カザヨミの翼は一説にはエーテルによって構成された生成物だといわれている。人類が観測できないエーテルを感知出来る翼が、エーテル由来であるという説は確かに説得力があるものだが、その説はあまり定着することなく仮説の一つとして扱われるのみだった。
その後もカザヨミとエーテルの関連性についての研究などが行われる事もあったが、それらが大々的に公表される事はなかった。都市の人間にとってエーテルとは停滞雲を構成する謎の物体という認識が強く、エーテル=災害の原因というイメージが強く定着していた。
そのため都市はカザヨミとエーテルとの関連性を積極的に公表することはなかった。データ自体は都市の公式サイトにて公開はされているので調べようと思えば誰でも調べられるが、ひっそりとサイトの片隅に置かれているデータに気づく者はなかなか居ない。カザヨミに関する情報ならいざ知らず、耳にすることも嫌悪する停滞雲について知りたいと思う一般人はほとんどおらず、エーテルならばなおさら一般人が興味を引くとは思えない。
ゆえにクラコはカザヨミの情報について調べるのに苦労していたが、対してエーテルや停滞雲に関する情報は拍子抜けするほど簡単に手に入れていた。そしてそれは、今のクラコにとって何よりも必要としていた情報だった。
◇
白い湯気が満たされた浴室でクラコの呆れた声とユナの悲鳴が反響する。クラコは裸にバスタオル一枚の姿でシャワーを片手に目の前の羽毛の塊と格闘していた。
「く、クラコさん……! やっぱりムリですぅ……!」
羽毛の塊の主であるユナはたまらず恥ずかしさに叫びを上げるがクラコは一切気にしない。無視して翼にお湯をたっぷりとかけ、素手で羽の中まで丁寧に洗っていく。
「我慢して! まったく、羽を休めるために煙突のてっぺんで休憩するなんて! こら逃げないの!」
「だってぇ! ぬるぬるくすぐったいんですぅ!!」
「安心しなさいカザヨミの翼は石鹸で洗っても問題ないって話だから」
何が大丈夫なのか分からずユナは手足をジタバタと暴れさせるがクラコが両足でユナの体を抑え込み、抵抗できなくする。その間にクラコは液体タイプのハンドソープをたっぷりと片手に盛り、それをユナの翼へとすり込み泡立たせる。
心地よいお湯によって体も翼もほぐされ敏感になっている。そんなところにヌルヌルとしたハンドソープが塗りたくられ、いつも以上にクラコの手の動きを感じてしまうユナは思わず翼を動かそうとするのだが……。
「んぅ、あうう~~!!?」
「抵抗したら洗う時間が増えるだけよ」
「やあん!? クラコさん根元は敏感だからぁ!?」
「じゃあ今度からは煤だらけにならない場所で休憩することね」
ここ数日行っている羽繕いによってユナの翼の中でもどこが敏感であるかを把握しているクラコによってユナの翼は簡単に屈服させられる。ようやく大人しくなったユナを尻目にクラコは煤で真っ黒になったユナの翼から汚れを丁寧に洗い落としていく。
本来翼を持った鳥類は石鹸類で翼を洗ってはいけない。羽をコーティングしている油分が剥がれ、水を弾く事ができなくなってしまうからだ。だがカザヨミの翼はそもそも鳥類とは全く異なる構成をしており、素手で羽繕いしたり石鹸でくまなく洗ったりしても全く問題がない。むしろカザヨミ本人が了承するのなら洗うのが推奨されているくらいだ。
クラコはそうして翼を綺麗にした後はついでとばかりにユナの体を洗おうとする。もう一人で洗えるから、とユナが言ってもクラコの手は止まらない。先ほどの翼を汚したお説教の流れから強く反発できないユナは結局クラコによって体を隅々まで洗い尽くされ、へとへとな状態でお風呂を終えるのだった。
「クラコさーん、洗濯機動かしておきますー?」
「ううん、明日の朝まとめてやっとくからそのままでいいわよ」
「はーい。……あの、クラコさん」
「良いわよ。髪の毛乾かしてあげる。こっちに来て」
「はいっ!」
「今日の空はどうだったの?」
「うんと、今日は"トラゴ"の道を飛んできたの。とっても強い風が吹いてて、それでちょっと危ないかなっと思って上の方を飛んでみたの」
ユナは訓練と同時に開拓された空路を飛び、経験値を蓄積させていった。既に既存の空路の
ユナはクラコに髪を乾かしてもらいながら今日一日飛んでいた場所の事を楽しそうに話し始める。翼と肌に当たる風の心地よさや見上げんばかりの山々の巨大さ。停滞雲の不気味さと、一緒に飛んでいた鳥たちの可愛さ。
ユナが今日飛んできたトラゴとはトラヒメ中継地点とヨゴ中継地点とを繋ぐ空路の事だ。湖と伊吹山地の間に設けられた空路であるが、伊吹山地より流れてきたまばらな停滞雲の流出によって空路はかなり歪な形をしている。さながら宇宙空間に散る小惑星群のごとき密度で小規模な停滞雲が停滞しているため、好んで通るカザヨミは少ない。だが飛んでいるカザヨミが少ないというのは、都市から距離をおいているユナにとっては飛行訓練を行うのに都合のいい空路ともいえる。
これまでもユナが他のカザヨミとニアミスする事が無いよう、クラコは空域や時間帯を考慮してユナの飛行訓練の場を選定していた。
都市は他都市とカザヨミによって繋がっており、物資や情報を運ぶカザヨミたちの
それ以外の訓練中のカザヨミの動向も、現在どのあたりが訓練空域として解放されているのかを非公式ファンサイトなどを見ればおおよそ把握出来る。
そのためユナはこれまで一度として都市のカザヨミと出会うことなく、のびのびと空を飛び回っていた。
「あらあら、空路より上を飛んだの? 大丈夫だった?」
「うん! でも……ちょっと寒かった」
「ふふ、マフラーでも編んであげようかしら?」
「ほんと!?」
喜ぶユナを見て微笑むクラコはマフラーの為の毛糸が店長のところに売っていただろうかと考えながらユナの頭を撫でてやる。すっかり乾いたユナの髪は青灰色の美しさを取り戻す。そのことに満足そうなクラコはもうひと撫でして、ユナに何色のマフラーが良いのかと聞いたりしていた。
そうして二人は楽しい日常に流され、BWに投稿したタイムアタック動画の事などすっかり忘れてしまっていた。
先日クラコとユナが撮影した南下ルートの再開拓タイムアタック動画はBWに投稿してから三日ほど経過しているが、なんとその間クラコは一度も投稿した動画の反応を確認していなかった。
ユナの希望で空路再開拓の助力になればと投稿した動画だが、ユナは空を飛ぶ事が好きでそれほどネットの世界には興味を示さなかった。クラコも調べものをする時以外はネットを活用する頻度は高くなく、最近は都市が公開しているエーテルと停滞結晶に関する調査報告書などを読み漁る事に時間を割いてBWにアクセスすることすらなかったので二人はBWにて例の動画がどのような反響を及ぼしているのか知る由もなかった。
数あるタイムアタック動画の一つに過ぎず、片手間で編集したタイマーを乗せただけのそれが話題になるはずなど無いと思い込んでいたのだ。しかし、二人が投稿した動画は話題にならないどころか、BW内のタイムアタックジャンルに留まることなく大きな反響を生んでいた。
「さてと、久しぶりに動画でも漁ってみようかな」
お風呂に入り髪を乾かす温風に眠気を催したユナに毛布を掛け、クラコは久しぶりにエーテル関連の資料から目を離しBWで動画を漁っていた。次のユナの飛行訓練に利用できそうな空路を見つけるためだ。
オウミの都市が管理している空路は大小合わせて数十本も存在するが、空路の大きさや安定性、全長や停滞雲との距離などから訓練中のカザヨミが飛行する空路には偏りが存在する。中でも最も偏る要因となるのがBW内での空路の"流行り"だ。有名なカザヨミの配信者が飛行する空路は配信者界隈で流行の空路となり、多くのカザヨミが同じように飛行しては配信を行う。そういった流行りの予兆を察し、どの空路を注意するべきかを考えるわけだ。
今回もクラコはチャンネル登録している有名なカザヨミ配信者たちが投稿している動画や配信アーカイブから流行の兆しを調査しようとしていたのだが、クラコはいつもとは異なるBW全体の雰囲気に首をかしげる事になった。
「……なにこれ? 検証動画に、考察動画……? こんなのがトレンドに入って……? ……ハヤブサ?」
BWにアクセスしたクラコの目に飛び込んできたのはトップページに表示されている最新トレンドの動画一覧だった。一週間で最も再生回数が多かった注目の動画上位10位がトップページに表示されるというシステムのそれは、10の動画のうち下位の動画は見たことのある配信者の飛行訓練動画などだったが、上位の動画はすべて検証や考察を行っている珍しい動画ばかりだった。
基本的にBWはその名前の通りカザヨミに関する動画、あるいはカザヨミ本人の投稿動画が人気でトレンドに上がってきやすい。そのため考察などの話をメインとした動画がトレンドに入るのはかなり珍しいのだ。動画の編集技術が並外れていたり、投稿者の語りや内容がプロレベルでもなければどうにも地味になってしまいがちな考察動画は、サムネイルにとある名前が目立つ色で表示されている。
「"ハヤブサの正体判明!"、"ハヤブサ=ツバメ説確定か!?"、"TA動画に驚愕の事実が!"……え、なにこれは」
トレンド上位の検証、考察動画はどれもハヤブサという名前が踊り狂い、見慣れない投稿者名が続いていく。どうやらそれらの動画はハヤブサなるものに関する動画のようで、その正体を突き止めようと、あるいはハヤブサという名前を使って流行に乗ろうとしている動画のようだった。
つまり現在のBWではハヤブサ、あるいはそのTA動画というものが流行となっているらしかった。
「はー……数日見ない間にトレンドも様変わりするものねぇ……って、あれ? この1位の動画……」
もったいぶったように10位から表示されているランキングをスクロールしていくと銅色の枠が付いた三位の動画、銀色の枠がついた二位の動画、最後に金枠の悪目立ちした第一位の動画が表示される。それは他の動画と比べればかなりシンプルでサムネイルもフリー素材を用いただけの、ある意味手抜きとも思えるような動画だった。サイト側が用意した金枠装飾との落差がなんとも言えない違和感を醸し出している。
だが、それ以上にクラコが違和感を抱いたのはその動画の題名とサムネイルに心当たりがあったからだ。
世界的な動画配信サイトであるBWの週間ランキング一位を記録した動画、それはクラコが編集し、ユナが飛んだ南下ルートのタイムアタック動画だったのだ。
「うえ!? そ、それじゃあハヤブサってまさか……」
クラコは慌ててランキング二位の動画を再生してみる。美麗なオープニングから始まり自己紹介。そして件のハヤブサについての考察が始まった。
内容はクラコが想像していた通りの内容で、最初に先日投稿されたTA動画、つまりはクラコが投稿した動画について軽い説明が入り、その動画の反響についての説明、そしてそのTA動画に登場したハヤブサと名乗るカザヨミについての考察が続いていく。
クラコは三位、四位の動画も再生してみるが内容はほぼ同じで、違いがあるとすればハヤブサ本人に焦点を当てているか、ハヤブサがどこに住んでいるのかをTA動画から特定しようとしているか、もしくはハヤブサの飛行技術、能力についてのどれかをメインに動画を構成しているかの違いであり、すべてにおいてクラコが投稿したタイムアタック動画に関係する内容だった。
「どういう事……なんでこんな事に……というか、まだ三日した経ってないのよ?」
この世界ではネットにアクセスできる人間はかなり限定されており、基本的に都市に住まう人間か都市外でも安定した生活を送れる存在のみに限られている。そのためBWで再生数が数千、チャンネル登録者数が一万以上となれば全体の数パーセント程度しかない上澄みも上澄み、都市の公式アカウントや有名カザヨミ、配信活動を長年続けているような者たちしか達成していないはるか高みなのだ。
そして、それを踏まえたうえでクラコが確認した投稿動画の再生回数は三日で80万回以上、ハヤブサのアカウント登録者数は40万以上。アカウントのメッセージ機能にはキョウトやオウミを含めた各都市などから数えきれないほどのメッセージが送られていた。
焦ったクラコはBWやカザヨミ非公式ファンサイト、SNS等を巡回してある程度の情報を集め、そうしてようやく状況を把握する。
動画に映る謎の少女。おそらく未所属だと思われるカザヨミは恐れ多くもハヤブサを名乗り、ろくに自己紹介もせずに空へと飛び立ち、実力をまざまざと見せつけた。都市の公式SNSさえ反応するような反響はあらゆる界隈に広がっていくが当のハヤブサは動画投稿後、音沙汰がない。SNSさえやっていないようでそのミステリアスさがよりハヤブサに関する考察を加速させていった。
しかし動画はクラコによって身バレ防止を考慮した編集がされているので、どれだけ話題になってもハヤブサ……ユナの素性が暴露されるような動画は投稿される事はなかった。最初の自己紹介の映像でおそらく都市外、遠くに湖が見えているのでオウミ周辺だろうとは考察されていたが、そもそも降害によって風景がよく変化しているのでその場面だけでクラコとユナの住む場所を特定することは不可能だった。
「うーん……はやまったかしらね……」
投稿した動画の思わぬ反響。再開拓した南下ルートの公式化。それに伴う都市からのメッセージ。本来ならばそれらは喜ぶべき内容なのだろう。だが、現在のクラコとユナの立場は以前と変わっていない。ユナの叔母は今もオウミの都市でそれなりの地位に居て、娘の二人はカザヨミとして有名だ。
ただのカザヨミだったとしても叔母はユナを手元に置こうと考えていたはずだ。それがハヤブサなる存在に化けたとなれば、是が非でもユナを自らのものにしようと考えてもおかしくない。
「……しばらくは飛ばせてあげられないかもしれないわね……」
カザヨミの飛行に制限をかける事は本人に多大なストレスをかけるとクラコも理解している。だからこそ時間や空路を選び、できるだけユナには毎日飛ばせてあげていた。だが、今後都市がどのような行動に出るのか判断ができない。都市から送られてきたメッセージの中には都市へ招待……と称した強制的な招集命令じみたものもあり、クラコの第一印象は悪い。それ以前に叔母の影響力の及んでいるらしいオウミの都市と接触するつもりはクラコに無いし、ユナも拒否している。
動画の考察や検証が進み、ユナの素顔は判明していなくても目立つ青灰色の翼は周知されてしまっているのも問題だ。たった一人のカザヨミと空路でニアミスしただけでユナの所在地が特定されてしまう可能性だってあった。
ゆえにクラコはユナの負担にならない範囲で空を飛ぶ日数を限定させる事にした。少なくとも動画の反響が収まり、配信者たちが青灰色の翼に大げさな反応をしなくなるまで。
ユナはとても賢く、大人しい子だ。クラコが動画について話をしてその危険性を説明すれば納得してくれるだろう。だが、ユナは過去に飛行欲により空を良く見上げていた事もある、いきなり空を飛ぶ日数を極限まで減らす事は良くない。そのことも考慮しての制限範囲を決めたほうがいいだろう。
「禁欲……いえ、この場合"禁翼"かしら? とにかく、しばらくはキンヨク生活になりそうね」
自身の体にもたれかかり寝息を立てるユナの頭を撫で、しまい忘れた青灰色の翼がぴこぴこと動く。そんな微笑ましい光景に顔をほころばせながらもクラコは悩まし気なため息を吐き出すのだった。