この世界で初めて停滞雲の中を飛んだカザヨミ、ツバメ。彼女はあらゆるカザヨミの技術の根本を発見した第一人者であり、奔放者だったらしい。
飛ぶ事を第一と考え、自身を取り巻く名声や権力の一切に興味を示さず只ひたすらに空を愛したという。そんなツバメが現役だった時代はまだカザヨミが停滞雲内を飛行出来るとは考えられていなかった。
当時まだ信頼されていた飛行機器でさえ積乱雲を避けて飛ぶほどだった。ならばカザヨミが雲の中を飛ぶなど不可能だと言われていたのだ。しかしその定説をツバメは覆した。
不可能を可能にしたフライトは単なるツバメの遊び心から実行されたと噂されている。その日は太陽が雲の隙間から見え、気温もかなり高かったという。飛行中のツバメはそんな目ざわりな太陽から隠れ、あわよくば雲を構成する水滴で涼をとる算段だった。
そうして適当に入り込んだ雲が停滞雲だったという、危機感も何もあったものではないバカバカしい話。ツバメに関する逸話はそのほとんどが時間の経過と共に脚色され、事実から大きく離れていってしまっている。この話も事実だったのか、それともツバメの異常性を強調した作り話なのかは現在では判断できない。
だが、そんなバカバカしい話さえ歯牙にもかけない程に現実離れした真実が事細かく書き込まれた手帳が存在している。
それは飛行中のカザヨミが必ず身に着けている覚書。空の様子を記した雲海図だ。空を飛んでいるツバメが落書き感覚でへんてこな雲をスケッチしたのが始まりだとされており、実際にキョウトの都市に保管されているツバメの雲海図の最初のページには鉛筆で描かれたらしい入道雲が端のギリギリまで綿密に書き込まれている。
ツバメの雲海図には綺麗な走り書きと精細な挿絵がセットで記録されており、それらは全て同一の筆跡……つまりツバメが一人で書き込んだものとされている。中身は
現在の人間にとって意外なのはツバメの雲海図にはカザヨミの訓練方法などの記述も存在していたが、そこに鳥類を手本とするべき、という内容は一文も存在していなかったところだろう。
都市という大きな組織は集めたカザヨミに画一的な飛行訓練を受けさせる為にイメージしやすい鳥類の飛び方を真似させたのだが、ツバメは当初から鳥を真似しても意味がないと理解していたのだろう。
そうして現代でも通用する技術や知識が満載されたツバメの雲海図は発見されたキョウトの都市を中心としてカザヨミの飛躍的な能力向上に繋がった。
都市を運営し、カザヨミを扱う者たちは一様にツバメの雲海図を神聖視し、そこに間違いなど記載されていないと信じ込んでいた。……いや、実際に間違いはなかった。ツバメが考えたカザヨミに対するソアリングとホバリングの概念、さらにエーテルの存在を仄めかす記述とエアリングという技術が現実となるだろうという予測。それらは全て的中した。
唯一誤算があったとするならば、それはツバメの雲海図を描いたのが……ツバメ本人だったというところだろう。
最初にツバメの雲海図を手に入れたキョウトはそこに記された雲海に関する知識を基にして雲海の調査計画を組み立てた。大陸では既にカザヨミを用いた雲海の調査が幾度も行わていたが、それは外側から雲海の見た目を確認する程度のもので、雲海そのものの実態を調査するようなものではなかった。キョウトの調査計画は実際に雲海の内部にカザヨミを向かわせ、内部の環境を記録するというものだった。
参加したのは七つの飛行隊と訓練生の合計40名ものカザヨミたち。ツバメの雲海図に記された雲海内での飛行方法を参考にして、"雲海図に記された通りの飛行方法"で、"雲海図に記された通りのルート"を通る計画。
雲海図の通りならば何ら問題のない計画だった。既にツバメが通った跡をなぞればいいだけなのだから。しかし都市の管理者たちは勘違いしていた。ツバメの雲海図はツバメの為に存在していた手帳であり、それ以外のカザヨミが活用出来るような代物では全くなかったのだ。現在でも比肩する者の居ない、類い稀なる才能を持ったツバメと同じ飛行方法を取れるカザヨミなど存在せず、ツバメと同じルートを見つけられるカザヨミなど存在しない。
そして結果は、歴史的大失敗。
計画に投入された40名のカザヨミのうち31名は行方不明。5名は墜落死。3名は結晶の析出による内臓損傷により病院で死亡が確認された。
唯一生き残ったカザヨミの訓練生はキョウトからオウミへと所属を変え、未だ行方不明の先輩カザヨミたちを探し続けているという。
◆
「つまらない話だったか?」
特級であるミサゴは特別に与えられた個室の窓から外の景色を眺め、アトリに話しかける。特級のための個室は豪華なホテルの一室のように広く美しい。だが、そんな光景さえアトリは視界に入らないほどに目まぐるしく思考していた。
目の前にいる特級、かつての訓練生だったミサゴの横顔を恐る恐る見つめながら。
「……そのような話、聞いたことがありません。過去の調査計画書を全て閲覧しましたが、それほどの規模で行方不明者が出た作戦など……」
「現在カザヨミを救世主のごとく扱っている都市が、そのようなカザヨミを使い潰す作戦を実行した証拠を残しているわけがないだろう」
「……カザヨミ管理部と都市管理部、二つの管理部が存在しているのは、それが原因なのですか?」
「まあ、おおむねその通りだ。調査計画に参加しなかったカザヨミと遺族が声を上げ、カザヨミを守るために"都市"から分離させ生み出されたのが、カザヨミ管理部なのさ」
ミサゴの言葉にアトリはごくりと唾を飲み込み、汗の滲んだ手のひらを握り込んだ。当事者から語られる生々しい現実にアトリは地上にいながらも空に浮かんでいるような不安定さと恐怖を感じた。
覚悟していたはずだった。少なくともファッション感覚でカザヨミである事をひけらかす下級のカザヨミと比べれば、空の上がどれほど危険なのか理解している自負があった。
だが、そんな思いはミサゴが語った過去の出来事によってたやすく揺らいでしまう。かつて地獄のような光景を目の当たりにし、それでも帰ってきたミサゴの言葉はまるでアトリを責め立てるかのように深々と突き刺さってくる。
「別に仲良くしろ、とは言わないさ。お前と妹がどのような境遇にあったのか、私には想像もできないだろうし、同情する、と軽々しく言ってほしくもないだろう? ただ……私は皆と一緒に、誰一人として欠けることなく帰ってきたいだけなんだ」
どこか寂し気なミサゴの声に耐えられなくなったかのように、勢いよく立ち上がったアトリはそのまま部屋から出ていこうとする。ドアノブを握り、ミサゴに背をむけながら、なんとか言葉を絞り出す。
「……私は、カザヨミとしての責任は果たします。それが命令ならば、従います……もう、それでいいでしょう?」
ミサゴが何か言う前にアトリは部屋から出て言ってしまった。後を追おうにもミサゴはアトリにかける言葉を見つけられず、ただ彼女が去った後の扉を見つめるしかできなかった。
「あらら、まーたミスったんスかミサゴ先輩」
出ていったアトリの代わりに部屋に入ってきたのはヒタキだった。わざとらしいほどに呆れた声でミサゴに語り掛けるヒタキはさながらドラマの登場人物のようにやれやれと首をふり、手を動かす。
「ヒタキか……。私はどうにも言葉を扱うのが下手らしい……」
「いきなり過去話をするのはやめた方がいいって言ったじゃないっスか」
「……なぜそうだと言い切れる」
「じゃあ違うんスか? 過去話はしてないと?」
「……した」
「はぁ……イスカちゃんの方も事情は説明しておいたっスよ。本人は逆切れっぽい感じでしたけど、話は聞いてくれた……と思いたいっス」
「そうか。いつも面倒をかける」
「いまさらっスよ。……誰もがみんなミサゴ先輩みたいにまっすぐ自分の心を言葉に出来るわけじゃないんスよ」
カザヨミである事をひけらかし、それだけで上位の存在となったと勘違いしているカザヨミたちにとってミサゴの過去は受け入れがたい内容だろう。カザヨミと成って楽に生活できると思っていたのに、実際は死地に送られる兵士のような扱いなのだから。
しかし、だからこそミサゴは受け入れがたい内容をあえて口にする。空路を巡回するだけの一般カザヨミならばまだしも、アトリとイスカは雲海という、まさしく死地へ赴こうとしているのだから。
「……言葉にしなければ分からないだろう?」
「言葉にしなくても分かるくらい信頼してほしいって事っス。さあ、明日も早いんスから私たちも寝まスよ」
「そうだな……」
トンネルの向こうに見える空は雲海により分厚く蓋がされ、太陽の光は極限まで制限される。それ故に時間の感覚が狂いやすく、朝夕の判断さえ曖昧になる。雲海調査中の睡眠はカザヨミの体力を回復させるのと同時に、それらの体内時計を調整する役割がある。眠ることも彼女たちにとって重要な仕事なのだ。
眠ればこの鬱々とした感情も綺麗になくなってくれるだろう。そう願いながら眠りにつくミサゴは次の日、思わぬ事態へと進んでいく調査計画に目を白黒させる事になる。
ミサゴたち先発隊に合流した地上補給部隊は共にやってきた先生やカザヨミ管理部の職員によって指揮所が設置。各カザヨミへと指示を出していく。
そこで嶺渡の姉妹が言い渡された命令は……待機。
姉妹はこの雲海調査が終了するまでの間、雲海観測所の施設から出ることを禁止されたのだ。
◇
ユナのエーテルを感じ取る能力は停滞雲に潜るごとに先鋭化し、急速に進化していった。はじめは空間に漂うエーテルの濃淡をぼんやりと感じ取る程度だったが、今ではエーテルの濃淡は数十もの段階に判別出来るまでになり、それらが存在する空間の境界さえもはっきりと知覚出来るようになっていた。
とはいえそれはユナだけが持つ能力であり、他者が共有できる類の感覚ではない。そのためユナは自身の感じた光景を身振り手振りを用いてクラコに語るのがここ最近の日課となっていた。
「クラコさんここ、ここが一番濃かったよ。すっごく速く飛べたの!」
ソファに座ったクラコの膝にちょこんと座り込むユナはクラコに携帯端末に映る空の風景を見せながら、その空域について話をしていく。端末に指先を這わせれば撮影された何枚もの映像データや動画データが移り変わり、一つ一つを思い出すようにユナは
「ふふ、そうなのね。……怪我はしなかった?」
「うんっ、……でも、ちょっとガラスが混じってたみたいで、切っちゃった」
「ほんと!? どこを切ったの!?」
「も、もう大丈夫だよぅ……家に帰る頃にはもう治ってたもん」
「はぁ……ユナ、そういうのは大丈夫だと思っても報告してほしいわ。……出来る?」
「うん……ごめんなさい。できるよ」
「それなら良かった。ほら、ガラスで切ったところを見せて。カザヨミの力で治ったとしても破片が残ってるかもしれないから」
「うん」
頷いたユナは服をめくりあげ、おもむろに腹部を露わにする。ユナの為に栄養を考えた食事を心がけていたが、それでもユナの体はまだまだ細く軽い。力を入れないように注意しながらクラコはユナのお腹に手を添え、ゆっくりと撫でさする。
「あぅ……」
「痛いの?」
「ち、違うよぅ……」
「ならよかった。綺麗な肌なんだから、傷になったら大変よ」
「大丈夫だもん。カザヨミなんだから」
「こら、そういう油断はしちゃダメって言ったでしょう? ユナだって小さな女の子なんだから」
「はーい……」
クラコの指先はお腹からそのまま胸元へと入り込んでいく。既にガラスが裂いたという怪我はどこにもなく、目で見ただけでは傷を負ったなどまるで分からない。けれど傷の治療と共に不純物が肌の下に残っている可能性もある。それを確かめるためクラコはユナの体を指先でなぞっていく。肌下に不純物……今回ならば細かなガラス片などが残っていれば触れただけで痛みや違和感があるはずだ。
「どうかしらユナ? 痛くはない?」
「うん……。あの、クラコさん、もう大丈夫だから……」
「残念だけどもう少し続けるわよ。飛ぶ時に痛みがあったら大変だもの」
「あ、あぅ……」
雲海支配領域内を飛行するようになってからユナがこのような傷を負って帰ってくる事は時々あった。最初こそすぐに治ったから大丈夫というユナの言葉を聞いて納得していたが、調べた情報によると傷の原因となった瓦礫によっては傷跡に破片が残っていたり、感染症となる場合もあるらしい。それを知ったクラコはそれからユナが傷を負って帰ってくるたびに、その肌をなぞり違和感や痛みがないかを確認するようになった。
なお、傷口に破片が残ったり感染症になるといった情報はカザヨミではなく一般人に関するものなのでカザヨミが実際にそのような症状に陥るかは判明していない。一般的には翼を収納する時のように肌の傷も治療の際に入り込んだ破片などは排出されると考えられているが、それも検証されたわけでもないので確かでは無い。
まあ、長々と語ったわけだが、つまりクラコはそういった言い訳を並べてユナの肌に触れたかったというのが本音なのだろう。
「……あら」
「な、なに……?」
「ユナ、ちょっと大きくなった?」
「──もうっ!! クラコさんっ!!」
ユナの胸から勢いよく払いのけられたクラコの手。残念そうに、あらあらと笑いながらユナの可愛いらしいにらみつける攻撃を躱すクラコは先ほどまでユナの手元にあった青色の携帯端末を操作し、収められていた空の映像を確認する作業へと戻る。
その間ユナはクラコの胸元で恥ずかしさにジタバタと暴れるが、それをクラコは抱いて制する。
「ふふ、ユナも成長しているのねぇ」
「どこを触ってそう思ったの!?」
笑ってごまかすクラコと、そんなクラコに詰め寄るユナ。二人の時間はいつもと変わらずゆっくりと流れていく。携帯端末をフリックして幾つもの映像を横目に、愛らしく頬を膨らませるユナを見るクラコ。
端末に表示されている映像はどれも人の身では見ることも叶わない遥か空の上の光景の数々。ユナでなければ映像として記録する事すら困難なものだ。
その中には雲海へと入り込むための入り口をユナが見つけた証拠も確かに収められていた。
雲海外周を横断し、雲海へと接近したユナはその下部に大きく口を開けた横穴を見つけた。いくつもの停滞雲の切れ端が飛び散り視界を遮ってくる為、その横穴がどれほど大きくとも見つけるのは困難だったろう。入り組んだ雲の隙間を縫い、隠された横穴を覗けば果てが見えないほどに長い長い雲のトンネルが形成されているのが映像でも分かる。光が制限された雲海の内部はどんよりと薄暗く、トンネルの終点は暗闇に覆われ確認する事は出来ない。時折トンネルを横切るように
ゴツゴツとした不格好な雲のトンネルはうねりながらもユナを誘うようにその大口を開けたまま静かにそこに在った。
「もうすぐね」
「……うん」
クラコが集めた空の情報と連日のユナによる雲海外周の環境調査によれば、雲海へと突入するのに最も良い日は今から数日後。
それは都市の雲海調査計画に参加しているカザヨミたちが中層への突入計画を実行する日と全く同じ日だった。