クラコがユナに手渡していた携帯端末には位置を把握するアプリがダウンロードされていた。これはユナ自らが言い出したことで、もしも空で迷子になった時のためにと端末に入れられたものだ。
そのアプリはユナが飛行訓練を行っている時間帯は常にクラコが把握できるようにされており、その時もクラコはユナが団地の上空近くを飛んでいるのを把握しながら仕事を消化していた。だが、しばらくすると端末からの反応がぷっつりと途絶えたのだ。
突然の事にクラコは最初、端末の不良を疑った。新品とはいえ型落ちで店長が独自のルートから仕入れた品であるためそのような事もあるかと考えたのだが、それとは別の原因に思い至り、クラコにどっと汗が吹き出る。
都市の外で情報端末や携帯端末でインターネットにアクセスするためには、都市外になんとか残っている電波塔を経由してのアクセスしか方法がなく、衛星を利用したネット通信は不可能だ。
その理由は空を覆う分厚い停滞雲が電波を遮断し、衛星とのリンクを切断してしまうからだ。ゆえに衛星を利用できるのは都市だけであり、都市外はいつ降害で破壊されるともしれない電波塔経由でのネットアクセスしか方法がない。つまり、停滞雲はあらゆる端末から発される通信を遮断してしまうのだ。
ユナの位置情報が送られてこないのは、端末の不良ではなく、ユナが停滞雲に入り込んでしまったからだとしたら……?
その可能性に思い至ったクラコはすべての仕事を放り出し、急いで屋上へと向かった。最後にユナの位置情報が送られてきたのは団地の直上であり、もしかしたらという思いがあった。
もしかしたら、受け止められるかもしれない。
それはかなり分の悪い賭けだった。停滞雲の理不尽さは知っている。それに呑まれたユナが消失した地点から同じように脱出できる可能性は低い。それに墜落を察知して受け止めるにしても、面積の限られた屋上よりも地上にいたほうが可能性としては高い。
けれどクラコは屋上へと向かった。必ずユナは無事でいてくれる。そして我が家であるここに帰ってきてくれる。そう信じていたから。
そしてクラコは満身創痍とはいえ停滞雲からユナを取り戻したのだ。
しかしユナの体は想像以上に酷い有様だった。停滞雲の内部で荒れ狂う気流によってまるで洗濯機の中に放り込まれたような衝撃がユナを襲った。雲中にとどまっていた瓦礫の破片や過冷却水によって体のあちこちに裂傷や打撲、凍傷が見受けられた。何より酷い状況なのが、ユナの翼だ。
翼にはいくつもの結晶のようなものが付着していた。それは翼に深く食い込んでいるように見える。いや、実際には食い込んでいるのではなく"生えている"のだ。
翼の根元から羽先に至るまで、まるで何かの模様を描くかのように結晶が生え、翼の動きを阻害していた。この状態で翼を動かそうものなら、結晶同士が擦り合わされ酷い違和感を感じるだろう。それだけでなく結晶は鋭く尖っており、翼の動きによって翼や背中に突き刺さるだろう。
「これって……停滞結晶なの……?」
クラコはまずユナを部屋に運び込み、ベッドの上に寝かせた。ぼろぼろな服を脱がせようとするが翼が邪魔で上手く脱がせない。クラコはためらうことなく鋏を手に取り服を切りユナを裸にさせる。
そして晒されたユナの体にクラコは息をのむ。ユナは翼だけでなく体のいたるところから結晶が見られ、それは体の表面に食い込む形で生えている。血は出ていない。けれど痛々しさは軽減することは無い。
クラコはそれらの結晶を何とか取り除こうとするが、うかつに触ればユナにも影響が出るかもしれない。何より食い込んだ結晶は人の手ではすべて取り除けるか分からない。
(どうすれば……いえ、これが停滞結晶なら……!)
クラコはこれまで収集した停滞雲及びエーテルに関する知識を総動員してユナに食い込んだ結晶の正体が停滞結晶だと判断した。ただそうであってほしいという願望からそうだと決めつけたわけでは無い。冷静にユナの状態を見てみれば食い込んだ結晶はまるで常温に置かれた氷のように徐々に小さくなり、先端が丸まっていく。大きなものも体からぽとりと落ち、形を崩していく。
このまま時間が経てば自然と結晶は空気に溶け、ユナの体から消え去るはずだ。皮膚に食い込んでいた場所は多少赤くなっている程度なので最終的には痕も残らず綺麗に消えてくれるだろう。
だが、幼いユナには結晶が空気に溶けるまで待っていられる時間が無いかもしれない。
「あ、……ひぁ……あ、……」
「ユナ……? どうしたのユナ! 私の声が聞こえる!? ユナっ!」
ユナの呼吸が荒い。無意識に深く呼吸をしようとしているが、どうにも空気が上手く体に取り込めないようで何度も口を大きく開けて空気と吸い込もうとするが、ユナの喉からはひゅうひゅう、という明らかに異常といえる音が漏れていた。
「っ! 喉に……詰まってる……」
喉に析出した結晶が時間の経過と共に剥がれ落ち、それがユナの気道を狭めていた。まだ幼く細いユナの気道は結晶を吐き出すことができず、十分な空気を取り入れられなくなっていた。
「なんで、どうして溶けてくれないの……!? ……まさか」
不純物を内包して析出した停滞結晶は地上では溶けて消える。それは地上のエーテル濃度が薄く、ゆえに結晶はその形状を保っていられないからだ。対して停滞雲内ではエーテル濃度が濃く、不安定な状態の結晶もその姿で存在できている。
空気を取り込むための気管という限定された空間は気体化したエーテルが排出されることなくその場に留まりエーテル濃度を上げる。ユナの気管は一時的に停滞雲内レベルにまでエーテルが濃くなり、その結果気管に詰まった結晶が溶けてくれないのだ。
そうと理解したクラコは詰まった結晶を吐き出させるためにいくつかの方法を試した。幼子が食べ物を詰まらせた時の対処法を参考に、咳をさせたり背中を叩いて吐き出させようとしたり。
だが、そのどれもが効果がなかった。気管が停滞雲内のように濃いエーテルによって満たされているのならば、気管でエーテルが再結晶化している可能性がある。喉の粘膜に癒着し、どれほど衝撃を与えても取れてはくれない。むしろ、成長した鋭利な結晶が喉に突き刺さる恐れがある。
「……。──」
クラコはベッドの上で苦しそうにうめくユナを前に、ほんの僅かな時間考え、悩んだ。
もしもクラコが考えている通りの事象によってユナの気道が狭まっているのならば、長く悩んでいられる時間などない。時間が経てば経つほど結晶が成長し、完全にユナの気道を塞いでしまう。
素人のクラコが現状できる事といえば、人を呼ぶ事くらいだ。だが、団地にはクラコ達しか住んでおらず、店長の居る店もすぐそこというわけではない。停滞雲とカザヨミ関係の専門家がいるだろう都市に向かうとなればもっと時間はかかる。
そんな時間はユナには残されていない。今ここで対処しなければユナは死ぬ。
そして、クラコは決意した。
「──ごめんなさい、ユナ。後でどれだけ怒ってもらって構わないから」
クラコは苦しそうに顔をゆがめるユナに覆いかぶさり、体を抑え、仰向けにさせる。真正面からユナの顔を伺うクラコは、その両頬に手を添え、そして。
「──ん」
ユナの唇に、キスをした。
「んん……大丈夫、大丈夫だから……」
クラコは自身の肺に溜まった空気をそのままユナに送り、口を離して吐き出させる。何度も空気を吸わせ、吐かせを繰り返す。その動作はまるで人工呼吸を行っているかのようだった。
クラコは僅かな時間であらゆる知識を総動員し、現状を好転させる可能性を考えた。ユナの気管に詰まっている結晶が、気管内に溜まった気体状のエーテルによって成長しているのだとしたら、気管内の気体を空気ごと外へと排出してやれば結晶の成長を止め、溶かせるのではないか、と。
だがそもそもユナは意識が無く、そのうえ詰まりかけの結晶によって呼吸をしようとしてもまともに肺を動かせない。ならば外部から強制的に空気を送り込み、吐き出させるのはどうか。
幸いにもユナは浅くだが呼吸をしていて、咳込んで吐血している様子もない。まだ肺にまで結晶が析出していない証拠だ。空気を無理やり送っても問題は無いだろう。
「大丈夫、大丈夫よ……心配しないで……ほら、ユナ。帰ってきて」
ユナに唇を合わせ、空気を与えるクラコ。だが、その顔は不安と恐怖に強張っていた。
カザヨミの専門家でも、停滞雲の研究家でも、医者でもないクラコにはこの方法が正しいのか判断はできなかった。停滞結晶は未知の物質であり、またユナもただの人間ではないカザヨミだ。すべてが手探りで、けれど失敗が許されない綱渡りな状態。
だが、クラコはただ一心にユナへ唇を合わせる。それが自身にできる最良だと信じているから。唇を合わせ、空気と共にクラコの命さえも注ぎ込む気迫を持って、ユナの名前を呼び、優しく語りかけ続けた。
戻ってきて、帰ってきて。そう祈りながらクラコは必死にユナに命をそそぐ。……そして。
「──げほっ! ごほっ!」
「ユナっ!!」
そしてユナは帰ってきた。大きな咳と共にユナの口から吐き出されたのは、溶けて楕円形になったいくつかの結晶だった。
クラコの予想は当たり、気道に溜まった空気の入れ替えによって結晶は空気に溶け始め、丸くなったものがユナの口から排出されたのだ。正常な気道が確保されたユナの体は正しい呼吸を再開し、空気を入れ替え体に酸素を送り始めた。
荒い息も徐々に収まりユナの姿は傷だらけながらもいつもの状態へと回復したのだった。
「よ、かった……」
思わずその場にへたり込んだクラコは規則正しい呼吸を繰り返すユナの手を強く握り、安堵の涙を流した。