愛鳥少女とキンヨク生活のすすめ。   作:田舎犬派

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48羽 か細い声

 

 地上のヒエイ雲海観測所が事態を把握したのは待機命令を出したはずのイスカがいなくなった事が判明してすぐだった。観測所付近の観測カメラなどが雲海へと向かうイスカの姿を撮影しており、それを見た先生がすぐさま予備戦力として地上に待機していたカザヨミたちを雲海へと突入させようとした。予備戦力とはいえ彼女たちも雲海への突入経験はあり、新人であるイスカにならすぐに追いつけるという判断からだった。

 

 そんな先生へ、困ったように苦笑する人間が立ちはだかる。

 

「何を考えているのです! あの子はまだ雲海はおろか停滞雲への突入経験も無いのですよ!?」

 

「いやいや国城先生、やはり我々としてはあの子にある程度の成果を積んでもらわねば……」

 

「その前にあの子が死にます!」

 

「何を不吉な事を! 雲海調査は君が責任者となってから死人など出ていないではないか!」

 

「く、この……!」

 

 イスカを連れどすカザヨミたちへ指示を出そうとしていた先生に思わぬ邪魔が入る。先生と共に観測所入りしていた都市管理部の人間がイスカを連れ戻すためのカザヨミ投入に待ったをかけた。彼らは都市管理部の中でも下っ端であり、都市管理部の上層部に命令されてこの地へと赴いていた。彼らが命じられた指示は嶺渡姉妹が多くの実績を積み、今回の雲海調査計画において大いなる活躍をさせるようにしろ、というものだった。

 

 本来ならば彼らが出張る必要もなく嶺渡姉妹は雲海の調査、それも中層への突入メンバーとなるはずだった。しかし観測所に着いた先生がそれらの予定を全て変更し、嶺渡姉妹に観測所待機を命じたのだ。

 

 都市管理部の役人からすればそれは土壇場の命令変更に見えたかもしれないが、元々先生は嶺渡姉妹に雲海の中を飛ばせるつもりはなかった。都市管理部の命令を無視した事で何かしらも報復はあるかもしれないが、だからと言って未熟なカザヨミを雲海という死地へ送り出すつもりはなかったのだ。

 

 訓練を行っていたミサゴやヒタキの話から嶺渡姉妹の実力は雲海調査が始まる前と比べればありえない程に成長していると言えた。等級に換算すれば一つは上の等級に該当するであろう技術を身に着けていると判断できるほどに。

 

 しかし、それでも経験という点では圧倒的に不足していると言えた。ヒタキが連日二人を空へ連れ出し、雲海は無理でも同じような環境を想定した飛行訓練を重ねていた。それでも、それでもやはり雲海に突入するにはあまりにも危険というのが先生の判断だった。

 

 その証拠に姉妹は雲海の直下、比叡山の山間を飛行して観測所に到着するだけでも疲れ果てており、とてもじゃないが雲海を航行出来るとは思えなかった。ヒタキの訓練がなければ観測所に到着することさえ不可能だったろう。

 

 だからこそ、先生は都市管理部の干渉が最低限しか及ばない観測所で土壇場の待機命令を姉妹に出した。姉妹にはなぜ待機命令を出したのかを丁寧に説明し、理解して貰った上で観測所に残ってもらったつもりだった。

 

 だが、妹のイスカはその状況を不服と感じていたのだろう。まさか新人のカザヨミが雲海へと単独で入り込むなどという暴挙をしでかすと思っていなかったカザヨミ管理部の人間は、イスカをみすみす雲海へと入り込ませてしまった。

 

「まああの子なら大丈夫でしょう。たしか、この調査計画が終われば二級に特別昇級する事が決まっているのでしょう? これからの成長も考えれば既に一級程度の力はあるのではないですかな?」

 

「ばかな! 雲海はたとえ特級であっても油断ならない領域なのですよ!?」

 

「ならあの子には特級レベルの力が眠っているんじゃないかい? ははは」  

 

「何を、なぜそんな……」

 

 どうして都市管理部の役人はここまで悠長で楽観的な言葉を吐くことが出来るのか。先生はあまりにも現実の見えていない役人に対し、憤りや呆れを通り越して恐怖すら抱いていた。

 

 こうしている間にもイスカの命は潰えようとしている。にもかかわらず役人はあっけらかんとして冗談交じりに言葉を放つ。理由もなくイスカは無事であると考え、何かしらの成果を手にして帰ってくるだろうと思っている。

 

(そうか……この人たちは降害を、停滞雲を……雲海を知らないのか……)

 

 冗談交じりに笑い声をあげる役人を見て、冷や水を浴びせられたように冷静になった先生は彼ら都市管理部の人間が都市外の現状を全く知らないのだと悟った。

 

 停滞雲が寄り付かず、降害の危険性もなく、衣食住の心配をする必要もない、それが当たり前な都市で生きている人間は都市の外など本当の意味で理解していない。嶺渡の母親が都市外という過酷な環境で育ったというバックストーリーは都市の住民の心を動かすものだったが、住民は都市の外というものを物語の中に登場するような想像の中だけの環境と無意識に思っている者も少なくない。

 

 都市の壁一枚隔てて存在している危険地帯を、けれど高すぎる壁が外の光景を遮断することで都市の住民は認識しない。停滞雲が発生し、降害が起こってから既に数十年の月日が経過している。それだけの時間があれば安全地帯に居る人間はかつて経験した命の危機さえ忘れ去ってしまうのだろう。

 

 

 結局先生は都市管理部の人間の小言を無視し、観測所に留まっている一級カザヨミを緊急招集。雲海突入歴のあるカザヨミを先頭にして捜索隊を突入させる事になった。都市管理部の人間は最後までぶつくさと文句を垂れ流し、計画終了後にこの事は上層部に報告するぞと脅しもしたが、そんな些事よりも今はイスカの命の方が重要だった。

 

「先生」

 

「! ……アトリさん」

 

「あの子は……」

 

 都市管理部の人間を追い出した先生の下にやってきたアトリは少し心配そうな顔で先生を見上げた。胸元に置いた手は強く握りしめられ、何処か緊張した雰囲気のままアトリは躊躇いがちに妹の行方を問うた。

 

「……大丈夫ですよ心配いりません。イスカさんは無事に戻ってきます」

 

「……心配など、していません……あの子が、勝手にした事ですから……」

 

 顔を伏すアトリは冷静に努めようとするがその声は小さく震えている。血の繋がりしかない妹であったとしても、血縁者である妹の問題行動の後始末を付けなければいけない。そのようにアトリは自身が納得できる言い訳を頭の中に思い浮かべるが、発せられる声音には妹の身を案じる姉としての感情が含まれていた事にアトリ自身は気が付かなかった。

 

「……私に手伝えることはありませんか……?」

 

「……アトリさんはイスカさんが帰って来たときに、優しく迎えてあげてください」

 

「ですが、あの子は命令を無視して」

 

「イスカさんの命令無視を叱るのは大人の役目です。アトリさんはただ、あの子の無事を祈ってあげてください」

 

 先生はそれだけ言って立ち去ってしまう。中層突入組も、イスカも、イスカを追っていったカザヨミの隊も雲海に入れば通信ができなくなる。それらのカザヨミたちの現状を素早く予測し把握しなければならず、加えて都市管理部の人間の相手もしなければならない先生はそれらの為に奔走しなければならないのだろう。

 

 いつの間にかアトリの後ろには観測所に待機していたカザヨミが控えていた。アトリも何度か会話をしたことのあるカザヨミであり、先生がアトリを心配して傍に寄こしてくれたくれたのだろうが、今のアトリにはそのカザヨミの存在は妹のような問題行動を起こさないための監視役のようにしか思えなかった。

 

 結局アトリはそのカザヨミに促されるまま自身の部屋に戻った。監視が付けられ、ほぼ軟禁されるような形で。

 

「……イスカ……」

 

 部屋に戻ったアトリは椅子に座ることもなく、体を横にすることもなく棒立ちで床に視線を落とし、久しぶりに妹の名前を口にした。アトリにとってイスカとは妹という関係以外に深めるべき点の無い他人という認識だった。

 自身とイスカは基本的な物事の考え方が全く異なっており、それ故にアトリはイスカと距離を置き、イスカはアトリを嫌悪した。

 

 その根本にはやはり母親の存在があり、母親に反目するアトリにとってイスカの存在は第二の母親のように映った。母親と全く同じ考え方をして、全く同じ言葉を発し、母親の為に生きる妹からアトリは距離を置いた。

 

 だが、だからといってイスカが妹である事実は変わらない。誰よりも近くでイスカを見てきた。誰よりもイスカの考えを感じてきた。

 

 アトリは母親から受ける教育を虐待であると理解してから母親に愛を求める事を諦めた。だが、イスカは母親の教育をそのまま教育と受け取り、故にまだ母親から愛を得られると信じている。

 

 

 イスカは……母親に愛してほしかったのだ。

 

 

「っ……」

 

 アトリはポケットの中の携帯端末を取り出し、そこに登録されている数少ない名前の一つをタップして通話を繋げた。アトリの手はじんわりと汗が滲み、力強く端末が握られる。

 

 連絡相手に何か希望を託したいと思ったわけではない。アトリには現状を好転させるだけの力などなく、通話を繋げたのも自身の無力感を和らげたいという思いからだった。端末ごしでもいいから、親しい誰かに傍に居てほしい。そんな感情の現れ。

 

 だが、ある意味それは現状を覆す意外な一手となった。これ以上ない、それでいて誰も打てないはずの一手。その発端として。

 

 

「! ──あの、風花先輩……アトリです。今、お時間よろしいでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

◆◇

 

 

 

 

 

 

 

『お願いです……お願いしますクラコさん。私に出来るのは、もうクラコさんとユナちゃんにお願いする事くらいしか……』

 

「落ち着いてツグミちゃん。ほら、深呼吸して。ゆっくり話して、ね?」

 

 自身の無力さを吐露するアトリを慰め、話を聞いたツグミはためらいながらもクラコへと通話を繋げた。

 都市の問題に対してクラコやユナを巻き込み、問題解決を願うなどあまりにも都合の良い行動に何度も端末を操作する手を止めたツグミだったが、脳裏に浮かぶイスカの姿がどうしても離れず、後悔しながらもクラコへと端末を繋げ、アトリより聞いた雲海の状況を説明していた。

 

『こんな事をお願いするのは、間違っていると分かっています……! それでも、どうか、どうかお願い出来ないでしょうか……? イスカちゃんを、助けてほしいんです……!』

 

 ツグミの言葉はあまりにも悲壮に溢れ、現在死に瀕しているであろう後輩を助けてほしいという悲痛な叫びだった。ヒタキと同じくツグミも同じ飛行隊に所属していたイスカの事を手のかかる可愛いらしい後輩として認識していた。言葉はやや尖っているものの、それでもこちらの命令にはしっかりと従い、指摘された内容は次までに修正する程度には勤勉で才能もあった。

 

 そんなイスカの突然の暴走にツグミも困惑しているのだろう。先生への報告なども無く、個人の意思でクラコへと救助を乞うたツグミの行動は褒められた事では無い。現在進行中の調査計画に都市未所属のカザヨミに干渉を依頼しているのだから。

 

 クラコ側からしてもツグミの言葉は自分勝手なものと思われても仕方が無いものだ。ただ一度だけ会ったハヤブサことユナへと、あの恐るべき雲海へ行けと言っているのだから。

 

 それにツグミは知らない事だが、救助を依頼した嶺渡イスカはユナの従妹にあたる。その事実はユナが思い出したくもないだろう叔母の家での生活を嫌でも思い出させる事になるだろう。

 

「……ごめんなさいツグミちゃん、さすがにこれは……」

 

 ツグミの涙声に、下唇を噛み耐えるように吐き出されたクラコの言葉は拒絶だった。元々この日、雲海本体への突入を考えていたユナとクラコだったが情報端末より得た空の様子に若干の不安を覚えたクラコが雲海への突入を延期する判断をしたため、ユナはクラコと一緒にゆったりとキンヨク日を過ごしていた。そんな時にかかってきたのがツグミからの通話だった。もしもクラコがこの日ユナを雲海へ飛ばせていたならば、そもそも悩むという選択肢すら無く、ツグミの懇願を拒否する以外になかっただろう。延期していなければ既にユナは雲海の中、通話する事もできなくなっていたのだから。

 

 携帯端末ごしに縋るような声を上げるツグミに、クラコとて何とかしたいという思いは少なからずある。だが、あまりにも不明瞭な点が多く、不測の事態が発生しやすい状況の中でユナを中層まで飛ばす気にはなれなかった。

 

 まず嶺渡イスカがなぜ問題行動を起こしたかの理由が分からない。ツグミの話では生意気でも命令を無視する事はなかったらしいし、短期間とはいえ特級の所属する飛行隊で鍛えられたイスカが雲海の危険性を分からないはずがない。

 

 次に雲海そのものの状況が分からない。ユナとツグミは雲海の支配領域での活動は行っているものの、雲海本体に突入した経験はまだない。ユナは雲海の中層はおろか下層すら体験していないのだ。知識として知っていても実際に体験しているのとそうでない時の差は致命的な問題になり得る。それこそ、初めてユナが停滞雲に入り込んでしまった時のように。

 

 そして最後に、救出を願われたイスカの存在そのもの。

 嶺渡姉妹の妹である嶺渡イスカはユナの従姉妹であり、ユナを虐げていた家族のひとりだ。ユナにとっては出会いたくない人物であり、ユナに過去の記憶を想起させる要因となり得る。ユナが不快な思いをするだけでもクラコとしては忌避すべき事柄だが、それに加えてユナの精神状況が激しく揺さぶられるのが問題となる。

 

 カザヨミがその飛行能力を存分に発揮するためには肉体的、精神的な安定が必要であり、過去のトラウマによってユナの飛行精度が著しく削られる可能性が高い。

 

 イスカの本意が分からず雲海の内部も未経験。そんな中を精神状態の悪いユナに飛ばせる。これだけ条件が揃えばクラコが拒否するのも仕方の無い事だろう。

 

『っ、……申し訳ありません。無理を言ってしまって……』

 

「……その、連絡をくれた子の話の通りならもう救助のためのカザヨミが追ってるんでしょう? なら、大丈夫じゃないかしら……?」

 

『そう……ですよね。すみませんいきなり連絡して……』

 

「ううん、大丈夫よ。……ツグミちゃん、あなたも少し休んだ方がいいわ」

 

『はい……ありがとうございます』

 

「無いとは思うけど、絶対に一人で行っちゃダメよ。雲海の危険性はツグミちゃんも分かってるでしょう?」

 

『……、……もちろんです。すみません、もう切りますね』

 

「ツグミちゃん──、……切れたわね。それで、あなたは何をしているのかしら? ユナ」

 

 携帯端末から聞こえるツー、ツーという通話が途切れた時の音が空しく響き、クラコは仕方なく端末から視線を外して先ほどから視界の外で何やらゴソゴソと物音を立てているユナの方を見る。

 

「ん。準備してた」

 

「準備って、あなた……」

 

 クラコの焦りと呆れを含んだ言葉にユナは何でもないように言葉を返す。まるで遊びに出かける子どもがその準備をしているかのような普通さだった。

 

 ユナはケスケミトルを羽織り、首元にマフラーを巻いて口元を隠す。手に持ったエーテルコンパスを内ポケットに収納し、腰にエーテル高度計を結び固定する。背中から生えた翼がふわりとケスケミトルの隙間から顔をのぞかせ、何度か上下にゆっくりと動かし状態を確認する。

 

「……雲海に行くつもり?」

 

「うん。ごめんなさい、さっきの電話聞こえてた、から」

 

 少し申し訳なさそうなユナは、けれどその目だけはしっかりとクラコを捉え、暗褐色の瞳は揺るぎようのない意思が宿っている。

 

「はあ……そうよね、カザヨミの聴力なら聞き取れるわよね……。でも、ダメよユナ。話を聞いていたなら分かってると思うけど、救助に行くのは雲海の中層なの。ユナはまだ下層すら経験したことが無いでしょう? そんな状態で中層に行かせるわけには行かないわ」

 

「でも、このままだと死んじゃうかもしれない。私は、助けられるかもしれない」

 

「"かもしれない"だけよ。可能性としては低いものよ」

 

「でも低いだけで"無い"わけじゃないよ」

 

 何度クラコが宥め、説得しようともユナの目は決して伏せられることはない。その後も今まで以上に頑固な様子のユナに何度も何度も不明瞭な状況と危険性を言って聞かせるが、それでもユナはクラコを横目に道具(ツール)の確認をしながら適当に話を流している。その様子にさすがにクラコも苛立ちを隠せない。

 

「ユナっ! あなた本当に分かってるの!? 雲海よ! 停滞雲とは何もかも違うの!」

 

 あまり大きな声を出さないクラコの怒声とも思える声にさすがのユナも道具(ツール)を弄る手を止めるが、それでもユナの瞳は揺らがない。

 

 揺らがないのはユナが驚いていないからだ。クラコの言葉が自身を心配するからこそ発せられたものであると知っているから困惑する事もなく、精神がブレる事もない。

 

「雲海の事もちゃんと勉強してきたよ? クラコさんと一緒に」

 

「そうだけど……そうじゃないの!」

 

 平常心を保つユナの姿にクラコの方が動揺を露わにしてしまう。かつて停滞雲に入り込んでしまったユナはあっさりと死にかけた。あの時は予想外の事故だったが、今回は予想できていながら危険地帯にユナは行こうとしている。それがクラコには理解できなかった。

 

「何が起こるか分からないのよ!? どうしてそこまで! ユナも聞いていたでしょう!? あなたが助けようとしているのは──」

 

「お姉ちゃんでしょ」

 

 ユナの声音は変わらない。表情も変化はない。既に知っているよ? とでも言いたげなユナは忌まわしき過去の存在を自ら口にしても心がかき乱される事は無い。

 

「っ、ユナ……」

 

「分かってるよ。叔母さんの、私の従姉妹の、イスカお姉ちゃんなんでしょ?」

 

 全て理解して、そのうえで雲海へ行くと言っている。思わぬ事にクラコは体の力が抜けるように膝をつく。

 

「……どうして、ユナは何とも思わないの? あの人たちはユナを……!」

 

「クラコさん」

 

 ユナにとってクラコと出会えたことは幸運以外の何物でもない。それはユナも理解しているし、だからクラコの為に生きようとさえ考えている。だが、だからといって自身の過去を険悪しているかと問われれば、ユナは明確に頷く事はないだろう。

 

 確かに叔母と暮らした日々は痛みと苦しみに濡れたものだった。叔母によって体は痛めつけられ、従姉妹たちの冷たい視線に晒されるのはつらかった。けれど、それでもあのような日々さえ送れない人々がこの世界には居ると、クラコと勉強をしている中で知った。

 

「私、クラコさんに出会えてよかった。本当に、良かったって思ってるよ? 叔母さんのところに居たときは、冷たくて固い床で体を丸めて寝ていて、いっつもお腹がすいてて、服だってぼろぼろだったもん」

 

 膝をついて視線を合わせるクラコの頬に優しく触れるユナ。悲し気な顔でユナを見るクラコの顔を、ユナは自身の胸に抱き寄せた。静かに泣くクラコとそれをあやすように抱きしめるユナ。いつもとは逆の立場であっても二人が互いを想う心はいつもとなんら変わりないものだった。

 

「クラコさんにいっぱいいっぱい幸せ貰ったよ? いっぱいいっぱい、大切なもの貰ったよ? 大切にしなきゃいけないものを教えてもらったよ?」

 

 人の悪意に曝されて生きてきたユナにとって、クラコからもらった優しさは初めてのぬくもりで、初めての幸せだった。ユナの過去が壮絶であったがために、過去と現在の両方の視点から物事を見ることが出来るユナは、だからこそ自身が過去に囚われる事の無いように務めていた。

 

「だから、だから行くの。私はカザヨミだから、クラコさんに教えてもらった大切なものを亡くしたくないから。だから行くの」

 

 ユナはクラコに様々な事を教えてもらった。廃墟となった図書館で無事な本を恐る恐る手に取って文字を追いかけていた時とは比べ物にならない程、ユナはクラコから生きた知識を与えてもらった。

 

 隙間風の通る壁と固い床の小さな部屋が全てであったユナは図書館で文字の形を覚え、クラコによって文字の意味を知った。この世界の事、人としての心、他者との繋がり、守るべき意思。

 

 クラコはユナに心優しい子となって欲しいと願い、そのようにユナは育った。困っている人を見過ごせない、自分に出来る事なら手を貸してあげたい。そんな、育ての親(クラコ)のように育ったユナにとって、自身の過去など些事でしかない。

 

 叔母であろうが従姉妹であろうが困っているのなら、自身が助けられるなら、助けたい。助けられるかもしれないのに見捨てるなど、したくはない。

 

 それがクラコの教えからユナが形成した自分だけの意思。今のユナを支える力強い精神の核。他者の庇護無ければ生きられなかった幼き命から芽吹いたユナの人格だった。

 

「……私が、行ってほしくないって言ったら……?」

 

「……」

 

「ユナ……」

 

「えへへ、ずるいよぅクラコさん。……でも、クラコさんは本気でそんなこと言わないもん」

 

 強い意志を秘めたユナの表情はふにゃりと崩れ、儚げに微笑む。クラコを信頼しているからこそ、クラコの言葉が本心からのものではないとユナは理解した。だからこそ冗談交じりでユナは応え、そんな反応を見せたユナを見て、クラコは観念したように大きく息を吐き出した。

 

「……、……はあ」

 

「ごめんね? クラコさん」

 

「ユナ」

 

「うん」

 

「絶対に、帰ってくるのよ。……私を一人にしたら、許さないからね?」

 

 すべての不安を胸の内から吐き出したクラコは、そこでようやく覚悟を決めた。自分よりもふたまわりも年の離れたユナが早々に覚悟を決めていたのに、と情けなさを感じつつもユナの決心が揺らぐことがないと理解し、クラコはユナを引き止める事をやめた。

 

「うん。絶対に帰ってくる。だから、帰ってきたらまた羽繕いしてね?」

 

「もちろん、道具も複数買いそろえておくから覚悟しておきなさい」

 

「うっ……お手柔らかにお願いします……」

 

「電動のヤツとか、遠隔操作のヤツも買っておくから」

 

「ひぃ──あはは」

 

「ふふ」

 

 一通りの会話を終えた二人は互いに視線を合わせ、どちらともなく笑みを浮かべ合った。これで最後では無い。むしろ、これからが二人にとっての新しい生活の始まりになるのだと、未来を想い、二人は雲海の先へ目指すことを決めた。

 

 

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