クラコによって制作された高度計はあれから何度かの改修を行い、より小さく、より広げやすく、より分かりやすいような形へと変えられていった。基本的に巻物の形から変わってはいないが、より発色の良い布を用いる事で高度の判別を感覚的に行えるように工夫し、重さや大きさもユナの負担にならないようにと配慮し、ユナが手に取りやすい丁度いい大きさになるように改良が施された。
改修にはもちろんこの高度計の心臓部とも言うべき白いシートにも及ぶ。
あれからユナは何度も停滞雲内に潜り、高度計の精度調整を行った。雲海専用の高度計とはいえ濃いエーテルに反応するので只の停滞雲内でもそれなりに使える。とはいえ雲海のようにエーテル濃度が層状に分かれているわけではないので、あくまでエーテルの濃度……つまり停滞雲の危険度を推し量る目安に使える程度ではあったが。
「んー……んっ! 今日も綺麗……!」
ぼふん、と停滞雲を突き抜け雲の上へとやってきたユナは停滞雲の中の空気を払い落とすかのように翼をその場で羽ばたかせ、大きく伸びをする。
ユナは雲海用の道具の作成協力の傍ら、好きなように空を飛ぶ事を楽しんでいた。分厚い停滞雲を抜けてその上へと昇れば、ユナがこれまで見たこともなかった青く透き通った空と、はるか水平線の彼方から顔を出す太陽の眩しい光を一身に浴びる事が出来る。地上で感じる淡い日の光でも、部屋の中を照らす蛍光灯の人工的な光でもない太陽の光はただ眩しいだけでなく懐かしいようなぬくもりを感じる。
「わあ……今日もすごい、高いなあ……」
ユナの眼下には停滞雲が歪な姿のまま延々と空の果てまで続いている。棘のように伸びた雲の尾が日の光に照らされ浮かび上がり、それはさながら一面に広がる白色と灰色の森の様だった。
地上は雨風などによってその地形を滑らかな姿へと変化させる。角ばった石が長い年月をかけて風化し、摩耗した結果丸い石へと変わるように、地上にある地形は年月の経過と共にその姿を丸い輪郭へと変化させる。
しかし、雲の森はそのような変化など起きない。数千年もの年月を経て形成される大地と異なり一瞬でその姿を生み出す雲の姿は地上では全く見られない歪で不可思議な姿をユナへと届けてくれる。
そんな神秘的な光景の中でも一際ユナの興味を強く引いたのが、はるか遠方に聳え立つ"雲の山"だった。
逆巻く雲の渦が上へ上へと巻き上がり、巨大な積乱雲として存在している。遠くからでのその巨体を確認できるほど、とてつもない規模を誇るそれこそが未だ誰も全容を解き明かしていない停滞雲の化け物、雲海なのだ。
「えーと、あれは……イブキかな……?」
そう言いながらユナは腰のベルトに固定していたポーチからぴったりサイズの手帳を取り出す。手帳に挟まれたペンを抜き取りユナは体を丸くして手帳に何やら文字と絵を書き出した。
「イブキの雲海は、ええと……こっちだから、今の方角はこっちが北で……」
クラコの予測とユナの実測によって雲海は形成された土地からは動かない事が判明している。ヒノで発生した降害による影響はおろか、それ以前に発生した数百回もの降害においても雲海に影響を与えたものはわずかしか存在しないと言われている。
二人はこの雲海が動かない、という性質を利用して雲海そのものを目印にして空を飛ぶ事を思いついた。停滞雲を突っ切り、その上に出たとしてもさらに上空にはまだまだ停滞雲が漂っており、衛星の恩恵も受けられそうにない。そんな中で決して動かず、それでいて遠方からでも目視で確認出来る巨大な物体というものは目印としてかなり優秀だったのだ。
だが、クラコは雲海を視認できる目印としてのみ活用するつもりはなかった。
「うんしょ、っと。……こっちがイブキの方向だったはず……うん、合ってる!」
ユナは手帳に現在の位置予想を書き込み、次いで別のポーチから手のひらサイズの球体を取り出した。球体の中身は液体に満たされており、少し重いがユナの飛行を邪魔するほどではない。
よく見れば液体の中には何やら丸い気泡のようなものが一粒だけ存在しており、その粒は液体の中をかき分け、雲海のある方向へと向かって動いている。
「方向よし! それじゃあ帰ろっ」
球体を指先でくるりと回し、そのままポーチへと収納したユナはくるりと一回転して雲の上を飛んでいく。高高度に吹く強い風に乗り、ユナの翼は決して揺らぐ事無くまっすぐに飛行する。それはユナの持つカザヨミとしての飛行技術だけでなく、クラコが集めた知識で作った様々な
その中でもクラコが純粋な停滞結晶を手に入れた初期から構想していた道具がある。それがユナが使用していた球体、クラコ命名"エーテルコンパス"だ。カプセルトイが入れられていた丸い球体状の入れ物。それを完全な密閉状態になるように加工し、中には水が封入されている。水の中には一滴だけ色の付いた油が入れられているのだが、この油にはエーテルの粉末が混ぜ込まれている。
エーテル溶液となった油は通常水の中で揺れ動くだけで、オイルタイマーのような玩具としての役割しかない。だが、ひとたび上空へと上がればそれは停滞結晶がもつ特性を発揮し、ユナの進行方向を指し示してくれる目印となる。
空気中のエーテルは停滞結晶へと誘引され、優先的に停滞結晶が含まれたものに不純結晶として析出する特性があるのはマフラーやケスケミトルの例から明らかだが、この特性はエーテルだけでなく、エーテルの結晶である停滞結晶にも存在している。この誘引性はとにかく存在する停滞結晶の量が多ければ多いほど其方へとエーテルや結晶が引き寄せられるもので、この特性と現在の雲海の状況を利用したものがエーテルコンパスと呼ばれるものだ。
このコンパスもコンパスとは言っているが、実際に方角を指し示すものではなく、広大な停滞雲ひしめく空の中である程度の位置を知るための道具となっている。
球体の中に封入された水に浮かぶエーテル溶液の油は、この周辺で最も巨大な停滞結晶の塊……すなわち雲海へと引き寄せられるように水の中で動く。通常の空を飛行するだけならば地球の重力の影響の方が大きく水が下に沈み込み油は球の直上に浮かんでいるのだが、停滞雲内やエーテルの濃い空間に入り込むと重力は停滞し、エーテルの影響が色濃く反映される。
その結果球体内のエーテル溶液の油は周辺地域で最も影響力のある雲海へと誘引されるのだ。
ユナはエーテル溶液が引っ張られている方向を確認してどちらに雲海があるのかを知り、そこから現在の位置を把握する事ができるのだ。クラコの考えではこのコンパスは目印たる雲海の中でも機能すると思われている。雲海は上に行くほどエーテル濃度が濃く、析出している純粋な停滞結晶も豊富だと言われているためだ。
先に開発された高度計と共にこのコンパスの存在によってユナの雲海内飛行の準備は着々と整いつつあった。
ユナが見た雲海に中に浮かぶ光、それは本当に人工的な光だったのかユナは半信半疑だった。距離にして十数キロ以上も距離があったうえに、雲の隙間から光が見えたのはほんの僅かな瞬間だけだったからだ。
それでもユナは考えずにはいられなかった。
雲海に飲み込まれた光を発する"なにか"が、その姿を保ったまま雲海の中に囚われているのかもしれないと考えるとユナは遠目から雲海を眺めているだけでは我慢できそうになかった。
あの雲海の中には、取り戻すべきものがそのままに保存されているのかもしれないのだから。
だが、だからと言ってユナは焦ってはいなかった。クラコとじっくり話し合いをして、そのうえで段階を踏み雲海に挑もうと二人で約束したのだ。だからユナは焦りはしないし、クラコとの約束を破るつもりもない。
「今日は~親子丼~」
ユナは鼻歌を歌いながら停滞雲の隙間を軽やかに飛んでいく。久々に生卵が手に入ったと喜んでいたクラコが、冷凍していた鶏肉と共に夕飯に親子丼を作ってくれる約束をユナとしていたのだ。
本やネットの中でしか知らない未知の食べ物を楽しみにしているらしいユナは夕飯の時間に送れないよう、ご機嫌な様子で空を飛んでいくのだった。
◇
光が見えた雲海に突入する計画は順調に進んでいた。ユナの身を守るための装備はもちろん、高度計やコンパスなどの位置情報を得る為の
だが、必要なのは装備や道具だけではない。むしろそれらは補助的な役割しかなく、最も重要で最も大切なものがある。
それはユナのコンディションだ。
「あ、あのあの……クラコさん……?」
「ふふ、どうしたのユナ? そんなかわいい顔をして」
その日ユナはクラコ特製の親子丼を食べ、夢心地の夕飯を過ごした。いつもはクラコと今日あった出来事を振り返りながら楽し気にご飯を口に運ぶのだが、目の前に出された親子丼の艶やかな見た目とかぐわしい香りに魅了されたユナはクラコの話に耳を傾けながらも親子丼の味に没頭した。
クラコの話を聞いているのかいないのか、それほどまでに初めて食べた親子丼の味は衝撃的だったようだ。クラコが遠慮せずに食べてと言ったのもユナを食事に集中させる要因だったのかもしれない。
しかし、それはクラコの甘い罠だった。
親子丼に夢中なユナはクラコの言葉にうん、うんと相槌を打つだけで自身から話をしだす事はなかった。ユナが目論見通り特製親子丼に夢中な時を見計らいクラコはとある"お願い"をユナへと投げかけた。
「ねえユナ」
「うん……もぐもぐ」
「しばらく訓練を続けたら、そのあと雲海の中に入る事になるわよね?」
「うん……ぱくぱく」
「雲海の中は何が起こるか分からないじゃない? だから一通りなんでも自分で出来るようになっておいた方がいいと思うの」
「うん……はぐはぐ」
「それでね、羽繕いなんだけど……一人で出来るように訓練してみない?」
「うん……ほくほく」
「うふふ……そう、ユナが乗り気でよかったわ! それじゃあさっそく今夜から訓練を始めましょう!」
「うん……もぐも……、……え?」
と、そんなわけで上手い具合に乗せられたユナは夕飯が終わって早々にお風呂に入れられ、湯冷めしないようにしっかりと体の隅から隅まで拭き取られた後、いつものようにカーテンの閉められた薄暗い寝室に連れてこられた。
なぜかニコニコと笑顔を絶やさないクラコの様子にたじろぎながらもベッドの上で座り込むユナは、やはり恥ずかしいのか腕で胸元を隠しクラコに視線で促されるままに翼を発現させる。
器用に翼で自身の体を隠すユナは何やら持ってきた箱の中身をごそごそと漁るクラコをジトーっと見つめながら自身の翼にふと視線を落とした。
翼はクラコの羽繕いによって美しい姿が保たれている。羽の一枚一枚が乱れず綺麗に流れ、表面は滑らかな光沢を放っており手触りも心地よいものだ。これはクラコが日々羽繕いに関する勉強をしてその腕を磨いたからという点もあるが、クラコに触られる事をユナが不快に思っていないからという理由もある。
カザヨミの翼はカザヨミをカザヨミたらしめる象徴であり、体外の環境を敏感に感じ取る感覚器官でもある。カザヨミが羽繕いを必要とするのはそんなデリケートな翼にかかる
だが、もし羽繕いをする人間がカザヨミにとって非常に親密で心許す相手であるならば、翼の状態をマイナスからゼロの状態に戻すだけでなく、プラスへと持っていく事さえできてしまう。カザヨミとパートナーとの絆の深さは羽繕いというふれあいを通してカザヨミの精神を安定させ、
ユナの翼の美しさはイコールクラコの深い愛の証であり、それをユナが受け入れている証でもあるのだ。
「さて、それじゃあいくつか道具を試してみましょうか」
「あ、あのクラコさん……本当にクラコさんの前で、しなきゃダメ……?」
「んー……ちゃんと使えるか見ておきたいんだけど……恥ずかしい?」
「ん……」
「もっと恥ずかしい姿を見せてるのに?」
「んー!」
「ふふ、ごめんなさい悪かったわ。……でも、適当に使って効果がないんじゃ意味がないでしょう? それに変な使い方をして怪我をするかもしれないもの」
「そんなこと、しないもん……」
「それを確認したいの。大丈夫、私は近くで見てるだけだから。手は出さないわよ」
「それはそれで……というよりそっちの方が恥ずかしい……」
ユナは薄暗い寝室のベッドの上で膝立ちになる。お風呂場からここに来るまで服らしい服は身に着けておらず、いつもの羽繕いのように下着だけという恰好だ。お風呂場にいたときはまだユナも平常心を保っていたのだが、下着を付けてお風呂場を出るとユナの心臓は一回り大きく鼓動を鳴らし始める。
まだいつもの羽繕いと変わらない。いつもと同じ。いつも通りだ。そんな言葉を何度も心の中で繰り返し、ユナは何とか平静を保とうとするが、クラコがリビングの隅っこに放置されていた段ボール箱を抱えたところでユナの抵抗する心はへにゃりと力なく折れ曲がりそうになる。
段ボールの中に収納されていたのは大小さまざまな羽繕いの道具たち。過去にクラコが店長からレンタルし、そのまま借りっぱなしにしていた羽繕い用の道具たちだ。
年端もいかない少女たちが使用する関係上、それらはかわいらしい色付きとなっているがカザヨミたちからはそのかわいらしい色付きというのが逆に不評でもある。
羽繕いは敏感な感覚器官である翼に直接触れる行為であり、その行為はカザヨミの羞恥心を煽る。そういった感情が声や表情として表に出てきやすいというのはパートナーによる羽繕いも道具を用いた羽繕いも変わらないが、パートナーとの羽繕いはあくまで生活の一部であると認識されるのに対し、道具を用いた羽繕いは道具の用途が羽繕いのみに限定されてしまっている関係上、道具=恥ずかしい行為という図式がカザヨミたちの固定された認識となってしまっているのだ。
初めて道具を用いて羽繕いするカザヨミは訓練施設から教えられた道具の使用方法の通りに道具を使おうとする。だが、背中の翼に道具を使うのはなかなか難しく、そのため鏡を用いて羽繕いの様子を確認する事が推奨されている。
その結果、何が起こるか。
薄暗い個室で羽繕いしやすいように服をはだけさせ、卑猥な色(のように見える)道具を手に持ち、悶える声を我慢し、自身のとろけた顔を鏡で確認してしまうカザヨミたち……羽繕いに苦手意識ができてしまうのは仕方がない事だろう。
とはいえそれ以外に方法は無く、羞恥を我慢して羽繕いをしなければならない。そして誰にもぶつけられない恥ずかしさに対する苛立ちは道具たちに向けられる事となる。
そういう理由からカザヨミたちは基本的に道具の色が好きではない。何なら道具自体もそれほど好きではない。少女たちにとって羽繕いの道具はいやらしい道具であり、見ただけで顔を赤らめてしまうような"道具"という認識なのだ。
都市に所属していない未所属カザヨミのユナもなんとなくだがそれらの道具に忌避感を覚えていた。変に蛍光色な道具たち、怪我をしないように丸いフォルムに統一され、ゴム製の柔らかい触感がいやに肌に吸い付くように思え、その生々しさが幼いクラコには怖く思えた。
「はい、それじゃあ一つ目からいこっか。やり方は覚えてる?」
「う、うん」
膝立ちのまま翼で体を隠すユナはベッドの上に並べられた道具の一つを恐る恐る手に取る。それは柔らかいゴム製のクシで、ピンク色のかわいらしい姿をしている。クシの歯は太く、間隔も広い。人が髪の毛に用いるクシとはまるで違う形状にユナの口から小さな悲鳴が漏れる。
思わずクラコを見るが、その視線はただユナに行為を促すだけ。情けない嗚咽が口から漏れそうになるのをぐっと我慢し、ユナは自身の翼へと、櫛を通した。
「あっ、やっ……く、クラコさん……」
「あら、手が止まってるわよユナ?」
「だ、だってぇ……んっ!」
「ほら、もっと奥、根元のあたりに当てて。じゃないと効果がないわよ?」
「これ以上はむり~!」
布団の上でぎこちなく道具を翼に差し込み震えるユナを、クラコはベッドから少し離れた椅子に座りながら鑑賞……いや、見守っていた。
これはユナが一人で羽繕いを行うための訓練なのだ。これからユナが挑もうとしている雲海は一つの地方を丸々覆うほどに広い。横断するだけでも数時間は飛び続ける可能性だってある。
ただの空を飛行するだけならまだしも停滞雲の親玉のような空間で数時間も飛行し続けるとなれば翼にかかるストレスは甚大なものとなるだろう。雲海にも停滞雲と同じような気流の安定したスポットがあるのだとしたら、そんな羽を休めるような場所でユナ一人で羽繕いが出来れば翼のストレスを軽減することができるし、飛んでいられる距離と時間の延長に繋がる。
ユナが雲海から帰ってくる可能性が上がるのだ。
だからこそクラコはユナに手を貸すことは無い。ユナが一人で出来るようにならなければいけないのだ。
(あらあらあら……これは……いいわね!)
だが、それ以上にクラコはユナが顔を朱に染めながら自身の翼を恥ずかしそうにまさぐっている様子を見るのに意識を集中していた……。いつもはパートナーたる自身の手で恥ずかしい目に遭わされているユナはそれ故にどこか仕方ないと無理やり納得しているところがあった。
"本当はこんな恥ずかしい声、出したくないけれどクラコに無理やりされているのだから仕方がないのだ"と。
だが現在ユナは自分の手で、自分の意思で、自分から痴態をクラコに晒している。それをユナも自覚しているのか、チラチラとクラコの様子を伺う事はあっても決してクラコと視線を合わせようとはしなかった。
(ふふふ……本当に、可愛いんだから)
「あうぅ……」
既に恥ずかしさで息も絶え絶えなユナだが、目の前にはまだ羽繕いのための道具がいくつも並び、順番待ちをしていた。それを見たユナはたまらず涙目でクラコを見るが、クラコは満足そうに口角を上げ、ユナと視線を合わせたまま小さく頷くのみ。
「ひぃん……」
結局ユナの道具を使ったひとり羽繕いが終わったのは全ての道具を使い終わり、クラコがいろんな意味で満足した後だった。