風花ツグミは元々キョウトの都市からみて北にある町で暮らす一般的な少女だった。家はそれほど裕福ではなかったが、両親共に健康で一人娘のツグミはめいいっぱいの愛を受けて育った。
小さな頃から賢い一面を見せていたツグミは親の言う事を良く聞き、端末での勉強も嫌がることなく積極的に取り組んでいた。元々の性格が体を動かすよりも家の中で文字を読む方が好きだったツグミを両親は聞き分けのいい子だと感心し、ツグミが求めるものを出来る限り手に入れるように努力した。
といってもツグミが求めるものは物ではないことの方が多かった。勉強を見てほしい、本を呼んでほしい、一緒に寝てほしい。
そんな些細な願いがツグミの求める"もの"だった。両親に遠慮していたわけでなく、そんな些細なものこそがツグミにとって最も価値のあるものだったのだ。
そうやってツグミは両親と一緒につつましくも幸せに暮らしていた。比較的停滞雲が薄いキョウトの北部という事もあり、時折停滞雲の隙間から青色の空が見える事があった。ツグミはそんな僅かな青色の存在に興味を引かれ、時間があれば空を見上げるようになっていた。
食事をして、本を読んで、そして空を見る。そんな生活サイクルを続けていたある日、両親はツグミの"空を見上げる行動"が幼子特有の好奇心によるものではなく、カザヨミがもつ飛行欲によるものだと気が付いた。
そして一年後、翼を発現させられる適齢期に達したツグミはキョウトの都市で検査を受け、カザヨミである事が確定した。
周りの人間はツグミをもてはやし、ツグミが知っている親戚も知らない親戚もこぞってツグミのもとを訪れては、媚びるようなふるまいをして見せた。ツグミは賢く、それ故にまだ自身が子どもだと知っている。子どもである自身に媚びる大人たちを見て、ツグミはおぞましく汚らわしい、という感情を初めてそれらに対して抱いた。
おそらくカザヨミが持つ特権をもって都市に住むことを夢見ているのだろうが、その夢の中には肝心のツグミは一切存在せず、誰も彼もが己の事しか考えていないのは明白だった。
幼いながらも自身を利用する事しか考えていない大人の汚さを知ったツグミだったが、救いだったのはツグミがカザヨミだと判明してからも両親の態度が全く変わらなかった事だろう。
ツグミが初めて空を見上げ、両親がツグミに飛行欲があることを察したその時より、ツグミの両親はこうなることを覚悟していた。両親は出来る限りツグミに接触しようとする親戚を押し留め、無関係者の接近を警戒した。両親は一心にツグミの安全と幸せを願い。ツグミが都市へと旅立つその日までツグミに愛情を注ぎ続けた。
ツグミの一家が生活していた町から最も近いキョウトがカザヨミの所属制限を設けていた事で色々と時間はかかってしまったが、ツグミが飛行欲持ちのカザヨミであることが優位に働いたのか、ほどなくしてキョウトから少し離れた場所にあるオウミの都市の所属が決定した。
そうしてツグミは両親と共に今日もオウミの都市で静かに暮らしている。最初は都市への移住を断るつもりだった両親もツグミの必死の説得によってしぶしぶながらも了承し都市の居住地区に住むようになり、訓練施設の寮で生活しているツグミは頻繁に両親のもとへ帰っては親孝行に精を出している。
そうやって、この世界では比較的平和な人生を歩んできたツグミだが決して平坦な生活を続けているわけではない。オウミの都市は先生がカザヨミ管理部の最高責任者となってからカザヨミの負担を最小限に抑えるよう飛行計画が練られてはいるが、それでもカザヨミが危険な空へと向かう事に違いはなく、年間数名から十数名もの行方不明者が報告されているくらいには油断ならない職業といえる。
「……ここ、ですよね……? うん、クラコさんに教えてもらった道で間違いなさそう……」
そんなカザヨミ人生の中で、おそらく最も緊張する瞬間にツグミは遭遇していた。場所はオウミの都市から南方に存在する廃墟が立ち並ぶ地区。町や村といった規模で人が住んでいるわけでなく、廃墟の中にぽつぽつと人が住み着いている程度の地区だ。
そんな僅かな住人にとって最後の希望ともいえるような場所が、店長の経営する店だった。都市外とは思えないほどの品揃えを維持し、場合によっては物々交換やバイト代の代わりに商品を譲る事もあり、利用者に寄り添った経営は実に好評で店長本人もかなり慕われている。
そんな店長の店でツグミはいくつかの土産の品を購入し、少しだけ店長と話をした後、クラコの住んでいる場所へ向かうため瓦礫の隙間に作られた道を歩いていた。
「こんなところに橋が……? これって、鉄塔……? 反対になって刺さってる……」
ツグミが歩く道はいつもクラコが通っている道だ。何の変哲もない、都市外の人間にとって当たり前な道。
ツグミは幼いころに都市外に住んでいたとはいえ廃墟の街を足で歩くのは久しぶりの体験だった。
なれない足取りでひび割れたアスファルトの道を歩いていくツグミ。視線の先には朽ちたビル群……それも元々は其処に無かったはずの、降害によって形作られたビル群を見つめ、その上に蓋をしている灰色の停滞雲へと視線を移す。
「酷い……」
きっと都市外に住んでいる人間がツグミのつぶやきを聞けば、何を今更と呆れた顔をするだろう。最近はもっぱら都市外の光景を空の上から眺めるだけだったツグミにはその凄惨さに顔を顰める以外に感情を表現する方法を見つける事ができなかった。
分かっているつもりだった。けれど、分かっていなかった。
都市で生まれ育ったカザヨミならばまだしも、都市内より都市外で育った年数の方がまだ長いツグミは、自身がそのような感情に苛まれる事に困惑していた。いくら都市の外で育ったとはいえ、都市で暮らしていく内にその記憶は遥か彼方に消失し、都市での生活を当然のものと受け入れている。
その結果がツグミに目の前の光景を新鮮で衝撃的なものとして感じさせているのだろう。今日会うのはそんな都市の外で生活している家族だ。
瓦礫の山はところどころアスファルトの道を塞ぎ行く手を阻む。先人のおかげで迂回路が作られているのだが、それでも快適というにはほど遠く、何よりも瓦礫の間を通るのはかなり危険と言えた。
もしツグミが都市外の仕事に駆り出されるような下級のカザヨミならば空を飛んでいくのだろうが、ツグミをはじめとした上級のカザヨミは都市外の住民がカザヨミにどのような感情を抱いているのか理解している為、彼ら彼女らを刺激しないようにと翼は必要以上に発現させることはない。
そうでなくとも基本的にカザヨミの翼は発現させているだけで体力を徐々に消耗させる為、過酷な作戦行動を任される事の多い上級のカザヨミは突発的な招集などに応えられるよう、休日でも翼をしまったまま体力を温存する者が多い。
加えて数日後に行われる予定となっている雲海調査計画によって上級はまとめて待機命令か休暇が与えられているためツグミもわざわざ翼を広げて飛んでいくような真似は控えるようにしていた。
そうしてツグミが十数分程度の時間をかけてやってきたのは、朽ちかけた団地が聳え立つ一帯だった。既に団地の敷地とそうでない地面との境界線を表す塀や柵などは朽ち果て、団地そのものも老朽化激しく外見は緑の蔓に覆われる廃墟のように思えた。
だがそんな廃墟のごとく佇む団地群の中で、蔓の浸食があまり行われていない棟が存在していた。……いや、そうではない。団地に近づくにつれてその棟の違和感をツグミは視界に収め、ある可能性を至る。
蔓の浸食が緩やかな棟の壁をよく見れば、何やや白い跡がついている。灰色に劣化したコンクリートの側面に汚れをふき取ったかのような白い模様が見て取れた。それは壁を這っていた蔓を取り除いた時に出来る跡だ。
"誰かが団地に巻き付こうとしている蔓を駆除している"
その可能性に思い至ったツグミは思わず唾を飲み込み、焦りを抑え込む。団地は根元に至るまで背の高い雑草が生い茂っている。ハシゴか何かを設置するような場所は無く、過去設置したような形跡も見当たらない。団地の窓から体を乗り出して蔓を駆除したという可能性も考えられるが、蔓があったであろう跡以外に、人が壁に触れた形跡が一切見当たらない。
つまり、団地の蔓は外側から、壁に触れずに取り除かれたという事になる。
普通ならばそんな事不可能だ。まだ強風で壁を這っていた蔓が吹き飛ばされたと考える方がマシだろう。しかし停滞雲に覆われているこの世界では強風なんてものは上空でなければ吹かないし、強風を含めた自然災害のたぐいも停滞雲によって全て駆逐されてしまっている現状、その可能性も低い。
ならば不可能でない可能性となれば、
「あはは……高いところの掃除をカザヨミにお願いするなんて、下級の子たちが聞いたら怒り出しそうですね」
目的の棟を発見したツグミは教えられた階を目指し、その団地の中へと入っていった。
◇
ツグミが踏み入れた団地は想像していたよりも綺麗な印象を受けた。蔓があちこち絡まり、ひび割れた柱や壁から水が染み出し、いつ崩壊してもおかしくないような光景を想像していただけに、ツグミは困惑しながらも階段を登っていく。
蔓や植物は綺麗に処理され、大きなひび割れは何やら樹脂のような補強材で埋められていたり、新しいコンクリートが追加で塗りつけられた形跡があった。あまりにも崩壊が激しいエリアは立ち入り禁止の看板やテープが張られており、誰かが住んでいるのは確実といった様子だった。
(……静か、ですね……)
この団地はおろか、周囲で生活している人間さえもわずかといった具合なので本来このような集合住宅で聞こえてきそうな人々の声は一切耳に入ってくることはないが、それでも耳をすませばいろんな音が聞こえてくる。風が団地の中を通ってくる音や草木の葉擦れる音、そして何かが羽ばたくような音。
「え……?」
ツグミは最初その羽ばたきの音を鳥か何かがやってきたのだろうかと思っていた。それくらいに羽音は静かで、着地音もろくに聞こえなかったからだ。だが、それからしばらくするとツグミが居る階の下から突然足音が聞こえてきた。その足音は徐々にツグミへと向かっており、ツグミがそのことに気づいた時には既に足音はツグミの居る階への階段を登っている途中だった。
思わずツグミが階段から下を覗き込むと……
「…………」
「え、っと……」
そこには階段のコンクリート製の手すりに体を隠し、視線だけはツグミを見つめている小さな少女がいた。少女は警戒をあらわにし、その暗褐色の瞳でツグミを油断なく捉え続けている。
思わぬ存在の登場にツグミは一瞬言葉を詰まらせる。都市外で生活する子どもとなればその生き方はなかなかにハードだと聞き及んでいる。都市では犯罪とされているような行為を平気でする者もおり、訓練施設の職員からは都市の外に出るときは注意するようにとツグミを含めたカザヨミは教えられていた。
とはいえもしも目の前の少女がこの団地に住んでいるのだとしたら、最初に少女の住む場所に入り込んだのは自身の方だ。真面目な性格のツグミは少女に事情を説明し、謝罪しよとしたが先に少女が口を開く。
「……お姉さん、だれですか?」
少女の声は落ち着いていて、とても冷静なものだった。此方を警戒する雰囲気を持ちながらもその言葉遣いは丁寧なもので、ツグミに危害を加えようという考えは見られなかった。
もしもツグミが生粋の都市生まれ都市育ちのカザヨミだったならそんな雰囲気の違いも分からず目の前の少女に心無い言葉をぶつけるか、あるいは都市に飛んで逃げ帰っていた事だろう。
しかしツグミは目の前の少女が少なくとも会話することを望んでいると知り、少女の疑問に応えることにした。
「あの、私はクラコさんに教えられて……それでこちらに……」
少女はかわいらしく頭を左右に揺らし、何かを考えている素振りを見せる。視線はジト目でツグミを見つめたままで、階段から昇ってきた空気がふわりと少女の髪の毛の先をさらっていく。
「もしかして、ツグミさん?」
そして団地の隙間から覗き込む日の光が、そうやって揺れ動く少女の髪を映し出し、鮮やかな色合いをツグミへと届ける。
「! あなた……もしかして!」
落ち着いた、それでいて鮮やかな青灰色の髪を持つ少女ユナはそうして初めて都市所属のカザヨミであるツグミと邂逅した。
◇
「ねえツグミお姉さん、都市ってどんなところなの?」
「ええと……都市はね、カザヨミやいろんな職業の人が暮らす場所でね」
とてとて、と小さな歩幅で団地の廊下をゆくユナは後を付いてくるツグミの様子を確認するように何度も振り返り、そのたびにツグミに何かしらの質問を投げかけた。それに対してツグミはたどたどしくも当たり障りのない内容をもって応える。
おそらくは目の前の少女こそ、ツグミを含めたすべての都市所属のカザヨミが注目して止まないハヤブサ本人なのだろう。特徴的な髪色はもちろん、背格好や手足の細さ、か細くも芯のある声音は確かに動画に記録されていたものと一致する。
(これは……本当にどうすればいいのでしょう……?)
先日クラコより会わないか、とメッセージを受け取ったツグミは少しばかり悩んだ結果、先生や飛行隊のメンバーに何も言わずカザヨミ管理部へ外出許可を提出し、都市の外へと飛び出した。
雲海調査計画に組み込まれている飛行隊メンバーはそんなツグミの珍しい行動に引っかかるものを感じつつも計画準備に忙殺され深く追及することはなく、外出許可を提出した先生も少しばかり黙り込んで何やら頭を悩ませている様子だったが、最終的にはツグミの外出許可を認めた。
おそらく先生は気づいていただろう、ツグミが都市外へ調査に向かった先でハヤブサに関する何かを掴んだことを。しかし先生はカザヨミを第一に考えて行動する人間であり、その枠組みには都市未所属のカザヨミたるハヤブサも含まれている。ハヤブサが都市には秘密にしてほしいとツグミに望んだならば、先生たる彼は黙認し、深く詮索するつもりも無かった。
先生がツグミに何も言わず外出許可を出したのもそれをツグミが望んだからであり、それ以外の理由はない。少し悩んでいたのもツグミが何かしらの問題に巻き込まれないかという杞憂からだったが、そもそも危険性を感じたならば先日の時点で報告しているはずだと判断し、結果先生はツグミの行動の一切を許可する事にした。
しかし現在のツグミはそこまで先生が把握しているとは思っておらず、誰にも何も言わずに誘いに乗ってしまった事に後悔していた。まさかいきなり本人に遭遇するなど思ってもみなかったのだから。
「ふーん。ツグミお姉さんはカザヨミなの? 飛ぶの……怖くない?」
「怖い、ですか……そうですね、雲の中に入るのは……少し勇気がいります」
ユナはツグミと視線を合わせ、何処か心配するような声音で語り掛ける。都市外の住民にとってカザヨミは妬み嫉みの対象で、都市内では尊敬や畏怖の対象だった。だから怖くないか、などとこちらを心配するような言葉をかけられる事はほとんどない。あるとすれば、それはツグミの先輩や同僚のような、同じカザヨミの口から出るのがほとんどだった。
あの恐ろしい空と雲のあいだを飛んだ経験のある者でなければ、そのような言葉をカザヨミにかける事はできないだろう。
「やっぱりそうだよね? お空ってとっても大きくて、とっても高くて、すっごく広いもんね」
「ユナちゃんは……」
「? なに? ツグミお姉さん」
「……いえ、何でもありません」
ツグミは目の前で楽しそうに跳ねる少女の姿から目を離すことができない。本当ならばもっと話をするべきなのだろう。聞き出すべき核心的な部分を追及すべきなのだろう。
だが、ツグミにはそこまでの勇気はなかった。何かが大きくがらりと様変わりしてしまうような、空恐ろしい予感を抱いてしまった。それがツグミの口を重く縫い付け、発するべき言葉を奪った。
(ユナちゃんは、空を飛んだことがあるの?)
飲み込んだ質問を胸に抱いたままツグミは先を行くユナを追いかけるのだった。