背中に翼を背負った少女たちをカザヨミと呼称し始めてから既に数十年もの月日が経過していた。ただ飛ぶ事に喜びを感じていただけの無垢な存在は、同時期に発生した停滞雲に対する対抗戦力としての能力を見出され、都市という"上澄み"に集められ住民の為に働く事を求められた。
カザヨミの数と質こそが都市の影響力を指し示し、カザヨミ一人の有無によって都市のパワーバランスが崩れるとも言われているほどだ。それ故に特級という最上位の質を持つカザヨミを二人も擁するキョウトの都市はこの国に存在するすべての都市の頂点に存在するとされている。
カザヨミが多ければ都市周辺の降害に対する監視密度は高くなり、質が良ければ精度も高まる。それは等級が上がれば上がるほどに安定し、安全が確保できれば人が集まり、空路が整備され、物資や人材が集まる。
カザヨミこそがこの崩壊した世界における唯一の資源。唯一の指針。唯一の武力。
故に都市はこれまであらゆる方法でカザヨミを確保しようとした。最初は都市外の子供を保護するような政策を打ち出して都市にカザヨミ候補となる子どもを集めたが、集めた子どものほとんどはただの子どもであり、カザヨミとして発現したのは一割以下という散々な結果となって早々に政策は打ち切られた。多くの子供が捨て子となってしまうと知りながら。
次に目を付けたのはカザヨミ本人だった。母親となったカザヨミが生む子どもはカザヨミとしての適性が高いのでは無いかと考えられたのだ。しかし、カザヨミより生まれてくる子どもの方がカザヨミとして発現する割合が多いなどという事は無く。この考えも失敗に終わった。
その後もいくつもの可能性を探り、時には人道的に批判されるべき事件などを引き起こしながら人類はカザヨミを計画的に生み出す方法を模索していった。
そうして数十年が経過した現在、
都市外に生まれ、都市へ行く事を夢見た愚かな女性。その願望を子どもを利用して叶えた幸運なる女性。というのが都市管理部の第一印象だった。しかしそんな印象は共に都市入りした姉妹の存在により大きく変化することになった。
この世界にカザヨミが出現してから数十年、カザヨミの出生率は徐々に減少している。といっても出現当初と現在を比較した結果であり、実際は僅かに上下しながら一定の割合を維持しているというのが都市の見解だった。
生まれた土地も血筋も関係なく、無作為に選出されたかのように発現するカザヨミの能力は決して連続的に生まれることは無い。しかし、嶺渡という女性とその子どもの存在はそういった過去の定説を覆す可能性を孕んでいた。
嶺渡という女性は、カザヨミを産む聖母なのだと。
しかしエーテルおよびカザヨミ関連の研究者はその説をただの偶然だと否定した。ランダムにカザヨミが生まれるのだとしたら、隣り合うタイミングでカザヨミが連続するかのように生まれるのも確率的にはあり得る話だ。これまで数十年の歴史の中で前例のない事だとしても、それほどまでに確率が低いというだけの話であり、絶対にありえないという訳ではない。
今回の嶺渡の姉妹に関しても偶然姉妹がカザヨミとして発現しただけであり、母親には何の特別性は無いと研究者は断じた。研究者たちの結論にオウミの都市は大いに落胆した。もしも嶺渡の女性が真に聖母と呼ばれるような存在ならばオウミの都市は彼女を用いて都市間の権力抗争に勝利し、現在のキョウトと同等の規模に成れると考えていたからだ。
しかし、そんな落胆の中にあったオウミ都市管理部の人間の中で誰かがぽつりと呟いた。"嶺渡がカザヨミを生む聖母では無いと証明しなければいい。そうすれば彼女は永遠に聖母であり続ける"と。
都市管理部の動きは非常に迅速なものだった。嶺渡の母親を、まさに人類の希望といった風に
母親は全ての都市から注目される存在となり、それを擁するオウミの都市は各都市から広く注目される存在へと躍り出た。もちろんキョウトをはじめとする大きな都市は母親の聖母としての体質を疑問視している部分もあったのだが、それでも停滞したカザヨミの出生率問題に対して嶺渡の母親の存在は注目せざる負えなかった。
そうやって特別な母親が目立てば目立つほど娘である二人の子どもも注目されるようになった。けれどそんな周囲の変化に対して姉と妹の反応はまったくの正反対なものになる。
姉である嶺渡アトリは幼少の頃より母親の教育を虐待だと理解していた。それ故に母親が祭り上げられているのをどこか冷めた目で見るようになり、母親との距離を置くようになった。現在は都市のカザヨミ教育施設で寮暮らしをしており、母親と直接顔を合わせる事は無い。
対して妹の嶺渡イスカは母親の教育をそのまま教育として受け入れ、信じて育った。母親の言葉は全て正しく、ぶたれるのは自身が間違いを犯したからだと信じて疑わない。母親の為に行動する事が子どもの最大の幸せであり、母親の為に生きるのが子どもの生きる意味だと思っている。
なぜなら、そのように母親から教えてもらったから。
母親が「私の為に飛びなさい」と命令したならば、イスカはためらい無く空へと飛び出していく。
それが正しいと信じているから。だから、それが停滞雲だろうと雲海であろうと、イスカは決してためらわない。
例え死ぬことになろうとも。
◆
『全員酸素残量確認! 突入組は準備しておけ!』
『まさか、突入するんですか!?』
『イスカをあのまま放っておくわけにはいかん!』
ミサゴの怒声に先ほどまで硬直していたカザヨミたちは一斉に動き出す。ボンベの酸素残量を確認してあとどれくらい雲海の中で活動できるのかを考慮し、ミサゴは中層へ入り込んだイスカの後を追う為に指示をしていく。
だが、その言葉に待機組のカザヨミたちは驚き声を上げる。本来数秒程度の突入しか想定されていない中層へと、行方の分からないカザヨミの捜索の為に入り込むと宣言した事に戸惑いが広がっている。
混乱した空気を察したヒタキが割って入る。イスカの自殺まがいな中層突入を目撃し、ミサゴは冷静さを失っている。
『ちょ、ちょい待つっスよミサゴ先輩。とにかく今は現状を下に報告するのが先っスよ! 現場判断も時には必要っスけど、独断で先行出来るほど中層は調査が進んで無いっスよ!』
『だがこのままではイスカが!』
『このままいけば私たちもどうなるか分からないっスよ!!』
ヒタキとてイスカを見捨てたくはない。短い時間だったとはいえ同じ飛行隊で同じ空を飛んだ仲だ。生意気なところはあるが才能は確かにある。将来有望な新人を、見知った仲間を見殺しにしたくはない。
しかし、衝動だけで突入できるほどに中層は甘くはない。でなければこの数十年で中層の全容は解明されているはずだし、今回の突入計画とて数秒の滞在期間となるわけがない。
加えて待機組のカザヨミたちの心情も思わしくない。中層へと消えていったイスカの評判は同年代のカザヨミの中でも良いとは言えず、元々特別昇級して三級の位置にいる事を不満に思っているカザヨミも少なくない。そのうえ本人のあの性格のせいで遠巻きに見られ、年上や等級が上のカザヨミに敬意を払わないところがプライドの高いカザヨミを刺激する結果となっている。
待機組は全て一級のカザヨミであり、ある程度わきまえている者たちばかりであるが、それでもイスカの性格には思う所があるようで、今回の独断中層突入に関しても驚愕と共に若干の怒りも覚えているように見られる。
なぜ自分勝手に行動した彼女の尻拭いをせねばならないのか? と。
直接口にするような者はいないがそれでも先生より通達された待機命令を無視し、単独で中層へと突入したイスカをわざわざ助けに行くべきなのか、という思いがカザヨミたちの雰囲気から感じられる。
そもそも、特級と一級が数秒しか活動許可されないような中層で彼女一人がまだ生きているのか……? という疑問もあった。
ミサゴに突き刺さる視線、そこにはイスカの心配よりもここに集った飛行隊のメンバーの心配をする感情が多分に含まれていた。
『……ミサゴ先輩』
『……』
『ミサゴ先輩!』
ヒタキの声に顔を上げたミサゴは未だ中層の先に視線を移し、消えていったイスカの姿を探す。だが、その影は何処にも見当たらない。
『ミサゴ先輩……指示をお願いしまス』
『……すまなかった。……全員、退避。すぐに下層から離脱する。戻るぞ──!?』
ミサゴが次の指示を出そうとした瞬間、比較的安定していはずの下層の空間が大きく歪んだ。大きな波が海中を巻き込んで大きくうねったかのように、巨大な空気の移動が一瞬で行われた。四方八方から打ち付けていた気流は一方向より移動する空気の圧力に均され、彼女たちが居た安全地帯さえも巻き込んで破壊していく。
『きゃあ!?』
『っス!?』
『気を付けろっ! 全員安全の確保っ、現在の位置を維持しろ!』
瞬間的に空気が丸ごと移動する衝撃で一級のカザヨミたちでさえ上手く翼を動かすことが出来ない。さらに急劇な気圧の変化によって酷い頭痛とめまい、一瞬の意識の消失が起こる。目の前が真っ白になる経験に熟達したカザヨミさえも冷静を保つのは難しい。
『全員無事かっ!? 返事をしろっ!』
『だいじょ──…です!』
『──とか──っています』
『聞こえな─……せんぱ─』
『これは……くっ!』
ミサゴはマスク内の小型マイクに向かって叫ぶが、帰ってくる音声は途切れ途切れの雑音交じりなものだった。僅かばかりに聞こえる声だけでは全員が無事なのかも分からない。
カザヨミたちは全員が手を伸ばせば届くほどの近くに固まっている。下層ならばこの距離での通信は可能であり、実際先ほどまで出来ていた。だが、それができなくなったという事は。
(近距離通信が出来ない程にエーテル濃度が上がった……! 中層が降りてきている!)
この時、調査計画に参加していたカザヨミたちは知る由も無い事だが、ヒエイの雲海には高濃度のエーテルが合流していた。元停滞雲だったそれは気流の壁によって雲を剥がされ純粋なエーテルとなった。純粋なエーテルは特性によって雲海の中でも殊更濃いエーテルへと誘引され、雲海の上層を目指そうとするが、雲海に引き込まれるスピードの方が速く、結果として雲海の下層部に到達し、吸収された。
一時的に下層のエーテル濃度が高まり中層との境界が曖昧になった事でそれまで維持されていた領域の区分が変化。エーテルはより濃いエーテルや停滞結晶に誘引される特性によって上の層を目指す。それにより下層の中でも中層に近い部分、つまり境界付近のエーテル濃度が高まり、結果として中層との境界が崩壊、中層は濃くなった下層の領域を取り込もうと下層の浸食を始めた。
それがミサゴたちが直面した現象の正体だった。
『全員退避! センサ杭の信号を目印に下層の出口を目指す!』
『……!』
『!』
既にミサゴたちの居る場所は中層に飲み込まれ、中層と同環境に変化している。近距離通信が妨害されるだけでなく、下層では起こり得ない異常が発生する未知の領域に変貌してしまっているのだ。早急に離脱しなければ部隊の全滅さえあり得る。そう判断したミサゴは周囲のカザヨミと視線を合わせ、ハンドサインで離脱方向を指さす。
センサ杭の打たれた瓦礫は既に位置を大きく変化させているが、それでもある程度辿ってきた道はズレたセンサの位置からある程度推測できる。それらをたどれば、雲海の入口付近まで後退する事が出来るはずだ。少なくとも、下層と中層の境界が曖昧になった現在地から離脱できる。
ミサゴが先頭になり退却を始めるカザヨミたちだが、しばらく飛行したところでミサゴは何かしらの違和感を感じ始める。視界はギリギリ開けており、翼も体も痛みは無く怪我もなさそうだ。飛行に関しても安定しており、スーツに備え付けられた航空計器の数値も問題ない範囲に収まっている。
(……いやまて、急激な環境の変化が起こっているのに、計器の数値に変化が無い、だと……?)
そこでようやくミサゴは自身に去来する違和感の正体に気付き始めた。
彼女たちは知らないが、既にそこは中層に取り込まれた中層の領域だ。ミサゴなどの限られた突入組のカザヨミが数秒だけ滞在することを許された、そんな領域なのだ。
そこは既存の停滞雲や雲海下層で集められた情報などなんの役にも立たない未知で未踏の恐るべき領域なのだ。
『現環境からの離脱を最優先! 全員急降下準備!』
ミサゴが抱いた違和感の正体は翼が感じ取ったエーテルの濃度変化だった。特級のカザヨミであり、エーテルを利用したエアリング航行も実行可能なミサゴだからこそ気付けた違和感だが、そんなミサゴでも違和感がエーテルによるものだとは判断できなかった。
『ミサゴせんぱ──どうしまし──』
『なにを──』
(抜け出せないだと? これは……まさか)
エーテルを感じ取れないカザヨミたちは一様にミサゴの慌てようを見て驚いている。このまま移動を続ければ問題なく地上へ撤退できるだろうに、どうしてミサゴはあそこまで焦っているのかと。
ミサゴとて理由は説明できなかった。それでも急いで離脱しなければ手遅れになってしまう。カザヨミとしての勘が、エーテルを感じ取る翼がそのように叫びを上げているように思えてならない。
ミサゴは全速力で雲海の下を目指す。中層との境界付近を離脱し、雲海の出入口を目指す為に。
だが、すべては手遅れだった。中層に触れたことでカザヨミたち全員の航空計器が狂っている事を理解したのも、激しい違和感の正体に抗おうと行動する事も、すべては手遅れだった。もしもミサゴがエーテルの流れや濃淡を、ユナほど詳細に識別できていたのならば結果は違っていたのかもしれない。
だがそうはならなかった。
高濃度エーテルに曝され航空計器は内側から析出した停滞結晶に破壊され使い物にならなくなった。中層の高濃度エーテル領域によってその場に"停滞していたセンサ杭の信号"を本物だと勘違いし、高濃度エーテルによって狂わされた平衡感覚は空を地と、地を空と誤認してしまう。
近距離通信は間にエーテルが挟まることで妨害される……だけならまだ良い方で、"停滞"によって音声の大きさや鮮明さがぐちゃぐちゃになってスピーカーから聞こえてくる。遠くに居るはずのカザヨミの声が近くから聞こえ、近くに居るはずのカザヨミの声が遠くから聞こえるような錯覚が発生する。
それらの異常事態はミサゴの抱く違和感として出力されるが、それをミサゴ自身が理解することは出来ない。感じられるのは違和感という漠然としたもののみ。
そうしてミサゴたちは下を目指しながらも上へ上へと登っていく。脱しようとしている中層の中へと深く入り込むように、全速力で未開の空域へと侵入していった。