こころバンド(仮) 作:誰か続き書いてくれ
大きな大きなお屋敷の中の、たくさんたくさん扉のついた、長い長い廊下の先に、こころの部屋はしょんぼりしょんぼり引っ込んでいる。ピーターパンに手を引かれないと届きそうにない天井へ伸びる真っ白な壁には間接照明がひっそりと蕾んで、背伸びして手を広げても隠せそうにない六つ区切りの窓からは雲ひとつない午後の青影が照らしていた。
レースカーテンでふんわり和らいだそれに包まれるベッドの側、革張りのロッキングチェアに座らされた花音は、こころの寝息が穏やかなのを聞くまでまったく生きた心地がしなかった。可愛い友人が「うぅ、もう食べられないわ……ひぃぃ……」と可愛い見た目通りの可愛い寝言を溢すのに安堵の溜め息をひとつ。
自分をここまで運んでくれた、何かの映画さながらに小声で素早くあちこち手配する黒服姿の女性が一旦落ち着くのを待って、花音は「あ、ありがとうございました……」と会釈した。
「こころちゃ……弦巻さんは」
「松原様。私共の前でもお嬢様のことは先ほどまでのようにお呼びください。その方がお喜びになられます」
「は、はい……」
黒いスーツを着込んでサングラスをかけた女性の声に色をつけるなら見た通りのマットブラックに違いなかった。固く重い。そういう仕事なんだと言われたらそうだろうけれども。
「……お嬢様は、人前でクラシック以外の曲を弾くことに、酷いトラウマを抱えておられます」
「クラシック以外……ですか?」
「淑女教育の一環として、お嬢様は幼い頃から様々な分野のレッスンを受けておられました。特に声楽とピアノには天凛が見受けられ、つけられていた家庭教師は舞い上がりました。愚かにも、才気の発露を自らの手柄と驕り高ぶり……やがて、それは行き過ぎた選民思想へと変わっていきました」
聞けば、弦巻家当主は広い音楽好きであるが、特に古いUKロックを中心にしたロックミュージックに深く傾倒していることは公然の秘密だと言う。音楽レーベルや楽器店が傘下に多い弦巻グループの傾向を見れば窺えることだし、直接取引するような大物は彼の人となりももちろんわかっている。立場や能力がある人間ほど、当主が歴史や形式に敬意こそ払ってもこだわりはしないと知っていて、末端……例えば、雇われただけの替えの利く音楽教師などは、それをわかっていないらしい。
こころについていた音楽教師は、名門と呼び声高い幼少中高一貫の女子校から音大に進んで、上流階級の家でレッスンを行うくらいの一廉の人材であった。しかし、音楽のみに打ち込んで豊かな人間性が育まれるはずもなく、莫大な才能に目を焼かれた彼女は次第に自分の思想を押し付けはじめた。
「西洋音楽史の授業の最中に他文化を貶めるような意見を潜ませるくらいなら生易しいもので、ポピュラー音楽への批判や中傷を口にすることも多く、それに準わないのであればお嬢様の道徳をすら貶す始末」
「……わかっていても、野放しにしていたんですか?」
「お嬢様は、そういった考えの人がいることを否定したくはない、どうしてそう思うのかをよく知りたいと仰せでした。当主様は、しばらくは様子を見るようにと命じられました」
末路は今日の顛末がすべてだった。花音は思わず黒服を睨み、お門違いだと苦々しく首を振った。彼女は過去の事実を告げているだけだし、厳しく見るならば危険の漂うものから離れようとしなかったこころも浅慮と言える。それでも、背を合わせた彼女が倒れた瞬間を思えば眉間に怒りの稲妻が走るのも無理はない。
そんな花音の表情を見てこそ、黒服は話を続けた。
「当主様の意図されるところを、我々は存じません。それなりの権限はございますが決して万能ではなく、当主様やそのお側に繋げられることもありません。ただの側付きにございますれば」
「そんなの……いえ、差し出がましいですね。忘れてください」
「……お優しい方でいらっしゃる。お嬢様がお気に召されるのもわかります」
無表情を貫いていた黒服の表情が初めて緩んだ。
「お嬢様は幼少のみぎり、そこの庭へお出でになっては野花や鳥を愛でられる、今より活発な方でいらっしゃいました。……シロツメクサとスズメの落とし花で編んだ花冠を頂いたことがございます」
黒服は、よく、よく覚えている。資産家の家に生まれても贅沢はよしとせず、正義感の強く頭の固い子供だった自分を、十は下の子供に引き合わせた父の横顔が優しかったことを。この部屋に通されて窓辺に佇む幼い少女を一目見た瞬間、まるで向日葵のようだと思ったことを。武道の大会で優勝しようと名門校で首席になろうと空虚だった自分に与えてくれた勲章と、賜った言葉を。
『がんばる、ってすごいことだわ。それをずぅっとしてきたのだもの、あなたはすごい人ね!』
太陽が咲いたような笑顔は瞼に焼き付いていて──故にこそ、今のこころを忍びないと思う。向日葵は向日葵でも夕暮れに俯くような今の彼女を。
恐ろしいこと、嫌なことばかりの青春であってはならない。報われてほしいのだ。『がんばる、ってすごいこと』なのだから。
サングラスの奥で残照に目を細めながら、いたわしげにベッドの主人を見つめる花音に尋ねる。
「松原様。お嬢様の夢については、ご存知でしょうか」
「夢……ですか? いえ、まだ……」
「お嬢様は幼い頃よりお変わりなく、『世界を笑顔にしたい』と仰せでした。弦巻家を継ぎ多くの人々を束ねる地位に就いたら、そのために励むのだと」
花音の脳裏に、子供たちのために柴犬に立ち向かったこころの怯えながらも決意に満ちた目が思い起こされた。傍目には滑稽だろうと、か弱い泣き虫だろうと、涙が出るほど怖いものに挑んでみせたのは勇気の証に違いない。花音が背中越しに貰ったそれは、まだ胸に温かく灯っている。
「……身勝手な思想言動にも耐えておられたのは、我々にとって救いようのないものであってもお嬢様にとっては、満たされるべき無辜の民であるが故にです」
「こころちゃんなりの、ノブレスオブリージュ……みたいなものなんでしょうか」
「それもございましょう。他者の気持ちに寄り添うことのできるお方です、恵まれた立場相応の責任の果たし方を心得ておいでなのだと思われます。ですが最たる理由は……」
「……ごめんなさい、黒い服の人。あたし、もう起きてるわ」
こころが少し舌足らずにそう言った。声楽で体幹が鍛えられているのか透明なリクライニングシートでもあるかのように徐に上半身を起こすと、頭の重みのまま数秒だけ俯いて、すぐにぱっちりと目を覚ましてみせる。教育の賜物なのだろうかと花音はなんだか感心しながら、出かかった心配の言葉を飲み込んで「こころちゃん、さっきはありがとう」と微笑んだ。
「あんなに楽しいライブができたの初めてで……ドキドキして、顔が熱くなって、もっとドラム続けたいって思えたよ。こころちゃんのお陰だね」
伝えると、こころはきょとんと目を瞬かせた。それからはらはらと涙が溢れて、ようやく追いついた喜びがその表情をくしゃくしゃにする。
拭うこともせず大粒の涙を溢れるままにしながら、彼女は真っ白なネグリジェの胸元を重ねた両手で押さえて震えた声で言う。
「……よかったぁ。さっきより、ずっと素敵な笑顔だわ。花音の笑顔はとっても綺麗ね」
「ふえっ!? え、あ、ありがとう……」
花音は赤面した。こころは言葉も表情も純粋でまっすぐで、迂遠で捻くれた女子社会に疲れて逃げ出した花音にすればあまりに眩しい。狼狽える彼女に微笑みを溢すと、こころはハンカチで涙を拭ってくれる黒服を見上げた。
「お嬢様……」
「大丈夫。大丈夫よ、黒い服の人。あたしが自分で誘うわ。……ともだちだもの」
ベッドから抜け出て、ロングネグリジェに包まれた小さな足を床にちょこんと下ろした。自分とさほど変わらない歳の少女のはずなのに、こころはどこか遠い世界のお姫様のような品格と儚い美しさを纏っている。思わず居住まいを正す花音にほのかに寂しげな色を浮かべるも、こころはすぐに取り繕った。
「……たくさんの誰かに喜んでほしい、幸せになってほしい、そう思いながら過ごしていたある日ね。お父様の書斎でレコードを見つけたの。赤いラベルの8インチ、『Bohemian Rhapsody』。お父様と初めて趣味のお話をして、かの女王陛下の伝説のライブを見せてもらった」
こころは目を閉じて、大切に言葉の毛糸を編み上げていく。
「昔のものだから映像は粗いけれど、それでもはっきりわかるくらいに観客の人たちは嬉しそうで、幸せそうで……あの熱狂がひとつの答えなんだと気づいたわ。素晴らしい音楽は、民族も歴史も超えて胸を打つ」
花音は先ほどのライブを思い出した。まさにその女王陛下の歌を歌い上げたこころと、それをちょっぴり支えた花音に向けられた歓声の花と、胸の内に渦巻いていた淀みと久々に無理をした腕の痛みをすっかりどこかへ飛ばしてしまった高揚の風。
「だから──バンドを組みたいの。世界を
「……バンドは、大変だよ? 自分ひとりなら難なく決めてよかったことが人とぶつかって、諦めたり折れなきゃいけないことも、たくさん──」
「ええ。それでも、捨てられない夢なの」
遮って、こころは言い切った。
「人前に立つのは怖いわ。酷い言葉を投げかけられたら、それどころか耳目を向けてすらもらえなかったら、あたしはきっと声を上げることすらできないで怯えて立ち竦んでしまうでしょう。でも──」
いつの間にか熱くなっていたこころが気づく。清く澄んだ表情に気圧されて、花音は止めるような言葉をいくつも噛み潰して悲痛な顔をしていた。幼い頃に何度も見た忠告を無碍にされたことへの苛立ちではなく……姉がいたらこうだろうかと、ふと思った。
自分の身を案じてくれる彼女に「ね、隣に来てちょうだい?」と右隣を叩いて示す。黒服にも頷かれて遠慮がちに腰掛けた花音の手の甲に、日差しのような手をそっと重ねた。
「……今日ね、素敵なともだちができたのよ。春の滲んだみたいな優しい微笑みの似合う、素敵なお姉さん。あたしの情けない悲鳴を聞いて一目散に駆けつけてくれた勇敢な人。その人がそばにいてくれるなら、きっと頑張れるわ」
「こころちゃん……」
「あたしと一緒に、ついてきてくれる……?」
最後に声が震えた。なるべく立派に、ついていきたくなるようなしっかりした振る舞いでいたかったのに、新しくできた友人が離れていくかもしれないと思えば泣きそうになってしまう。
眉がしゅんとへたれて弱々しい面持ちになる彼女の後頭部、ほんの少し寝癖の付いた髪に花音は手を伸ばしてかき抱いた。離れてしまうかもだなんて思えないように、ぎゅっと。
「私のセリフだよ、もう。……こころちゃん。私をあなたのバンドに、入れてくれる?」
「……ええ、もちろん! ぐすっ……」
顔を輝かせた途端また泣き出してしまった腕の中の友達をあやすように撫でながら、花音は小さな決心をした。
あのとき『大好き』を諦めない勇気をもらった恩は、寒々しい心の真ん中で篝火となってほわりと燃えている。悴んだ指を温める、人生の夜を照らしてくれた導の火だ。
(もしも、こころちゃんがとっても悲しんで、その火が消え掛かってしまうようなことがあったら──そのときは、私が分けてあげるんだ)
精一杯の友情を金紗の髪に誓って……「あれ?」ふと思った。
「こころちゃん、他のバンドメンバーっているの?」
腕の中でひよこがビクッと震え上がった。顔を上げず胸元にくりくりと顔を押し付けて誤魔化そうとするが、やがて観念したのかぷるぷる震えながら顔を上げる。
そして、へたれ眉になってめそめそ泣き出した。
「……まだ、誰もいないの……!」
「えっ……だ、大丈夫! これから探せばきっと集まるよ! こころちゃん可愛いもん!」
「お父様がお金持ちなだけの可愛くない小娘でしかないのだわ……!」
「ひ、卑屈!」
おろおろする花音に縋り付いてひとしきり泣きじゃくると、こころは小さく鼻を啜って「一応、アテはあるの……」と切り出した。
「同じクラスに、ひとりだけ友達がいるの……音楽を作れる子で、ちょっとイジワルだけど、でもとっても優しいの。近いうちに紹介したいわ」
「なんていう子なの?」
「名前は──」
趣味もそういう方向に自然と寄っていき、とりあえずニーチェと太宰は読んだ。ハルキストを気取るのはメジャーすぎてちょっとと思ったものの、作中に古い名盤がたびたび登場すると言う渋さに惹かれていくつかに手を出した。そこから洋楽だのジャズだのを聞いているうちに理論に興味が出てきて、無料の作曲ソフトをインストールしたのが去年のこと。ニヒルを気取る彼女が初めて素直なまま夢中になったものは、DTMだった。
デスクトップミュージック。アルファベット三文字の略称が中学三年生の柔らかいところに刺さり、頑張って音源を捏ね回して作った曲を楽器店主催の小さなコンテストに投げて……化け物みたいなクオリティの最優秀賞作品に鎧袖一触。18歳以下が対象の企画でそう大したものは出てくるまいと侮った態度でいたら、ギターもベースもドラムも全部自分でやって鍵盤で打ち込みもして丁寧に音の処理も施した逸品がお出しされたのだ。素人をイジメるなと喚くのもみっともないと感じながら自分の作ったものを聞き直した美咲は、思春期の魔法が解けたかつての傑作が心底恥ずかしくなって、それで身の程を弁えた。
伸びた鼻っ柱も無事折られて、毎夜少しだけ苦々しく思い出す青春の1ページに仲間入り。無闇に開帳する気は毛頭ないが、でも、まあ、曲を作るのは楽しかった。趣味としては上等だし、主人公にはなれなくともひっそり人生を謳歌していこう。
そう思い直して数日が経った初めての登校日。なんとなく早く目が覚めて、町名の通り桜の麗らかな川沿いからバス通りも正門も下駄箱も過ぎて教室まで、誰ともすれ違うことなくやってきた彼女はすわ一番乗りかとわくわくしていた。鍵を確かめようと軽く手をかけるとすんなり開いてしまい、少しだけ興醒めしながら教室に一歩踏み入れた瞬間──本物の主人公がそこにいた。
「まあ、自分の机にいた毛虫をどうにもできなくて泣きべそかいてたんですけどね、あのときのこころは」
「だ、だってっ、毛虫さんに乗ってもらえそうなものがなかったんだもの! 潰してしまったらかわいそうじゃない!」
「こころちゃんらしいね……」
商店街の小洒落た喫茶店に開店早々飛び込んでボックス席で歓談、なかなか立派な女子高生になったと自分を褒めたい美咲だった。孤独な青春を送っているつもりはないが薔薇色というほど鮮やかでもない。それがまさか、才色兼備(と言うには少しポメラニアンすぎるか)な友達と初対面の美少女な先輩と一緒にテーブルを囲む日が来ようとは。
……その理由が勧誘のため、というのがなんだか悔しいので、こうして初対面のエピソードを話したりなんてしているのだが。
(まさかあのこころに「バンドを組んで欲しいの!」って言われるなんて)
美少女な先輩はショートケーキを一口食べてカフェオレでさっぱりすると「いいなぁ美咲ちゃん」と本当に羨ましそうに眉を萎ませた。
「そんなにですか?」
「入学式の日って、確かすっごく晴れてて風も穏やかだったよね。出会いの場面を想像してみたら、すっごく素敵で……なんだか本当に物語のワンシーンみたいなんだもん!」
「もん、って言われましても……」
キラキラした目で手を合わせ組み恍惚とする花音に頬杖をついて苦笑する。実はこの先輩のことを、美咲は前々から知っていた。
(いやー、何しても可愛い人だなぁ花音さん。さすがお姫様)
ふわりと揺れるサイドテールにおっとりと笑う穏やかな瞳、立ち居振る舞いはどこかの王女様かの如く気品に満ちている。お姫様、などというのは無論ただの印象から来たあだ名でしかないが、同じ学校にいる子役上がりの女優がなんともオーラのある人物なので、対比させるようにすんなり定着した。なんでも親友同士らしい。
容姿のみならず、自分のものを貸してクラスメイトの忘れものを庇ったり、入学したばかりで特別教室の場所がわからず困っている下級生を案内し(ようとして一層迷子になったところを同級生に救助され)たり、貧乏くじを引きがちな優しい性根も有名だった。ここまで来れば有名人ふたりで並んでくれた方が目の保養なので、悪意に晒されるどころか遠巻きに囲んで可愛がられているように見える。
(そういうとこしか見てないじゃん、って言われたらそれまでだけど)
美咲はなるべく明るい話だけを耳に入れて、他はすぐに忘れるよう心掛けていた。進んで悪口ばかり言うような人間は気にするべきではないし、そういう過ごし方をほとんど苦もなくしていられるくらいには、彼女の高校は良いところだった。
「それでそれで、どうなったの?」
「ふつーにあたしの使ってない鉛筆に乗っけて、そこらに離してもらいました。こころに」
「あのときの美咲ったらひどいのよ!」
お店の中だからか勢いの割に小さい声で、それでもこころはぷんぷん怒っている。可愛らしい若草色のワンピース姿の彼女はなにかとへたれがちな眉を一生懸命吊り上げた。
「美咲が鉛筆を持ってそろりそろりするものだから、てっきり毛虫さんを安全にお引越しさせてくれると思ったのにっ、鉛筆の先に乗っていただいたらそのままあたしに鉛筆を手渡したのよ! 命がかかっていたのに!」
「優しいこころが移してあげた方が毛虫も安心かなって」
「虫さんからしたら人間はみんなおっきくて恐ろしいわよ! あんまりだわ、あたし、あのときは本当に申し訳なくて泣いちゃうかと……いえ、泣きはしなかったけれど!」
花音の顔がほっこりしていた。美咲は今だけ超能力者なので彼女の考えが読める。『ほんとは泣いてたんだろうなぁ、でも言わないであげよう、こころちゃんは可愛いなぁ』だ。この人とは仲良くなれそうな気がする。
「そうやってこころをからかってたら、実は大財閥のご令嬢でしたーって発覚して。先生とかは最初ビクビクしてたし同級生も遠巻きだったんですけど、あたしはなんかもう現実味が湧かなくて笑っちゃったんですよね」
そしていつの間にかこのちっこいポメが後ろにちょこちょこついて回るようになり、気付けばすっかり弦巻さん係となっていた。
「だからまあ、頼みがあるならそれなりに聞いたげる気でいたんだけど……バンドかぁ」
美咲は渋い顔で腕を組んだ。正直、全パート自力演奏マンに打ちのめされた経験のせいで良い気はしない。普段作っている曲もそういうポップロック的な路線からは離れて、ビッグバンドとかマーチとかエレクトロポップとか、どこぞのテーマパークで流れてそうなジャンルばかりだ。
とはいえ、極端なことを言えば美咲が我慢するなり、黒歴史が顔すら出さないくらいこころとのバンドに意欲的になれたりしたら精神的には問題ない。ただ、今は間が悪かった。
「もう一日早く声掛けてくれたらよかったんだけど、あたしバイト始めちゃってさ。ちょうど昨日面接して、これから……って言っても夕方からだけど、初出勤」
「なんのバイトか聞いてもいい?」
「商店街でビラ配り。まあティッシュ配ったり風船配ったり、その時々で違うらしいんだけど……問題が一個あるんですよね」
「ノルマがいっぱいとか?」
「や、そこはむしろ少ないくらいです。……実は、着ぐるみ着るんですよ。ほらこれ」
美咲が見せたスマホの画面には、大きなクマっぽいふわキャラが写っていた。大きくつぶらな目は輝いているような模様入りの艶消しブラックでハイライトはむしろない。体毛は鮮やかなピンクでなんともファンシー。無難と言えば無難なデザインだ。子供が見たら怯えそうだ、と思って花音とふたりしてこころの方を見ると、案外平気そうだった。じゃあちびっ子たちも大丈夫だろうとひとまず置いて「商店街の新マスコットらしくて、宣伝込みだから着用必須なんですよねぇ」と続ける。
「拘束時間が1時間とか2時間くらいだとして、商店街通りかかった子供たちとかの相手したりするのも考えたら、バイトして稼いだお金で趣味充実させて、その上バンドも、ってなると……すみません。ちょっと保たないです」
「そっかぁ……それならしょうがないね」
花音が申し訳なさそうに微笑む隣で、こころも「急に無理を言ってごめんなさい……」とすんなり引き下がった。中学のときの同級生とか、なんなら今の同級生だって面倒くさく食い下がってきそうなのに、ふたりは名残惜しそうにしながらも相手を尊重してくれる。趣味を最優先に慎ましく生きたい、というただの我儘でしかないのを自覚する美咲はほんのり申し訳なくなって「ま、まあこれから稼げるんでね! ライブハウスとか出るならあたしチケット買いますよ!」と捲し立てると、なぜかこころは不思議そうな顔をした。
「ライブハウス……っていうのに出るのが、普通なのかしら?」
「あー……そうかも……? こまめにライブハウス出たり、路上でやったりして知名度上げてくもんなんじゃない?」
詳しくないなりに思いついたことを言ってみると、こころは腕を組んで「むむぅ……」と唸った。
「困ったわ……あたしたち、アウトリーチをメインにした活動を考えていたのに」
「アウトリーチ、ってなに?」
「簡単に言うとね、病院や幼稚園で演奏で元気になってもらおう、って感じの活動だよ。訪問支援とも言うらしいけど……こころちゃんが普段からボランティア活動のお手伝いをやってるから、その延長として」
「花音が提案してくれたのよ! あたしひとりだったらきっと思いつかなかったわ。ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして」
優雅に微笑んで紅茶を飲む花音はなんだか生き生きして見える。いろいろ知っててすごいなぁ、という称賛の視線を向けると、花音がこころを見る目がなんだか一層熱くなった気がする。なんでだろ、と首を傾げる美咲に「そう言うわけだから」とこころが話を戻す。
「ライブハウスよりは路上で演奏する方が趣旨に合ってるかもしれないわ。だから、美咲のお金は美咲のために使ってちょうだい!」
「そう言われちゃうとなんかなぁ……」
美咲は頬をかいた。昨日ふたりで昔のロックのカバーをしたらしいから、やっていこうと思えばこれからもふたりで頑張っていけるんだろう。でも、せっかく出会った『主人公』になにも関われないのは少しつまらなかった。
「ねえこころ、なんかあたし手伝えることない? バンドがっつりは無理だけど、少し手伝うくらいなら」
言ってから、いやなんかってなにさ、と自嘲した美咲だったが、取り消す言葉を口にすることはできなかった。
「…………ぐすっ」
「ちょっ」
じわじわと目が潤んでいってあっという間に氾濫したこころに驚いてそれどころではなかった。美咲が硬直している間に花音がハンカチを取り出して涙を拭いながら、優しく頭を撫で始めた。
「よかったね、こころちゃん」
「……それほどのものかなぁ、あたし」
「友達と一緒にいられるんだもの! 嬉しいわ!」
「ふーん……そう……」
こころは「それで、お手伝いだったわね……」と呟いて、にこにこと嬉しそうに美咲を見つめる花音に目配せした。
「うん、いいんじゃないかなぁ」
「そうよね! 美咲ならきっと大丈夫だわ!」
「待ってなんの話? あんま大変なことはちょっと……」
「大変じゃないわ。ねえ、美咲、あたしたちこの後、近所の幼稚園のお花見会のお手伝いに行くの。よかったら、一緒にどうかしら」
「近所……商店街の近くの、あそこ?」
「ええ! ここから歩いて10分くらいのとこね。もちろん、バイトの時間になったら抜けて大丈夫だわ」
頭の中で地図と予定表を広げる。商店街の事務所に行くのは15時頃、打ち合わせして準備をして16時から着ぐるみを着込むことになっている。事務所から幼稚園までは歩いて……確か、本当にすぐそこだ。
「……そのお花見、何時から」
「11時からよ。特にお料理とかはしないで、配膳とかのお手伝いをすることになっているわ。美味しい豚汁を作るらしいの!」
「…‥それなら、まあ、一緒に行くよ」
返事をしたときのふたりの喜びようと来たら満開の笑顔で、これなら大変なことだって引き受けてもよかったかもな、なんて思わされるくらい華やかだった。
(あのときのあたし、滅ぶべし)
美咲は目の前の光景に白目を剥いていた。
「みんなー! 初めまして! ボク、ミッシェル! お歌を歌いに来たよ!」
「わー!」
「かわいいー!」
「えへへ……ありがとー!」
はらはら笑う桜の下、ご機嫌麗しい弾んだお声でピンクのクマことミッシェルお嬢様がそう仰られた。お行儀よく座った園児たちが拍手をして、少し離れたところで保護者たちが朗らかに見守っている。
隣には用意されたドラムセットで苦笑いのまま準備するとんでも度胸の花音と……テキパキとDJブースをセッティングする黒服集団。
これから美咲の曲を流すのだ。
自分の手で。
弦巻家次期後継者たるご令嬢にお歌いいただきながら。
(あたし、弦巻家に消されないかな)
美咲は十数分前の自分を思い出して、じくじくと呪いはじめた。