カザヨミは人の姿をしているが、人と異なる箇所がいくつもある。それは驚異的な身体能力であったり記憶能力であったりと様々だが、その中でも最も目立つ特徴は、当然その背中にある翼になるだろう。
翼の大きさや形状はカザヨミの飛行能力に影響するとされているが、翼が大きければいいとか形が整っていればいいという話ではなく、どのような翼でもカザヨミ自身の技術によって良くも悪くもなる。翼の姿はカザヨミによって千差万別で、故にカザヨミは自身に合った飛び方を模索しなければならないのだ。才能のあるカザヨミはその飛び方というのを無意識に知っているカザヨミの事を言い、加えて飛行欲持ちは積極的に飛行訓練に参加する。なので才能のある者たちは早々に上級のカザヨミとなるのだ。
「うんしょ……よいしょ……」
そんな才能のあるカザヨミの一人でありながら都市に未所属な少女ユナはその日、団地の屋上で文字通り羽を伸ばしていた。比較的天気の良い日ではあるが、今日はクラコと約束したキンヨク日であるので空を飛ぶことはできない。それでも翼を広げる事は禁止されていないのでユナは広い屋上で翼を発現させ、軽いストレッチを続けていた。
空を飛ぶには翼だけを動かしていればいいわけではない。もちろん風を掴む技術やエーテルを捉える感覚が発達していればどんな無茶な体勢も維持することは可能だが、それも基礎ができていなければ体に多大な負担がかかってしまう。
ユナが行っているストレッチはそんな基礎を養うためのものだ。どのような運動も体を作るところから始まり、それはカザヨミの飛行でも通用する。空を飛ぶための最低限の体力をつけるには必要な事だ。
「んんぅ……ふー……おわりー」
しばらくストレッチや柔軟体操を続けていたユナは体が少しあったかくなる感覚を覚え、屋上の床に寝転がる。先ほどから発現させている青灰色の翼に負担がかからないようにゆっくりと大の字で仰向けになった。
見上げる空は晴れている。晴れてはいるが、やはり停滞雲によって青い空が見える事はない。それでもユナはその先にある空の雄大さを想起し、目指すべき雲海の姿を思い出す。
いくつもの停滞雲と理不尽な気流の壁に囲まれた強大な雲海は来るものをことごとく拒絶し、これまで数えきれないほどの街と人の命を飲み込んできた。
「……ほぅ……んん」
ユナは体制を変え、体を横にして視線を空から崩壊した大地へと移す。黒と灰色に覆われた地上はいくつもの建物が人のメンテナンスを受けられず風化し朽ちた姿を晒している。
それらは停滞雲に飲みこまれ、降害によって降り注いだ瓦礫によって崩壊した結果だ。
だが、各都市が調査したところによると地上に降り注いだ瓦礫の総量と、停滞雲が飲み込んだ建築物の総量はかなり異なっているのだという。自然物さえ構わず飲み込んでいるので正確な数値は不明だが、数兆トン以上は雲の中に留まったままだと言われている。
「……おかあさん、おとうさん」
ユナはこれまで口にした事のない父親と母親を呼ぶ。けっして両親を欲してからのつぶやきではない。そもそも親というものを知らないユナには"おかあさん"という言葉も"おとうさん"という言葉もただの呼称でしかなく、特別な意味を持っていなかった。
しかし、それでもユナは覚えのない記憶の中に両親の姿を見た事があった。かつて何も知らないユナが停滞雲に入り込み、そして墜落したあの日。ユナは意識を失い、夢の中で両親と思しき二人の人物と手を繋いで家に帰る光景を見た。
あれが自身の両親なのだろうか? ユナはその疑問を解消する
名前も顔も知らない、血のつながり以外のなんの思い出もない両親に対する愛を抱けるほどに、ユナは親というものを知ってはいなかった。
(……クラコさん、叱ってくれた……悲しんでくれた……優しく、してくれた)
ユナは親を知らない。だが、親のような存在は? と問われれば間違いなくクラコを思い浮かべるだろう。自身が間違ったことをすれば叱り、危ない事をすれば悲しみ、決意を告げれば自身の行動を肯定してくれた。それは確かに親と言えるだろう。
「クラコさんがお母さんかぁ……えへへ」
不思議と笑みがこぼれるユナは上機嫌のまま勢いよく立ち上がり、翼を広げる。
ゆらゆらと風を受けるユナの翼は静かに揺れ動き、それを止める事もせずただ空気の感覚を楽しむようにユナは目を細め、両手を広げて空を仰ぎ見る。
(でも、やっぱり知らなくちゃダメ、だよね……)
ゆっくりと目を見開きユナは視線の先にある停滞雲を見やる。あるいは、その向こうにあるはずの雲海を。
ユナは自身がどこで生まれたのか知らない。実家ともいえる場所はかつて叔母と住んでいた場所であり、住んでいた家はおろか、故郷と呼べる土地の事さえ何も身に覚えがない。それは両親にも言えることで、ユナは両親がどのような人物だったのか何一つとして知らない。唯一知っているのは叔母より聞かされた、自身の故郷は雲に飲み込まれたという事実のみ。
それでもユナは幸せだった。クラコと出会い、一緒に生活するようになってユナは人並みの幸せを知り、クラコの姿に両親の姿を重ねた。
だが、そうやってクラコの姿にダブらせた両親の影を感じるたび、自身を生み育ててくれた両親に対する興味が徐々に膨れ上がっていった。
クラコと暮らし、自由を貰い、
"私はこんなに大きくなったよ。おかあさんとおとうさんのおかげで、クラコさんと出会えたよ"
ユナが夢の中で出会った二人は本当に自身の両親なのか、それとも只の夢でしかないのか。それさえも分からず、だからユナは知りたいと思った。あの夢が、かつて家族を欲した自身が抱いた妄想ではなく、真の記憶だったのかを。
妄想ではなく記憶ならば、あの時見た光景は現実に存在していたはずだ。ユナを愛する両親が居て、帰る家があった。だからユナは帰るべき家に帰り、両親に報告したいと思った。クラコと出会い、自身がこれほどまでに幸せな日々を暮らしているという事を。
「……うんっ! いい調子! ……んぅ!?」
大きく翼を広げたユナはその青灰色の翼をひと撫でしてから大きく羽ばたかせ、背中に収納した。翼の影響で周囲に小さな風の流れが生まれ、それが収まると空の上からユナに向かって何かが落ちてくる。
思わず両手を広げて"それ"を受け止めたユナは落ちてきたものの正体を見て飛び上がらんばかりに驚いた。それを手に持ち慌てたように屋上から駆け出し階段を駆け下りていく。
あまりにも慌てた様子のユナは階段から足を踏み外しかけながらも急いで下の階へと移動し、クラコのいる家の扉を勢いよく開けて中へと入っていった。
「クラコさんクラコさんっ!!」
「わ、びっくりした。どうしたのユナ、そんなに慌てて」
家の中ではクラコがリビングで端末を操作しながら洗濯物を畳んでいた。今までユナが空の上で収集した停滞雲と雲海の情報を、都市が公開している情報とすり合わせより正確な空の地図を制作しているのだ。さらには個人サイトや動画配信サイトである
とにかく、そんな都市も真っ青な重要すぎる空の地図を制作しているクラコへとユナは縋りつくように近寄り、手に持った"それ"をクラコへと差し出した。
「はねっ! とれちゃった!」
「取れた……? あら」
慌てた様子のユナの手には大きな鳥の羽らしきものが握られていた。クラコは慌てた様子のユナを落ち着かせるように抱き寄せ、腕の中で赤子のようにあやしてやる。その間もユナは涙目で取れたなんだと騒いでいるが、クラコは差し出された"それ"を見て、ユナがなぜそこまで慌てているのかをある程度察した。
"それ"は表面がコーティングされているかのように虹色の構造色で輝き、本体は深い青色と灰色を合わせたような落ち着いた色合いをしている。その色合いはまさしくユナの翼と全く同じであり、ユナの言葉通り翼から取れ落ちた羽そのものなのだろう。
「へえ……綺麗じゃない。いつもユナの翼は羽繕いで触っているけど、こうやって羽単体で見るとまた違った美しさがあるわねえ……」
「も、もーう! クラコさんっ!」
「あら、ごめんなさい。つい見惚れちゃって」
クラコはユナの羽をまじまじと見つめ、その美しさに目を輝かせている。いつもクラコがユナへと行っている羽繕いではこれでもかと翼をまさぐり、羽に関しても触りまくっているクラコだが、羽一枚だけで見てみるとまた別の魅力を内包しているようにクラコの目には写った。
カザヨミの翼は鱗のように重厚な羽が折り重なって形成され、まるで鎧のように見えて格好よさが強調されている。そんな翼を幼く儚いユナが背負っているという、相反する要素の融合がより非日常感を演出しているとクラコはユナの魅力について考察している。
対して羽一枚だけならば生物的な力強さよりも芸術的な美しさが目立って視界に入る。細い毛が櫛のように整列し風を受け流す羽を形作っているのだが、整列した毛のと空間の精密さが恐ろしいまでに整っており、機械的あるいは人工的な美しささえ感じてしまう。自然界が作った、飛ぶために最適化された羽の構造はカザヨミでも健在であり、その美しさも損なわれてはいない。
そんな事を思いながら羽を見つめているクラコに対して、ユナはなぜか羞恥心がドクリと胸に注がれるような感覚を覚えた。クラコが美しい、綺麗だと評している羽は、元々ユナの体の一部だったものだ。カザヨミにとって最も重要かつシンボル的な部位である翼から剥がれ落ちた一片であるそれを、まるで美術品を品評するかのようなクラコの視線がユナに今まで以上の羞恥を抱かせる。
今は翼から脱落したとはいえ、元々は大切な体の一部だった羽。それをクラコに物扱いされて美しさを品定めされている。
その光景はユナの頭の中で変換され"自分が物扱いされてクラコに品定めされているイメージ"として出力された。しかしそれはユナにとってマイナスな感情を含んだショックというわけではなかった。
確かに、クラコが自分を物扱いしているというイメージがユナの中に生まれたのだが、その前にクラコの口から発された"羽繕い"という言葉がイメージをいかがわしい方向へと勢いよく路線変更させてしまっていた。
今現在ユナの脳内を詳細に説明するならば……
ベッドに裸で膝立ちになる
「わ、わあぁ!? だめぇ!」
「え、わ、ちょっとユナ!?」
妄想をかき消すように声を上げたユナはその勢いのままクラコに突撃し、クラコが手に持っていた羽を奪い取ろうとするが反射的に羽を持つ手を上に掲げた事でユナの手が届かない。
そのままぴょんぴょんと跳んでクラコの手から羽を取り戻そうとするのがいつもの風景なのだが、その日はいつも以上に慌てていたらしいユナは思わずカザヨミの力でクラコにとびかかり、そのまま押し倒してしまった。
幸いリビングはクラコのお気に入りフワフワ絨毯が敷かれていたので体を痛めることはなく、ユナに押し倒されたクラコは一瞬の戸惑いのまま、覆いかぶさったユナと視線を合わせる。
「……え、ええとユナ?」
「……あ、ご、ごめんなさいっ!」
「いえ大丈夫よ……」
「……」
「……ええと……ユナ、羽の事だったわよね?」
「! うんっ、羽が取れちゃったの……」
しばらくその状態で見つめ合っていた二人だったがクラコが困惑した声を漏らすとユナは勢いよくクラコから離れていく。二人はしばらく無言で視線を逸らしていたが、クラコが発端となった羽にについての話題に戻すと助かったとばかりにユナもそちらに話を戻していく。
「それなら大丈夫よ。本来カザヨミの羽は一定期間で生え変わるようにできているの。いろんな空を飛んでいるカザヨミほど生え変わる間隔が短いって話よ」
「それじゃあ……私、病気とか、じゃないの?」
「もちろんよ。これは正常なカザヨミの正常な生理現象だから、ユナはなんにも心配しなくていいの」
鳥類には換羽期というものが存在しており、それは季節の変わり目に起こるとされている。夏や冬に適した羽の状態を形成する為に起こるとされる換羽だがカザヨミの場合は基本的に換羽を行う期間というものが定まっているわけではない。
カザヨミの翼はカザヨミ本人の努力で自在に動かせるようになるが、翼そのものがカザヨミの飛行スタイルに合わせて変化する事もある。それがカザヨミにおける換羽と呼ばれる現象だ。
鳥類の換羽は季節によって行われ、より飛びやすい状態を作るがカザヨミの場合は飛ぶ空域や本人の成長によって換羽が行われる。ユナはカザヨミとして発現したての頃は停滞雲の無い低空を飛ぶことが多かったが、ここ最近は積極的に停滞雲の中を飛び回っている。その影響でユナの翼はユナの飛行環境に適した羽へと換羽しようとしていた。
停滞雲内の激しい気流に揉まれても乱れることが無く、細かな瓦礫程度ならば傷もつかない頑丈さ、加えて高速で飛び回っても負担にならない軽さを備えた、ユナの飛行スタイルに合致し改良された翼が生まれようとしていた。
「でもねユナ」
「な、なあに……?」
「カザヨミの換羽はね……ほとんど勝手に生え変わってくれるんだけど、ほんのちょっとだけ翼に残っちゃうらしいの。ほら、犬猫の換毛期も人がブラシで手伝ったりしてる動画があるでしょう?」
「! あ、あの……」
カザヨミの勘の良さはユナの察する能力をこれでもかと高めていた。もちろん、だからといって直面した危機を回避出来るかは別問題であり、怪しげな笑みを湛えるクラコに両肩を掴まれたユナは、ただ震えて首を横に振る事しかできない。
「つまりね、いつも以上に丁寧で、長い羽繕いが必要になってくるのよ」
「あ、あ……あひ!?」
肩に置かれたクラコの手はそのまま鎖骨から首筋までをなぞり、頬に添えられる。それだけの動作でユナは体から力が抜け、クラコの視線に促されるままに翼を発現させてしまう。クラコが優しくユナの頬に触れるのは羽繕いを始める合図でもあり、雰囲気も相まってユナは条件反射的に翼をクラコに差し出してしまうのだった。
「だめ、クラコさぁん……」
「本当に嫌ならさっきみたいに逃げてもいいのよ? 力ではユナの方が強くて、私は敵わないもの」
「う、うう……く、クラコさんおねがい……せめてベッドで……」
「ふふ……分かったわ。それじゃあ行きましょうか」
既に力が抜けて顔を真っ赤にしているユナを横抱きにしたクラコはそのまま薄暗い寝室へと消えていった。静かに閉じられたドアの向こうからは必死に漏れる声を我慢しようとするくぐもったユナの悲鳴と、翼がばさばさと激しく動く音が聞こえたが、クラコの手が止まることは無く、ユナの鳴き声は一時間以上途切れる事はなかった。