「終わったか?」
「……はい。あの子は、私のところに帰ってきました」
「……そうか」
晶動体の少女を見送ったアトリの後ろからミサゴが声をかける。振り返ったアトリは何処かすっきりとした面持ちでミサゴに向き直った。
「ユナ、さんは……」
「一足先に脱出した。あの子たちの翼なら既に逆灯台を抜けた頃だろう」
言い慣れない名前をたどたどしく口にして、それさえも何処か躊躇いがちなアトリの様子を仕方ないと思いながらアトリは雲海の向こうに視線を向ける。
「そうですか……」
じっと、アトリが同じように遠くを見る。何かを思い出しているようなアトリの視線の先には何もない。
あるいはアトリにとっては何もない遥か先こそが、向かうべき場所だと思っているのかもしれない。
だが、そんな彼方への視線を鼻で笑い、ミサゴは視線を伏せたままのアトリに向き直った。
「ユナからの伝言だ。"必ず帰ってきてください"だとさ」
「……どうしてわかるのでしょうね」
もしもミサゴがアトリを迎えに来なかったら。もしもミサゴがユナの伝言を携えていなかったら。
アトリはこの荒れた灰色ホテルの中でユナへの贖罪を果たした、かもしれない。
「お前の事が心配なのだろう。それに、
「……」
ミサゴの言葉を素直に受け取れるほどにアトリは子どもでは無かった。あれほどの仕打ちを、見て見ぬふりした自身を許すどころか心配までするなんて。それほどまでに、ユナが手を差し伸べてくれるなんて。
「分からないなら本人に聞くと言いさ。ほら、帰るぞ。隊長の命令は聞いてくれるよな?」
「……、わかりました」
再びアトリの視線はミサゴと合わさる。ミサゴの優しい笑みはアトリのどうしようもない困惑の波を穏やかに宥めてくれる。彼女たち、第十七飛行隊のメンバーの一人として見てくれている。それがミサゴにはどうしようもなく嬉しかった。
アトリは世界で独りぼっちだと思っていた。周囲を拒絶し、幸せになる事を罪悪感が許してくれない。けれどそうではなかった。
アトリには大切な妹のイスカが居て、信頼できるミサゴたち先輩がいて、頼りになる国城先生がいて、ユナという罪を
「第十七飛行隊、嶺渡アトリ。隊長命令に従います」
堅苦しい挨拶をわざとらしくやってのけ、不器用に笑みを作るアトリは、そうしてようやく大切なものを思い出せた。
かつてイスカと共に見た広大な湖の雄大さを、今度は共に飛ぶ仲間たちと一緒に感じて見たくなった。それはアトリが生きる意味を見出した故の思いだった。
「ふふっ、さあ抜けるぞ」
アトリはミサゴに支えてもらいながらボロボロの翼を広げ、重たそうに羽ばたいた。けれど、それでも体は軽かった。
◇
「もうすぐ逆灯台を抜けるっス。無風地帯を直下して山に添って都市に向かうっス」
「はい! ユナさん、もうすぐですからね」
「ふう……う、ん」
「しゃべろうとしなくていいわよっ」
雲海からもうすぐ離脱しようとしているヒタキとツグミとイスカ。そして重症状態のユナ。
『二人とも聞こえてる? もう少しよ、支配領域近くで迎えが待ってるから』
無風地帯を縦に抜ければ雲海の下へと抜けられるが、抜ければ雲海の影響によって荒れた気流の渦巻く山脈地帯の影響をモロに受けることになる。突発的な降害に遭遇する事もあり、本来ならば選択されない空路だ。それでもこの空路を選んだのは雲海の影響下から素早く抜けられるからと、抜けた先に先生からの迎えが待っているから、というのが大きかった。
ユナたちが灰色ホテルを離脱し、着々と雲海の支配領域から離れようと飛行している間にクラコは国城と連絡を取り、最低限の情報共有を行ったうえでユナたちを保護するように動いてくれていた。
本当ならばすぐにでもユナのもとに駆け付けたい衝動を抑え込み、クラコは国城の提示した案を呑んだ。全てユナの為に。
「了解っス。雲海を抜ければあとは楽な
「クラコさんには申し訳ありませんけど……ひとまず都市のカザヨミ施設へと運ばせて貰います。エーテル関連の治療技術もスタッフもそろっていますので」
『ええ、お願いするわ……』
ユナの腹部は傷に布が当てられ出来るだけ出血を抑えるように応急処置が施されていた。ヒタキが自身の服を破き、知識のあるツグミが流血を抑えるよう処置をしたのだ。
ユナは返事をすることも億劫になるほどの痛みに耐えながらも意識は保ち、翼を発現させ続けている。ユナを抱いて運んでいるツグミの手は自然とユナの翼に触れ、それが偶然にも羽繕いのように"繋がり"を生じさせる。
それはクラコや他のカザヨミたちでさえ予測していなかった偶然の産物であった。
結果としてユナの体内に残留していたエーテルは繋がりに誘引され翼から体外へと排出。ユナ自身のカザヨミの回復力が機能しているおかげでユナは傷を負った直後よりも状態は改善方向に向かっていた。
もちろんこのまま放置していれば傷が勝手に治るというほどではない。肉体の損傷がカザヨミの回復力で修復される前にユナの体力と血量が底をつく可能性の方がよっぽど高い。
ユナへの負担を最低限に抑え、かつ最高速で飛行し、そうしてついに雲海本体を抜ける事に成功した。雲海の支配領域内を真下に移動しながら、イスカは不安そうに離れていく雲海を見る。
「……お姉ちゃんは……」
「帰ってくるっスよ。アトリちゃんは真面目っスから」
「ミサゴ先輩が必ず連れ戻してくれますから!」
「そう、だよね。うん。今は、ユナを──」
ユナを気遣いながらも可能な限りの速度で飛び、もうすぐ支配領域を抜けるという所で……、一瞬イスカたちは翼の制御を失った。
「!? これって」
「行動中止! 翼を広げるっス! その場で待機するっス!」
「イスカちゃんこっちに!」
「ユナちゃんを抱えるっス!!」
ほんの一瞬の、まるでノイズのような翼の違和感の正体をヒタキは嫌な汗をかきながら察する。
「ヒタキ先輩! これは……」
「エーテルに翼が"押された"っスね……! かなりの濃さのエーテルが降りてきてるっス」
エーテルは本来誘引の特性によってより濃いエーテルへと引かれていく。そのため雲海のエーテルはその全てが上層へと移動を続け、雲海外のエーテルを吸い込み続けている。
だが、停滞結晶の崩壊や強くエーテルを誘引していた晶動体が動きを停止したとき、誘引されていたエーテルが開放され一時的に周囲へと拡散する場合がある。
無理やり引っ張られていた膨大なエーテルが解き放たれた時の反応こそが、ヒタキが感じたエーテルの圧力だった。
「何が起こってるの……」
困惑を露わにするイスカは肌に感じる違和感に思わず身震いする。まだ雲海の影響範囲とはいえ、既に雲海の本体からは脱出したはずなのに、まだ雲海の中で彷徨っているような感覚に襲われる。
「……呼んでる」
『ユナ!? っ、何処に行くのユナっ!!』
ヒタキが圧力のように感じたエーテルの波を受けてユナはふわりと髪をなびかせ、目を開いた。力なく垂れ下がっていたユナの翼は主の動きに従うように大きく広がる。ユナが空に手を伸ばせば、その手を誰かが掴んだかのようにユナの体は空の上へと舞い上がる。
「ユナちゃん帰ってくるっス! その傷じゃ雲海の中はっ!!」
ヒタキの叫び声さえも既に届かない距離までユナは一気に飛び出し、ヒタキたちが追いかける間もなくユナの姿は再び雲海の中へと消えてしまった。同時にクラコの声もユナと共に遠ざかり、イスカたちは突然の事に唖然とするほかない。
「ちょ、ちょっと、どうすんのよ!?」
「ヒタキ先輩……!」
「くう……、」
イスカとツグミはヒタキに視線を向ける。飛行隊のリーダーであるミサゴが居ない現状、隊員が従うべきはこの中で最も等級の高いヒタキだ。このまま都市へと帰還し現状を先生へと報告するか、それともユナを追いかけるか。
「ヒタキ先輩……」
「──ああもうっ! 何も言わないなら私は行くわよ! あの子とお姉ちゃんを助けに行く!!」
「待つっス!! ……第十七飛行隊は直ぐに都市に帰還するっス。現状を先生に報告し、後の事は先生の指示を待つ!」
ヒタキは視線を向ける。雲海へ消えていったユナにではなく、帰るべき地上へ。
「な──。く、分かったわよ!」
「……了解しました。ヒタキ先輩」
不満を露わにしながらもヒタキの言葉に従う二人と共にヒタキはすぐさま地上を目指す。
ヒタキも本音では今すぐ雲海に飛び込んでい行きたい。だが、雲海内を無理に飛行した事で全員がかなり疲弊している。エーテルの充満した領域で無茶な飛行を続けた弊害はカザヨミに無意識な消耗を発生させる。恐らく再度雲海へ入り込む余裕は無いだろう。
エーテルの波は今も放たれ続けている。逆灯台に居たカザヨミたちが何事かと雲海から飛び出てくる。
「ヒタキ先輩! 結晶の析出が!」
「! 早く離脱するっス!」
何もないはずの空間がチカチカと光を反射し始める。立ち込めていたエーテルが細かな結晶を構成し始め、雲海の外であるにも関わらず結晶が析出しようとしていた。
光を散乱させる結晶はエーテルの波に乗って地上へと降り注ぐ。灰色がかった結晶の降下は、縁起の悪い灰色の雨を彷彿とさせた。
「ミサゴ先輩……!」
ミサゴがかつて言っていた言葉を思い出す。灰色の雨は、良くないものを連れてくるのだとか。
◇
突然発生したエーテルの圧力を灰色ホテルを離脱しようとしていたミサゴとアトリは瓦礫の一片にしがみついてやり過ごしていた。脈動するエーテルの波は動きを止めていた巨大なクラゲの晶動体を中心に拡散している。
「アトリ、大丈夫か?」
「はい。なんとも……ですが、今の振動は」
「エーテルが大きく動いたようだな……しかし、活動している晶動体が居なくなったというのになぜ……っ、アトリ!!」
「!!」
濃いエーテルが突風のように吹き付けたかと思うと、直後巨大なクラゲの触手がアトリとミサゴへと向かってきた。それは今までのような一本だけという単調な動きでは無く、全方位から二人を押しつぶそうと迫っていた。
「こっちだ!」
ミサゴが先導し触手の隙間を間一髪で抜けていく。先を飛ぶミサゴのおかげで正面から来る突風やエーテルの影響を最小限に抑えられているおかげで満身創痍なアトリも何とかミサゴの後を追えている。
「これは一体……何が起こって」
灰色ホテルを支配していた巨大なクラゲの晶動体はこれまで本物のクラゲのように雲海領域を揺蕩うだけの存在だった。それを晶動体となった花鶏がエーテルを操る力を用いて無理やり動かしていた。
だが、今のクラゲの晶動体の動きはそのどれでもない。生物としてのクラゲを模したものでも、花鶏が操作しているものでも無い。
まるで別の何かがクラゲの体を動かしているように思えた。
「分からん。だが……。!?……くっ!」
「ミサゴ先輩!?」
不可思議なクラゲの動きに戸惑うアトリと、エーテルの流れを見極めようとクラゲを凝視していたミサゴ。揺れ動く触手が誘引するエーテルはクラゲを構成する"核たち"と繋がり、それはミサゴの目を通して訴えかけてくる。
ぐらりとミサゴの視界が大きくぶれる。瞬間的な頭痛と吐き気がミサゴを襲い、膨大な情報が脳裏に送信される。
その原理はまさに、ユナとクラコを繋いでいる夫婦結晶と同じものだった。
「ミサゴ先輩どうしたんですか!? 何処か怪我を……!」
「大丈夫、だ……この程度で動揺しなくていい……。少し、不味い事になったかもしれん……」
空間全体がかき混ぜられエーテルが乱在する空間、満たされたエーテルはクラゲが本来肉体を構成していたエーテルであり、つまりは空間そのものが元来クラゲであった。
クラゲを構成していたエーテルを視る事でミサゴはクラゲの晶動体の本来の意思を覗き見てしまった。
「"あれら"は、地上を目指している。だが、実際に目指している場所は……」
雲海廃墟"灰色ホテル"はかつて地上に存在していた温泉地を丸ごと飲み込んだ巨大な廃墟群だ。雲海が飲み込んだものは建物、温泉、マグマ、火山。
そして、人。
その温泉地は観光業で成り立っていた。数百名の住民が暮らし、年間で数十万もの観光客が訪れた。
その膨大な人間の命……あるいは魂と呼ばれるものは雲海に飲み込まれ、魂を核として晶動体を生み出す。
だが、灰色ホテルという特殊な空間の形成に伴い発生した晶動体は瓦礫と同様に集合と散開を繰り返した。
徐々に瓦礫の衛星が構成されるように、無数の晶動体は一つの塊となっていった。
一つの巨大な体に数十万もの魂を内包した、歪な晶動体。それが灰色ホテルを支配するクラゲの正体だった。
クラゲが触手を広げ、戦慄くように纏ったエーテルを波打たせる。数百、あるいは数十万の晶動体の声がエーテルを通してミサゴの眼と耳を焼く。
"帰りたい。帰りたい。かえりたい"
「くっ!?」
「ミサゴ先輩❕?」
"暗い。怖い。どこ? 私の家は、どこ……?"
「くそ……、これが幻聴ならどれほど良かったか……!」
"助けて"
"帰して"
"苦しい"
エーテルが視えるミサゴの耳にはっきりと晶動体の声が届けられる。声というにはあまりにも歪な怨嗟と悔恨にまみれた声。晶動体という単体で個を確立できなかった"晶動体もどき"は魂が混ざり合い、記憶が混濁したまま空を彷徨っていた。
個の肉体を失い、自我を保つ自己同一性を消失した魂たちは、自らが何者だったのかも分からず、数多の嘆きと唯一の欲求をもってクラゲの胎に収まっていた。
「あの魂たちは、帰る場所を求めている」
「あの巨大な晶動体が、地上へ……!?」
かつて停滞結晶という強固な檻の中に閉じ込められていた魂の集合体は花鶏というはっきりした自我を持つ晶動体との繋がりによってクラゲの入れ物を動かす方法を理解した。
その後花鶏という司令塔が失われた事でクラゲの魂たちは入れ物の制御権を手に入れ、いっせいに動き出した。唯一の欲求、地上への帰還の為に。
「なっ……!?」
「離れろアトリ……!!」
クラゲの晶動体がやおら動き出す。巨体をしなやかに動かし、数本の太い触手が纏まって一本の太く大きな"腕"を形作る。それが二本。右手と左手と成り、太い纏まりの先端から五本の触手が"指"のような形へと変化していく。
「なにが、何をしようとしているんですかっ! アレは!」
「帰るつもりだ。地上へ……だが、もはやあれらに人としての感覚は残っていない……、懐かしく、心地よい空気を地上だと勘違いしているのだろう……」
人間のような腕と指先を手に入れたクラゲだったものは、その指先を灰色ホテルの天頂へと掲げ、領域の境界へと十本の指を突き刺す。そのまま境界を割り裂くようにして手を動かす。
破れた境界の向こうより見える"何か"。降り注ぐ粒子状の結晶と、名状しがたき何かの姿。
「っ、見るなアトリ! 目を閉じろ!」
クラゲだったものが割り裂いたのは只の領域の境界では無かった。かつて灰色ホテルが複数の衛星と中心の星によって構成され、未知の法則によって構築されていた時、全てのエーテルが循環する中心部であり、灰色ホテル全体に満たされたエーテルの出所。
つまり、雲海上層。
人類が未だ到達したことの無い未踏の領域。
存在だけが示唆されているエーテルの終着地点。
上層を視認した瞬間、ミサゴは自身の口元を覆っていた耐エーテル用のマスクを、体も装備もボロボロなアトリの口元に被せ、自身は口元を手で覆う。
「う、ごほ……」
「ミサゴ先輩っ!!」
(かなり距離があるはずだ。なのに、肺に析出が……、アトリは……無事か)
境界の裂け目から顔を覗かせるのは悍ましいまでの気配と、荒れ果てた大地。
大地が逆さまになって空に浮かんでいる。草木の一本も生えていない岩石に覆われた地表が上空に広がっている。まるで空の上こそが大地であるかのような錯覚を覚えるほどに現実的で、圧倒的で、そして懐かしい。
クラゲの晶動体は上層より現れた大地へと手を伸ばす。クラゲを構成する魂たちは上層より感じられる心地よい空気を地上への郷愁と錯覚し、上層へと向かう。そこが自分たちの帰るべき地上であると疑わず。
魂たちは気付いていない。その衝動は人が大地を懐かしく感じる思いではなく、晶動体がエーテルに誘引されているだけであるという事に。魂たちは、自身が只の停滞結晶となった事に気付いていない。
「アトリ……離れ、ろ」
「ミサゴ先輩っ! 何をするつもりですかっ!?」
開かれた上層への入り口を起点として灰色ホテルの空間全体が結晶で覆われようとしている。本来エーテルは互いに誘引し合い、それ以外の方法では基本的に周囲に拡散はしない。
故に上層のエーテルそのものは勝手に下へと流れていかない。だが、もしクラゲが自身の勘違いに気付き、このまま上層のエーテルを誘引させたまま本当の地上へと向かったら……?
「上層の入り口を閉じる……! お前は避難しろ!」
クラゲの両腕が無理やり上層への入口を開いている。ならば、あの腕をどうにかすれば何とかなるかもしれない。
「ミサゴ先輩っ!」
未だ体力が回復していない状態で高濃度のエーテルに曝されたアトリは満足に翼を動かすこともままならず、飛んでいくミサゴを追う事さえ出来ない。遠ざかるアトリの叫びが聞こえなくなっていく。ミサゴは胸の激痛を無視するように口元の血を無造作に拭い、上層への入口を開いているクラゲの腕を破壊するべく、致命的な濃度のエーテル領域へと向かおうとしていた。
結晶そのものであるクラゲの体を伝って中層へ降りてくる上層のエーテル。徐々に結晶に覆われようとしている灰色ホテルの領域は散乱する瓦礫に鋭利な結晶が析出し、周囲全てが掠るだけで肌を切り裂く凶器へと姿を変えていた。
(果たしてあそこまで飛べるだろうか。ふっ……我ながら無茶、いや、これは無謀だな)
クラゲの晶動体が地上と勘違いして上層を開けた。裂け目を広げている腕さえ何とかすれば裂け目を閉じられる。少なくとも、これ以上のエーテルの流入を抑えられるはず。
「まあいいさ、カザヨミとして到達できないなら、それ以外に成ってでも……」
既に析出限界速度の限界点が想定される最大値を突破し光の速度で飛行してもエーテルが析出してしまう濃度を記録している。結晶化していないだけの、停滞結晶と同等のエネルギーに満たされようとしている空間のその先へと手を伸ばすミサゴ。
視神経さえエーテルに曝され視界が極彩色にエーテルの奔流を映し出す。脳裏にちらつく幾つもの記憶が、さながら走馬灯のように流れ出す。
(……これでは、アトリに偉そうな事を言えんな……)
記憶の彼方に忘れていたミサゴの記憶。かつて先輩や同僚たちと空を飛び、雲海へと向かった。
そして、自分だけが帰って来た。
(お前たちも、そこに居るのか……?)
数十万の魂をため込んだクラゲの晶動体はミサゴに気付きもしない。上層の入り口を大きく開け、その向こうへと至ろうと体を動かす。
(なら帰って、こい…………!)
意識が消えかかるその瞬間、ミサゴは懐に隠していた結晶の毒針を取り出した。針を片手で握りしめ、大きく振りかぶって狙いを定める。空間はエーテルで満たされ、針は停滞結晶で出来ている。そして、狙う相手も結晶。
(アトリが手にしていた銃、あれと同じだ。火薬で結晶を打ち出し、空気抵抗を"停滞"させ、エーテルの弾速停滞を中和させる)
ミサゴはエーテルの濃度が即死圏内に突入するギリギリまでクラゲに近づき、翼でエーテルを掴み空間に体を固定する。カザヨミの力が極限まで込められた腕で、目で追う事すら不可能な速度で振りかぶられた毒針は圧倒的な射出速度でもって空間を切り裂いた。
風切り音は聞こえない。空気の抵抗は既に停滞している。毒針の速度低下を招く要因は全てが停滞し、置き去りにされた。まっすぐクラゲの腕に毒針が向かっていく。あまりにも巨大なクラゲの腕に比べれば毒針は蚊ほどの威力も無いだろう。
だが、その思い込みは人類が物理法則によって成り立っている地上で生活しているからこその想像だ。
クラゲの腕に着弾した針は深く食い込み、片腕全体に無数のヒビを生み出す。毒針は上層より漏れ出るエーテルを誘引し、わずかに体積を増やす。食い込んだ毒針が内側から結晶を圧迫する事で、外部の衝撃以上の圧力が結晶内部に発生する。
まるでガラス板に生まれたヒビの起点に釘を打ち込んだような状態。この衝撃によって晶動体の腕は粉砕されるはずとミサゴは考えていた。だが。
(修復が速い! 上層のエーテルか……!)
小さな結晶に過ぎない毒針よりも晶動体が誘引するエーテルの方が遥かに多い。腕に打ち込まれた結晶が腕を破壊するよりも晶動体がヒビを修復する方が早かった。それだけ毒針の体積が増大しようと、ヒビという崩壊のきっかけを失った事でミサゴの目論見は外れてしまう。
毒針という爆弾は打ち込んだ。だが、それを起爆させる方法はない。
(……だめ、か。体が重いな……)
ミサゴの体が宙に固定される。飛んでいるのではない。翼に結晶が析出し、体全体が硬直して動かすことが出来なくなっていた。
このままカザヨミの抵抗力より上層のエーテルが上回れば、体の内側から結晶を析出させ、ミサゴは死ぬだろう。そんな自身の結末をうっすら予感し、目を閉じようとした瞬間。
ミサゴの後ろから、腕が伸ばされた。
腕はミサゴの視線の向こうへと伸ばされ、その広げられた手のひらはクラゲへと掲げられている。
「だれ、だ……?」
喉に張り付く結晶に痛みを覚えながらミサゴは振り返ろうと首を動かそうとする。それよりも早く、伸ばされた腕と逆の腕でミサゴは後方へと引っ張られ、高濃度エーテル領域より抜け出す。
「な……! ユナ!?」
「大丈夫ですか、ミサゴお姉ちゃん」
そこに居たのは酷い出血と体内に残留するエーテルで意識を失っていたはずの、ユナだった。