ユナが雲海の外周部に侵入した頃、地上でクラコはひたすらにユナの無事を祈りながら、リアルタイムで雲の情報を収集していた。
都市が公開している天気予報はもちろん、過去の停滞雲の動向に関する資料やBWで配信を行っているカザヨミたちの配信などなど……。クラコはあらゆる情報源から現在の雲海周辺の様子を、限りなく現実的な姿を端末上に再現。過去数十年分の停滞雲予報図と雲海の資料、そしてユナによる現地調査によってその日の雲海の状態をいくらか把握する事ができていた。
といっても空に関する情報のみならこの程度は都市でも把握している情報であり、別段珍しくも希少でもない情報ではある。だが基本的にそれらの情報のほとんどは外部に公開されるようなものでは無く、驚くべきなのは都市が組織の強みを利用して集めた情報を、クラコはユナの手を借りながらも一人で集め切った所にあるだろう。
もしもクラコが都市に住んでいたならば、その情報収集能力を買われてカザヨミ管理部へとスカウトされてもおかしくないと思えるほどにはクラコの予測はかなりの精度を誇っている。今回ユナが雲海に突入する日を今日と決めたのもクラコの予測ではそれ以外に最良と思える日がなかったのが理由でもある。
「……大丈夫かしら……やっぱりもう少し、できるなら都市と同じタイミングの方が良かったかもしれないわね……」
部屋の中で端末に視線を向けながらも、クラコの頭の中には今朝方元気に飛んでいったユナの事ばかりが思い浮かんでくる。確かに今日が最も良い日であると言ったのは自身であり、今日の為にユナは体と翼のコンディションを整えてきた。各種
それでも、やはりクラコは空の向こうに消えていったユナの事を思い出す度に深くため息をつきたくなってしまう。
ユナを一人で危険な空に飛ばした。
実際はユナも承知の上で、二人で納得しての事だったが、それでもまだ小さな少女であるユナ一人にすべてを背負わせてしまったように思えてならない。
「……こんなことじゃダメよね。私は私のできる事をしないと」
部屋のリビングは追加で購入された端末が数台並び、それらは様々な映像を出力してクラコに届ける。とあるカザヨミの配信だったり、都市が設置した観測器の公開情報だったり、各地で何とか生きている定点カメラなどなど。
得られる情報たちによって今日一日は天気の変化は殆ど無く、停滞雲に関しても目立った動きは無いとの結論が出ている。雲海に関しても周辺環境が安定しているので外部から観測できるような事象は発生しないだろうと。
だが、それはたった一日。それこそ数時間程度しかない限られた安定でしかない。次の日にはがらりと天候が変わり、飛ぶことさえ困難な空になる事も珍しくない。ただでさえ上空の天気というものは変わりやすく移ろいやすい。
そこに"停滞"という不確定な要素が含まれているのならば、これ以上の予測を行うことは不可能だろう。
クラコは窓の外に見える停滞雲に視線を向け、その向こうにいるはずのユナを想う。帰ってくると約束した小さなカザヨミの少女はあの雲の向こうで、望んだものに出会うための、足がかりを掴んだのだろうか。
◇
雲海は三層の領域を有していると言われているが、雲海外周も樹木の年輪のような層状の領域を形成している。雲海支配領域の最も外周に存在するのがユナが先ほど突破した気流の壁であり、その内側にはまた別の領域が広がっている、のだが。
「静か……こんなに、何も聞こえないなんて……」
気流の壁を越えた先を飛行するユナはその空域のあまりの静かさに思わず不安に駆られ、しきりにあたりを見回す。だが周囲の空域はただ静寂だけが支配し、天は青一色に染められていた。眼前に見える雲海の巨体まではまだまだ距離があるものの、到達するのにそこまで苦労するようには見えなかった。
「……大丈夫、大丈夫」
先ほどまでの激しい気流が嘘のように静まり返った空間をユナは慎重に飛行し、目的の雲海へと近づいていく。
既にユナの飛行している場所は雲海が支配する領域であり、どれほど天候が安定しているように見えても決して油断できない空間だった。事実としてユナが飛行する空間は通常のカザヨミならば飛行する事も困難な領域なのだ。それは都市のカザヨミが雲海直下に設置された観測所から雲海へと侵入する事を選択した事からもわかるだろう。
もちろん雲海直下も同様に危険で、侵入が困難な事に変わりないのだが、それでも都市は複数の飛行隊を運用する場合、側面から雲海に侵入するよりも直下が安全だと判断した。それほどまでに危険とされている空間を、ユナは悠々と飛行し目的地である雲海本体を目指していた。
ユナが現在飛行している空間は雲海本体から気流の壁の間に広がる所謂無風地帯であり、カザヨミが乗る事のできる気流はほぼ存在していない。ほとんどの風の流れは気流の壁へと合流、あるいは引き寄せられ、停滞雲は雲海へと引き込まれる。結果として雲海と気流の壁との間の空間にはそれらの要素が一切排除され、風も雲も存在しないきわめて"気持ちのいい青空"が広がっているのだ。
だが、それは一般的なカザヨミにとってかなり厳しい環境といえる。まず、気流がほとんど存在しないのでソアリングによる半自動航行が不可能である事。カザヨミは翼を羽ばたかせ、自身の体力と精神力を削って数キロにも及ぶ無風地帯を自力で横断しなければならない。もちろん休憩できるような場所も無い中でだ。
さらに、雲と気流は無くともエーテルは存在している。それも雲海の支配領域外とは比べ物にならないほどの濃さで無風地帯を漂っており、それらは接触した物体を恐るべき速度で結晶まみれにしてしまう。
そこらを漂っている停滞雲などと比べ物にならないほどの濃度のエーテルによって、該当領域で結晶の析出を防ぐ析出限界速度は通常の停滞雲の1.5倍以上の速度が要求される。
ただのカザヨミならば気流の壁を抜けた安堵とソアリング不可能な無風空間という事で自然と飛行速度は落ちる。それでも析出限界速度を維持しようとするが、静かすぎる周囲の環境に油断したカザヨミたちは限界速度を見誤り、一瞬の内に体中から結晶を生やして墜落してしまう。
世界中の都市がそういった状況を把握したのは、数百ものカザヨミが命を落とした後だった。
そんな先人たちの命をもって得られた雲海の情報によってユナは決して油断することなく無風地帯を飛んでいく。確かに無風地帯であり、普通のカザヨミならば雲海に着くまでにかなりのエネルギーを消費してしまうだろう。
だが、この無風地帯は風は無くともエーテルはそこら中に存在している。それこそ雲海支配領域外とは比べ物にならないほど濃いものが。ならばエーテルを感知し、エーテルを翼で掴むことの出来るユナにとってこの空間は"飛べる"空に変わりない。
「……あと、二……ううん、三キロほど……」
ユナはケスケミトルの内ポケットから球体の姿をしたエーテルコンパスを取り出す。水に満たされた球体の中に浮かんでいるエーテル溶液の油はまっすぐ雲海本体を指し示しており、決して目に見える雲海の姿がエーテルと光によって作り出された
さらに反対側のポケットから水色をした携帯端末を取り出し、表示されている時間を確認する。
「あと、一時間くらいかな……?」
ユナは翼でエーテルを掴み加速する。エーテルコンパスと携帯端末をしまい込み頭の中で雲海到着予定の時刻を指折り数えて計算していく。
最初に確認したエーテルコンパスによってこの空間では視覚を含めた体の五感がしっかりと機能している事を把握したユナは次いで現在の時刻から自身がどれだけ飛行を続けているのかを確認した。
ユナは連日の翼を動かす訓練と実際の飛行訓練によってある程度飛行速度を安定させる事に成功していた。どれだけ空が荒れていようともそれらの外的要素を考慮したうえで、翼の感覚と肌に当たる風の感覚から自身が今どれほどの速度を出しているのかが分かるようになったのだ。
ユナは自身の時速を算出し飛行時間からどれほどの距離を飛んでいるのかを把握、既に判明している雲海の全長から後どれほどの時間飛べば良いのかを計算することができていた。
広大な雲海領域を飛行することは、まるでゴールの見えない道を延々と進み続けているようなもので精神的な負担は予想以上のものになる。だが"あと一時間飛べばいい"という、ゴールが見えている状況になれば見えないよりも圧倒的に負担は軽くなる。
それを理解しているからこそクラコはユナに教育を与え、各種道具を揃える事に必死になっていた。それらがユナの生還率をぐっと引き上げると信じていたからだ。
「! 見えた!」
エアリングによって気流を利用せずとも体力を温存したまま長時間飛行出来るユナはそれから一時間程度飛行し、ついに雲海の本体へとかなり接近する事に成功した。巨大な雲の塔は間近に寄れば寄るほどその大きさに圧倒されるほどの存在感と威圧感を放っている。モヤのような薄い雲などではなく、まるで物体としてそこに存在しているかのような立体感は雲海を構成する雲をただの氷と水の粒で構成されたものではなく、まるで物質的な大地のようにさえ感じさせるほどだった。
いや、それはまさしく大地そのものなのだろう。停滞雲という土地の上に飲み込まれた瓦礫を積み上げて形作られた灰色の大地。それこそが雲海なのだ。
(どこかに入り口が……クラコさんが言ってた雲海の入り口があるはず……!)
雲海は下層、中層、上層以上の三層構造になっていると判明しており、その境界は常に揺れ動き、不安定な状態で固定されている。さながら水の入ったコップに油を注いだ時のように、水と油の境界面のように雲海の層は波打つ境界によって分けられている。
境界が揺れ動いていることで何処から次層なのかが曖昧であり、不意に未踏破の中層に下層探索中のカザヨミが入り込んでしまう事故も過去いくつか発生している。層が違えば空間のエーテル濃度は極端に上昇し、その影響によって層ごとの環境は劇的に変化する。ひとたび入り込めば数秒もかからずカザヨミは結晶の塊となって墜落するか、中層に飲み込まれたまま行方不明となるだろう。
しかし、そんな各層の境界にも比較的安全に別層を行き来できるスポットが存在している。上昇気流と下降気流が境界近辺で共存し、層と層との境界を混ぜ合わせているそんな領域が存在しているのだ。
それこそが下層から中層へと入り込むことができる唯一の入り口。他の境界と比べ下層と中層の空気やエーテルが混合された事で極端な環境の変化が起きにくく、比較的スムーズに別層へと移動できる限られたルート。他の境界が他の層を分け隔てる壁や崖とするならば、このスポットはそれらの格差を均した階段やスロープのようなものだ。
ユナは慎重に雲海本体へと近づき、その入り口らしき場所を探していく。雲海という遥か天上まで続く雲の塔に到着したユナは、次につなげるために行動を開始する。
◇
クラコとユナが立てた計画の通りに事が運べばユナはその日の夕方にはクラコのところに帰ってくる予定だ。各種
今回の雲海へのアタックはあくまで雲海へユナがたどり着けるかを見るためのもので、いきなり雲海内部へと飛び込むつもりはクラコもユナも考えていなかった。
だがユナの希望もあり、何度かに分けて雲海内部のさらに奥まで探索するつもりではある。もちろんその計画も今回ユナが無事に帰還すればの話ではあるが。
とにかく、クラコは今回の雲海への飛行に関しては雲海本体への入り口を確認するまでに留め、その後はすぐさま雲海支配領域から離脱するようにとユナに言い含めている。
雲海と通常空域との境界である気流の壁を貫通出来るのか、その先の無風地帯を踏破出来るのか、エーテルの感知能力だけで雲海の入り口を見つけ出せるのか。その三つを確認するのが今回の要点なのだから。
「……もうそろそろ夕飯の準備をしておいた方がいいわよね……」
雲海の内部に入らないのならば、激しい気流の壁と無風地帯程度ユナにはどうってこと無い環境だ。これまで経験してきた停滞雲の方がまだ飛行環境としては厳しく思えるだろう。
だから、ユナは絶対に無事で帰ってくる。
そう何度も頭の中で呟きながらクラコはふと時計を確認した。ユナが飛び立ってから数時間が経過しており、既にお昼時に差し掛かろうとしていた。きっとユナも空の上でクラコお手製のおにぎりをほおばりながら帰り道を飛行中だろう。
対してクラコは今の今まで何も口にしておらず、そのことに気付くと一気に空腹感が襲ってきた。何か口に入れようかと考えるクラコだが、ここ数日ユナの準備やらで忙しくそれ以外の事に気を回す余裕もなかったので冷蔵庫の中身は空っぽ。お米も今朝ユナに渡したおにぎりのぶんで使い切ってしまっていた。
「買ってこようかしら……店長のところ今日開いてたっけ……」
ふらふらと立ち上がったクラコはしばらくの間端末の前から離れる事にためらいを覚えるが、ユナは無事だと自身に言い聞かせるように小さく頷き財布とカバンを手に取って出かける準備を始めた。
「ふぅ……天気は良いわね……空気も乾燥してるし、鉄臭い雨の匂いもしないし」
部屋から外に出ると無意識に空を見上げてその様子をしばらく眺める。現在ユナが飛行しているであろう空域とは距離も高度も違うので、クラコがこのあたりの天気をいくら観察しようともユナとは関係がない。それでもやはり見つめる空の向こうにユナが居ると思うと、そんな無意味な行動さえせずにはいられなくなる。
団地から離れ歩く景色はいつもと変わらず廃墟と瓦礫が交互にクラコの視界へと入り込んでくる。住む人のいなくなった高い建築物たちは頂上から風雨によって削られ徐々に短くなっていく。まるで鉛筆削りに差し込まれた鉛筆のように歪な尖塔のような姿を晒すそれらは傾き始めた太陽を背負い、割れたアスファルトを歩くクラコへと影を伸ばしていた。
それでもまだ太陽は真ん中より少し傾いた程度でしかなく、停滞雲に隠れているので果たして本当に影がクラコへと届いているのかさえ曖昧だった。
「……今日は何にしようかな。無事帰ってきたお祝いならお肉かな……あ、そういえば冷凍してたひき肉どうしたっけ……?」
ぶらぶらとカバンをぶら下げ空を見上げながら歩くクラコの足取りはやはり覚束ない。相当にユナの身が心配であるのだろうが、今の自分ではどうすることもできない事も分かっているのでそうした不安を何でもない独り言でかき消す以外に方法が思いつかず、クラコはそのまま店長の店に到着するまで言葉を吐き出し続けていた。
「店長さーん、おられますかー?」
慣れた道を歩き、慣れたバイト先の扉を開けたクラコは出来るだけ明るい声音で店の奥にいるであろう店長へと声をかけた。現在ユナが雲海へと赴いている事は店長も知っており、ユナが飛び立つ前日は何かと声をかけてくれた。そんな店長をあまり心配させたくないと思ったからだ。
「……おや、どうしたんだい? 今日は一日家に居るものと思っていたんだがねぇ」
「それが、私のお昼ご飯を用意し忘れてて……」
「おやおや一人だと急にそそっかしくなるねえ」
「あはは……」
店の奥からやってきた店長は杖をつきながらも元気そうな声でクラコに話しかける。店長もクラコが無理をしているのはどことなく理解しているようで、あえて触れずにいてくれているようだった。
だが、クラコはそんな店長の様子に少し首をかしげる。自身を気遣う店長の姿に違和感を覚えたからではなく、それ以外の要因によるものか、店長はどことなくよそよそしく振舞っているように見えたのだ。
いつもは優し気にクラコちゃん、と呼ぶ店長は先ほどから一度としてクラコの名前を呼ばないし、ユナの話もしない。ユナの話題に関しては自身の精神状態からあえて口にしないのかと思っていたクラコだが、それにしたってあまりにも話をしない。
まるでクラコと一緒に誰かが住んでいる事実を口にしないようにしているかのようだった。
「あの……すみません店長さん」
二人が何度かの会話を行った後、おずおずといった様子で店長とクラコへと話しかける声があった。声の主は店の奥から店長と同じように登場し、遠慮がちにその視線を店長とクラコに合わせている。
「! あ、えっと……お客さん?」
「まあねぇ……お客といえばお客かねえ」
最初にその人物を見たクラコは思わずその姿を観察するかのようにまじまじと見つめてしまった。すぐに不躾だと思い目を逸らしたが、そのくらいクラコにはお客と思われる少女の姿が印象的だったのだ。
美しく整えられた茶褐色の髪が肩から胸辺りまでを流れ、優し気な目元は少し不安そうにうつむき、何故か申し訳なさそうに視線を下に向けていた。背の高さはクラコよりも低いがユナよりも頭一つは高く、年齢もユナより三つか四つは上だろう。肌のツヤや肉付きを見ても困窮した生活をしているようには思えず、清潔感もある。
何よりも特徴的なのは少女の服装だ。少女が身に纏う服は都市外の子どもが着用するような着崩れしたものとは違い、まるで新品同様の真新しさがあった。生地も良いものを使っているらしく、少女の少女らしさを存分に引き立たせるデザインをしていた。
ただ唯一、その服は背中部分が大きく開けており、少女の背がそのまま露わになっている。それらの外見的特徴から目の前の少女が都市に住まう、特別な存在だとクラコは判断した。
「ええと……店長のお知り合い?」
恐る恐るといった具合にクラコはその少女へと質問する。目の前の見知らぬ少女がクラコの想像通りの存在ならばあまり関わりたくない存在ではある。とはいえ無視するわけにもいかず、クラコは出来るだけ少女の機嫌を損ねないように会話を始めた。
「あの……実は先生にここに行くようにと言われまして……」
「先生?」
「先生というのは私の知り合いの子だよ。まったく、こんな時にだけ連絡を寄越すなんてねぇ」
そんなクラコの慎重な姿勢とは裏腹に店長はなんてことないように呆れの感情をあらわにする。不機嫌な様子を隠すこともなく、その様子に少女もビクリと驚き体を震わせる。
クラコが想像していたような、都市からやってきた不遜な態度の"彼女ら"とは少し様子の異なる様子にクラコは小さく驚き、すみませんと頭を下げる少女を見やる。
「紹介するよ、この子は風花ツグミ。オウミのカザヨミだよ」