人類が完全にその仕組みを把握できていない物質である停滞結晶と、恐らく存在しているであろうと考えられているエーテルだが、それらの情報は比較的簡単に手に入れる事ができる。
人類が火星でその物質を初めて発見した時から降害によって調査が停止するまでに行われた様々な実験や検証結果は都市がネット上に公開している資料から容易に確認することができるため、クラコも端末を利用してそれらの情報を入手していた。過去に存在していた法律を律儀に守り情報開示を行っている都市だが、どうせ都市内の人間は都市の外の出来事など興味もないだろうし、都市外の人間はそもそもネットにアクセス出来ない者がほとんどなのでどれだけ情報を垂れ流しにしてもその情報を利用できるわけがないと都市は楽観視しているようだった。
ある意味都市の考えは正しく、都市の内と外に住む者どちらも停滞結晶やエーテルに興味などなく、それらによって引き起こされる停滞雲、降害といったものに関しては逆に耳に入れたくない情報として見て見ぬふりをする始末。これらの物質を研究していた人間たちは物質の入手が不可能になり、有効活用出来る技術の消失によって研究することをやめた。
結果として情報を利用しようとしても結局都市が開示した情報は公開しただけで誰の目にも触れることなく放置されるはずだった。
「うん、都市の情報通り一度停滞結晶になるとどれだけ細かく砕いても結晶として形を保ち続けるのね」
浴槽で出来る限りの防備に身を包んでいるクラコは砕いた粉末を吸引しないよう、丁寧に別の容器へと入れていく。金槌で粉々に砕かれた停滞結晶だが、それらが空気に溶けてエーテルとして消失する様子はない。
都市の情報によればエーテルは停滞結晶へと変化するが、その過程は雨や雪と同じ工程を辿るとされている。つまり、空気中に存在するチリやゴミなどを核としてエーテルは結晶の析出を始め、停滞結晶として出現するという事だ。
しかし、このチリやゴミなどといった不純物を内包した停滞結晶は非常に不安定で、高濃度のエーテル領域から脱するとすぐさまエーテルへと昇華してしまう。
停滞雲に飲みこまれたユナが結晶まみれになり、雲から脱すると徐々に結晶が消え去ったのはつまり、ユナの体に付着した結晶はユナの体を起点として析出した不純物だらけの結晶だったという事だ。
しかしクラコが加工している停滞結晶はエーテルの薄いはずの地上でもその姿を保ち続ける完全で純粋な停滞結晶。チリやゴミではなく、エーテルそのものを核として析出した結晶なのだ。資源として利用できるこの純粋な停滞結晶は一度結晶の姿になるとエネルギーとして消費しない限りはエーテルに変化する事はない。火にくべたり、充電池として利用するなど外部からのエネルギーに晒されない限り停滞結晶は結晶としての姿を保ち続けようとする。
クラコが粉末にした停滞結晶も金槌による外部からの衝撃によってわずかにエーテルへと昇華しているが、その量は人間には感じられないほど微小で、機械を用いてようやく判明するほどにほとんど変化していない。
変化していないのはそれだけではない。どれだけ細かく加工されようとも、たとえ液体に溶かされようとも、停滞結晶は結晶としての"特性"を維持し続ける。
そして、クラコが結晶を粉末に加工したのはそんな特性を利用したものを作るためだった。
「ん~……上手くいくかはまだ分かんないわね……実際にユナに使ってもらわないと」
クラコはそう言って水を張った状態の湯舟に先ほど粉末状にした結晶を投入し、そこら辺に置いてあったお風呂掃除用のブラシの柄でぐるぐるとかき混ぜ始めた。
「これで、結晶の溶液が作れる……はず」
先ほどからクラコが停滞結晶を用いて作ろうとしているのは、都市が保管していた資料からクラコが考察し、おそらく実現できるであろうと判断した"結晶を利用した
停滞結晶には資源としての特性以外に様々な性質があり、それらを利用すれば停滞雲内での飛行に大いに役に立つ製品を作り出せるのではないか、という内容が研究者たちが残した資料に記載されていた。
だが実際には希少すぎる停滞結晶を加工するなど都市を管理する上層部が許すはずもなく、実物が製造されることはなかった。しかし原理だけは机上で確立され、それがどのような作用をもたらすのかも予測されていた。
クラコはそれらを実際に造ってみる事にしたのだ。
「よし……多分これでいい、はず……あとはココに布を……」
あらかじめ用意していた何種類もの糸や布の束を結晶の溶け込んだ溶液に入れていく。決して肌に溶液が飛ばないよう最新の注意を払い、しっかりと沁み込むように沈めて時間をおく。
「あとは一晩おいておけばいいんだっけ……これで"エーテル繊維"が出来るのよね……?」
研究者の資料に書き記されていた結晶を利用した製品の中でも比較的作りやすく、量産しやすいとされているものがエーテル繊維と呼ばれるものだ。停滞結晶を細かく粉末状にし、それを溶かし込んだ溶液に繊維を浸すと繊維に結晶の特性が付与されるという。
これは繊維に細かく砕いた結晶が付着するという単純なものではなく、繊維そのものに結晶の成分が沁み込んでいる状態なのだという。原理としてはイオン結合により布を染める"染色"と似ており、布の分子と結晶の分子とも言うべきものが結合し、繊維そのものに結晶の特性が現れるという。
クラコはこのエーテル繊維を製造し、停滞雲内を飛行する予定のユナの防護服を作ろうと考えていた。
「これなら肌の結晶付着もある程度防げるはずだし……吸い込むエーテルの量も減るはず」
エーテル繊維は結晶の持つ特性を受け継いだ特殊な繊維を生み出す事が出来る。外部から干渉を受けても"停滞"しているかのように消耗しにくい所から、耐摩耗性や耐火、耐電などが期待でき、エネルギーを貯め込む性質から耐寒、耐熱なども見込める。
そして何よりも重要なのが、エーテルの影響を防げる耐エーテル性能だ。
停滞結晶は性質の一つとして"周囲のエーテルを取り込む"性質があると言われている。停滞結晶は高濃度エーテルの析出によって発生する事は判明しており、そこから結晶はエーテルを取り込んで成長するのではないか、という説が提唱された。実際に行われた実験で停滞雲内に持ち込まれた純粋な停滞結晶は僅かばかりその大きさに変化が見られたという。
大きさに変化が認められた理由は分からず、分からないからこそ人間が観測できないエーテルによる変化だろうと予測されたのだ。その特性はいくつもの仮説を用いた実験や調査を行い、おそらく事実であろうと確定された。
そして、エーテル繊維はその特性を用いた耐エーテル性能があると予想されている。
停滞雲内に侵入したカザヨミにはその体の表面の凹凸を核として不純な停滞結晶が析出する。それはカザヨミの肌に高濃度のエーテルが接触するため発生するわけだが、停滞結晶の特性を持つエーテル繊維を身に纏う事によってエーテルが析出する優先順位がカザヨミの肌からエーテル繊維へと移る。
析出に必要な高濃度のエーテルは繊維に含まれる停滞結晶へと取り込まれ濃度を低下させる。析出頻度を抑え、析出したとしてもまずエーテル繊維に析出が始まる。
結果としてカザヨミには停滞結晶の析出が発生しない。というわけだ。
それに加えて析出限界速度を維持できれば、一般的な停滞雲内での活動はほぼ問題なく行えるだろう。
「……あ、そういえば湯舟でやっちゃって大丈夫だったかしら……? 桶とかで……いや、でも布の量はかなりあるし……」
エーテル溶液に付け込まれた布や糸を見て、今更ながらに今夜のお風呂を心配するクラコ。
夜のお風呂もそうだが、溶液によって湯舟の表面が劣化したりしないだろうか? というか溶液はそのまま流しても大丈夫だろうか?
そんな問題をすべて先送りにし、クラコは繊維が完全に浸みるまで小説執筆の仕事をすることにした。悩み事が多いほど筆は進む、今日のクラコの筆はいつも以上に進む事だろう。
◇
次の日、クラコは朝からユナにお風呂が使えない事を伝えた。はじめは少し残念そうな顔をしていたユナだったが、シャワーは使えるという事でそこまで不満ではなさそうだった。叔母のところで暮らしていた時はお風呂に入らせてもらえなかった日もあったから慣れているなんて言われてしまい、クラコは一人落ち込む。逆にユナに慰められる事になったクラコは情けなさに肩落とすしかなかった。
今日は都市のカザヨミの飛行訓練状況やBWで確認した限り比較的空を飛ぶカザヨミが少ない日であり、ユナの禁翼生活の久しぶりな解禁日だった。そのためユナはクラコを慰めてすぐさま空へと飛びに行った。ユナが帰ってくるまでにクラコは洗濯物を済ませ、例のエーテル繊維の後処理を行うことにした。
結局エーテル溶液は流してしまう事にした。とはいえ流す量は最低限にしたいと考えたクラコはとりあえずもう着なくなった服や店長の店で勝ったままにしていた布や残りの糸などもまとめてエーテル繊維にしてしまう事にした。
昨日沈めた布類を取り出し、新たな布などを沈めていく。溶液が空になるほどの布があるわけでは無いので最終的にはいくらかの溶液は流してしまう事になるだろう。
取り出した繊維は何度か水洗いと天日干しを繰り返す必要があるため、洗濯物と一緒に干していく。比較的天気が良い日だったので屋上を開放し、眩しい光と柔らかな風に洗濯物がふわりと揺れ動く姿を満足そうに眺め、クラコはようやく一息つくことができた。
「クラコさーん!」
「あらユナ? 今日は早いわね、どうしたの?」
屋上に設置したベンチに腰掛け洗濯物が風に舞う姿をぼんやりと見つめていたクラコのところにユナがやってきた。青灰色の翼で直接団地の屋上へと帰ってきたユナの両手には何やらビニール袋がぶら下がっている。馴染みのある色とロゴが描かれたその袋は店長が営んでいる店のものだ。
「お店に寄って来たの?」
「んーとね、近く通ったから!」
ユナは久しぶりに飛んだ空の感覚に慣れようと家の近くの空を飛び回っていた。連日の室内訓練で翼の動き自体は
とはいえその飛行能力は既にありえないほどに習熟し、発展していた。
本人さえも知らないエアリングという飛行技術によってユナの飛行はかなりの複雑機動を実現させるほどになっていた。お遊びで自身の体よりもずっと小さな鳥に追いつきくっついて飛行することができたり、クラコとユナが暮らす団地の廊下から階段までをスムーズに飛行して通り抜けるほどにはその動きは洗練されていた。
美しささえ感じるほどの機動はカザヨミの動きから無駄を省き、無駄だった部分は余裕となる。本来翼を動かすことに精一杯なカザヨミの中でユナは無意識に翼を動かし、別の事を考えるほどの余裕を持つに至っていた。
そうして生まれた余裕の中でユナが考えるのはいつもクラコとの生活についてだ。
洗濯物は干していただろうか? 冷蔵庫の中身で賞味期限が切れているものはあっただろうか? 明日はゴミの日。歯磨き粉切れかけてた。夜のご飯はクラコと一緒に作りたい。
そんな事を考えながら空を飛ぶユナは先日ふとクラコが買い忘れたものがあると嘆いていたのを思い出す。今頃クラコは洗濯物や掃除をしているだろうと予想するユナは飛行訓練ついでにそれらを買っておこうと店長の店に寄って帰ってきた、というわけだ。
「それでね、お風呂の事、店長さんにお話ししたらこれ貰ったよ!」
「ん? あら、これ銭湯の割引券じゃない。久しぶりに火を入れるのね」
「せんとう? あの、おっきいお風呂の?」
「ああユナは知らなかったわね。この券の銭湯、店長がやってるのよ。経営している……という感じではないけどね」
ユナが買い物袋をごそごそと漁りクラコに手渡したのは何やら四枚
クラコ達がバイトを含めよく利用している店の店長はその店だけでなく様々な事柄に手を広げている。その多くは周辺に住む都市外の人々のために行われるものが多く、銭湯というのもそんな人々の要望によって実現されたイベントのようなものだ。
都市外の人間の中には満足にお風呂に入れない、清潔な水を確保するのも難しいという者は多く、そんな声に応えて店長は放棄された銭湯に火を入れて格安でお風呂を提供しているのだ。
大量の水の確保やそれを沸騰させるのに必要な燃料の確保などなど費用が嵩むため頻繁に開かれているわけではないが、それでも店長の努力によって月に数日、銭湯が開かれている。
「それじゃあ今日は銭湯にいく?」
「うんっ! 銭湯初めて! いってみたい!」
「ふふ、それじゃあ楽しみにしててね」
嬉しそうに翼をパタパタと動かすユナを撫で、クラコは洗濯物が揺れる光景に目を細める。眩しい日光は僅かに地上へと届き、それは人々の生活を何とか支えていた。それを日常として生活するクラコは遠くに見える停滞雲を見て……しかし視線をユナへと戻した。
あそこへとユナを送り出すことは本当はしたくない。だがカザヨミである以上、空を大いに飛び回るには避けられない。ならば自身が何をするべきか、クラコはしっかりと理解していた。エーテル繊維の作成も、そんな理解の上に実行に移した一つなのだ。