携帯端末を買ってもらったユナはその日から端末をもって空を飛行するようになった。都市のカザヨミの中でも熱心に
ユナはその固定用のベルトを用いて空の様子を端末で撮影しながら飛行していた。
「クラコさん喜んでくれるかな~」
だが、ユナが端末の録画機能を使用しているのはBWへの動画投稿のためではなく、クラコに見せて喜んでもらうためだった。端末を受け取ったユナはクラコよりいくつかの機能を説明してもらい、現在行っている動画撮影やSNS、通話機能などの使い方を教えてもらっていた。だが、ユナはSNSを含めたネットワークの世界にはあまり興味を示さず、端末はもっぱら空を飛びながらの動画撮影に使っていた。
どうもユナは都市のカザヨミのような、自身の能力をネットを介して発信することに興味が無いようだった。タイムアタック動画などの投稿された動画自体を視聴する事はあるが、自ら動画の投稿主となるつもりは無い……というより自身が何かしらの情報発信主となる事など想像もしていないようだった。
「ん……今日はちょっと天気が悪いかな……」
空の様子を撮影しながらユナははるか上空に浮かんでいる停滞雲を見上げる。
積乱雲よりもはるかに灰色をした愚鈍な鉛の雲は動きを鈍くし、文字通りその場に停滞していた。
ユナが肌に感じる空気に僅かな湿気が混じり始める。翼の動きがほんの僅か重くなった気がしたユナはネバつくような重い空気に、雨の予感を抱く。徐々に鉄臭さが立ち込めはじめ、本格的に雨がやってこようとしていた。
「? ……あれは、」
そんな停滞雲の直下で、何やら慌しく飛び回る存在がユナの視界に飛び込んできた。遠くからでよく分からないが、それはどうやら数羽の鳥の群れの様だった。スズメか何かか、小型の鳥が混乱したように翼を激しく動かし、でたらめに空中で飛び回っていた。
よく見ればそんな群れの中で二回りも大きな鳥が一羽混じっている。茶色く大きな翼を広げ、唯一余裕を持って飛行しているそれはどうやら猛禽類のたぐいのようだ
鳥の群れはその大きな鳥に追いかけまわされているようだ。追いかけられている鳥たちは鳴き声をしきりに上げている。それは敵を追い払うための威嚇の声か、もしくは悲鳴そのものか。
「だめ……!」
思わずユナは騒動が起こっている停滞雲の直下へと飛び込んでいく。ユナには鳥の種類や性質など知らない。ある程度の一般知識は得ているが、それはかつて廃墟となった図書館で読みふけっていた小説などから学び得た知識であり、専門的な知識に関しては不足していると言わざる得ない。
もしもユナが叔母の家に居た頃よりテレビなどを見られる環境であったならば、娯楽番組の一つや二つ、視聴して鳥に関する雑学なども知っていただろう。
だが、残念なことにユナは知らなかった。鳥類という種類の生物が存在するという事しか知らず、故にユナは目の前の光景が鳥同士の喧嘩か何かだと考えていた。本来仲の良いはずの者たちが、何故か争っているように見えたのだ。
ユナはその光景がたまらなく悲しく見えた。同じ仲間同士なのにどうして喧嘩するのか? と。
異常に泣き叫ぶ鳥の声を聴いていると、ユナはどうにかして泣き止ませてやりたいと思ってしまう。かつての自身が、クラコにしてもらった時のように。
だが、そんなユナの思いが争う鳥たちに届くはずもない。群れを襲っていた猛禽類は近づいてくるユナを、自身よりも巨大な存在だと認識し逃げ出す。そして群れの鳥も、ユナが助けにきたなどと露ほども思わず、先ほどよりもさらに巨大な存在が襲いに来たと思い今度こそ死に物狂いで逃げ始めた。
そしてもはや狂ったようにあらぬ方向へと逃げ出す鳥のうち、一羽が停滞雲の中に入り込んでしまうのをユナは見てしまった。
「だめだよっ!!」
思わずユナは翼を広げ停滞雲に呑まれる気流に乗り、そのまま鉛色の雲へと入り込んでしまった鳥の後を追いかけて雲中へと入り込んでしまう。
「っ!?」
そして、停滞雲の中に入り込んだユナを最初に襲ったのは恐ろしいまでの"重さ"だった。翼を上手く動かす事が難しく、四肢さえも反応が鈍い。それをユナは停滞雲内の何かしらの空気の変化によるものと思ったが、実際はそれどころでは無い危険な状態がユナに降りかかっていた。
現在停滞雲に関して最も情報を得ているのは世界的に見ても最大級の面積と発展具合を見せるキョウトの都市だ。その都市の研究と所属する特級カザヨミ三人による調査によると、停滞雲内は常に濃いエーテルによって満たされていると考えられた。
なぜ観測できないエーテルが停滞雲内に満たされていると判断されたかというと、停滞雲の深いところでエーテルの結晶、つまりは停滞結晶が発見されたからだ。
人類が新資源として火星より持ち帰った停滞結晶は純度の高い結晶として析出するとその状態で固定される。だが、不完全な状態で不純物を含みながら析出すると結晶はそれほど長い間、形を保ってはいられない。
特級カザヨミを含めた停滞雲の調査チームは雲の内部で落下前の、停滞雲内で留保されていた瓦礫の内部でその不完全な停滞結晶を発見した。チームは結晶を採取し持ち帰ろうとしたが、停滞雲から離れ地上に近づくにつれ結晶は徐々に小さくなり、都市に帰還する頃には跡形もなく空気に溶けていた。
キョウトは停滞雲の正体が巨大なエーテルの塊であると判断し、カザヨミに対する停滞雲への突入制限を設けた。三級、四級に区分されるカザヨミは実質侵入禁止区域とされ、一級二級は緊急時ならば都市のオペレーターと責任者の判断の下、突入する許可が得られ、特級は独自の判断で、という具合だ。
キョウトが知り得る停滞雲内の環境はまさに壮絶としか言いようのないものだ。エーテルというものが保有していると考えられるエネルギーの放出は著しく遅く、それらはあらゆる要因に干渉する。気流の流れが"停滞"するだけでなく、雲中のエーテルの濃度が一定では無い関係で気流がありとあらゆる方向から発生している。
雨として降下するべき水は雲中に留まっていられる重量を大きく超えても留まり続け、氷となるべき気温の中でも凍らず漂っている。光は直線に進まずいきなり湾曲、反射し、波長も歪んで届けられるため、停滞雲の中は外と関係なく真っ暗闇であったり朝焼けや夕暮れであったりと時間感覚を狂わせる。音は雲の中を減衰することなく反射し続け、近くにいるはずのカザヨミの声が聞こえなかったり、遠くにいるはずのカザヨミの声が耳元で聞こえたりする。
それらの異常はエーテルが人体に及ぼす影響によってさらに増幅、拡張される。
エーテルの持つ"停滞"は肉体のあらゆる機能をマヒさせ鈍らせ、あるいは錯覚させ加速させてしまう。それはカザヨミとて例外ではない。むしろ周囲の環境を敏感に感じ取るカザヨミの翼はエーテルの影響を直に受けてしまう弱点になる。
「あうっ!?」
ユナは重苦しい空気と纏わりつくエーテルより脱しようと翼を動かす。ユナほどの力量があれば停滞雲内の環境でも問題なく飛行できるのだが、それには圧倒的に経験が不足していた。
停滞雲内でカザヨミが飛行する為の知識や技術といった情報は都市が収集しているが、それらは都市の住民はおろか下級のカザヨミにも公開されていない。危険性を鑑み、いたずらに近づく事が無いようにと情報が制限されているのだ。そのためクラコもユナも停滞雲内でカザヨミがどのように飛行すればいいのか、詳細な情報を知り得ていない。
めちゃくちゃな気流に温度や光、音の異常。そして五感のマヒもユナは想定外の出来事で、今自分がどのような状況に陥っているのかさえ理解できない。ただひたすらに手を伸ばし、そして停滞雲より抜け出そうと下方へ向かおうとするが、停滞雲はそう簡単に脱せるような領域ではない。
停滞雲の内部でぐちゃぐちゃになった気流は雲外の環境を完全に無視して荒れ狂い、太陽光の光を完全な形のまま雲の中で反射させる。
停滞雲の特殊性を理解していなかったユナは目に見える情報を頼りに上方に見える太陽の姿と、停滞雲に飲み込まれた気流がそのまま内側に向かって吹いていると判断し、そちらと逆の方向へと翼を動かして停滞雲から抜け出そうとする。
しかし実際の気流は停滞雲から逃れるように外側へと吹き、反射された太陽の光は下方から降り注いでいた。
つまりユナは停滞雲の内部へと自ら入り込んでしまっていた。気流と反射した太陽光に惑わされ、同じところをぐるぐると周り始めたことにユナは気づけない。
「痛っ!?」
そうして停滞雲内に居続けたユナの翼にある変化が現れる。いつもならば違和感なく動かせる翼に、重さ以外のわずかな痛みが走ったのだ。尖った何かで刺されるような点の痛みが現れ、それは徐々に翼全体へと広がっていく。
何とか姿勢を安定させようとするが、ひと羽ばたきするたびに痛みは広がりひどくなっていく。ついには動かすことすら難しい痛みがユナを襲い、そして飛ぶことができなくなった。
「あっ……」
気づいたときにはユナの体は自身の意識とは関係なく下方へと墜ちていく。ユナの視点からは太陽と思っていた光の集合体の浮かんだ方へと墜ちていくように見えたため、まるで空に落下しているように思えただろう。しかし次の瞬間には別の気流にまとわりつかれ、あらぬ方向へと体が動いていく。停滞雲の中で荒れ狂う気流は捉えた獲物を易々と逃がすようなことはしない。このままではユナの身体は意識を失った後も停滞雲の中を延々とさまよい続ける事になる。
「っ!」
それを無意識に悟ったユナは最後の力を振り絞り、肌に感じる風の流れから懸命に外へ続く道を探す。徐々に肌の感覚さえも鈍くなり、意識さえも遠のく中、ユナはかろうじて掴んだ風の道を手繰り寄せ、痛む翼を羽ばたかせた。
そのひと羽ばたきはまとわりつく重苦しい嵐から脱せるだけの力が込められており、ユナは何とか停滞雲から脱出する事に成功した。……だが、
(だ、め……ちから……入らない……!)
停滞雲から脱出したからといってすぐに通常飛行へと移行できるほどユナの精神は非常事態に慣れていない。停滞雲内での飛行方法だけでなく、ユナにはカザヨミとしてのあらゆる状況に対する経験値が不足していた。精神を安定させる方法も、緊急事態に巻き込まれる事を想定した体力を温存する飛行技術など、それらはカザヨミとして都市で訓練を受けなければ安全な環境で経験することは難しい。
都市に行かないという選択をした弊害が、ここにきて如実に表れ始めたのだ。
「あ……」
地面が眼前に迫る中、ユナは停滞雲の中で体力を使い果たし、衝撃に備える態勢を取ることもできず頭から墜落していた。
(このまま落ちたら……やっぱり痛いのかな──)
地面に激突するまではまだ数秒ほどの時間がある。カザヨミの翼がわずかに気流を捉え、持ちこたえているがそれでも稼げる時間はほんのわずかであり、落下速度の減衰もあまり期待はできないだろう。少なくとも、幼い少女の体を破壊するほどの速度のまま激突することは確実だ。
(叔母さんのときみたいに、痛いのかな……苦しい、のかな)
ユナが痛みに関して思い出すのは、主に叔母から受けたお仕置きの数々だ。到底お仕置きの範疇に収まらない、それこそ虐待や拷問とも言えるような激しい暴行に晒された事もある。体の傷が癒えているのは既にその時ユナにカザヨミとしての回復能力の高さが発露していたからに過ぎない。かつての痛みはユナの心に夥しい傷となって今も残っているのだ。
きっとその時以上の痛みが自身の体を襲うだろう。それとも、痛みは一瞬ですぐに死ねるだろうか。
(クラコさん)
ユナはかつて自分など死んでもいいと考えていた。叔母に蹴られ殴られ、まともな食事も寝床も与えられず、けれどその傍で見ていた叔母の家庭の暖かさに打ちのめされ、こんな惨めな思いをするなら死んだ方が良いと本気で思っていた。
(……クラコさんは……いたくなかったな……)
けれど、クラコと出会いその思いはユナの中から掻き消えた。それこそ、まるで幻だったかのように。長い長い悪夢から目覚めたかのように。
ユナは短い人生の走馬灯を辿っていた。数年もの長い間過ごしていた叔母との生活はほんの一瞬で過ぎ去り、代わりにクラコと過ごした数週間程度の時間がゆっくりと流れていく。叔母の家での生活は生きることに精一杯でそれ以外の何物にも意識を向けられなかった。けれどクラコとの生活では自身の周りにあるすべてのものに興味を引かれた。興味の引かれるままに進んでいくユナを、クラコは許してくれた。
「クラコ、さん…………」
ユナの体は落ちていく。直下にはクラコとユナが住む団地の屋上が見えるが、ユナの体は屋上からわずかにズレた場所へ墜落しようとしている。今の落下スピードならば屋上だろうと地面だろうとさしたる違いはない。冷たいコンクリートに激突するか、土にまみれて叩きつけられるかの違いでしかない。
「ごめんなさい、クラコさん……」
そしてユナの体は屋上からわずかに離れた場所へと墜ちようとした、その時。
「ユナっ!!!」
「!」
ユナの耳に叫び声が聞こえた。これまで聞いたことのない咆哮のような激しい叫びは、意識を手放す寸前のユナにもかろうじて届いた。もう目を開ける余力すらないユナは、まだ叫び続けているその声の方向へと、翼を無理やり動かす。
(クラコ……さん……)
叫び声は空気の振動であり、つまりは風と同じくカザヨミが肌と翼で感じられる情報だ。ユナは動かすたびにガラスがこすれるような嫌な音を響かせる翼を無理やり動かし、その痛みすら無視して声だけを頼りに飛ぶ。
「ユナっ! こっち!!」
ふらふらと飛行……いや、墜落状態からの滑空で何とか落下軌道を変更したユナの冷たい体を、誰かが受け止めた。
「ユナ! よかった! よかった……!」
クラコの必死な声はそうしてユナを呼び寄せ、つなぎとめた。屋上の端からギリギリユナの体を受け止めることに成功したクラコは、泣きながらユナの鼓動を感じ、安堵するが、それは非常に弱々しく、息さえもしているのか分からない状態だった。
「ユナ……! お願い、お願いだから……!」