倉本桜子は知人からはクラコ、と呼ばれている。くらもとさくらこ、だからクラコという安直な呼び方であるが、そもそも始まりが小学生時代のあだ名だったのでそこまで捻った名前な訳が無かった。
それでもクラコは自身から改めてあだ名をつける気にもならず、成人してからもクラコというあだ名が定着したままになっていた。今では新しいバイト先に顔を出したならば、早々に仲良くなる為にクラコと呼んでもらって構わないとさえ言っているほどだ。
「おーっす、クラコちゃーん今日バイト終わったら暇? 俺はちょっと暇なんだけどさー良かったら──」
「お疲れ様です。お先に失礼します」
だが、厄介な事にあだ名で呼ぶことを許したクラコを、バイト先の人間が都合の良い様に解釈する事もあった。ある程度は業務的に冷たくあしらえば勘違いだと気付いてもらえるのだが、場合によっては自分に自信のある者がしつこく付きまとう事もあった。
特に、クラコが長く続けている個人経営店のバイトで時折同じシフトになる男性は何かとクラコに話しかける事が多い。それが業務関係の連絡だけなら良いのだが、どう考えても下心が見え見えな内容が混じり、辟易とする事が最近は多い。
「ちょちょちょ、ちょっとまってよ~。いや実はさ、俺知り合いなんだよね~」
不躾にクラコの肩に手を置く男性は焦った風に見せ、クラコの気を引こうとするがクラコは関係ないとばかりに帰り支度を済ませ店を出ようとする。店長から許可をもらっていた廃棄予定の惣菜をいくつか拝借し、業務員用出口への扉に手を賭けたところ、その男性がもったいぶった口調をクラコの背中に投げかける。
「? 誰とですか? それより明日の仕事で早く起きないといけないのですが」
「カザヨミだよ、カザヨミ。俺の妹が都市のカザヨミと友達でさ~。よく一緒に遊んでんだよね~」
それが男性にとって必殺の一言なのだろう。したり顔でこちらを見つめる男性はふふん、と得意げに鼻を鳴らし自身を見つめるクラコに微笑んでいる。
都市のカザヨミ。それはこの世界では羨望の眼差しを向けられる対象だ。"都市"という名は停滞雲が空を覆わない唯一の領域に構築された、その名の通り都市であり、停滞雲による災害を受けることの無い唯一の安全地帯だ。
だが、地球全体のおよそ八割を覆っている停滞雲の隙間となればその領域は限られている。その名の通り都市一つ分程度の土地しかなく、それ故に居住できる人間も厳正な審査によって選別されている。
選ばれた者たちと富裕層や権力者の為の特別な居住地区、それが"都市"なのだ。そして、カザヨミはその特殊な能力によってカザヨミであるという事実だけで都市に住まう事ができる。
カザヨミはカザヨミであるだけで都市より安定した生活が保障され、停滞雲による命の危機を感じる事も無く生きる事ができる。
そんなカザヨミと知り合いであるという話が本当ならば確かに興味をそそられるだろう。都市に憧れを抱く都市外の若者ならばなおさら。
だが、そんな有名人を一目見たいという野次馬的な考えだけでなく、カザヨミと知り合いになるというのは現実的なメリットが存在する。その最大のメリットとしては、カザヨミは自身に近しい人間を都市に住まわせる権利を保有しているというものだ。
カザヨミの家族はもちろん、婚約者やパートナーシップ制度利用者、結婚を前提に付き合っている人間はカザヨミが都市に申請すれば都市内で生活する許可がおりる。もちろんその人物に関する様々な調査が行われるが、カザヨミの鶴の一声で危険な都市外の生活から命の保証がされる都市内の生活へと大逆転な人生が待っている。
「すみません、興味ないので」
「え」
だが、クラコは自慢げに微笑む男性を軽蔑した目で一瞥し、そのまま出口から出ていった。唖然とする男性を放置し、クラコはくだらない話に付き合ったことに小さくため息をついて家路へと急ぐのだった。
「本当に知り合いで一緒に遊ぶくらいの仲なら、なんでアンタは
◇
帰り道を歩くクラコの歩みは非常にゆったりしたものだ。一日中バイトに明け暮れ生活費を稼ぐ事がクラコの日常とはいえ、疲れない訳ではない。
「ふう……明日は……なんだっけ? ああそうだ、オオツの方で瓦礫撤去の仕事があったっけ……」
疲れのせいか、ため息と独り言を口にするクラコはふと明日の仕事について思考し、遠くに見えるその場所を見つめる。
太陽が山の向こうへと消えかかっているらしく辺りはオレンジ色の光が満ちている。けれどその光は灰色の分厚い停滞雲によって散乱され、僅かしか地上へと届かない。だが、クラコの住まうこの土地では比較的その停滞雲が薄く、そのため夕焼け色に写し出された街並みが美しく照らされ、より立体的にその姿を確認することができる。
「……あれ全部片付けんのは無理だよね~」
クラコが居る場所と、山々の間に広がる街並み、それは瓦礫と廃墟で構成された戦場跡のようだった。幾つもの巨大な
「まあ給料は良いんだけれど……片付けたそばからまた"降って"こられたんじゃやりがいがないわね……」
空の八割を覆っている灰色の雲、停滞雲。
停滞雲はそこに存在する建築物や自然物をその内部に取り込み、そして放出する。クラコが見つめる朽ちた高層ビルの突き刺さった街並みも、つまりは停滞雲より放出され、落下した瓦礫によって生み出されたものだ。
都市外に広がる命の危機とは、つまり停滞雲により何時何処で瓦礫が頭上より降り注ぐか分からない危機、ということだ。
「まあ今日は早めに寝て、明日の事は明日考えるとしますか」
次第に消えていく日の光を背にクラコはいつも通りの日常を続けている。今この瞬間にも自身の頭の上から巨大な建築物が降り注ぐかもしれないというのに。だが、それがこの世界の人間にとっての日常なのだ。
木々をなぎ倒す台風に見舞われ、大地を割る地震が襲う。そんなどうしようもない自然災害と同じように、この土地の人間は空から瓦礫が降ることを日常として受け入れてしまっていた。そしてそれはこの国だけにとどまらず、世界中の人々がなし崩し的に受け入れ、瓦礫が降り人が死ぬ日常を当たり前の日常としてしまった。
クラコは慣れた足取りでいつもの帰り道を通っていく。逆さまになった民家の横をすり抜け、大地に押し上げられた橋の下をくぐり、錆びた線路を通っていく。最後に公園の横の道を通ればクラコの家に到着する。
「……ん?」
クラコがいつもとの違いに気付いたのは公園の横を通り過ぎようとしていた時だった。人の住む場所とはいえ瓦礫の被害から逃れるため、誰もが積極的に外へと出る事は無い。もちろん公園にも人影は見当たらず、遊具で遊ぶ子供などクラコが暮らし始めてから一度として見かけたことが無い。
そんな公園でブランコの鎖がきしむ音が聞こえてくる。金属の擦れるような音が時折響き、それは静かな夕方の時間には目立って聞こえた。
「……女の子?」
恐る恐る公園の様子を伺ってみればブランコに座り込んでいたのは線の細い少女だった。既に日が沈み暗がりで、灯りの付かない街灯だけが放置された公園で少女は顔を俯かせ灰色の地面に視線を落としていた。
「……」
クラコはその姿を見て顔を顰める。もしもこの世界が停滞雲も、それに伴う災害さえも存在しない世界だったのならば、こんな時間に幼さ残る少女が公園に一人でいるなどそれなりの事情があると察せるだろう。周囲の人間が心配に思い、話しかけるか警察へ連絡すだろう。
だがこの世界は停滞雲によって人間の生活圏の八割以上が危険地帯と化した。誰も彼もが自分の身を守るだけで精一杯なのだ。安定した仕事も無く、常に命の危険にさらされている状態は親に子供を育てさせる余裕さえも奪ってしまう。そんな酷い世界なのだ。
都市外に住む人間にとって捨て子を見るのは珍しくない。幸いにもクラコはこれまでそのような"捨てられた子"か、"子であったもの"を目撃することは無かったが、これが都市の外における日常なのだ。
「っ!」
ふと少女が顔を上げた。薄暗い中ではどのような表情をしているのか把握できないが、少女はクラコの姿を目に留めた直後、ブランコから立ち上がり焦ったように走り去ってしまった。
「あ、待っ……。……私、何を……」
クラコはその場から動けなかった。もしもあの少女が捨て子ならば……。
……自分はどうするべきだったのだろうか。毎日バイトに明け暮れる生活を続けているクラコには金銭的な余裕があった。だが、それはいつ無くなるともしれない砂上の楼閣のようなものに過ぎない。
クラコには幼い子どもを助けてやれるほどの余裕などない。
それでも、クラコは消えていった少女に伸ばされた自身の手を見て、ただ悩むしかできなかった。
◇
次の日、クラコは予定通り日雇いの仕事に従事していた。仕事内容は停滞雲より降り注いだ瓦礫を撤去するというもの。もちろん一人で巨大なビルの亡骸を解体することなどできない。クラコを含めた日雇いの人間は人力で片づけられる程度のものを一か所に集めるように指示され、瓦礫本体であるビルの解体は"都市"からやってきた人間が担当する事になっていた。
「おお、やっぱカザヨミってスゲーのな」
「ホントに羽が付いてる……綺麗なもんだな」
クラコと共に瓦礫の撤去作業に派遣された人間は遠くで巨大な瓦礫を吊り上げているカザヨミに見惚れていた。真っ白で神秘的な翼をはためかせ、重機でも持ち上げるのに苦労しそうな瓦礫の塊を軽々空に浮かべるカザヨミたちによって作業は比較的スムーズに進行していった。
「ふんっ、何がカザヨミだ。安全な場所でぬくぬく育てられたガキが点数稼ぎに出てきただけだろうがよ」
「おいっ! でかい声出すなって」
「どうせ聞こえてても何も変わらねーよ。アイツら都市外の人間を見下してんだからよ」
だが、カザヨミに羨望の眼差しを向ける者が居れば、嫉妬と恨みの籠った視線を向ける者も居る。
カザヨミはその希少さと高い能力によって全てが都市に集められている。カザヨミとは、都市に存在する特別階級の人間という意味と同義なのだ。例え都市外に生まれたとしても、カザヨミであることが判明すれば例外なく都市内へ移住する権利が与えられる。
生まれも境遇も、何もかも同じであるはずなのにカザヨミとして生まれたというだけで彼女らは特別扱いをされる。それが嫉妬の原因だ。
さらに、カザヨミに恨みを持つ都市外の人間はカザヨミのプライドの高さを知っている者たちが大半だ。物心つく頃より都市の中で大切に大切に純粋培養されたお嬢様のようなカザヨミ達は、自身が特別階級であるという自覚があり、都市外の人間を下に見る傾向にある。
都市内のカザヨミは望めばどのような願いも大抵叶えられる。豪華な食事も、ブランドの服や装飾品を願えば簡単に与えられ、都市内で行われる権力者のパーティーで連日褒めそやされる日々を送っている。
もちろんカザヨミとしての仕事をこなしたうえで、であるが。
そんなカザヨミは都市外で自身が絶対的な存在であることを知っている。お金も、権力も、人脈も、単純な力や教養も都市外の人間より上。都市外の人間は全て下位の存在という認識をしている者も居る。
そしてそんなカザヨミに都市外の人間は殊更下手に出る。もしかしたらカザヨミの目に留まり、都市内への移住の権利を手に入れられるかもしれないという思いが、カザヨミを異常なほど持ち上げる要因となっていた。
そうやって支配する側、される側という構図が構築されたのは今から数十年も前の話だ。今では生まれながらに自身は特別だと信じて疑わないカザヨミさえおり、都市外の人間ならばどのような理不尽な扱いをしようとも問題ないと考えている者さえ現れ始めた。
カザヨミに恨みを持つのは、そんな理不尽に巻き込まれた者たちだろう。さすがにカザヨミに対する悪印象が広まるのはよろしくないと、都市内と都市外との軋轢が致命的となる前に都市がカザヨミに対する教育の強化、都市外への大幅な支援強化などで緩和政策を実行したが、それで解消されたのは表面上の扱いだけだ。
カザヨミは侮蔑の視線をクラコたち都市外の労働者に向け、都市外の人間はカザヨミに不満を抱きながらも日々の生活の為に従事する。
それが、この世界での日常だった。
「ふう……こんくらい、かな」
既に辺りは薄暗くなりはじめ、その日の作業の終了が告げられた。都市から派遣されたカザヨミによって大きな瓦礫は既に撤去され、残る細かな物も明日には全て綺麗に片づけられるだろう。
とにかくクラコの仕事はここで終わり、現場の責任者にその日の給料を手渡しで貰い解散となった。
「えっと、今何時かな……? うわ、もうこんな時間!? ……仕方ない、店長のとこの惣菜で済ませようかな」
すっかり暗くなった道を歩くクラコはバイト先である個人経営店へと向かっていく。クラコがバイト先として働いている店はかなり小さな店舗で、人の良いおばあちゃんの店長とクラコを含めたバイトたちによって運営されている。
個人経営店とは言っているが、実際には元コンビニだった建物を利用した場所で、店長が若いころに培った人脈のおかげで品ぞろえも豊富で立派な店として成り立っているという場所だ。
そこにクラコは半年ほどバイトとして働き続けており、店長との関係も良好。本来はダメと言われる廃棄品を持ち帰ることも黙認されている程度にはクラコの事を可愛がってくれている。
「こんばんはー店長おられますかー……って、あれ?」
一応店長へ声をかけておこうと店の裏側に入ったクラコは、そこで店長と何やら話をしている人物がいる事に気が付いた。その人物はバイトの先輩で、例の軟派な男性だった。
「……お疲れ様です。……それじゃあすみませんが店長、よろしくおねがいします。それと、ありがとうございました」
「気をつけてね。お母様によろしく伝えておいて」
昨日のような明るい雰囲気とは打って変わった男性の様子にクラコは面食らう。その顔は険しく、うつむく姿には影が落ちている。クラコが店内に入ってきても、挨拶を交わすだけでそのまま店長に頭を下げ、店を出て行ってしまった。
「……店長、彼どうしたの?」
「それがねぇクラコちゃん、あの子、実家に帰るらしいの」
「実家って……」
「ヒノらしいわ」
「ヒノって……濃い停滞雲のせいで"降害"が起きてる土地じゃないですか! なんでそんな場所に」
「あの子のお母様がヒノに住んでいるらしいの。それでね、降害のせいで昨日ご実家が瓦礫に……」
「……ご両親は無事だったんですか……?」
「幸いお父様は無事で……でも、お母様はかなり酷い怪我をしたみたいでねぇ。ほら、このあたりって病院も無いじゃない? 都市に行かないとお医者様にもかかれないし、あの子、実家に帰ってご両親の面倒をみることにしたらしいわ」
「そんな……降害の場所にわざわざ行くなんて……、こっちに両親を呼ぶ事は……」
「私も言ったんだけどねぇ、ご両親ともご高齢で、家を離れられないらしいの」
──家なんて、もう無いのではないか。その言葉をクラコは寸でのところで押しとどめた。
瓦礫を内包した停滞雲がその瓦礫を放出する災害の事を降害と呼ぶ。降害地域では高い確率で瓦礫が降り注ぎ、その土地を破壊していく。それは短くとも数日は続き、長ければ数週間は瓦礫が降り続く。
小さなものはこぶし大のコンクリート塊、大きなものになればビルそのものが落ちてくる。そんな降害地域にわざわざ行こうとする者など居るわけもない。居るとしたらそれは自殺志願者くらいだろう。
ヒノに降害警報が発令されたのは二日ほど前だとクラコは記憶している。まだ降害が発生する可能性のある期間だ。
「……ばか。カザヨミと知り合いだなんて、やっぱり嘘だったんじゃない」
クラコは暗い顔のまま出ていった男性の姿を思い出し、そして駆け出した。
廃墟が転がる暗がりの町はクラコにとって日常であり、喉元に突き付けられたナイフそのものだった。この土地に住んでいる以上、自身もいつかはあれらの瓦礫によってその命を奪われるのだろうと、ぼんやり考えていた。
だが、その事実を身近でありながらも何処か他人事のように思っていた。クラコの住まう場所は確かに停滞雲に覆われた危険地帯であるが、雲は比較的薄く、クラコが住み始めてからこれまで一度も降害が起こった事がない。
瓦礫も既に降り注いだ後のモノしか見たことが無く、命の危機もそこまで真剣に考えたことなど無かった。
だが、その考えはクラコの中で確実に変化していた。昨日出会った一人ぼっちの少女、そしてバイト先の男性。これまでクラコの周りに現れなかった停滞雲による影響を、まざまざと見せつけられるような変化に、クラコは何か行動するべきだという衝動に駆られた。
そうしてクラコは追いついた男性といくらか言葉を交わした後、都市の医者への受診料と言って手に持ったバイト代を彼に無理やり受け取らせ、戸惑う男性を置き去りに帰宅してベッドに倒れ込んだ。
自分は何がしたいのか、何をするべきなのか。訳も分からず苦悩するクラコの頭には、公園で出会った少女の姿が今も焼き付いていた。