ユナが停滞雲に巻き込まれ、何とか生還してからクラコの生活には少しだけ変化が訪れていた。
クラコはこれまで毎日のように行っていた肉体労働系のバイト掛け持ちをほとんど辞め、代わりに店長と相談してお店のバイトに集中することにした。店のみに集中すると言っても肉体労働以外の、小説を書くバイトなどは手に入るバイト代や締め切りの緩ささからそのまま続ける事にしている。
店長もクラコの真面目な勤務態度は知っているし、ユナの事情もある程度理解しているので快く承諾してくれた。クラコがほぼ毎日店に居てくれるというので今後はバイトの募集はしないという店長の言葉に少し申し訳なさを感じつつ、クラコは空いた時間を利用して本格的にカザヨミや停滞雲について調べ始めるようになり、都市で得られる情報を収集しようと動き出した。
今回のようなユナが命の危機に晒される状況は今後決して起こしてはならないとクラコは強く決意した。それを回避する手段はいくつかクラコの頭の中に思い浮かんでいる。その中でも最も安全で最も確実な方法はユナを都市へと移住させる方法だが、それは二人揃って拒否した案なので選択肢にも入らない。
次の案としてユナに飛行頻度を落としてもらい停滞雲に近寄らないようにする、というものだがこれも難しい。カザヨミにとって翼を用いて空を飛ぶ事は何よりも重要であり、それを我慢させるのは多大なストレスがかかる。加えてユナは高い能力を持つカザヨミに現れる飛行欲持ちであるためその負荷は通常のカザヨミより重くなる。
その他にも様々な選択肢がクラコの脳裏に思い浮かぶが、結局どれも今の生活に合致しないため、結局クラコが選んだのは……。
──そうだ、私がユナを完璧にサポートできるくらいの人間になればいいじゃない──
というものだった。
店長の伝手を頼りに集められるだけの紙媒体を手に入れ、ネットを漁って欠片ほどの情報をも拾っていく。そうしてクラコとユナの住む部屋はあっという間にカザヨミや停滞雲に関する資料が山積みになっていった。
クラコは集めた情報の正確性を時間をかけて精査し確実と思える情報に関してはユナと共有。実際にユナに空を飛んで確かめてもらうなどして確定させる作業を続けていった。
そうしてユナが自由に飛ぶための情報を集めていくが、それでもカザヨミに関する情報は簡単に手に入るというわけではない。
この世界は国という枠組みが崩壊し、都市という小さな枠組みが各土地に存在しており、それらはカザヨミが開拓した空路によって繋がっている。
繋がっているが、各都市はそれぞれが独立した行政区画として機能しており、それぞれが他都市をライバル視している傾向がある。ゆえにその都市のみが独占、秘匿している情報なども多分に存在しており、手に入れられた情報も虫食いだらけで役に立たない事も多い。
「うーん……もうちょっと情報が欲しいかなぁ……これじゃあユナに飛んでもらうのは危険かも」
今日の天気は相変わらずの曇りだが、クラコたちからすれば晴れてそれなりに安定した空模様と判断するだろうそんな日。クラコは久しぶりな快晴の日に洗濯物と布団をまとめて干してしまう事にした。最近改修した屋上の広い土地に物干しざおを張り巡らせ、そこら中に洗濯物と布団を干しまくった。そうして洗濯という肉体労働を終えたクラコは部屋に戻り資料の山の奥に鎮座する情報端末の前に座り直して画面に表示された資料を眺めていた。
洗濯ついでに部屋の空気の入れ替えをするため開け放たれた窓からは気持ちの良い風が吹き込み、集めた書籍や印刷された資料がペラペラとめくられていく。
「何が危険なの? クラコさん」
そんなそよ風が入り込む部屋に、一際大きな風が飛び込んできたかと思うと窓の外側から元気な声が聞こえてきた。
クラコの居る場所が団地の二階であるというのに窓の外から声をかけられるという恐怖体験にクラコは動じない。というのも聞こえた声が毎日聞いている馴染みの声だったからだ
「あら、お帰りユナ。空はどうだった?」
「うん! とっても気持ちよかったよ!」
二階の窓の外より聞こえてきたのは青灰色の翼を広げたユナだった。窓のフチに両手を添え、まるでクラコの居る部屋を覗き込むようにしているユナは、自由に動かせる翼を器用に用いて宙に静止していた。
「かなり上達したわね。疲れてない?」
「ううん? 大丈夫だよ?」
クラコがカザヨミや停滞雲について情報を集めるようになったのと同時に、ユナが行う飛行訓練も本格的なものへと変化していった。クラコが集めた資料や都市公式の動画配信などによっておおよそ都市で行われている訓練の概要は判明しており、それらの内容をなぞるようにしてユナは自主訓練を続けている。
「上の方はどうだった?」
「うーんとね、……思ったより、大丈夫だとおもう」
クラコの言った"上"とは空の上、都市所属のカザヨミなどが飛行しており都市間の空路が開拓されている高度の事だ。空路は低すぎると地上の地形が干渉して気流の変化が起こりやすく危険とされている。逆に高すぎると停滞雲が邪魔をして地上と通信ができなくなるという問題が発生する。カザヨミが開拓した空路はそれらの障害を最小限に抑えた高度に設定されているのだ。
ここ最近のユナの飛行訓練はその高度で行われている。
「そう……それじゃあ"限界速度"の感覚は分かりそう?」
「うーん……これくらいかなっていうのは、分かったかも……? でも、やっぱり雲の中じゃないと」
「停滞雲の中に入るのはもうちょっと待ってほしいわね……」
クラコがカザヨミと停滞雲に関して調べる際、まず最初に手を付けたのはユナが陥った症状についてだった。翼に食い込んだ停滞結晶による飛行阻害や人体の機能障害、その他様々な情報と、それらの対策方法を調べていった。
そしてクラコは停滞雲内の環境とそれに伴うエーテル結晶の析出がカザヨミに様々な悪影響を及ぼす事を知った。
その壮絶な停滞雲内の環境に、クラコ個人としては先日のような危険な目には合ってほしくないと最初は思った。具体的には停滞雲に近づかない、それ以外の空を自由に飛んでほしいと思った。
だが、この世界では停滞雲に覆われていない空など都市の上空か、停滞雲と停滞雲の隙間にできたわずかに細いルート以外に存在しない。飛行していれば予想外な状態や緊急事態に巻き込まれる事もあるかもしれない。
そして、そんな状況で取れる選択肢は多ければ多いほどいい。停滞雲を突っ切り、即座に安全を確保する方法が取れるのならば、やはり知っていた方が良いとクラコは判断した。
そしてクラコは停滞雲内でカザヨミがどのように飛行するのかをいくつもの資料から予測し、それをユナに教え訓練内容に取り込んだ。その中の一つが限界速度、正式名称"析出限界速度"と呼ばれる知識だ。
停滞雲内は高濃度のエーテルが集中した領域が存在し、場合によっては停滞雲そのものが濃いエーテルの領域となっている。そこへカザヨミが侵入すると、エーテルは停滞結晶としてカザヨミの翼へと析出していく。それは違和感や痛みを伴い、飛行能力を大幅に制限させる。
だが、この結晶の析出量はカザヨミの飛行速度の上昇と共に減少し、一定の速度を維持していれば結晶の析出現象は最小限に抑えられる。この結晶の析出を防ぎ停滞雲内を飛行する際に推奨される速度の事を析出限界速度と呼んでいる。
なお、クラコがこの予測を立て、"析出限界速度"という名称を知ったきっかけとなったのは、BWで都市所属カザヨミが配信中に思わずポロリしてしまった発言からだったりする。
「でも……まさか雲の中に入らなくても分かるなんてね……」
「? 他のカザヨミのお姉ちゃんたちは分からないの……?」
「調べた限り雲の外でエーテルを感じられる、というのは少数みたいね」
火星で見つかった新資源物質である停滞結晶、その
だが、人類の発展させた科学技術では不可能でも、エーテルと同等の、人類にとって未知なる存在ならばその姿を間接的にであるが捉える事が可能だと判明した。
その存在こそが、カザヨミだ。カザヨミの中でも優れた能力を持つカザヨミは気流と同様にエーテルの濃淡を翼で感じ取ることができる。ユナはそんな都市のカザヨミでも難しいエーテルを感じる技術を習得しようとしていた。
「んー……よくわかんない。ふう……」
「あらあら、今日はもう終わりにするの?」
「うん。暗くなったらあぶないから」
慣れた様子で翼をたたみ窓から部屋の中に入るユナはリビングに着地するとその勢いのまま、とてとてと数歩足を動かしクラコのひざ元へと寝転がった。すでに翼は収納済みで邪魔にもならない。クラコは仕方ないとばかりにひざ元にいるユナをひと撫でしてやると満足そうにユナは声を漏らす。
「今日のご飯は肉じゃがにしようかしら」
「んぅ? お肉まだあった?」
「冷凍してたのがあったはず。……早く使わないとダメになりそうなのが」
「……早く使わないとだめだよ?」
「もったいなくてねぇ。お肉なんてなかなか手に入らないし」
クラコは情報を集め、ユナはカザヨミとしての技術を磨く。そうして二人は別々に行動しているが一緒に居る時間は今までとそれほど変わらない。クラコの調べものはユナのためであり、ユナの飛行訓練もクラコの期待に応えたいという想いがあった。
ユナが帰ってきた時点で調べものをひと段落させていたクラコは自身の胡坐の中にぐいぐいと体をもぐりこませるユナの姿に苦笑しながら、その小さな体を受け入れた。まるで子猫のように満足気なユナを撫でながらユナに端末の操作を任せる。
「いいの?」
「あらかた調べ終わったからいいわよ。何か見たいものでもあるの?」
「うんとね……南のみち……」
「あー……次に訓練する場所の事よね……うーん……」
現在ユナはカザヨミが開拓した空路の存在する高度にて飛行訓練を行っている。実際に都市のカザヨミと同じ環境で訓練すればそれだけ成長が見込めるし、動画などの飛行技術が参考になると考えていたからだ。
とはいえユナは開拓された空路自体は一度も侵入したことがない。カザヨミが開拓した空路は当然カザヨミの為の空路として活用されているのでもしかしたらユナが都市のカザヨミと接触してしまう可能性があったからだ。
都市にて非常に高い地位に就いたユナの叔母。都市所属のカザヨミにユナの存在が知られるという事は、カザヨミとなったユナの存在が叔母に知られるという事だ。もしかしたら叔母によって強制的にユナとクラコが引き離される可能性もある。
そう考えたクラコはできるだけユナが飛行訓練を行う空域や時間帯を限定し、都市のカザヨミとニアミスしないように気を付けていた。
しかし、長距離飛行などの訓練では安全性が確保された空路を利用する必要がある。なのでクラコは今後の飛行訓練のプランとして、家から近く、距離もそれほど長くないとある空路の試験飛行を計画していた。それが都市の南に存在する「湖南・南下ルート」だ。
湖南・南下ルートは都市の南より伸びる空路の一つであり、山脈に囲まれたこの土地から別の地域へと脱出するための"連絡路"と繋がっている数少ない重要空路の一つだ。浮かぶ停滞雲同士の隙間がかなり大きいので多少ルートを外れたとしても安全で安定した空路として頻繁に利用されていた……のだが。
「どうも調べてみると南下ルートはかなり不安定みたいなのよね……ほら、これ見て」
「んー……"ヒノ、降害の影響いまだ収まらず"……?」
「ネットニュースね。南下ルート近くのヒノで降害が発生して、停滞雲が一つなくなったの。その影響で南下ルート近くの停滞雲が全体的に移動しちゃって、今新しいルートを模索……探してるって意味ね」
「南のみちは、飛べないの……?」
「新しいルートの開拓が終わらないと無理ね。……いろんなカザヨミが開拓路を探してるみたいだけど、これといった道はまだ発見されてないみたい」
空路の再開拓は今に始まったことではない。今までも降害が発生し、停滞雲が動くたびに新たな空路が開拓されていった。とはいえゼロから開拓が始まるというわけではない。停滞雲は動くといっても通常の雲のように流れるわけではなく、ほんの僅か微動だにする程度だ。そのため過去に開拓されていた空路をなぞり、停滞雲の変化があった部分のみ空路を修正する、といった作業を繰り返しているのだ。
しかし、どうやら今回の南下ルートの再開拓はかなりの時間がかかっているらしい。降害自体が比較的長く続き、そのうえ降害を発生させた停滞雲は周囲の停滞雲に吸収されることなく完全に消滅してしまった。停滞雲ひしめき合う空の中に、ぽっかりと空いた空間が生まれた。そこへ周囲の停滞雲が我先にと殺到したのだ。
これまでに無いほど大きくヒノ近くの停滞雲が動き、つられて周辺地域の停滞雲の位置も変化がうかがえた。変化は地方全体に及び、その事態にオウミは最重要空路であるキョウトの都市と繋がる空路の安全確認を優先させた。
未だに南下ルートの再開拓が完了していないのは停滞雲の予想外な動きだけでなく、重要空路の安全確認の為にキョウトと接続する空路へ上位のカザヨミが駆り出されているから、とも言われている。
「……クラコさん、この南のみち、使えないとみんなたいへん……?」
「そうねえ……南下ルートはスズカの都市と繋がっているから、そちらへ行けなくなっているのはかなり不便でしょうね……」
「……そう」
ユナは少し悲し気な顔で端末に映るニュースサイトの文字を眺めていた。実際のところ都市間の重要空路が閉鎖されているのはかなり不味い状況だ。物資や情報の交流が滞り、緊急時に人員を送る事すらままならない。
何より、オウミとスズカの都市を繋ぐ唯一の空路が閉じられたことでスズカはキョウトの都市との最短ルートを失った事になる。近畿の他都市をいくつも経由して、かなり大回りしなければならなくなった。空路は安定しているとはいえ停滞雲の動きを人間がコントロールできるわけもなく、空路の長さはそのまま危険性の増大を意味する。
この国に五人しか居ない特級区分のカザヨミのうち三人が所属するキョウトの都市はその三名のカザヨミを含めた練度の高いカザヨミたちによっていくつもの空路が開拓され、キョウト都市周辺の停滞雲の動向は可能な限り調べつくされている。キョウトの都市にはカザヨミや停滞雲に関する情報が集まり、日々それらの研究が行われているという。
つまり、小さな都市にとって巨大で情報の集まるキョウトと繋がりを持つというのは非常に重要なのだ。自身の都市周辺で異常な動きをする停滞雲が出現したとしても、キョウトに問い合わせれば過去に同様の動きをする停滞雲に関する情報が見つかる事も多い。場合によってはその停滞雲を実際に観測したカザヨミを派遣してもらえることだってある。
キョウトとの繋がりが途絶えるという事は、予想外の事態に対処できない可能性が高まるということだ。
そして、停滞雲は予想外の事態を引き起こしやすい。
ユナは何か言いたそうに口を動かすが、そこから声が漏れる事は無かった。クラコの服の裾を無意識にきゅっと握りしめ、ちらちらと彼女を見上げているだけ。
「ユナ」
クラコはそんなユナの名前を呼ぶ。その声音には何かをたしなめるような音が含まれているように思えた。ユナは優しく聡い子だ。クラコが何を言いたいのかを悟り、小さく顔を俯かせた。
ユナは優しい。自身に関係のない人々の生活を案じて顔を暗くするほどには。
そして聡い。その問題を、自身ならばなんとかできるのではないかと判断できるほどには。
現在南下ルートの再開拓はオウミ都市所属のカザヨミが行っているのだが、オウミの都市に唯一所属している特級カザヨミはキョウトとの接続空路の調査に向かい、一級は都市周辺の停滞雲の動向調査を行っている関係で、実際に再開拓は二級以下のカザヨミに任されているようだ。その事実は公表されていないが情報端末でBWにアクセスすればある程度察する事ができるだろう。
なぜならルート開拓に関する動画を投稿しているカザヨミはそのほとんどが二級や三級に限られているからだ。
BWでチャンネル登録者数数十万レベルの二級や三級カザヨミがしきりに"再開拓チャレンジ配信"なるものを投稿し再生数を伸ばしているが、反面ルートの再開拓は進んでいない。彼女たちにとってはこれもただの動画のネタでしかないのかもしれない。もしくは、予想以上に再開拓は困難な状況という事なのかもしれない。
対してユナの現在の実力は一級レベルとみていい。気流を読み乗る技術だけでなくエーテルさえも感知し、掴むことができる。ユナならば、未だ確定していない湖南・南下ルートを再開拓できるかもしれない。
だが再開拓するという事は、開拓前の道を手探りで進んでいかなければならないということであり、想定外の問題が発生する可能性は高い。先日停滞雲に呑まれ、危うく命を落としかけたユナが再度そのような事態に陥るのではないかとクラコは危惧し、ゆえにユナを制止するように声をかけたわけだ。
だが、ユナの思いは強かった。過去、叔母に強いられた酷い環境を理解しているからこそ、理不尽な不幸を殊更嫌っているようだった。停滞雲の理不尽さに憤り、それによってもたらされる不幸を見て見ぬふりできない。
「私は……」
俯くユナは、それでも言葉を紡ぐ。
「私は、……クラコさんに助けてもらいました」
ぽつりとこぼれた言葉は小さいながらもクラコの耳に届く。クラコはユナの言葉を遮る事もなく、ただ静かにユナの言葉を聞いていた。
「私は、きっと幸せ者なんだと思います。クラコさんみたいな、素敵な人に助けてもらえることなんて、きっとないだろうから」
服を握りしめていたユナの手にはいつの間にかクラコの手が重なる。静かに続きを促すクラコのに視線を合わせ、ユナは自分の考えを口にする。
叔母の家で生活していた時は自己を主張することなど絶対になかったユナが、自身の思いをクラコに伝える。
「だから、助けたいです。今度は私が……私ができることがあるなら、やってみたいんです……お願いしますクラコさん。私に、南のみちへ行かせてください」
「……ユナ」
ユナの言葉にクラコは己の感情を頭の中で整理するように深く息を吸い、そしてユナの頭を自身の胸に埋めた。
ユナの幼子特有の高い体温を感じると、クラコはどうしても不安に駆られる。いつしか、空へと飛び出したユナが帰ってこなくなり、当たり前だと思っていたこのぬくもりを抱き寄せる事もできなくなってしまうのではないかと。
だが、それはクラコの我儘だ。子供はいつしか親から巣立つ時が来る。いつまでもひな鳥ではいられないし、いてはいけないのだ。たとえ幼くとも本人が強く意思を主張しているのならば、親たるクラコがいうべき言葉はすでに決まっていた。
「必ず帰ってきなさい。ここは、あなたの家なんだからね」