「まずは空路の確認からよ。こっちに来て」
急遽決まったクラコとユナの雲海中層への突入計画会議は慌しく始まった。本棚へ乱雑に詰め込まれた雲海に関する資料と情報端末を引っ張り出し、集めた情報により形成された"クラコの"雲海図を端末に表示させる。
ところどころ情報に穴があり、完ぺきとは言えない雲海図ではあるが、それでもユナの尽力とクラコの情報収集能力、分析力によって活用できるレベルに仕上がっている。
二人して画面をのぞき込み、クラコは雲海図に表示されているいくつかのマークを指さし、なぞっていく。
「今日のヒエイ雲海周辺は比較的安定しているという話だったけど……オウミ都市南西に点在している観測塔の情報に若干の"ブレ"があるの。これが今日の雲海突入を延期した理由なんだけど──」
「停滞雲が動いているの?」
「たぶんね。都市や報道関係のSNSを覗いてみたけど降害の発生は報告されてないみたい。けど、おそらく小規模な降害が発生して、周辺空域の停滞雲が微妙に動いたんだと思うわ」
クラコが口にする停滞雲の動きや降害の発生予測は都市が報道している情報よりも数段精度が高い。それはユナによる現地調査の賜物であるが、ユナが持ち帰った情報から今後の雲の動きを正確に予測出来るのはクラコの集めた情報とクラコ自身の処理能力の高さ故だ。
正確かつ安全なクラコの空路敷設によりユナは空を自由に飛ぶ事ができ、それによりさらなる情報をユナが持ち帰る。それをもってさらなる空路開拓を……という繰り返しによって都市の数十年分の停滞雲や降害の情報をクラコはたった数週間で得ることに成功した。
その集大成ともいえるのが、情報端末に保存されたあらゆる空の情報を詰め込んだクラコの雲海図というわけだ。この情報だけでもオウミの都市が血眼になって欲しがるだろう雲海図であるが、それを作り上げたクラコ自身はそんなことは全く気づいておらず、単純にユナが飛ぶ時に便利だからと制作しただけであるが。
「普段の空路とはちょっと違ってくるのかな……? 注意しないとだね。雲海には何か影響あるかな?」
「情報が少なすぎて今のところなんとも言えないわね……衛星も使えない以上、降害の発生状況は目視での確認が必要になるから都市からの情報が遅れるのは仕方がないけど、どの程度の規模の降害が発生したか分からないし、雲海への影響が計れないのはちょっと苦しいわね……」
クラコが予測できるのはあくまでユナが集めた停滞雲に関する事柄であり、ユナが入り込んだ事のない雲海に関する情報は当たり前であるが不足しているため予測など出来るはずもない。
「……どのあたりで発生したかわかる?」
「ええと……この辺りね。過去の発生した降害のせいで観測塔が二つほど使えなくなってるけど、代わりに観測カメラの映像が手に入ったからある程度ブレの範囲は測定出来るわ。ヒエイ雲海の北東、この小さな停滞雲の可能性が高いわね」
大小様々な図形が浮かぶ、まるで
ユナの問いに答えるようにクラコが雲海図の斑模様のうちの一つを指さす。それは他の停滞雲と比べれば小さすぎるほどの停滞雲であり、クラコが割り振った記号も最低レベルの危険度であることを示していた。
「……小さすぎない? これだとそこまで周りの雲が動くとは思えないけど……」
「でも現に周辺の停滞雲が一斉に動いているのよね……可能性としてはエーテルの濃度、かしらね」
停滞雲が内包するエーテルの濃度は降害の規模や破壊力、飲み込む瓦礫の限界量を上昇させると言われている。そのためエーテルが濃ければ濃いほどに危険な停滞雲だと判断できるが、だからと言ってエーテル濃度が濃ければ停滞雲が大きく成長するというわけでもないとクラコは予測している。停滞雲が巨大に成長するのはエーテルが拡散し、停滞雲が周囲の空間を浸食するからだが、エーテルの持つ"停滞"の特性が強く出た場合、エーテルの拡散は停滞し、停滞雲の大きさは小さいままで固定されるという可能性だ。
この場合高濃度のエーテルはそのまま小規模の停滞雲内部で留保され、何かのはずみで一気に放出される。もしも今回のもそういった特殊な停滞雲による影響だとするならば雲海に何かしらの影響を及ぼす可能性は十分にあった。本来ならば存在しないはずの高濃度のエーテルが解き放たれたのだから。
「北からの雲海侵入ルートは使えない?」
「……やめといた方がいいわね。あと、エーテルが雲海に吸収されているなら雲海の支配領域内にも影響があるかもしれないわ」
高濃度エーテルが雲海に誘引され、雲海支配領域へと到達すれば必ず何かしらの影響が現れる。エーテルはこれまで人類が観測したどの物質とも異なる特性を持つエネルギーであり、重力や気圧の影響を受けるかどうかも怪しく、結晶化していないなら質量さえも存在しているかは不明。極小の停滞雲から抜け出た僅かなエーテルであっても、それが雲海全体に衝撃的な影響を及ぼす可能性は十二分に考えられる。まるでドミノ倒しのように連鎖し、些細な干渉が光よりも速く伝播して雲海の在り様を変化させてしまうかもしれない。
クラコがそこまで説明したところでユナはとある可能性に思い至る。もしも高濃度エーテルなるものが本当に雲海へと誘引され、雲海に劇的な変化をもたらす可能性があるとしたら、その影響は雲海の細部にまで至るだろう。例えば、雲海内部への入口の有無など。
「! クラコさん! 雲海の出入り口は」
「そうか、不味いわね。入口が閉じる可能性もあるわ」
雲海本体に開いた入口は地上の地形や気温変化などによって発生した気流の形成具合から偶然生まれるのだが、そこにエーテルという不確定要素が加わることで入口の位置は気象学では特定することが不可能となっている。今回ユナが見つけた入口も発見した同じ場所に開いているかは分からなくなった。もしかすると、入口そのものが消失した可能性すらあった。
「もう行くねクラコさん!」
元々記録しておいた入口からスムーズに雲海内に入りイスカを探す予定だったが、雲海の入口から探さなくてはならないとなるとかかる時間は大幅に増加する。ユナは実際に入口を探すのに要した時間を思い出し、焦ったように携帯端末をポケットにしまい込み、部屋の窓を開け放った。
開いた窓からわずかに鉄の匂いを纏った空気が入り込み、机の上に広げられた資料の束をはためかせる。クラコは思わず自身の髪と紙を手で押さえ、飛び立つ体勢に入ったユナへと声を上げる。
「携帯端末の電源は入れておくのよ! 支配領域外の空ならこちらから位置がわかるから!」
「うんっ!」
忙しなく飛び立つ青灰色の翼はそのまま仄暗い空の向こうへと翔けていく。端末ごしにクラコの声を聞きながら、ユナはこれまで出した事のない速度でもって雲海へと直進していった。
◇
動画配信サイト、バードウォッチにおいてユナが名乗っているハヤブサという名義は、もちろん実在の鳥類から名前を貰っている訳だが、その
しかし、この速さは急降下時という条件でのみ到達できる領域であり、水平飛行時ならばその速度は文字通り半減する。体の小ささや形状によって最適化された結果、急降下という条件下に限り最速の存在となったのがハヤブサなのだ。
だが、これは鳥類のハヤブサの話であり、カザヨミたるハヤブサ……つまりユナにとってはなんら関係のない話だ。隼が最速を維持するための条件が急降下なら、ユナが最速を維持するための条件は、エーテル。
エーテルを認識し、自らの翼で掴むことでユナはエーテルがある限り最速の存在となれるのだ。重力や気流の影響を受けず、質量さえも存在しているか怪しいエーテルエネルギーを応用したエアリングという飛行方法は、ある意味それらの地上における"縛り"から逸脱した航行を実現出来る手段と言っていいだろう。
ユナは翼でもって空を翔け、鋭い風切り音を置き去りにしながら灰色の空に青灰色の閃を煌めかせる。雲より低い、ありえない青灰色の流れ星のように空に細線を描き、雲が切り裂かれたかのような光の跡を残す。
あまりにも速いユナがエーテル領域へ侵入……いや、"衝突"することでエーテルが一瞬で燃焼され、熱を感じないほどの微弱な燃焼反応が連鎖的に引き起こされている。かつて新時代のエネルギーと謳われたエーテルが、当時の人類に見せた蒼色の光を伴ってユナの後方に尾を引いていく。
「クラコさんっ、聞こえる!?」
『まだ大丈夫そうよ! そっちはどう?』
「もうすぐ壁に入るっ!」
ユナの飛行速度は水平飛行であるにもかかわらず、既に急降下時の隼レベルに迫るほどのスピードを記録していた。クラコとユナが住む団地のある地区から比叡山まではおよそ十数キロ程度であるため、直進すれば数分もかからず雲海へと到達出来る。もちろんそんな驚異的スピードを実現するにはエーテルの濃い領域でエアリングを継続しなければならず、離陸からすぐにそんなスピードであったわけでは無いが、それを差し引いたとしても驚くべき短時間でユナは雲海の支配領域へと到着した。
「なんだろう……なんだか、変な感じ……」
『変?』
クラコ製の
「っ、クラコさん、壁が無い!」
『! 不味いわね、支配領域が不安定になって──』
雲海支配領域外から誘引された高濃度のエーテルは気流の壁を破壊し、勢いそのままに無風地帯を突き破り、雲海本体に吸収された。その影響によって気流の壁は完全に崩壊し、今まで安定していた雲海支配領域の環境はがらりと様変わりした。
あたりは通常空域と雲海支配空域が散り散りに浮かび、徐々に通信も困難になっていく。壁を越えるまではクラコと会話出来ると思っていたユナは心の準備もままならない中、クラコとの会話が途切れ始めた事に僅かばかりの焦りを覚える。
「クラコさん!?」
『──携帯が──、─通信が不安定に──』
「クラコさんっ!!」
焦るユナの声は端末の向こうに居るクラコも感じているだろう。本来の予定とは異なり唐突に通信が遮断されようとしている状況の中、不安定な通信の中でも届くようにとクラコはゆっくり、優しくユナに語り掛ける。
『……ユナ、安心して──私はここにいるから──飛べるわよね?』
それはユナを信頼しているからこそ出る言葉だった。これまでならば不安に駆られるユナを心配し、引き返すべきだと提案していたかもしれない。だが、既にユナもクラコも雲海に挑む決意を固めている。心配はしている、けれどユナを信じているからこその、確認の言葉。
クラコの声はユナの心にじんわりと染み渡り、それまで焦りで凝り固まっていた体を優しく包み込んだ。無意識に握りしめていた手の平をゆっくりと開き、悪い緊張感から脱したユナはしっかりと前方を見据え、端末を握りなおした。
「……うん、大丈夫だよクラコさん。絶対に、みんな一緒に帰ってくるから」
『─そう、──愛してるわ──ユナ─』
「えへへ……私も、だよクラコさん」
端末からの通信は途切れ途切れ。それでも何とか繋がっている端末をポケットへ収納したユナはエーテルを掴み一瞬の内に最大速度を叩き出し、停滞雲の隙間を信じられないスピードで縫っていく。
加速するユナの眼前に見える灰色の雲たち。ユナが目指す雲海本体は小惑星のように浮遊する停滞雲の先に鎮座し、まるでユナが来るのを待ちわびている様だった。