崩壊したこの世界の、ごくごく一般的な家庭に生まれた少女、
イスカの日常は面白みのない勉強と、母親からの教育が大半を占めていた。連日流される勉強用の動画を見るイスカは、それらの内容が一体なんの役に立つのかと呆れながら暇な時間が過ぎるのを待ち、それが終わると母親の教育を受ける。
教育は多種多様な物事に及び、行儀や礼儀作法、これまた何に使うのか分からないような知識が母親よりもたらされた。それは母親が年若い時に得た知識たちで、教育というよりは母親の自慢話に近い内容だった。
けれどイスカはこれらの内容に関して必死に理解しようと努力していた。基礎知識もなく、唐突に語られる母親の言葉を一字一句逃さず記憶し、母親に問われれば一字一句間違いなく復唱出来なくてはならない。
でなければ、顔を何度もぶたれる事になる。覚えられるまで何度も何度も。口の端が切れ、血が滲もうとも母親の教育は止まらない。むしろ、血を流すイスカを生意気だとさらにぶった。
それがイスカの、都市外に生きるごくごく一般的な家庭の生活だった。
それでもイスカはまだ恵まれている方だ。なぜなら彼女は姉よりも認められていたからだ。彼女の姉である嶺渡アトリは母親に従わず、どれだけ教育という名の暴力をもってしても反抗的な目つきは変わらなかった。それ故に母親からの心象は最悪で、対して従順なイスカは褒められる事が多かった。
姉のくせに妹よりも不出来な存在、それがイスカに暗い優越感をもたらす。とはいえ勉学に関しては姉の方が優秀だった。それは母親も認めざるを得ないほどで、それがイスカには面白くない。
けれども、そんな環境でもイスカは歪な精神を爆発させるようなことはなかった。母親からの"教育"、反抗的なくせに優秀な姉。それらのストレスを吐き出す対象が、その家には存在していたからだ。
それは母親から遠い親戚らしいと聞いた、少女だった。
どれだけ貶しても文句も言わず、母親に理不尽に叱責される姿はあまりにもみじめで、イスカの自尊心を大いに満足させた。汚い服を着て、ボロボロな小屋で縮こまる姿は見ているだけで優越感を得られる最高の玩具。
髪の毛も肌も汚く、痩せ細った姿で母親に土下座する姿は明確に自身よりも下位の存在であると認識するには十分だった。
そんな日々が続き、母親の考える通りに成長したイスカはその裏にある歪な精神と多大なストレスを便利な存在によって解消し、この世界で最も優秀なる存在、カザヨミとなった。
イスカはカザヨミが本来受けるべき座学の大半を省略し、才能だけで空を飛んだ。カザヨミ管理部はそんなイスカに眉を潜め、無理やり椅子に座らせ教科書を広げさせた。
対して都市管理部は無条件にイスカを褒めそやした。天才だなんだとイスカを持ち上げて、殊更気持ちよくなれるように誘導した。
厳しいカザヨミ管理部と優しい都市管理部。イスカがどちらの言う事を聞くかなど、もはや言うまでもないだろう。ダメ押しとばかりに都市管理部側に母親本人が居る事もイスカをカザヨミ管理部から遠ざける一因となった。
カザヨミとなった後、姉のアトリが母親から距離を置きカザヨミ管理部が管理している訓練施設内の寮に入ったのに対してイスカは都市管理部が管理する高級住宅地で生活を始めた。
ほぼ母親との縁を切った状態のアトリに比べ、イスカは頻繁に母親に連絡を取っていた。イスカが自ら進んで連絡を取っていたというよりも、連絡をするようにと母親に命令されていたからという状況ではあったが。
母親の命令を拒否出来ないイスカは母親の言葉を守り、命じられるままに動いた。幼少期より母親を絶対的な存在と見ていたイスカは反抗するという発想さえ思い浮かばず、危険な命令さえもすんなりと受け入れるほどだった。
それはまさに洗脳そのもの。母親はイスカを、自身を美しく魅せるための道具としか考えていないように使い、イスカはためらうことなく母親に従った。
だからイスカは雲海へ行くことを禁止されたとき、カザヨミ管理部の言葉よりも
そして無謀にもイスカは慎重に進む中層突入チームを追い抜き、猛スピードで中層へと突入したのだ。
だが、そこから先の事をイスカはなにも考えていなかった。母親からの命令は真っ先に中層へと到達しろ、というもの。人類で初めて中層という前人未到の領域に足を踏み入れる偉業を母親が欲した為に発された命令であり、その後のイスカの命令無視や命の保証に関して母親は僅かにも疑問を抱くことはなかった。
カザヨミの母親でありながらカザヨミがどのような存在なのかを深く知らない彼女はカザヨミを無敵で絶対的な存在だと認識し、停滞雲だろうと雲海だろうと問題なく帰ってくるだろうと考えていたのだ。カザヨミ管理部からの命令の無視も都市管理部がどうとでも処理できるという判断だったのだろう。
だから、母親はイスカが命の危機に瀕するなどと露ほども考えはしなかった。
(! っ…………)
中層に入り込んだイスカは体の感覚が徐々に失われていく事に恐怖を覚えながらも叫ぶほどの力も無く、そのまま意識を失おうとしていた。特級レベルの能力を有するとされるユナでさえ満足に飛行できなかった中層の中で、未熟なイスカが安定した飛行を続けられるはずがない。
そもそもとして下層を飛行するだけで既に体力をほぼ使い切り、中層においては翼を発現させてはいるがほとんど気流に流されるままになっていた。今のイスカは、言うなればまだ死んでいないだけで雲海に囚われ永久に空の上を漂う事になった過去のカザヨミたちと同じ道を辿ろうとしていた。
(お母様……)
地上に帰ることもできず、停滞した空間でじわじわと命が失われていく感覚を味わう恐怖をイスカは敬愛すべき母親を思い浮かべて和らげようとしていた。だが、どれだけ母親を想っても、頭に浮かぶ映像に母親の顔は出てこない。
(あ、……ああ……)
そこでようやくイスカは母親がどのような顔をしていたのか思い出せない事に気が付いた。母親の刺すような視線に耐えられず、常に下を向いて母親の命令を聞いていたイスカには、前を向いて視線を合わせ母親と同じ位置から言葉を交わした事がなかった。
何か機嫌を損ねて母親の目が吊り上がり、次の瞬間には顔へと手が飛んでくるかもしれない。そんな恐怖からイスカはいつの間にか母親の目を見れなくなっていた。
いつもいつも下を向いて、それでも自分こそが最も優れたカザヨミなのだと言い聞かせた。
それを母親が望んでいたから。
自分は最も素晴らしく、最も優秀なカザヨミにならなければならない。
それが母親の命令だったから。
それが、イスカにとってすべてだった。
つい先日までは。
初めてミサゴと空を飛んだ時、イスカはその美しいカザヨミの姿に見惚れた。流れるように空を泳ぐミサゴはまさに鳥のような可憐さを伴いながら、力強いカザヨミとしての実力を示した。
第十七カザヨミ飛行隊。それはイスカにとって初めての家族以外との繋がりだった。
自身にカザヨミとしての美しさを見せてくれたミサゴはもちろん、口うるさくても言っていることは正しいヒタキ。気弱そうだが博識で、大胆な行動をすることもあるツグミ。
そして、認めたくないと思いながらも何時も視界の中に居る姉のアトリ。
それらはイスカの頭の中に絶対的存在として居座っていた母親の領域を徐々に削っていった。その隙間に彼女たちの存在が、記憶が、思い出が目立つようになる。
(なんで……なんでよ……なんでこんな時に……)
遠ざかる意識の中、最後にイスカが助けを求め、その姿を思い浮かべたのは母親ではなく、仲間たちだった。
まだイスカの中で母親の影響力はとてつもなく大きく、命令に逆らえるほどではない。それでも、無意識にイスカは悟っていたのだ。母親は決して自分を助けてくれはしないだろうという事実に。
イスカは荒れる気流の中、ゆっくりと目を閉じた。迫る青灰色の気配に気が付く事もなく、ただ眠るように意識を手放した。
◇
『いやーこれはなんとも、めんどーな事になったっスね~』
暴風雨の中でミサゴの後方を飛ぶヒタキが呆れたようにつぶやいた。その声はマスクの内側のマイクが拾い、雑音を含ませながらもミサゴのマスク内の小型スピーカーへと届けられる。
『完全に中層内に入り込んだと見て間違いない。ある程度は分かるようになってきたが、下層には戻れそうにないな』
『分かるようにって……はあ~。マジスか、さすが特級。成長速度ハンパないっス~』
『私の見立てではヒタキも既に特級レベルだぞ? こんな短期間に換羽するなど聞いたこともない』
『換羽についてはミサゴ先輩も同じじゃないっスかー』
特級であるミサゴは翼に違和感を感じながらも中層へ入り込んでしまった後、想像以上に中層という領域に抵抗し、順応していった。これまでの経験が殆ど役に立たない中層という環境でミサゴは国城より聞いていた彼の予測から、中層がどのような環境かをある程度想定し、最悪な可能性のみを回避するように飛んでいた。
故にミサゴの体は傷だらけで、翼においてもそれは同様。肌からは赤い血液が流れ落ち、凍って散っていくか蒸発して赤い霧になる。翼は血液の代わりに停滞結晶を砕いた時のような青い粒子が零れ落ち、抜け落ちた羽がミサゴの命そのもののようにさえ思えた。
だが、その状況でもミサゴはあきらめなかった。中層に入り込んで早々に意識を手放した中層突入チームのうち、二人を両手にぶら下げ、もう一人を脇に抱えたまま空を飛び、必死に安全地帯を探し中層を征く。
命のように散っていた羽は換羽の予兆であり、本来数日から数週間はかかる換羽をほんの数分で完了させた事でミサゴの飛び方は現状の中層に最適化された。ミサゴが先頭を飛び、風よけとなる事で後方のヒタキも何とかミサゴの後を追い、ついでとばかりにヒタキもこの数分程度の飛行時間で換羽を完了させてみせた。
それはこれまでのカザヨミ史において奇跡とも言える現象だった。いままで換羽はカザヨミの経験値の蓄積によって行われる、所謂レベルアップのような現象だと思われていた。だが、今回ミサゴとヒタキに起こった早すぎる換羽は、つまりはその定説を覆し"カザヨミの異常事態に反応し、対処する為に行われる現象"であると証明されたのだ。
実質カザヨミはあらゆる環境へ即座に適応し、自由に飛ぶ事が出来ると立証されたのだ。たとえそれがエーテルと呼ばれるエネルギーによって汚染された空間であっても。
しかしこれはあくまで才能のある上澄みのカザヨミが成せる奇跡的な現象であり、誰しもが適応出来るわけでは無い。それはこれまで停滞雲と雲海の犠牲になった夥しい数のカザヨミを見れば分かる事だ。
だが、都市管理部はそんな犠牲を考慮しないだろう。カザヨミを道具と見る者が多く、カザヨミがどのような死地で活動しているのかを知らないような者たちは。故にミサゴとヒタキは自身に起きた換羽について、国城以外には公言しないと決めた。防護服にはカザヨミが見聞きした情報を記録するための装置も付けられているが、中身を確認するのはカザヨミ管理部なので二人は隠すことなく雑談交じりにそれらの話をしていく。
『それより、このまま入口見つけるのに雲海を彷徨うのはなかなかにきついっスよー』
『そうだな……この子たちも休ませなくてはいけないしな』
『酸素はまだ大丈夫そうっス?』
『不幸中の幸いか、意識を失っているから余計な酸素を消費しなかったようだ。……私とヒタキの方が先に尽きそうだな……』
『まあ、それは仕方ないっスね~』
あはは、と笑うヒタキにミサゴは険しい顔をする。自身はともかく、ヒタキまでも同じように命の危機に曝されている事にミサゴは罪悪感のようなものを抱いているようだった。
もしも雲海が荒れ、中層と下層との境界が曖昧になったあの時、自身の判断が正しいものであったならばここまでの状況にはならなかったのではないか、と。
『あ、またミサゴ先輩難しい事考えてるっスね~ダメっスよ、頭使うと酸素消費するんスから、なーんも考えずに前飛んどきゃいいんスよ』
『ふ、ヒタキのそういう所にいつも助けられているよ』
『え? なんスかそのフラグみたいなセリフは、っス。ほら、さっさと休めそうな所見つけるっスよ!』
『わかったわかった』
ヒタキは両手で突入チームの一人を抱え、ミサゴの後をついていく。雲海の中で換羽を経験したヒタキであるが、エーテル感知能力などはミサゴほどに先鋭化しなかった。故にヒタキにはミサゴが見えている光景を共有する事が出来ないが、それでもミサゴを信じて付いていく。
ヒタキはこれまで何度もミサゴの後を付いて飛んでいた。今日もそれと同じだ。雲海の中であっても、チームメンバーを抱えていたとしても、何も変わらない。
ヒタキはミサゴを信じ、飛ぶだけ。
分厚く雲の中をかき分け、先の見えない薄雲を通り、体が裂傷にまみれ、凍結し、火傷を負おうとも、それは変わらない。その先に必ず道が開けているはずだから。
そうしてヒタキとミサゴは突入チーム全員と共に中層の逆灯台へと到達した。