クラコとユナが住む団地はドミノのように整列して建てられた棟のうちの一つにある。停滞雲より降る灰色の雨はコンクリートによって形成された建物の表面を削り劣化させるが、クラコとユナが住む棟は二人によって目立つコンクリートの亀裂などは応急処置が施され、いくらか他の棟よりはマシな状態だった。それでも雨が降ると上から三階分までは雨漏りが発生する。それも見越してクラコは低階層に居を構えていた。
そんなボロボロな団地だが、それでもたくましい植物たちは雨に含まれた塵や灰を土代わりにして劣化したコンクリートの隙間に根を張り生きている。植物の根は人が想像する以上に強靭で恐るべき浸食スピードを誇る。たとえ人が生み出し生活しやすいようにと整備された環境であろうとも、ひとたび放棄されれば植物によって徐々に人がいた形跡は飲み込まれ、消されていく。
しとしと、と灰色の雨が降る肌寒い朝の空気は雨の鉄臭さでとても好きにはなれないと都市外の人間は言う。
雨とは雲中に存在する氷や水の粒が寄り集まり、抱えきれない大きさになって落下してくる現象の事だが、一説ではこの原理によって降害は発生しているのではないかと言う者もいる。
当然、水の粒と巨大な瓦礫が同列に雲の中に存在しているはずもなく的外れな説として一笑に付されたのだが、その説は都市外でまことしやかに噂話として囁かれ続けている。
もちろん関連性は無い。雨などどこでも降るし、何なら停滞雲でない雲によって都市内でさえ降る。それでも都市外の人間は関連性を否定するだけの知識を持っていない。経験則として関係ないとわかっていても、噂は広まり、歪曲され、浸透していく。
灰色の雨は良くないものを連れてくる、と。
◇
クラコとユナが住んでいる部屋の、パソコンが置かれたリビングにはいくつもの本が積まれ、並んでいる。それらは絵本のような絵が書かれたものであったり、小難しい題名が書かれた分厚い書籍もあった。
それらの本はどれもがカザヨミに関する本だ。
クラコは先日ユナの背中にわずかだが翼が発現したことを本人に話した。ユナは自身がカザヨミだと知って、喜んだり嬉しそうな声を上げるわけでもなく、ただ困惑した。カザヨミなどと、それが自分自身なのだと。あまりに突然の事にユナは受け止め切れない情報量に目を白黒させ……次第に状況を把握し、うつむいた。
クラコはしきりにユナへ「良かったね」、「すごい事よ」とカザヨミである事を称賛する。そんなクラコの姿はまるでカザヨミのご機嫌をとる都市外の人間そのものだった。
そんなクラコの変わり様にユナは驚愕した。昨日まで一緒にお風呂に入って、一緒にパソコンで勉強して、一緒に寝ていたのに。まるで、母親と娘のような関係だったのに。
今のクラコは素晴らしき人間の上位種カザヨミを称賛する、ただの"一般人"のようだった。
「すぐに都市へ検査を受けに行きましょう。大丈夫、ユナちゃんなら絶対に合格できるわ!」
「クラコ、さん……」
「ああでも此処から都市は遠いわね……よし、一度店長に説明して、車が借りられるか聞いてみましょう!」
(クラコさん……どうして……)
クラコはユナがカザヨミであることを喜んでいる。もう降害など考える必要もない、安心と安全が保証された都市の中で生活できるという事実を、クラコはユナに言って聞かせる。まるで狂喜するようなクラコの姿に、かつて自身を置いていった叔母の姿が重なって見えた。
だが、そんなユナの素晴らしき将来を語るクラコの瞳は、悲し気に揺れ動いていた。これまで叔母の顔色を窺って生きてきたユナにはクラコから出てくる言葉の数々が、何かを隠しているように感じた。
なぜ、そんな悲しそうな顔をしているの? なぜ、今にも泣きそうな目をしているの? なぜ、そんなに声を震わせているの?
ユナはクラコに手を引かれ、灰色の雨が降る中をコンビニまで歩いていく。灰色の雨はユナに、クラコと出会った時の事を思い出させる。
公園で傘もささずに灰色の雨に打たれていたユナを、今と同じように手を引いて、暖かなタオルで拭いてくれた。
けれど、今のユナにはあの時のような安心感は感じられない。クラコと繋がっている手も、あの時のようなぬくもりは感じられない。
ユナにはクラコがどこか遠いところに行ってしまったように感じられた。
「あらまあ、クラコちゃんにユナちゃんじゃない。どうしたんだい? こんな雨の中で」
店長はいつもの通りコンビニで店番をしていた。深く曲がった腰に手をあて、杖で上体を支えながら丸イスに据わっている良きおばあちゃんといった姿の店長は、二人の対照的な様子に思わず立ち上がり、歩み寄る。
店の中はがらんとしており雨の日はお客もほとんどやってこない。その日は特に雨脚が強く、店には店長しかいなかった。
「店長さん! 実はですね、ユナちゃんが──」
そうして雨の音だけが響く店内でクラコは大げさなくらいの身振り手振りでユナの話をする。最初はうんうんとうなずきながら話を聞いていた店長はユナがカザヨミであるというクラコの言葉を聞き、驚き目を見開く。
「それは、本当なのかい? ユナちゃん」
「……」
「ユナちゃん?」
ユナは店長の言葉に顔をうつむかせたまま、唇を噛み何も話そうとはしない。
「それでですね店長、できれば都市に行くための車を貸していただければなと思いまして」
「ちょっと待ってクラコちゃん。あなた車の免許は持っているの?」
「あ、……ええと」
「それに道路の補修なんてここ数年行われていないから、車でまともに走れる道路は無いわよ? 行くとしたら歩きになるでしょうね」
「あ……そう、ですよね……」
勢いをなくしたクラコは尻すぼみに言葉を失う。ユナは心配そうにクラコを見上げ、繋いだ手を握り返す。
そんな二人を見て、店長は丸椅子を二つ、追加で持ってきて二人に座るように促す。彼女たちに今必要なのは都市に行くための足ではない。話し合いのための時間だ。
「……少し、お話しましょう? ね、ユナちゃん」
そう言って店の奥に消えていった店長はお盆の上にお茶とお菓子を乗せて二人のもとへ帰ってきた。店長が淹れてくれたお茶はどこにでもある普通の日本茶だった。湯呑に満たされたお茶は白い湯気を漂わせ、手に取れば湯呑より伝わる熱が雨で冷たくなった指先をじんわりと温めてくれる。
ユナの指先は力を入れすぎて赤くなっていた。
「おいしいでしょう? ちょっとだけ良いお茶っ葉を伝手で手に入れられてねぇ、キョウトの都市のものなの」
「!? キョウトですか! あの、この国で最大級の都市の!」
「ええ。とはいえお店に置けるような量じゃなくてねぇ。こうやってお茶会の時に使うしかないのよ」
ゆらゆらと揺らめく湯気を見つめるユナは両手で持った湯呑を恐る恐る持ち上げ、その中身を口に運ぶ。
「っ!?」
「あらあら、熱いから気を付けてね」
あまりの熱さに唇を湯呑から離し、店長の言葉に従いふーふー、と息を吹きかける。今度は慎重に、ゆっくりと湯呑を傾ける。
「……おいしい、です」
「そう、よかったわ。……それで、ユナちゃん。ユナちゃんはどうしたいのかしら? ……都市に、行きたい?」
「……私は……」
「ユナちゃん?」
お茶を飲み、一息ついた様子のユナに店長は優しく語りかける。ユナはうつむき、だがそれでも何かを話そうと口を動かす。対してクラコはそんなユナの様子に心底驚いたようだ。
都市に入れば最低限の住む場所は手配してもらえるし、都市内で働き口も斡旋してもらえる。安定した収入に、命の危険の無い住処。それは都市外の人間が渇望し、願っても手に入れられないすべて。
中でもユナはカザヨミだ。住む場所は上位層が暮らすような住居となるだろうし、一般人が行うような仕事などしなくていい。あらゆる面で優遇され、都市の中でも最高の暮らしが約束されるはずだ。
しかし、ユナはそんな暮らしを前に、口を閉じる。そして隣にいるクラコを見る。
「どうしたのユナちゃん? 都市だよ? 都市に住めるんだよ? 今までみたいにつらい思いをしなくていい、あったかい場所で、おいしいものを食べて、幸せに暮らせるのよ?」
クラコの言葉は確かにその通りで、賢いユナも理解していた。都市での暮らしと、都市外での暮らしならどちらの方が良いのか。
だが、都市外に在って、都市内に無いもの。それもユナは理解していた。
「そこに……クラコさんは居る……?」
「っ!」
ユナはまっすぐにクラコの瞳を見つめ、つぶやいた。安心、安全、幸せな暮らしが約束されている都市。そこにクラコはいるのか? と。
「クラコちゃん、もう無理して言いたくもない事を言うのはよしなさいな。ユナちゃんも分かっているよ。クラコちゃんが無理してそんな事を言っていると」
店長の言葉にクラコは明らかに動揺した様子で、椅子から立ち上がった。
「私、は……」
クラコはユナの背中に僅かばかりカザヨミの証である翼が発現した夜。考えた。何が一番ユナにとって最良といえる未来なのかを。
ユナはあのような環境で育ったとは思えないほど良い子だ。礼儀正しく、勉強も頑張れる努力家だ。カザヨミとしても大成するだろう。だからこそ、ユナの最も良い将来のためには、都市に行くのが一番だと考えた。
今まで過酷な生活を送っていた分、ユナは幸せになるべきだ。幸せになって、あわよくば彼女の叔母たちを見返してやるくらい立派なカザヨミになるべきだ。
そう考え、クラコは自身の心を胸中に閉じ込めた。
ユナと暮らした日々はクラコにとってかけがえのない鮮やかな日々だった。ただ一人で生活していた時とは比べ物にならない程に彩に満ちた日々。ユナが真剣な目で料理する自身を見つめていたり、眠そうな目をこすりながら自身の胡坐の中で動画を見ていたり、恥ずかしそうな顔をしながら一緒にお風呂に入ったり。
そんな何気ない日々をクラコは大切で、忘れられない日々として記憶していた。可能ならば、こんな日々がもっとずっと続けばいいのにと思うほどには。
ユナはクラコを慕っている。だからクラコが言えばユナはクラコと共に今後も都市外で暮らす選択をするだろう。だがそんな日々を延々続けていいはずがない。カザヨミであるユナを、自身の我儘で危険な都市外に縛り付けるなどあってはならない事だ。
もっと一緒に居たい、おいていかないでほしい。そんな心の声を押し殺し、クラコはカザヨミとなったユナへ称賛する言葉を投げかけた。カザヨミとなって、都市へと赴くユナが後ろ髪を引かれる事の無いように、カザヨミを無心で賛美する一般人のように振舞った。
そうしてユナが狂喜するクラコの姿を見て、カザヨミであることは素晴らしいことなんだ、自身は都市に行くべき人間なのだと思ってくれれば良い。
もしくはユナがカザヨミである事が判明し、クラコは叔母のように狂喜しているのだと落胆してくれてもいい。
どちらにしろ、ユナが都市へと行ってくれれば、クラコはそれでよかった。大切なユナが、安全な場所に行ってくれれば、それで良かった。
「私は……ユナちゃんが、幸せなら、それで……」
「違うもんっ!!」
これまでにないほどの大声でユナが叫ぶ。一度もクラコに向かって発したことのない、強い否定の言葉。ユナは立ち上がり、クラコを見上げ、睨んだ。
「私、もう幸せだもん! クラコさんと一緒に居たら、私はずっと幸せだもん!」
ユナの叫びは徐々に震え、目には涙があふれていく。
叔母に捨てられた時も泣かなかったユナは、クラコの前で大粒の涙を流した。とめどなく流れる涙を止めることなく、ユナはすべてを吐き出すように、震える声のまま想いをクラコにぶつける。
「クラコさんと一緒につくったごはん、とってもおいしかったよ? 一緒に入ったおふろ、ちょっと恥ずかしかったけど、とっても気持ちよかったよ? 暖かいおふとん、クラコさんと寝てたら幸せでいっぱいになったよ?」
都市に行ったら、そんな幸せはすべてなくなってしまう。ユナはそうなると知っていた。クラコと別れ、また一人ですべてを抱え込んで、耐えて生きていかなければならない。
都市に行けば、クラコと
そうなると分かっていたからこそ、ユナは必死に叫んだ。自身の想いがクラコへと届くように。