オウミの都市周辺の停滞雲は停滞雲という存在である以上、形成された空間からそうそう動くことはない。だが、それらはほんの僅か、それこそ一年に数センチ程度の微速で緩やかにとある方向へと動き続けていた。
停滞雲が目指す場所こそが、この世界において最大級の脅威とされている領域、雲海だ。一定以上の停滞雲が集まった雲海は自発的に周囲の停滞雲を取り込もうと行動し、その結果浮遊する停滞雲を誘引しようとする。
これは雲海特有の性質というよりは、停滞結晶とエーテルの特性によるところが大きい。これまで説明した通りエーテルは停滞結晶に集まり、停滞結晶はエーテルを取り込んで停滞結晶として析出、成長する。
この特性は結晶がどれだけその姿を変えたとしても失われることは無い。クラコが制作しユナが身に着けているマフラーやケスケミトルのようなエーテル繊維が良い例だろう。
そして、その性質に則って雲海はその規模を大きくしていく。停滞雲というエーテルが、雲海という停滞結晶を目指して進んでいるのだ。大きくなりすぎた事でその影響力を広範囲の空間へと伸ばした雲海はこれからも停滞雲を飲み込み、その規模を広げていく事だろう。
現在の人類はカザヨミを含め、その肥大化を止められる術を持っていない。
◇
クラコは今日もリビングで情報端末のキーボードを打ち鳴らす作業を続けていた。店長の店のバイト以外のほとんどのバイトをやめたクラコが未だに続けている小説執筆の作業はその日、佳境に差し掛かっていた。
緩い締め切り期日と公序良俗を守れば何を書いても良いと言われていたクラコだが、それでも自身の中でいくつかの決まり事をもって小説を書くように心がけていた。その中の一つが、書く小説はすべて中編程度の長さに留める、というものだった。
元々小説執筆の仕事は知名度のあまりないニュースサイトの片隅を埋めるために依頼されたもので、お世辞にも閲覧者が多いとは言えない。気になるニュースだけ摘まんで、それ以外には見向きもしないという読者ばかりなのだ。
そのためクラコの小説を見てくれる読者が、前話を見た読者と同じという可能性はなかなかに低い。知名度のないニュースサイトの片隅に掲載されている小説を読むために、継続的にニュースサイトの読者となるような物好きはそうそう存在しないのだ。
そこでクラコは追いかけるのが難しい長編ではなく、短編や中編などを複数投稿して新規の読者を増やす作戦に出た。作品の投稿方法や形式なども掲載側から何か指定されているわけでもないので問題なくクラコの作戦は了承された。
そんなクラコが現在執筆してる作品はそんな短編、中編が多いクラコの作品群の中でもなかなかに長い話になっていた。既に中編には収まらないくらいの文字数となっており、今から読み始めた読者は内容が分からないかもしれないと不安になる程度には長かった。
しかし、そんな作品ももうすぐ終わりを迎えようとしていた。クラコのところにユナがやってくるよりも前に書き始めたその作品は、目立つ伏線を回収し、主人公たちが行くべき未来が指し示され、文句なしの最終回となった。
「ふう……終わり、ね……」
端末を打つ指先が止まり、あらかじめ決めていた最後の文を挿入する。たった一文だけの作者からの感謝の言葉。読者など存在しているのかも分からないが、それでも読者へと感謝を述べずにはいられなかった。
"ここまでお読みいただき、ありがとうございました"
そんな文章が物語の最後に添えられ、そうしてクラコは出来上がった物語を眺め、大きく息を吐いて脱力した。この最終話がすぐさま掲載されるわけではない。書き溜めた分もまだ掲載され切っていないのでおそらく数か月は後になるだろう。
最終話が掲載されて二か月ほどは休みが取れるが、その後は新作の掲載が始まるためクラコはこの最終話が掲載されるまでの時間と二か月の休みの間に新作について構想し、プロットを制作して実際に執筆に入らなければならない。
サイトの掲載担当者からはあまり無理をしないようにと心配されるメールを貰っているほどに精力的に小説を執筆しているクラコだが、彼女にとって小説を書くという行為自体が娯楽であり癒しでありストレス解消法なのでむしろ忙しく悩ましい時ほどクラコは小説を書くのだ。
「さーて、次は何にしようかしら……うーん……」
情報端末から視線を外したクラコは端末のそばに置かれていた本をペラペラとめくりながら次の小説の内容について考え始める。悩まし気に眉を下げ、無意識に尖る唇に指先を添えてクラコが広げた本はカザヨミ関連の書籍。
その一冊だけでなくリビングにはいくつものカザヨミに関する本や資料がいつものように乱雑に積み上げられている。いくらかユナが片づけてくれたおかげでそこまで散らかっているわけではないが、それでもこの世界に住まう人間の生活空間には似つかわしくないほどの本の山が出来上がっていた。
これほどにカザヨミの情報が集まっている場所など、都市のカザヨミ管理部の施設くらいなものだろう。……いや、クラコが世界で初めて製造したエーテル繊維やエーテル高度計などの製造工程をまとめた情報を含めればその重要度は都市を上回る可能性さえあった。
そんなことを知る由もないクラコは書籍をめくる指先の動きを止め、再び情報端末に向かい合った。
「やっぱりカザヨミかなー……一応大丈夫か連絡しとかないと」
悩む素振りを見せていたクラコだが、実はもう次に書く内容は殆ど決めていた。これまでユナの為に集めた膨大なカザヨミについての情報、それを用いてひとつ話を作ってみるのもいいかもしれない。
そう考えてクラコはおもむろにプロットを書き始めるのだが、その前に小説の掲載担当へとメールを送る事にした。どれだけ自由に書いても良いと言われているとはいえ、内容はガッツリとカザヨミに関する内容を描写するつもりなのだ。カザヨミという言葉だけでもどこか神聖視されている昨今、カザヨミを題材にするというのはそれだけ集客を見込める反面、描かれる描写が問題視されることも少なくない。
例えば、物語の中で登場したカザヨミが理不尽な目に遭ったり、他者から傷つけられたり、さらに言うなら殺されたりしたならばその作品は当然のように批判され、所謂炎上騒動に発展する事だろう。
これは極端な例であるが、創作界隈にカザヨミの存在が浸透し始めている現在は徐々にそのような懸念事項が浮き上がっているのは事実だ。中にはそれらの騒動に巻き込まれないよう、創作に関してカザヨミの登場を自粛する動きさえもあった。
クラコが小説掲載の仕事を貰っているサイトではカザヨミに関するニュースも取り扱っているのでそのような自粛の動きは無いように見えるが、一応確認の為にクラコは担当者と連絡を取ることにした。
(そうだなー……内容は、日常ものにしようかな? 暴力的描写を避けて……カザヨミの可愛いところを……)
担当者にメールを送ったクラコはぼんやりと思い浮かぶ物語の光景をプロットの片隅にメモしていく。世間一般で物語に登場するカザヨミといえば、広大な空を悠々と飛び回り、人々から称賛される英雄的イメージが強い。それはカザヨミに接する人間が極端に少なく、それ故にテレビなどで紹介されるイメージがそのままカザヨミのイメージとして結びついているからだろう。
しかし、クラコのカザヨミに対するイメージは一般的なものとはかなり異なっていた。なまじユナという存在と一緒に暮らしている事で、カザヨミもただの人間と変わらない、年頃の少女なのだという意識が強いのだ。そうでなければカザヨミの可愛らしいところを小説の主軸として表現しようなどと思いはしないだろう。
「今度ユナに色々とインタビューしないとね」
少し弾んだ声を漏らし、クラコの指はよどみなく動いていく。一作完結させた後にも関わらず、クラコは既に次回作のプロットを着々と書き下ろしていく。それはクラコが創作という行為が好きだという理由以外に、ユナと接した事で感じたカザヨミの本当の姿を垣間見たからだろう。
「クラコさーん、ただいまー」
しばらくクラコが端末の前で集中していると、窓の外からいつもの声が聞こえてきた。最近開けっ放しにしている窓から部屋に入り、青灰色の翼をさっと収納したユナは小さく伸びをしてクラコへと微笑む。
「お帰りユナ。怪我はない? 何も問題はなかった?」
「うん、今日もとっても気持ちいい空だったよ! あ、忘れてた。はいこれ」
クラコが話しかければユナはすぐに近づいて、座っているクラコの傍に同じように腰掛ける。頭をすりすりと摺り寄せるユナを優しく撫で、ユナは暖かいクラコの手にうっとりと目を細める。
だが、何かを忘れていたとばかりに目を開け顔を上げたユナはケスケミトルに縫い留められた内ポケットから手帳を取り出し、それをクラコへと手渡した。
「ありがとう。もう少ししたら御飯にしましょうか、手を洗ってきて」
「うんっ」
満足するまで撫でられたユナはとてとてと小さな歩幅で洗面所へと向かった。そんなユナを見送り、クラコはユナから手渡された手帳と、端末を開く。
「ええと……今日もイブキの雲海近くを飛んできたのね。周辺の停滞雲の動きはほぼ無し、難度の低い停滞雲ばかりなのは変わらずね……雲海外周の気流は……今日は少し弱めかしら? 気温と湿度は……」
手帳にはユナの丁寧な文字が隙間なく書き込まれている。空中でホバリングして書き込んでいるとは思えないほどに文字は滑らかで安定しており、全くペンが震えた形跡はない。
かなり読みやすいその文章をクラコは少しずつ読みながら端末に情報を書き込んでく。
クラコが手渡されたユナの手帳は、カザヨミ界隈では"雲海図"と呼ばれている道具だ。これはカザヨミ一人ひとりが持っている飛行する為の
雲海図はカザヨミが個人で収集した情報の集まりであり、それ故に上級のカザヨミであるほど書かれている情報の重要度は高い。都市では手帳の代わりに雲海図専用のタブレットが支給されており、上級は定期的に提出する義務がある。空を自由に飛べる者ほど得られる空の情報も多いというわけだ。
ならば、特級レベルともいえるユナの雲海図には一体どれほどの情報が含まれているのか。
クラコは端末に表示させたこのあたりの周辺地図に重ねるようにしてユナの雲海図に書かれた情報を上乗せしていく。地図のどのあたりに停滞雲が存在しているか、気流の動きはどうか、雲海の影響はどのあたりまで及んでいるのか。
そういった情報をクラコは丁寧に書き込み、そうして非常に詳細な空の図が出来上がっていく。ユナの実力ならば雲海はもちろん、雲海周辺の空の様子さえも知ることが出来る。それは都市に集積された雲海図のデータすべてに匹敵するほどなのだが、それをクラコは知らない。知らないうちにクラコとユナの住まう家は、一つの都市に匹敵するほどの情報が集まっていた。
「……あら、また来てるわね」
「何が来てるのクラコさん?」
雲海図の情報を記入し終えたクラコはいつものようにネットを巡回し、動画サイトであるBWを見回り、そして最後に、ハヤブサという名のクラコとユナのBWアカウントを確認する。そこには前回投稿した南下ルートの開拓動画のみが表示され、その再生回数やアカウントの登録者数が表示されている。
どの数字もBWでは上位に位置するような数字を叩き出しており、たった一つの動画しか投稿していないにも関わらず、ハヤブサはBW内で知らない者は居ないほどの知名度を獲得していた。
それに比例するようにハヤブサのアカウントには連日何通ものダイレクトメッセージが届く。多くは同じ動画投稿者や配信者からのコラボの誘いであり、時折都市などの有名な公式アカウントからの接触がある。
クラコはそれらのメッセージに丁寧に返信していく。といってもその内容はほとんど定型文化されており、個人と企業などで若干ニュアンスが異なるだけで、すべてお断りの内容となっている。
クラコとユナは彼ら彼女らとの交流を現在保留している。交流すればそこからユナの身元が判明する恐れがあり、オウミの都市にユナの素性が知られる可能性が高まるからだ。
クラコはBWでの名声を求めてはいないし、ユナも興味がないようなので基本的に来るメッセージはすべてお断りの定型文を送っているのだ。
「いつものヤツよ。それより御飯にしましょ」
「うん、私も手伝わせて」
「もちろん、お願いするわね?」
ユナと一緒にキッチンへと向かう中、クラコは考える。この、BWでのハヤブサの話題が鎮まるまではユナにキンヨク生活を強いているわけだが、どうにもその話題は収まるどころかさらに大きくなっているように思えた。
日ごとに送られてくるメッセージの量も多くなり、投稿されるハヤブサ関連の動画も増えていく。ユナが飛んだ南下ルートをユナのタイムアタック記録を塗り替えようとチャレンジするカザヨミ配信者も多い。
最近ではオウミをはじめとした主要都市がハヤブサに関する情報提供を暗に呼びかけており、本格的にハヤブサについての調査を都市が行う姿勢を見せている。
「……考えが外れたわね」
「? どうしたのクラコさん?」
「……何でもないわユナ。それで、今日の空はどうだったの?」
「えっとね! 今日は──」
楽し気に空の様子を語るユナを優しく見つめ、クラコは今後の方針に頭を悩ませる。どれだけユナがカザヨミとして優れていても、都市が実現できていない道具をクラコが製造していたとしても、都市と個人ではその力の差は歴然だ。都市が本格的にハヤブサの正体を追及しようとすれば、すぐさまユナにたどり着くだろう。
(……何が、この子の為になるのか、ね……)
クラコは頭を振り、どうしようもない問題に悩むことをやめる。どちらにしろ重要なのはユナの想いだ。ユナが最も幸せで、納得出来る道を選ぶ。それが一番重要なのだ。そのためにクラコはユナの傍に寄り添い続ける。そうするのだとクラコは決めたのだから。