嶺渡アトリは決して天才ではない。
もちろん才能はあるだろう。早々に翼を発現させ飛び立ったのは偶然ではなく、彼女が持つカザヨミとしての才能が秀でている証である。
けれど嶺渡アトリは天才ではない。その実力は並々ならぬ努力によって形成され、鬼気迫る集中力によってもたらされた。
幼き頃は母親の恐怖より逃れるため、その後はユナへの贖罪と、アトリの為に。彼女が短い人生の中で自身を甘やかした事はない。そのような余裕など無かった。
オウミの都市で下級の誰よりも長く、多く、高く飛んだ。自身が壊れる事さえ躊躇わず、いっそ壊れてくれと願うほど狂気的に。
だからこそ、アトリは自分自身をよくよく理解している。……もしかしたら、心については妹の方が理解しているかもしれない。けれどカザヨミとしての実力に関しては、アトリは
それはつまり、同じ魂を持ちいていた花鶏を信じているという意味でもある。
「なんなのさあ!! おまえは!!」
「うるさいですね。空を飛ぶのなら感情を露わにしてはいけませんよ」
歪な結晶の翼を持つ晶動体は対峙するアトリをにらみつける。アトリは軽く体をひねるだけで視線を用いた結晶の析出を回避し、晶動体に肉薄する。
「っ!」
「そうですよね。距離を詰められるとそう動きますよね」
接近するアトリに毒針を投射する晶動体の動きを完全に読んでいたアトリは針が射出される前に回避行動に移る。
「ばかにするなっ!!」
晶動体は予備動作なしで急加速しアトリの背後に移動する。もはや目で追えるギリギリのスピードであり、視界に収めても反応出来ないほどの速度。不意を突かれたアトリは振り返る間もなく結晶の析出に巻き込まれるはずだった。
「はあ!?」
だが、アトリは視界に捉えていた晶動体の姿がブレた瞬間には、宙返りするように上へと回避運動を開始していた。後ろを取ったと思っていた晶動体は上空へと逃げたアトリの姿を見上げて目を見開く。
晶動体は雲海という環境に最も適応した生命体だ。停滞結晶の体を持ち、エーテルを自由に誘引出来る。さらにアトリの目の前に居る晶動体はカザヨミのように翼を生やし、飛ぶ事に特化してみせた。
そんな晶動体の動きを把握することは都市の一般的なカザヨミはおろか、特級やユナのような隔絶した才能を有していたとしても困難を極めるだろう。
才能という点で特級に劣るアトリの技術では、晶動体の動きを捉える事など不可能なはずだった。
だが、アトリは晶動体の動きをほぼ正確に把握していた。自身と対峙し、どのように動くのか、どのように回避し、どのように攻撃に転じるのか。
この後どのように動いてくるか、それをアトリはこれ以上ないほど理解していた。
なぜなら、
「それは全部、私の動きだから」
晶動体と魂がつながった時、アトリは彼女の記憶を覗き見た。生まれてからこれまでの、燕のカザヨミと出会い、ユナと行動を共にしていた時までを。
その記憶の中の晶動体は、アトリ以外のカザヨミの"本格的な動き"を見た形跡がなかった。燕のカザヨミとの邂逅時、晶動体は眠って意識がなかった。ユナとの交流の際はいつもユナは翼を収納し、飛ぶ時もソアリングを主軸とした基本的な動きしか見せなかった。
結果として晶動体の中には、アトリの記憶の残滓に含まれていた血がにじむ努力による経験だけが残されていた。
アトリが最も良く知る、体と心に刻み込まれた努力の成果が。
「なんで私の方が速いはずなのに追いつけないの!!?」
「どんな飛び方をするか分かっているから。貴方が飛ぶ先への、近道を探せばいいだけ」
晶動体がいら立つ。隣で同じような動きで同じように飛ぶアトリへ針を投射するが、それも分かっていたように回避される。
「なんで! 当たんないの!?」
「私が飛び道具を持っていたら、同じタイミングで使うから」
「うううううーーー!!」
"彼を知り己を知れば百戦殆からず"、という諺がある。相手と自身の持ち得るものを知っていれば、それだけ有利に行動出来る。アトリは晶動体の動きを良く知っており、同じく自身の動きも良く知っていた。どちらも同じだからだ。
「ばか! ばか! しんじゃえーーー!」
「くっ!」
だが相手がどのように動くか先読みするように対処できたとして、それは晶動体の動きを封じた事にはならない。雲海で最も自由に動けるのはまぎれもなく晶動体であり、力任せに来られるとアトリではどうしようもない。
晶動体の飛行速度はもはや普通のカザヨミでは残像しか追いかける事が出来ないほどのスピードに突入し、瓦礫に衝突する事も構わずアトリを攻め立てる。
「当たれっ!」
「!」
結晶の針がアトリの背後から投擲される。だが、それさえも読んでいたアトリは視界から晶動体が消えたタイミングで後方からの攻撃を予測して回避し、晶動体の伸ばされた腕を掴んだ。
「あっ!? は、はなせえ!?」
「あなた……」
そのまま無力化しようとしていたアトリは驚き目を見開く。掴んだ晶動体の腕は激しくひび割れ、結晶の粒子が散っていた。結晶が形を保てなくなっている。
「……あなた、死にたいの?」
アトリの目の前にいる晶動体は他の晶動体を同族と認識していない。アトリが覗いた記憶では、目覚めた時から今に至るまで、彼女は人として振る舞い、人として活動していた。技術としてエーテルを見る力や雲海を渡る
人が人でない生物を見るような感覚で彼女は他の晶動体を見つめていた。彼女は自分が人間だと思っていた。
少なくともカザヨミのようにエーテルを纏いながら空を飛ぶ人間だと思い込んでいた。そんな認識が彼女の晶動体としての能力を著しく制限させている。もっと簡単に、自由に雲海を飛ぶ方法があるにも関わらず、彼女は背中に不格好な翼を生み出し、エーテルの海を泳ぐには不便な四肢をもって雲海の中に居た。
雲海に最適化された姿から逸脱した彼女は無駄なエネルギーの消費を加速させていた。
また、カザヨミは良く食べ、良く眠る。空を飛ぶにはそれだけのエネルギーが必要で、集中力が不可欠だからだ。
けれど彼女は食べることも眠る事も無く、集中力など皆無で空を飛んでいる。ならばそんな状況で飛行を可能にするエネルギーは何処から供給されているのか。
無論、自分自身から。
彼女は自身の体を形成する結晶をエネルギーとして消耗させながら空を飛んでいた。
「死にたい!? おまえがそれを言うのか!!!」
触れた腕から魂の繋がりが感じられる。もはや晶動体にアトリの魂はほとんど残っていない。あるのは怒りや絶望といった激しい感情の残り滓だけ。もはや晶動体は自身が何を言っているのかさえ理解出来ていないだろう。
叫ぶ晶動体の瞳から仄暗い青色の燐光が漏れ出ている。にらみつける視線は目と鼻の先にいるアトリに注がれており、エーテルが晶動体の視線の先に誘引されていく。
「しね!!!」
晶動体の瞳が煌めき空気中のエーテル濃度が一定のラインを突破、結晶とし空間に析出する。だが結晶がアトリの体を破壊することは無かった。
「あっ!?」
「……」
アトリが晶動体を抱きしめた。晶動体の頭のすぐ横にアトリの頭がある。視線は空へと彷徨い、どうでもいいところに結晶の花を咲かせた。
「なにして──」
「ごめんね」
ふわりと、アトリの髪が揺れてなびいた。
エーテルが低重力空間のように瓦礫の動きを制限し、光や音さえも遠ざかっているように感じてしまう。
「あなたは……」
アトリは晶動体を優しく抱きしめ、自身に問い答えるようにつぶやいた。
晶動体がまだ魂を内包し、花鶏であった時、クラコはユナにどちらかを選択しなければならないと言った。すなわち、花鶏かアトリ、どちらを助けるか。
あの状況においてこの選択の提示は確かに正しく、魂が
だが、アトリが魂を取り戻し、抜け殻となった晶動体と相対し、その選択は無意味になった。
……アトリが本物として魂を取り戻し、晶動体が偽物と確定したから、ではなく。
「あなたは……私なんだよね」
彼女もまた、アトリであるから。
あの時、か細い意識の中でユナはアトリに伝えた。
"お姉ちゃん、あの子の、ところに行ったら……"
"
ふわりと瓦礫が浮かび、空間に揺蕩う。嵐の過ぎ去った直後の千切れた雲たちが空に停滞する様のように。海中の気泡がゆっくりと上へと舞い上がるように。
カザヨミにとって他者との触れ合いは自身の最も深い所と繋がるための手段である。それは羽繕いと呼ばれ、カザヨミに関する技術の一つとして認知されている。だが、それだけが彼女たちの深い繋がりを確かめる方法ではない。
ただ、大切な人と触れ合い、抱きしめてやるだけで自ずと心は通じ合ってくれる。たとえ離れた自分自身の心であったとしても。
「……わたし、は……あとり……?」
「うん……あなたは、アトリ。私と同じ、アトリ」
アトリが魂を取り戻し、本物となったからといって花鶏が偽物となったわけでは無い。どちらもアトリであり、同一の魂を共有した同一の存在でしかなかった。
「あなたは私の一部で、私そのものだったんだ」
「わたしは……」
晶動体の体にヒビが広がっていく。カザヨミを真似た非効率な飛行と、自身の体を切り離して形成した針の投射。それらは晶動体の体をじわじわと崩壊へと導いていた。何より、晶動体が晶動体として活動する為に必要な核である魂が失われてしまった。今の彼女は晶動体というよりも、停滞した記憶の一部を再生しているだけの大きな停滞結晶に過ぎない、のかもしれない。
「私は……自由に、なって、……いすかと、一緒に……、ただ、しあわせ……に……」
指の先から徐々に崩れていく。青い光が炎のように崩れた部分に纏わりつき、彼女の体を包み込んでいく。
「そうだね。自由に空を飛んで、あの子と一緒に居られるだけで、私は幸せだった」
大きなヒビが晶動体の胸元に走り、顔にまで達する。目元に現れたヒビが涙のように見えて、悲しそうな顔に見えて、今のアトリの心を鮮明に映し出しているようだった。
「あなたは私、だから、あなたの記憶も一緒に持っていく。あなたを忘れないように、あなたが私であった事を覚えていられるように。だから」
晶動体の体がエーテルの燐光の中に崩れて消えていく。損耗したエネルギーを維持するための核を失った晶動体は最後にアトリに目を合わせ、瞳の中に自身の姿を見た。
「……もう、にげたらだめ」
「わかってる。逃げないから、見ててね」
最後にアトリは小さく微笑んだ。花鶏がアトリならば、きっと消えゆく彼女も同じようにアトリに微笑み返してくれただろうから。