ユナの両親がユナの為に遺した夫婦結晶は、両親が意図してその特性を先鋭化させた特殊な結晶として認識されている。本来結晶は様々な特性を内包しており、それらはエーテルを誘引するために作用している。そんな特性の中で両親はエーテルがどれほどまで誘引出来るのかという距離限界に関する特性を先鋭化させた結晶をユナへと贈った。
エーテルがエーテルを誘引する際の距離に限界はなく、また誘引の強弱においても同様である。だが、対して同性質を持つエーテルや停滞結晶の影響はかなり受けやすい。
本来ならば空気中のエーテルの薄さによって誘引特性は弱まり、誘引特性を発している結晶よりも高密度の結晶の誘引によって妨害されるのだが、夫婦結晶はそれらのエーテルの濃淡による通信の不安定さを、エーテルの誘引という本来の役目を放棄し、エーテルとエーテルとを"繋ぐ"という一点に先鋭化させた事で克服させた。
それは夫婦結晶がまともにエーテルを誘引しない代わりに、あらゆるエーテルと"繋がりやすく"なっているという意味でもあった。
ユナは視界に映るエーテルの"流れ"から先ほどミサゴが投擲した毒針の軌跡を選び"手に取る"
揺蕩うエーテルの軌跡はユナの手のひらに収まり、何かを待っているようにさえ見える。ユナはそれを強く握り込む。その動作を合図とするようにクラゲの腕に食い込んでいた結晶が砕かれたガラスのような音と共に爆発した。内側からの圧力はクラゲの腕に深いヒビをもたらし、複数の破片が脱落する。
だが、それでも巨大なクラゲの腕を完全に破壊するまでには至らない。
「……」
ユナは懐からもう一本、毒針を取り出す。表面が赤く塗れたそれはユナが手のひらの上に乗せただけで浮かび上がる。
「行って」
ユナの言葉に従うように、ユナの視線の先へ……クラゲへと一直線に向かう血濡れの毒針はユナの視線誘導に従い障害物を避けて加速していく。
ユナの腹部を貫き、ユナの血液が付着した毒針は血と共にユナ翼を構成するエーテルが濃く付着している。エーテルの繋がりを用いてユナは視線だけで毒針を動かす。
「ユナ、」
「大丈夫です、この辺りのエーテルは、どいてくれました」
ユナの言葉にミサゴは喉の痛みが和らぎ、体の動きが軽くなっている事に気が付いた。まとわりつく停滞結晶がなくなっている。いや、別のどこかへと"誘導されている"
あるいは、まるでユナを避けているかのように。
血の付いた毒針は寸分違わず先行した毒針の爆心地へと突き刺さる。だが先ほどユナが起爆した毒針と違ってクラゲの表面に軽く突き刺さっただけのそれに大した破壊力は見込めず、わずかにヒビを増やしただけに留まった。
しかし。
「弾けて」
ユナが言葉にすると命じられた毒針が爆発する。先ほどのような単純に結晶を砕くための爆発ではない。結晶をエーテルに変換し、エーテルをエネルギーとして運用。そのエネルギーが尽きるほどの強大な爆発力を、毒針の突き刺さっている一点に集中させ瞬間的に燃焼させたのだ。
ひとかけらで都市の電力の数年を賄えるとさえ言われている停滞結晶。そんな停滞結晶を純粋な爆発エネルギーに変換し、針の先にエネルギーを集中させたそれを、停滞の特性を中和されガラス細工ほどの強度しか保てていないクラゲの晶動体が防げるはずもなかった。
「もうちょっと待ってて、ミサゴお姉ちゃん」
「あ、ああ……」
瞬間的な爆発をミサゴは着弾した毒針が小さな点となって明滅した様子でしか確認できなかった。爆発に伴う衝撃波や爆音のような余分なエネルギーの拡散さえ操作し、全てが破壊力に転換されていたためだ。
故に、見た目に反してその破壊力はとんでもない。明滅が終わったと同時にクラゲの腕が崩れて空間に散っていく。クラゲが悲鳴のような音を発するが、その衝撃によってさらに晶動体の体が崩壊していく。
「……大丈夫だよ」
「ユナ……?」
「大丈夫、こっちだよ」
空に向かって声をかけるユナの姿にミサゴはピアスを通してクラコと話をしているのかと思っていたが、そのような雰囲気ではない。ユナの瞳は青く輝いている。まるで晶動体の花鶏のような虚ろで昏い光はピアスにも宿っている。
「もう、怖くないよ。痛くないよ。……一緒に、帰ろう?」
「! 晶動体に囚われていた、魂と……」
かつてユナの両親が晶動体の特性を極限まで先鋭化させ、ユナへと送った夫婦結晶。誘引の特性が距離によって減衰しないという特殊性を利用して雲海の中でも地上と通信が出来る道具として活用されているそれは、どれだけ特性を偏らせたところで停滞結晶である事に変わりはなかった。
クラゲの晶動体の中の数十万もの魂が、エーテルを通して周囲へと悔恨の言葉をまき散らす。ミサゴのようにエーテルが視えるカザヨミはその一方的に発信される言葉に精神を蝕まれてしまう。
ユナはその発信に対して夫婦結晶の通信特化の特性を用いて無意識に応答を試みていた。
晶動体は魂を持ち、意識を持ち、記憶を持っている。ユナの両親や花鶏のように、言葉を交わす事も可能。ならば、言葉を交わしてクラゲの中に閉じ込められた魂たちを導いてやれるのではないだろうか。
かつて両親が停滞結晶の体を自壊させ、魂を開放させたときのように。
「こっち……そう、こっちだよ」
「クラゲの体が……崩れていく……」
それまでただ呪いの言葉を吐き続けるだけだった魂たちに届けられたユナの言葉は、魂たちにとって唯一縋れる藁のようなものだった。せき止められていた流れが一気に放流されたようにユナの言葉に誘導され魂が晶動体から抜け落ちていく。
核として機能していた魂を失ったクラゲの体は端からどんどん崩れていく。先ほどまで崩れる体に叫び声を上げていたクラゲはユナの言葉に従うように崩壊に身を委ね、只の停滞結晶に戻ろうとしていた。
本来視認できない魂という存在が空間を通って地上へと帰る光景は空間に満たされたエーテルによって浮き彫りになる。エーテルで照らされた光球のように見える魂たちが、迷うことなく地上へと向かっている。
「あ、……まさか、……」
ふと、ミサゴの目の前にいくつかの光球がふわりと浮かび、彼女の周囲を一回りしてから地上へと向かう。まるでミサゴへと挨拶しているような動きにミサゴは思わず声を震わせる。
優しいエーテルの光がなぞる魂の輪郭は涙をこらえるミサゴの頬を優しく撫で、手を振るように地上へと還っていく。
「はい……、はい……っ」
優しき先輩たちの声。此処まで来てくれた事への感謝、唯一人残してしまった謝罪、すべてを一人で抱え込んでいた事へのお小言。
エーテルが視えるミサゴの耳に届けられた言葉は、今度は悔恨の言葉ではなかった。ただ一人遺され、ただ一人仲間を探し続けていたミサゴは、ようやく自身の心に一区切り付ける瞬間を迎えた。
降下する魂たちと散乱するエーテルの光。その光景はこれまで見たどの雲海の様相よりも幻想的で、儚く哀しかった。
「あ──」
「ユナっ!」
魂が抜け落ち、只の巨大な結晶の塊になったクラゲが音を立てて崩れ落ちていく中、ユナの体がぐらりと傾きミサゴが慌てて抱きかかえる。ユナは意識を失い、背中の翼も体に収納される。
『──ナ、ユナ! 返事をして!』
ユナの意識が消失したのと同時にユナが操作するエーテルが霧散する。晶動体との混線が解消され、夫婦結晶が本来の役目を取り戻す。
「クラコさんっ」
『ミサゴちゃん!? ユナは、ユナは無事!?』
「はい、気を失っていますが息はしています」
ユナの体は想像以上に軽かった。顔色も悪く、息も浅い。けれど、心臓はしっかりと鼓動を続けてくれている。ユナは生きている。
『っ、そう……。さっき雲海の支配領域ギリギリでヒタキちゃんたちが保護されたと先生から連絡が入ったわ。ミサゴちゃんは? アトリさんも無事……?』
ミサゴは周囲を見渡し、エーテルの濃度がまだマシな遠方でアトリが心配そうにこちらを見つめているのを確認する。
「はい、みんな無事です……。ですが灰色ホテルは……」
『……あなたたちが無事ならいいのよ。後の事はあなたたちの先生が考えることだもの』
灰色ホテルは完全に崩壊し、雲海廃墟という特殊な領域ではなくなった。領域を支配する晶動体は死に、エーテル化した瓦礫が自力で空間に浮遊している。この広大に拡張された領域も晶動体の消失によって維持することができなくなり、本来の狭さに戻るのだろう。領域に析出していた資源としての結晶も、本来とは比べ物にならないほどの少量しか採掘できなくなるだろう。
晶動体の消失と共に一つの領域が消え、得られるはずだった過去の記憶も、資源としての結晶も手に入れられることなく、都市が欲したすべては雲中に消えたのだ。
だが、そんな事はカザヨミには関係の無い話だ。少なくとも、都市と距離を置いているクラコにとってはユナの安全こそが全てなのだから。
『さあ、帰って来なさい』
「……はい」
ミサゴが領域を離脱しようと出入口へと向かっていた時、空間全体に響く声が聞こえる。雲海の果てから聞こえてくるような鳴き声にミサゴが振り返れば崩壊したクラゲの残骸を巨大な晶動体が飲み込もうとしている瞬間だった。
「オオナキ、というヤツか……」
灰色ホテルを支配していたクラゲが死に、死骸を別の晶動体が取り込む。オオナキだけでなくシロクロや小型の晶動体も群がり必死に結晶を食らおうとしている。
大型の生物が死んだとき、その死骸は多くの生物にとって重要な食料となり、命は別の命へと繋がっていく。
そんな自然界の命の循環が雲海の中でも行われている。雲海の中で晶動体を主体とした新しい食物連鎖の形が作られている事に、ミサゴは自身が立ち向かっている雲海という存在の果てしなさに息を飲んだ。
自分たちが逃げ出すしかなかったあの遥かなる雲海の先、上層にはどんな光景が広がっているのか。それを確かめる術を、今は誰も知らない。
◆
今回の嶺渡シトが仕組んだクラゲの晶動体から停滞結晶を手に入れる計画は彼女を操る都市管理部としても予想外な動きだった。灰色ホテルで発生した異常なエーテルの放出は都市周辺の観測地点からでも観測できるほどで、キョウトの特級が異常事態に飛び出そうとするほどだったという。
ミサゴたちが雲海から脱出した直後に許可を得たキョウトの特級率いる調査隊によって逆灯台の先に存在していたはずの雲海廃墟の消失、巨大な晶動体の消失、跡地に残留する高濃度エーテル領域の発生が確認される。
そして何よりも、"二名のカザヨミが行方不明となった"事でオウミ都市はこれまでの積極的な雲海への干渉を中止せざるを得なくなった。世間からの批判を恐れたわけでなく、雲海に単独突入できる駒を失ったからという打算的な理由だったが。
都市管理部とほとんど情報が共有されていなかったカザヨミ管理部の先生はアトリとイスカより都市管理部の現状と、雲海で何が起こったのかを聞き、ひとまず二人をカザヨミ管理部で預かる事にした。
元よりイスカからアトリの状態について話を聞いていた先生は二人をこのまま都市管理部へ帰すつもりはなかった。可能ならば二人をカザヨミ管理部で保護するか、それが無理でも二人に長期間の休養を与えるように交渉する腹積もりだった。
そうして雲海で発生した事件に関して、情報の共有のためと先生は都市管理部との話し合いの場を設けた。
先生は暗に"こちらは全て知っているぞ"という意味深な言葉を織り交ぜて交渉をし、それを察した都市管理部が雲海の状況悪化を煽った嶺渡シトへのペナルティーと嶺渡姉妹の身柄をカザヨミ管理部へと明け渡すという落としどころへと誘導する場になるだろうと予想していた。
だが、先生が予想していた以上の速さで都市管理部は嶺渡姉妹を切り捨てた。
若さゆえ功を焦った、実力を勘違いした蛮勇、母子の絆がすれ違った結果などなど。とにかく都市管理部は今回の事件が嶺渡姉妹による暴走だとして都市管理部とはなんの関係もないと主張したのだ。
先生は話し合いの冒頭で嶺渡姉妹はこちらで保護しているという旨や、彼女たちの意思から
彼らの中で姉妹は既に死んでいる。いや、死んでいないと都合が悪いのだろう。そんな状況で二人の生存を話せば何かしら強硬手段に出られる可能性がある。
特に姉妹が話した停滞結晶の軍事転用とその実験を灰色ホテルで行った事実はこれまでのようなメディアを使った偏向報道や捏造で何とかできるレベルでは無い。彼女たちをカザヨミ管理部へと異動させるどころか、都市に所属しているだけでも命が危ない可能性さえあった。
そうして話し合いの中で嶺渡姉妹は作戦行動中の行方不明という形で処理され、カザヨミ管理部と都市管理部の思惑と利害がすり合わされ、当たり障りのないカバーストーリーが生み出される。
作られたカバーストーリーは都市管理部が支配するメディアや配信媒体を用いて全都市へと伝えられた。
世間では雲海の異常を察知した都市管理部が実力のあるカザヨミ二名に調査を依頼し、その結果晶動体の異常な行動を見つけ、二人が命をかけて状況を収めた……と報道された。
周辺都市はオウミの思惑を薄々察しながらも勇敢なるカザヨミ二名の偉業を称え、その自己犠牲を悼んだ。先生は救えなかった二名のカザヨミについて哀悼の意を表し、今後の雲海調査に関して慎重に検討するとの言葉を報道関係に漏らした。
対する都市管理部と嶺渡シトは大した声明を発表することも無く、それをメディアは悲しみに暮れて塞ぎ込んでいるのだろうと勝手に解釈してくれた。
そうして、嶺渡姉妹の生存は僅かな者たちが知るのみとなり、表舞台から姿を消すことになった。
◆
地上のとある団地の一室。リビングに置かれたテレビからオウミ都市とキョウト都市による共同声明の内容についてアナウンサーが説明している。カザヨミを神聖視している都市の人間が自己犠牲の果てに人類を守った嶺渡姉妹の素晴らしさをこれでもかと熱く語っている。
それをBGMにしてクラコは眠たげに目を細め、ソファに腰掛けていた。先日まで必死に集めていた灰色ホテルに関する資料は部屋の隅へと雑にどかされ、クラコの膝の上にはすっかり元気になったユナが幸せそうにまどろんでいた。
「んぅ……クラコさん」
「あらあら。すっかり甘えんぼさんね」
「えへへ……でも、クラコさんだって、帰ってきた時はぎゅって抱きしめてくれたよ?」
「あなたが無茶するからよ」
「あはは……」
ユナはミサゴを救出した時の記憶をはっきりと覚えてはいなかった。自身が行った晶動体のようなエーテルの操作もどうやったのか記憶に無く、わずかに聞こえた悲しそうな声を助けたい一心で雲海に向かっていった事だけはなんとなく覚えているらしかった。
エーテルの影響か、ツグミに羽繕い同様の繋がりを繋いでもらっていた影響なのか、都市に着くころにはユナの腹部の傷は治り始めていた。それでも血を流しすぎたユナは先生とカザヨミ管理部に匿われながら都市で治療を受け、数日もしないうちに都市から勝手に飛び立ってクラコの元へと帰って来たのだ。
「……」
「? どうしたのクラコさん」
「そうねえ、どうすればあなたが無茶しないかを考えていたの。これだと羽繕いを少し強めにしたところで懲りないでしょうし。ほら」
「んうっ、背中触られるとぞくぞくする……!」
「あらあら」
国城によればミサゴたちも羽繕いを利用したエーテルの体外排出によって後遺症なく治療を終える事ができたらしい。最も重症だったミサゴをツグミとヒタキが二人がかりで抑え込んで羽繕いをしたらしい。
「ユナ、私はいつもあなたが帰ってくるのを待っているからね」
「うん。わかった」
「本当に分かったのかしらぁ?」
「ひゃ!? だめえクラコさんっ、翼でちゃうからぁ!」
「あらそんなに羽繕いしてほしいのね」
「ちがうよ!?」
「ほらほら~」
「あはははっ」
ソファの上でユナをくすぐるクラコ。ユナは逃げようとはしているもののクラコから離れるようなことは無く、二人一緒になって狭いソファの中で触れ合いを続けていた。思わずユナが翼を広げるとすかさずクラコが翼の根元を手繰り寄せ、抵抗できないユナがクラコの胸元に
そんな事を繰り返していた時、不意にインターホンが鳴らされた。
「? クラコさん、お客さん?」
「ああ、そういえば今日だったわね」
「んう?」
クラコが立ち上がり玄関へ歩いていく。ユナがトコトコを後をついていくとクラコはユナへと振り返り小さく笑みを向け、そしてドアを開いた。
「……え!」
ユナが驚き目をまん丸にしているのをよそに、ドアの向こうにいた二人の少女は小さく頭を下げ、手に持ったものを差し出した。
「こんにちは。つい先ほど隣の部屋に越してきたアトリと言います。こちらは引っ越し蕎麦? です」
「イスカよ。よろしく、お願いしたいんだけど……」
「アトリお姉ちゃん! イスカお姉ちゃん!」
思わずユナは裸足のまま飛び出して二人を抱きしめた。イスカと、まだ少し傷が残っているものの助けた時とは比べ物にならない程元気になったアトリ。
二人は死んだことになっている。故に探される事も無く、オウミの都市にほど近いここに居ると思われもしない。都市から離脱した形の二人にとって都市外で頼れる存在というのは非常に限られている。
故に先生は二人の身柄を都市で信頼できる人物へと預ける事にした。先生の師である店長と、二人を預かれるだけの経験と信頼のある人物へ。
「あら、ありがとうね。そうだ、二人ともお昼ご飯まだかしら? 良かったら食べていかない?」
「ですが……」
「アトリお姉ちゃんっ! こっち! イスカおねえちゃんも!」
「わ、わたしも……?」
「当たり前でしょう? ほら、二人とも手を洗ってらっしゃい。ユナ、食べ終わったら二人の荷解き手伝いに行くわよ」
「はーい!」
曇天が広がるこの世界において、都市以外に安全な場所は存在しない。それでもクラコはそこに居て、ユナの帰る場所としてあり続ける。ユナはクラコを帰る場所と決めて空へと上がり、そうして二人は都市の外を心地の良い居場所と定めた。
願わくば、新たな二人の生活がそのようなものになって欲しいと、クラコはまだ幼い姉妹に思いを馳せるのだった。