないもので。パーカッションが足らないのだと頭を下げられ手を引かれ、いつに間にか吹奏楽部の一員となっていたのが五年ほど前。

 当時の同期は三人いて名前も覚えているが、思い出したい顔かと言うとそんなこともない。与えられたお下がりのスティックで叩く練習用のパッドが一番早く太鼓になったのは花音だったし、そこにペダルの付いた大太鼓だの双子と年子の小太鼓だのがくっつけられたのも彼女が最初だった。それを褒めてくれた三人が裏で陰口を叩いていて、自分に向けてくれた笑顔より随分と輝いていたのを見て以来、花音の勇気は転んで膝を擦りむいたまま泣きじゃくってばかりいる。

 

 ダンボールを重ねて作ったパッドで家でも練習して、不慣れながらもパソコンでスティックの扱いを調べたりもして、暗い輝きから逃れたい一心だったとはいえ思い返せば真面目にやっていた。相応に楽しくもあった。もう少し続けていれば演奏の一体感とか音楽表現に向き合う奥深さとか、そういう醍醐味だって味わえたかもしれない。

 でも、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な花音は引っ込んだまま杭打たれてしまった。恥じらいの上に少しの恐怖まで乗っかって、その重みで身動きできないまま中学を卒業して。そうしてやっと解放されたときに思ったことは「もうたくさん」だった。

 花音だけが先輩からお下がりのスネアドラムを託されていた。学校の備品ではない、本気で打ち込み続けたのだと誇らしげに語っていた、先輩の大切な相棒。今となっては消耗品である皮以外もボロボロでくたくたで、そのうちのどれだけが自分の使い込んだ跡なのかは判然としないけれど、それでも「もうたくさん」だった。この重みも、潰れたマメも、剥けた指の皮も。

 もう売ってしまおうと思った。先輩は笑って「花音ちゃんがヤになったんならしょうがないや」と許してくれた。だから後は自分が、後ろめたさと少しの寂しさを振り切るだけ。

 

 そう思って、思って思って、晴れの日も雨の日もケースに入れたそれを片手にうろうろおろおろして。

 気づけば一年も経ってしまった挙句、花音は今日も楽器店までの道を右往左往している。

 

「今日こそ……今度こそ、もう、辞めるんだ……」

 

 そう言い聞かせながら駅前まで出てきた花音を春風がびゅうびゅう冷やかす。

 この花咲川(はなさきがわ)は音楽が盛んな街で、道ゆく人の背にギターケースだのサックスケースだのが掴まっているくらいは珍しくもない。駅前の広場にはストリートピアノまであって、そこで流行りの曲を弾く腕自慢を見かけることもよくあることだった。ときどき、吹奏楽部だった頃に担当の子が大変そうに運んでいた覚えのあるコントラバスを涼しい顔で背負い歩いている人とすれ違って、重さに負けないしゃんとした歩き姿にほのかな憧れを抱いたりもする。怖がりながらでも音楽室から逃げ出さずにいた理由のひとつには一応、そんなものもあったっけ。

 

「あ……スティック、持ってきちゃってた」

 

 いつも通りスネアケースに入れたそれが中でころんと音を立てたのに気づいた。演奏するわけでもないのに。持ってきたって売れやしないのだから、適当に切るなり折るなりして捨ててしまえばよかったのに。

 転んだままの勇気が苛む。そんなこと、とっくにわかっていたはずなのに。

 

「……なにしてるんだろ、私」

 

 帰ろう、と意気地なしに呟いて踵を返したとき。

 

「わぁーっ!? や、やめてっ、引っ張らないでぇ!?」

 

 ──悲鳴が聞こえた。

 

「えっ……ど、どこから……」

 

 駅の方、でもよく通るその声に反射音はほとんど混ざっていなかった。外だ、近くだ、とほぼ反射的に走り出した花音は、いざとなったら振り回せるように斜め掛けしていたスネアケースを両手で握り締めていた。吹奏楽部だった頃の習慣でやっていたジョギングのおかげかそれほど息も切らさずに現場へたどり着く。駅の出口から少し外れた駐輪場の片隅、建物や街路樹の陰になって見通しも悪いそこに駆けつけると──

 

「落ち着いて、落ち着くのよ、大丈夫怖くない、怖くないからね……ひぃっ!」

「がんばれーお姉ちゃん!」

「負けないでー!」

「わんっ!」

「ひやぁ!? ……ま、負けないわ……! 返しなさいっ、あの子たちのハピネスレッド!」

 

 これでもかこれでもかと翻弄されて、長い髪も表情もくしゃくしゃの半泣きになりながら、それでもどうにか膝立ちで立ち向かう制服姿の女の子が──ちょっと大きめの柴犬と対峙していた。

 

「ふぇっ……」

 

 どういう状況なんだ一体、と足が止まるも、聞こえてきたフレーズでなんとなく見当がついた。柴犬が可愛く鳴いた拍子にポロリと落ちた戦隊モノのフィギュア、どうやらあの小学生くらいの子たちからひったくって行ったものらしい。

 そういうことかぁ、と気が抜けてへたり込みそうになったが、あの子たちにとっては切迫した状況なのだ。流石にわんちゃんくらいならあまり怖くないし、この隙に取ってあげよう……と思った矢先。

 そう、犬というのは結構耳がいいのだ。

 

「……! わん!」

「え、わ、ふえぇぇ!?」

「あっわんこが離れた!」

「お姉ちゃん今! 今だ!」

「あぁぁごめんなさいっ、ごめんなさい知らないお姉さん! 後でぜったい助けるわ! 少しだけ辛抱して!」

 

 花音はあっけなく柴犬に押し倒されて顔中を舐め回されてしまった。困惑と驚きと、いざとなると思ったより抵抗できなかった自分の浅慮への情けなさで真っ白になっている今この瞬間だけは、鷲掴みにしているスネアの重さをすっかり忘れていた。

 

 

 

 

 

「うぅ……激闘だったわ……」

 

 柴犬にはコテンパンにされた。

 あの後、とりあえず人質(フィギュア質?)だけはなんとか奪還できたもののすっかりへろへろになってしまい、子猫の香箱座りよろしく蹲った彼女の背で勝利と征服の居眠りを決め込んだお犬様を飼い主と思しき女性が平謝りと共に回収していくまで、少女は振り落とすでもなくめそめそと泣いていた。花音はそれをなんとかしようとするたびに世界を狙えそうな犬パンチを食らっていて手を出せず、おそらく十は年上のふたりが良いようにあしらわれている姿に小学生たちは恐れ慄いていた。前言撤回しよう、わんちゃんはとっても怖い。

 幸い試合に負けても勝負には勝ち、小学生たちからは熱い感謝を受けた。これからするらしい宴のためにと準備していたたくさんの駄菓子の中からひと山と、去り際の眩しいくらいの笑顔と、タンポポとハルジオンで編まれた世界一素敵な冠。編み目のまばらで少し小さなそれは少女の乱れた髪に乗っかって誇らしげに胸を張っている。

 とりあえず休憩しようと駅前の小さなベンチに腰掛けたふたりは、戦利品の駄菓子片手に互いをねぎらっていた。

 

「大変だったね……」

「ええ……でもよかったわ。あの子たちの大事なフィギュアも無事で、わんちゃんもお腹を壊したりしないで済んだもの」

 

 食べちゃったら大変だものね、と花冠を嬉しそうに被り直す少女はなんとも素敵で、花音はその微笑みに頬が緩むのを感じた。結局スネアを手放せはしなかったが、今はまあ、いいか。

 お互いお喋りではないでもないが積極的な質でもないので、心地良い疲労感と達成感もあって自然とふたり寄り添ったままぼうとすることになった。すぐそこのストリートピアノもおっとりと眠っている。穏やかな日和に落ち着いて、温かなそよ風が足下の落ち葉や花びらを何度かくすくす笑わせた頃、少女はハッと目を見開いて、それからおずおず切り出す。

 

「ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね。……あたしは弦巻(つるまき)こころ。高校一年生よ」

 

 知ってるともああやっぱりとも口にしなかった。さっきは必死だったから気づかなかったが、彼女の制服は花音の通う学校のものだったし、ひとつ下の学年に世界に轟く大財閥のお嬢様がいるという噂も耳にしていた。

 曰く卒業が既に決まっていて成績なんてお飾り。曰く高飛車で人を見下している。曰く親の点数稼ぎに必死な落ちこぼれお嬢様。学年を跨ぐと実態も伝わらないのか噂なんて酷く品性を欠いたものばかりで、人の悪口も嘲笑も嫌いな花音にとって弦巻こころの話題は意識的に避けていたトピックスだった。そういえば庶民の僻みも込みとはいえ、大層美人だという話もあったっけ。

 悪し様に言われてばかりの風聞とかけ離れた無垢な佇まいに訝しんでいたのが顔に出てしまったか、晴れやかだったこころの顔が不安げに曇っていく。

 

「……や、やっぱり今更すぎたかしら……? あっ、そ、そう、いえ、あた、私ったら敬語も使ってなくて、大変失礼致しまし」

「だっ大丈夫! 大丈夫だよ弦巻さん! うん、敬語じゃない方がフレンドリーで嬉しいかなあ!」

 

 曇りどころか決壊秒読みな雨催いの表情に花音の方が慌てふためいた。

 まだ顔を合わせて一時間も経っていないが、どうやらかなりの泣き虫らしいことはよくよくわかった。ちょっぴり親近感が湧いた花音はベンチから立ち上がって彼女の前にしゃがみ込むと、スカートを皺くちゃになるくらい握りしめていた彼女の両手に、そっと自分の手を重ねる。ぽかぽかと優しい日溜まりの温度だった。

 

「私は、松原(まつばら)花音。松の木の原っぱに、花びらの音って書くの。……よかったら、名前で呼んでほしいな」

「……かのん、花音……ねえ、花音。あたしのことも、名前で呼んでほしいわ」

「うん、わかった。こころちゃん」

「……嬉しいわ。また新しい友達ができるなんて、あたしは幸運ね」

 

 ブーケを解くようなはにかみと来たら、花音はもう一生忘れられないような気がした。乗せられた手を握り返して嬉しい嬉しいと聞こえてきそうなくらい満面の笑みで花音の手を優しくにぎにぎするこころは可愛らしいが、流石にだんだんと恥ずかしくなってくる。人目がどうこうではなく、自分という存在そのものをここまで喜ばれたのは両親や親友からの誕生祝いくらいしか思いつかないほどの熱烈ぶりだったから。

 耐え切れなくなってきた花音は「お、おほん」とわざとらしい咳払いで話を変えにかかった。

 

「そういえばこころちゃん、どうしてあんなことになってたの?」

「ゴミ拾いをしていたの! それ自体は、もう朝のうちに終わっていたのだけれど」

 

 聞けば、ボランティアは日課なのだと言う。もっとも本人には慈善事業をしているつもりは特になく「毎朝ね、おばあさんたちがスポーツウェア姿でお掃除してるのよ。ジョギングから帰るついでらしいけれど、でも疲れてるだろうから……」と経緯を話してくれたその顔は、得意げにするどころかただただ心配の色を浮かべていた。

 

「この公園からさっきの駅の間までをお掃除して、拾ったゴミもお片付けして……その帰りがけにね。困った顔でどうしようどうしよう、って話してる子たちがいたから」

「そこできちんと声を掛けられるの、偉いと思うなぁ」

「う」

 

 こころはぎくりと固まった。首を傾げる花音に、彼女は後ろめたそうに指をちょんちょんしながら白状する。

 

「…………声を掛けようと、思ったの。思ったのよ? でもあたしはあの子たちからしたら知らない人、それも明らかに中学生か高校生って格好した制服姿なのよ……? びっくりさせてしまったらどうしようとか、怖い思いをさせないかしらとか、そんなことをうじうじ考えてしまって……」

「あぁ……」

 

 まざまざと浮かぶようだった。納得したついでに先ほどの惨めな対戦模様を思い出してしまい、ふたりして遠い目をする。強いわんちゃんだった。あれはどこかで鍛え込んでいるに違いない。

 

「そうこうしてる間にわんちゃんが犯行現場に戻ってきたの。あの子たち、道端の棒切れなんて持ち出したから危ないと思って……あの子たちがわんちゃんに噛まれても、わんちゃんがあの子たちにぶたれても悲しいじゃない。だからその、つい割り込んじゃって」

 

「ひょっとしたらお節介だったかも知れないわ……」とまたしょんぼりするこころの横顔を見ながら思い出した。そういえばこの子は背中を柴犬に占領されていたが、普通はそんなことされたらひっくり返るだろうにめそめそ泣きながらも頑張って耐えていた。「もしかして」と花音は尋ねる。

 

「さっき、背中のわんちゃんを無理に下ろそうとしなかったのって、わんちゃんのため?」

「……? ええ。だって足下が急に動いたら、きっとびっくりしてしまうわ。あたしなら……うぅ」

 

 天変地異に見舞われる想像でもしているのかぷるぷる震えるこころは、どうやら隅々まで優しさで出来ているらしかった。こんな子がいるのかと感心を通り越して感動すらしている花音の惚けた顔に、こころは「あなたの方はどうして?」と投げ返す。

 

「私?」

「ええ。あっでも、答えたくないことだったら無理には聞かないわ! 他にもお話しできることはあるのだし──きょっ、今日は良い天気ね!?」

「そ、そうかな……そうかも……」

 

 来週にかけて薄い曇り空で風も強いから肌寒くなる、という今朝の天気予報とさよならして相槌を打つ花音は目が泳ぐのを抑えられなかった。こころはさめざめと顔を覆った。

 

「ごめんなさい……」

「だ、大丈夫! 大丈夫だから! 曇り空だって日差しがキツくなくて過ごしやすいから良いお天気だなあって思うし、あの、お顔上げて!?」

「花音……あなたって優しいのね……」

 

 覆っていた手をどければ半泣きのこころにそう見上げられて、少し苦いものが去来する。

 

「優しくは……ないよ」

 

 たぶん、優しいのではなく易しいのだ。人の頼みを断るのが怖い。人の思いを無碍にするのが怖い。花音は自分の根っこにくっついた弱虫の正体をなんとなくわかっていた。

 

「怒られるのが嫌なだけなんだ、きっと。人が困ってるのを見過ごして恨まれたり、失敗してる横で上手くこなして妬まれたりして、怒りを買いたくない」

「……でも花音は、さっきだって息急き切って駆けつけてくれてたわ。……ひとりで立ち向かうのは心細かったから、あたし、嬉しかったのよ」

 

 こころは目の前にしゃがんでいる新しい友達の手を、自分がそうしてもらったように握り返した。

 

「あなたは、とっても素敵な人よ。怒るところなんてどこにもないわ」

 

 知り合って間もなくて、花音にはこころが泣き虫なことと、とても優しい子であることしかわからない。彼女にしたって花音のことはまだそれほどわかっていないに違いない。だとしても目の当たりにしたものは彼女にとって純然たる事実でしかなく、真摯に返された花音は言葉に詰まった。

 ためらいためらい、こころの手にきゅっと力を返す。それから日溜まりに指先の凍えが解け出すようにゆっくり話しはじめた。

 

「……吹奏楽部をね、やめちゃったんだ」

「吹奏楽……そのスネアドラム?」

「うん」

 

 ベンチに置いていたケースに手を伸ばして立ち上がり、膝に置いてこころの隣に座り直した。

 

「中学生になって一ヶ月くらい経った、新入部員を受け入れられるギリギリの時期でね? 帰りがけ、人が足りないからお願い、ってクラスメイトに捕まっちゃって」

 

 思えばあのクラスメイトは、まず出口を通せんぼするように割り込んでから頭を下げてきた。それも、ホームルームが終わってからわずかに間を置いた絶妙に目立つタイミングで。計算通りハマっちゃったんだなぁ、と自嘲する。

 

「手を掴まれて引かれるまま音楽室に連れて行かれちゃって……出迎えてくれて先輩たちにお断りをすることもできなくて、気づいたら」

 

 傍目にはきっと、それほど悪い光景でもなかったはずなのだ。引っ込み思案な女の子が同級生に手を引かれて新しい世界の扉を開ける、眩しい青春の1ページ。先導していたあのクラスメイトがずっと吹奏楽部の魅力を捲し立てていたのも、誰も止めようとしてくれなかった原因のひとつだったのだろう。あのときの自分も怖がりながら、しかし窓から注ぐ日に照らされた廊下がキラキラ輝いて見えていた。今となっては、ただ、ただ。

 花音はかぶりを振った。

 

「屋内演奏とマーチングが半々くらいだったかなぁ。新入生を迎えて、春から夏はコンクールに向けて練習して、それが終わったら地域での演奏会用の練習。マーチングはその演奏会のためだけじゃなくて、体力作りも兼ねてたのかな。今思えば」

 

 テーンハット、フォワードにリアマーチにレディーホルト。用語も号令もついでに怒号も嫌というほど浴びながら練習した動きは今でも花音の体に染み付いている。姿勢良く顔を上げて、と口酸っぱく言われたお陰で猫背とはすっかり無縁になったが、心が上向いたかというと話は別だった。

 

「一生懸命練習して、それなりに上手くなって……そしたら、陰口をね。されるようになっちゃって。最初は頑張ってれば認めてくれるはずって思ってたけど……結局逃げちゃった」

 

 スネアケースを握る手に弱々しく力がこもる。花音はへらりと笑った。

 

「この子を売りに行こうとしてたんだ。なんとなく手放しづらくて、三年の夏に引退してからずるずる、もう二年近く経っちゃったけど」

 

 努めて明るく言ったつもりだった。実際、生きていれば一度や二度はある事故の類なのだから、いつまでもこだわっているわけにもいかない。ちっぽけな痛みを誤魔化すように「だから、あんまり大した事情でも……」と続けながら隣の様子を伺った花音はぎょっとした。

 

「こ、こころちゃん……?」

 

 こころが泣いていた。

 柴犬との奮闘や天変地異の想像でもせいぜい少し涙を零す程度だった彼女は、空から太陽を引っこ抜いたようにとめどなく大粒の涙を溢れさせていた。堪える素振りもなく滂沱の彼女は、まっすぐ、まっすぐ花音を見つめている。

 

「……花音、あなたは、部活が嫌になっちゃったんだわ」

「ふぇ……? う、うん……」

 

 不思議と強烈な瞳の圧に反して言った通りのことが返ってきて生返事しかできない花音に、こころはふるふると首を振る。

 

「変わろうと思った気持ちも、きっと好きになれたドラムへの気持ちも、なんにも色褪せてない。周りへの気持ちの方なのだわ」

 

 こころの手が花音の膝下──先輩と、花音と,昔の誰かの道に寄り添い続けて小さな傷だらけになったスネアケースをそっと撫でた。

 

「……開けても、よろしいかしら」

 

 真剣な眼差しだった。自分がこれを受け取ったとき、果たしてこんなに強い光を湛えた目ができただろうか。花音は自嘲した。決まっている、意気地なしはずっと変わっていないのだから。

 小さく首肯すると、こころは澱みない手つきでケースを開けた。

 

(ああ……)

 

 誰もいない朝の音楽室、吸音カーペットから立ち上るほのかな埃っぽさと桜の匂いが、開けた拍子に溢れた気がした。手を合わせて口元に寄せた花音の切な瞳に確信を得たこころは、丁寧に、ゆっくりと中身を引き抜いていく。

 

 橋を渡すように納められたスティックは先の方がささくれていて、グリップにはほんのり赤茶色のシミが残っている。メーカーロゴこそもう霞んで見えないが、使用によるもの以外の傷や汚れは一切見受けられなかった。

 その下のスネアを取り出すと、クリアブルーに塗装されたシェルがきらりと輝いた。ステンレスのリムもぴかぴかで曇りない。大事に手入れされていることは明白で、演奏によるものだろう小さな傷が勲章のようですらある。底に仕舞い込まれたチューニングキーと練習用パッドが、誇らしげに、ちょっぴり寂しそうに、ころりと笑った。

 一目見て、花音の指先にひんやりとした感触が思い起こされる。最後にチューニングキーを使ったのは夏のコンクールだった。控室として宛てがわれた小体育館の冷房がよく当たるところに荷物を置いていて、夏らしくなく冷えていたそれに緊張が少しほぐされて──

 

「──ほら。こんなに優しく触れるんだもの」

 

 知らず、スネアに手を伸ばしていた。どうせ辞めるのだからと交換まではしていなかったザラザラのヘッドと目が合って、きゅうと胸の奥が締め付けられる。こころの手がヘッドを撫でて、ふわりと花音の頬を撫でる。温かい雫を取り去って、自分はまだ少し涙目のままで彼女は問いかける。

 

「花音。ドラムは好き? 音楽は、好き?」

「……うん」

「人の目が怖いのね。あなたの好きなものを軽んじる目が」

「……うん、怖いんだ。どんなに上手く叩けても、聞いてくれる人の顔が輝いても……後ろから、見えないところから向けられる嫌な目が、怖いよ」

「……あたしたち、お揃いね。昔お歌とピアノをしてたの。先生が付いてて、毎日しっかりお稽古してたのよ。でもある日、クラシックでもなんでもない、素敵なバンドの曲を知って、弾いて見せたら……」

 

 こころの言葉が止まった。口をパクパクと動かして、それでも二の句を継げない様から、喉につっかえた苦しみの大きさがよくわかる。

 

「……こころちゃん」

「……怖いわ。罵倒も失望も嫌悪も、その裏返しならあたしへの興味だって。でも……諦めきれないことが、あるのよ」

 

 こころは涙を拭って背筋を正した。美しい目の奥に吸い込まれそうな錯覚と共に、花音は言葉を待つ。

 

「あなたの『好き』を阻むものが、強くて恐ろしいものだとしても……あたしとなら、はんぶんこできないかしら」

「……え」

「あのピアノを今から弾くわ。だから花音……あなたに、隣でスネアを叩いてほしいの」

「……私は」

 

 ある意味、予想通りだった。この少女はきっと引き留めてくると思って話したのだから。人の気も知らないでと突っぱねるところまでが、花音のこれまでの人生からあたりをつけていた未来で……そんな暗い予想と後ろめたい覚悟は、彼女の涙を見た瞬間に弾け飛んでしまっていた。

 

 こころはスネアとスティックを持って、花音の前に立った。綺麗の揃えて差し出されたそれと彼女の顔を交互に見て、もう一度、自分の胸の内に問う。

 

(私は、どうして、ドラムを始めたんだっけ)

 

 決まっている。臆病な、意気地なしな自分を変えたかったからだ。

 

(……吹部は、たしか二十人は超えてたんだっけ。あんなにたくさんいるなら、ひとりふたりくらい、合わない人がいるのは仕方ないよね)

 

 ──()()()()()()()()()()

 

(あのとき、しょうがないって言い訳をしたのがいけなかった! 逃げ出さずに、立ち向かうか、跳ね除けられなきゃ、きっと変われっこなかったのに!)

 

 花音は目の前の少女を仰いだ。泣き虫で、怖がりで、今も不安げに瞳が揺れている。よく見たら膝も小さく震えていた。もしかしたら、できたばかりの友人に酷な選択を迫ったことを悔いているのかもしれない。

 将来はきっと偉い立場になるのだろう。でも、今ここにいる彼女は、気弱なただの女の子なのだ。

 

(この子の手を振り払って……泣かせちゃうのは、やだな)

 

 花音はもう、このただの女の子を大好きになっていた。

 怖いものはたくさんある。苦手なものだっていっぱいだ。音楽を続けるならそれがどんな形であれ、人の気持ちと向き合うことに無縁ではいられない。悲しむことも、傷つくことも、きっと。

 

(こころちゃんのためなら、立ち向かいたい)

 

 花音は、スネアとスティックを恭しく受け取った。真っ白な指先から、大切に、大切に受け取って抱き締める彼女にこころが優しく微笑む。

 

「……さあ、あなたの『好き』を、起こしに行きましょう」

 

 

 

 

 

 時刻はもうすぐ正午。土曜の駅前は人通りも多く、行き交う人はみんな少なからずストリートピアノを一瞥していく。そこで準備をしているのが見目麗しいブロンドの女子高生で、その後ろに背中合わせで座って膝にスネアドラムを置いた少女もいるとなれば、視線だけでなく足も止めていくのもおかしなことではなかった。

 

「ごめんなさい花音……あたしが考えなしだったばっかりに……大丈夫? お膝は痛くない?」

「だ、大丈夫! 私もストラップとかなんにも用意してないの気づいてなかったくらいだから! うん!」

「そ、そう……? それならいいのだけれど……」

 

 贅沢を言えばキリがないが、演奏するだけならこれでも必要十分を満たせている。スナッピーが太もものせいで止まってしまうのは惜しいが、一年以上のブランクの前には音色や鳴りがどうのこうのなんて些末な話で、極論叩いて音が出るなら構わなかった。

 慌てて返事をしたのはそんな自分の都合より、こころのためだった。

 

「こころちゃん、平気……?」

「……ええ! 元気いっぱいよ!」

 

 返ってくる声は、背中越しに伝わる鼓動よりずっと嘘つきだった。

 緊張している、なんて言葉が生優しく思えるくらいに早鐘を打つ心臓。呼吸するたび感じる肋骨の伸縮も明らかに早く、浅くなっている。ピアノにトラウマがあると言われても不思議じゃないくらいの反応でも、こころはピアノから離れようとする素振りを見せなかった。そんな彼女を、少しでも不安にさせたくない一心で花音の弱虫は押さえ込まれている。

 それでも。

 

(うっ……)

 

 見物人が集まってくると次第に吹奏楽部だった頃の演奏会のような気がしてきて。今に顔も思い出したくない同級生たちの陰口が這い寄ってくるんじゃないか。

 そう、すぐ後ろから──

 

(こころちゃん……苦しそう)

 

 ごめんね、とは口が裂けても言えない。彼女の手を掴んだのは自分なのだから。転んで泣いていた勇気を起こしてもらった礼は、頭を下げることではなくて。

 

「こころちゃん……!」

 

 後ろ手に彼女の手を握った。

 荒い呼吸を繰り返していた背中が一際膨らんで、大きく息を吐き尽くして、必要なだけをひとつ吸い込む。

 

「……ありがとう、花音」

 

 振り返ったこころの顔はまだ青い。でも、瞳の奥の火はまた煌々と燃えはじめた。

 

「あなたを元気付けたくてこんなことしてるのに、逆にもらっちゃったわ」

「元気なんて、そんな……」

「もらったわ。あなたの手は温かくて、優しくて、春風みたいね」

 

 今日だけで何度触れた手か、もう数えていない。自分が春風なら、きっと彼女の手は春そのものだ。こころが温かいから、彼女の世界に入れてもらえた自分の弱々しい行いも春の色を帯びていられる。

 

「あたしはこころ。胸の内に咲く彩りをすべて集めた花束になれるようにって名付けられたの。だから……」

 

 こころの方からまた握り返される。

 

「優しさをくれた分、勇気なら、あたしがあげるわ!」

 

 ──ずっと垂れ込めていた雲間から、太陽が顔を出した。

 

 こころが大きく息を吸って、飴玉のような甘く可愛らしい話し声からは想像もつかないほど磨き上げられた声楽的な歌声が紡がれる。

 

「Can……anybody find me somebody to……love?」

 

 UKロックバンド史に君臨する女王の残した傑作のひとつ、『Somebody To Love』。花音も吹奏楽部だった頃に聴いて知っていた。世界一有名なバンドのメドレーを部活でやる機会があって、他にもやるかもしれないからとひと通りを聞いた覚えがある。

 印象的なピアノのイントロから、コーラス隊を率いるでもなくひとりで原曲のエネルギーを表現してしまう歌唱力。まるで指先に糸をつけられたみたいに手が動いて、花音の手は彼女の歌を飾ろうと太鼓を叩き始めていた。

 

(こんな、強い歌声……!?)

 

 吹奏楽部で20人以上で演奏した洋楽アレンジは、こんなに莫大な熱量を持っていただろうか。コンクールで審査員へ向けた課題曲は、こんなに鮮烈な色彩を持っていただろうか。

 

(飲まれたくない……一緒に立ち向かうんだから!)

 

 操られそうになった手を矜持で取り戻して、花音はこころのピアノに食いついた。スネアひとつきりである以上、元のドラムそのままには出来っこない。ロールの緩急で、叩き方の微調整で、染みついたリズムキープで支えながら、ふつふつと込み上げる何かの押し上げていく感覚に気付いていた。

 

(閉じ込めてたんだ、私)

 

 重い石蓋を、心に渦巻いた上昇気流が開いていく。隙間から漏れ出した光が指先へ帰っていく。

 

Got no feel, I got no rhythm(なにも聞こえないし感じない). I just keep losing my beat(命に負けっぱなしだけど).」

 

 こころの歌声が一層白熱していく。フィラメントがはち切れそうなほど声を張り上げて、それでも指先の奏でるピアノは哀愁を伴う繊細さで。花音の音がそこに混ざって、空まで飛んでいきそうなうねりになっていく。

 

I'm OK, I’m alright(大丈夫、へっちゃらだ). I ain't gonna face no defeat(挫けたりしないよ)

 

 有名な曲だ、知ってる人だってたくさんいるのだろう。遠くからコーラスと朗らかな笑い声まで聞こえてくるようになってきた。

 

I just gotta get out of this prison cell(今にこんな日々からおさらばしてみせるから). One day I'm gonna be free, Lord!(自由を掴んで見せるから、どうか!)

 

 手元とこころの音に割く意識の何分の一かで、薄目を開けるように恐る恐る周囲の様子を伺ってみる。コーラスは止まない。隣の誰かと肩を組む人すら現れた。その誰もが笑顔で……花音の中に漠然とあった、仄暗い悪趣味な笑みへの恐怖が、この光景に飲まれて木っ端微塵になっていく。

 

「Somebody……Somebody……」

 

 いつのまにか、自分も口ずさんでいた。ピアノを奏でながら振り向いたこころの瞳に──近すぎて、返って見えるはずないというのに。

 

(私、こんな風に笑ってたんだ)

 

Somebody find me somebody to love!(誰か愛すべきものを教えてくれ!)

 

 かつて、UKロック史におわす女王陛下はウェンブリーの空を揺らしてみせた。

 どこまでもまっすぐ飛んでいくハイトーンに、暗い思い出が散り散りに吹き飛ばされていくのをすぅっと感じながら──花音は晴れていく空を仰いだ。

 

Can anybody find me somebody to love(誰か僕に愛すべき人を見つけてくれないか)?」

 

(新宿の天井に、穴を開けちゃった)

 

 広がっていく晴れ間を眩しそうに人々が見上げる様を見ながら、美しく響かせる最後のアルペジオにロールの波で応えて、彼女は余韻の弾けるまま振り返った。

 

「こころちゃん、すごい! すごいよ! こんなに楽しかった演奏はじめて──」

「よかっ、たぁ……」

 

 ぐらり、ズレて。

 こころが椅子から崩れ落ちた。

 

「……え」

 

 倒れた。

 真っ青な顔をして、初めて出来た年下の友達が、苦しそうに──

 

「こ、こころちゃん……!」

「下がって!」

「お嬢様、こちらを……」

 

 花音がなにかをする前に、人垣から黒い服の女性たちが飛び込んできた。ボンベのようなものを口に当てられて数秒、死んでしまいそうだった顔がなんとか、寝苦しそうなくらいまで落ち着いていく。

 ぐるぐると空転する頭の中で遅まきながら気づく。そうだ、大財閥の令嬢にSPのひとりふたり、ついていないはずもない。

 

 こころの手当てを終えて、抱き抱えられた彼女が離れたところに止められたリムジンへ運ばれていくのを呆然と見送る花音の足が追いかけようとしたのを、黒服のひとりが前に出て止めた。

 表情の読めないサングラスに映る自分の顔は、情けない。

 

(……お別れ、なのかな)

 

 嫌だ。

 貰った勇気と喜びのお礼もまだなのに、このままなんてあんまりだ。そう口を開こうとした矢先に「松原花音様ですね」と出鼻を挫かれる。

 

「ふぇ……どうして、名前を」

「こちらで調べさせて頂きました。まずは……今朝の飼い犬との件について。お嬢様の側についていただき、ありがとうございました」

「い、いえ……私なんて、なにも」

「それから、このピアノの件」

 

 ひゅ、と息が止まりかけた。緩急で心臓が跳ねてなにも言えない彼女に、黒服は淡々と続ける。

 

「命に別状はありません。心因性のものですが、原因などもはっきりしています。特にあなたへ罰を求めることもございませんのでご安心ください」

「……よ、よかったぁ……無事なんですね、こころちゃんは」

 

 言われたことを飲み込むのに少し掛かって、頭が追いつくと同時に腰が抜けてしまった。へたり込む彼女がすぐには動けそうにないことを察した黒服は「失礼致します」と言いや否や、花音をお姫様抱っこで掬い上げる。

 

「ふぇぇ……!?」

「お嬢様にお付き合い頂いたお礼をしなくてはなりませんので、ご都合がよろしければこのまま鶴巻邸へお連れしたく存じますが……如何なさいましょうか」

「…………こ、こころちゃんの都合がいい方で、お願いします」

「では、このままお連れ致します」

 

 よくわからないことになってきた、と目が回ってきた花音が運ばれていくのを、野次馬たちはポカンと見送った。

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