ユナは基本的に空を飛ぶ事が役目であり、そこで手に入れた空や停滞雲に関する情報を精査するのはクラコの仕事だった。もちろんカザヨミとして空を飛ぶユナも基本的な知識は心得ているが、それはクラコには遠く及ばない。劣っているという訳ではなく、役割が違うと言った方がいいだろう。
クラコは空の情報に関して広く浅く集め、ユナは飛ぶルートに絞った狭く深い知識を得て、その二つを合わせることで安全を確保しているのだ。
そんなユナは数多の停滞雲を踏破し、雲海までも突入したほどの経験値を得ているが、降害の真っ只中に居るのは初めての事だった。クラコから降害の発生までの流れは教えてもらっていたものの、まさかこのような状況で降害に直面するとは考えてもいなかった。
そもそもとして降害の予兆を見たら逃げるように教えられていたユナには降害の中で生き残るための術など知るわけもなく、それでもこれ以外に帰還方法が無いのも事実であるため、ミサゴたちと共に灯台に必死にくっつく以外に無かった。
「すみません、これ以外に方法が分からなくて」
『いや、私たちではこの方法さえ採れなかったさ』
『安心してくださいっス。この下は荒れた山しかありませんから降害の被害は無いっスよ』
ミサゴとヒタキは中層突入メンバーを抱えたままという非常に不安定な体勢ではあるが、翼を器用に使って何とか灯台の側壁にしがみついていた。灯台の中に入る方が外に居るよりも危なくないように見えるが、そもそもこの灯台は地上へと落下する予定なので中に居る方が危険なのだ。
これよりユナたちはエーテル濃度の低下によって雲海が支えきれなくなった灯台と共に地上へと落下する。灯台は自重と共に分厚い雲海を切り裂き、ユナたちは雲海を抜け、灯台が地上に激突する寸前で離脱するという計画。
灯台を含めた多くの瓦礫が降り注ぐ中でタイミングを逃すことなく灯台から離れなければならない。早すぎると雲海に取り残され、遅すぎると灯台もろとも地上に激突する。
それでも、中層をさまようよりも全員が生き残る可能性は高い。徐々に灯台が落下をはじめ、灯台周辺の街並みも巻き込まれるように崩壊を始める。町全てが降害とならなかったのは、それだけ雲海が巨大であったからだろう。イルカの姿をした巨大停滞結晶も雲海全体から見れば大したことのない喪失であり、失ったエーテル濃度はその他の空間から絶えず供給されている。とはいえ供給されていても一度勢いのついた瓦礫の落下を止められるほどではなく、灯台だけは確実に落ちる。それはユナの両親が確定事項としてユナに伝えていた。
「っ! もうすぐです!」
『これはスリル満点のアトラクションになりそーっスね……!』
『この状況でそんな事を言えるのはお前の良いところだが、その子を離すなよ』
まだ気を失っている突入メンバーを再度強く掴んで固定した直後、灯台が大きく動く。落下速度はそこまでではなく、中層のエーテルによってスピードが殺されているらしい。それでも灯台は瓦礫もろとも下へと落ちていく。
「下層になるとスピードが上がります! 注意してください!」
『くっ……これは予想以上に……!』
灯台の陰に隠れているとはいえ、分厚い中層の雲中を突き進むのは非常に危険だ。何より今は降害が発生している最中なので周囲を瓦礫に囲まれているという危険すぎる環境。この環境では特級のミサゴでさえ必死に灯台にしがみつく以外に行動する事は難しい。
それでも、ミサゴは特級だ。それも、過去の為に雲海に立ち向かう事を望んだ歴戦の。
『ミサゴ先輩っ! 危ないっス!!』
必死にしがみついているしか出来ないミサゴへとヒタキの叫びが届く。不意にうつむいていた顔を上げれば、こちらに接近する巨大な瓦礫……いや、"家"の姿。エーテルの停滞によって落下スピードが落ちている灯台の側面に、家が容赦なく衝突した。
巻きあがるコンクリートや木材の破片が爆音と共に散り、家は灯台に食い込む。砂埃は一瞬のうちに落下の勢いで流され、そこにいたはずのミサゴの姿は何処にもなかった。
だが、そのすぐそばにはミサゴが抱えていたはずの突入メンバーがいた。ミサゴが身に着けていただろう防護服やツールを収納するためのロープやベルトがメンバーの防護服の金具に連結させてあり、灯台からむき出しになっていた鉄骨に結ばれていたのだ。
『ミサゴ先輩っ! 聞こえるっスか! 返事してくださいっス!』
『……ああ、聞こえるぞ、ヒタキ』
『! 何処にいるんスか! さっきの衝撃でどこかに飛ばされ──』
『いや、ここに居る……お前の姿も見える』
『え……』
ヒタキは先ほどまでミサゴが居た場所を見やる。そこには依然として家が突き刺さっている。外見は完全な廃墟にも関わらず、停滞による影響なのか落下しているとは思えないほどにすべてがその場に固定されていた。
玄関の前の鉢植えは倒れる事もなくそこに置かれたまま。ベランダに置かれた物干しざおも微動だにせず、大きな窓ガラスも割れることなくそこにあった。
そして窓ガラスの向こうで、頭から血を流して座り込むミサゴの姿。
『家の壁に穴が開いていたようでな。ちょうどその穴から中に入り込んでしまったようだ……運がよかったよ』
『早く脱出してくださいっス!! もう下層に入りまス!!』
『いや、これは無理そうだ』
弱々しくミサゴが家の外へと手を伸ばすが、その手は透明なガラスに阻まれる。
『っ! 逃げてくださいっ!!』
ヒタキの叫びと共に人ひとり分ほどの瓦礫の塊が家へと接近し、ミサゴが手を伸ばしている窓ガラスへと接近する。だが、ガラスは割れる事無く鈍い音を立てて瓦礫を弾き返してしまう。
『!?』
『"停滞"によって威力が伝わっていない上にエーテル化したガラスか……これの破壊は難しそうだな……』
血に濡れたミサゴの指先がガラスをなぞり、跡を残す。とめどなく頭部より流れる血液がミサゴの服を汚し、翼までも赤く染めていく。
だが、目だけは決して濁ることなく、ヒタキに向けられていた。
『行け、ヒタキ。誰も死なせるなよ』
『ならっ! ミサゴ先輩だって死なせないっスよお!!』
既に灯台は中層を脱して下層を突き進んでいる。灯台の落下スピードは上昇しているが、それでも下層を抜けるにはまだ数分はかかる。
けれどもたった数分だ。どれだけガラスを破壊しようと殴りつけてもエーテル化しているため衝撃が停滞してびくともしない。壁や屋根に穴が開いていないかと見渡してもそのようなものはなく、ミサゴは完全に家という牢獄に囚われた状況だ。
『もう時間が無い。早くそいつらを連れて離脱しろっ!』
『そんなの……!』
民家に用いられている薄く脆いガラスはカザヨミの膂力をもってしても破壊することはできず、徐々に落下スピードを増す灯台の勢いは地上との衝突まで僅かであることを知らせる。
それでもヒタキは灯台から……ミサゴのそばから離れられない。
いつも追いかけていた背中。いつか超えたいと思っていた尊敬する先輩。それを、目の前で失ってしまうかもしれないという恐怖がヒタキの精神を激しく揺さぶる。とてもじゃないが飛べるような精神状態ではない。
そこへ優しく声をかける幼いカザヨミ。
「ヒタキさん、すぐに離脱できる準備をしてください」
『! 先輩がまだ!』
「大丈夫です」
焦るヒタキと達観の表情をもってヒタキを見つめるミサゴ。二人がユナを見上げ、そしてユナは懐かし気な眼差しで家を見上げた。
「一緒に帰りましょう。ツグミお姉ちゃんにも、そう約束してきました」
◇
既に聞こえなくなったはずの母親の心配そうな声が聞こえてきそうだと、ユナは自嘲気味に笑む。落下中でありながらも灯台の側壁に対し垂直に立つユナはそのまま歩いて灯台に突き刺さっている家の玄関の前に立った。
ドアノブに触れてみるが、ドアが開く気配はない。ユナはふむ、と何か納得したようにうなずき、視線を下に移す。
「……ダメですか。そう、ですよね。出かけるときはちゃんとカギをかけないと」
ユナは玄関の前に置いてある鉢植えをどかし、その下に隠してある鍵を手に取った。
「もう、お母さんに怒られたのに、まだ此処に隠してたんですね……お父さん」
鍵をドアのカギ穴へと差し込み、多少の抵抗を感じながらもユナは時計回りにひねる。カチャリ、という軽い金属音と共にドアは開かれた。家の内部は鉢植え同様、落下中とは思えないほどに整っていた。玄関内に飾られている置物は転がる事もなくその場に静止し、壁にかけられた時計やカレンダーも同様だ。
「! うっ、」
しかし家そのものが落下している事に変わりはない。既に下層の中でも比較的地面に近い場所まで灯台が落下し始めている。家の中で析出していた不純停滞結晶が空気に溶け始め、停滞の特性が弱まった事で家の中の雑貨が緩やかに動き始める。思わずユナもバランスを崩すが、それでもわずかに声を漏らすだけ。
両親と過ごした数秒という一日が、ユナに生家の間取りを記憶させた。
玄関から廊下を通り、その間にお風呂場やトイレ、ユナの部屋、両親の部屋があり、一番奥にリビング。ユナはエーテルが薄くなり、家具や雑貨が転がる狭い廊下を、翼を収納し歩いていた。
どれだけ廃墟の様相を晒していたとしても、そこはユナが生まれた家であり、あの一日はかけがえのない思い出となった。今でもその思いはユナの中にしっかりと記憶されており、横切るどの部屋も真新しい懐かしさを内包している。
けれどユナは足を止めることはしない。既に両親との別れは済ませ、クラコのもとへ帰る事を決めた。ならばこの家は既に自身の執着するべき場所ではなく、ただの廃墟に過ぎない。
「ミサゴさんっ!」
『ユナ……すまない』
「大丈夫ですか? 掴まってください、脱出します」
『ああ……』
リビングで窓に寄りかかるようにして倒れているミサゴを抱き上げそのまま戻ろうとするユナだが、既に廊下は巨大な家具によって塞がれていた。家具どころか、エーテル濃度の低下によって家自体が崩壊しようとしており、廊下そのものが押しつぶされているため脱出する道そのものが無くなっている。
「っ……動かない……」
『エーテルによる停滞か』
カザヨミの力を用いてどれだけ瓦礫を動かそうとしてもエーテルの特性によって瓦礫の動きが停滞し、まともに動かすことは出来ない。ガラスはもちろん壁もエーテル化しているせいで破壊するのは難しい。できたとしても、時間が足りない。灯台の落下速度は徐々に地上と同等の速度に近づき、もうすぐ雲海そのものから脱しようかというタイミングに差し掛かっていた。
一刻も早くここから脱出し、灯台から離れなければならない。しかし、その手立てをユナは持ち合わせておらず、ミサゴは朦朧とする意識の中で弱々しく言葉を紡ぐ。
『ユナ……すまない、巻き込んだな』
「謝らないでください……私が、自分で来たんです」
リビングに飾られていたあらゆるものが揺れ落ち、倒れ、散乱していく。その中でミサゴとユナはエーテル化したガラスの前で立ち尽くす以外になかった。もはや帰還は絶望的だとユナが膝を折ろうとした瞬間、足元に何かが転がってきた。
「……これ、お父さんとお母さん……」
それは素朴な木製の写真立てだった。飾られているのは、明るい朗らかな天気の中で家をバックにして両親と青灰色の髪をした子どもたちが写された写真。写真立てを持ち上げたユナは手に僅かな違和感を抱いた。雲海に飲まれたせいなのか、フチに僅かばかり停滞結晶が析出していたのだ。
「この結晶……」
『純停滞結晶か……よくよく見ればそこらかしこに析出しているようだな』
両親と過ごしていた時は幻に囚われ、それ以外では廃墟をまじまじと見るタイミングなどなかったので気にも留めなかったが、周囲の廃墟は例外なく停滞結晶が析出していた。雲海を抜けようかという高度にも関わらず形象崩壊せずに形を保っている結晶たちは、全て純粋な停滞結晶なのだろう。
エーテルによる停滞の特性はほぼ失われ、周囲は明るくなり始める。分厚い雲海の雲を抜けようとしているのだ。落下速度はもはや通常のそれと変わらず、ユナとクラコは気持ち悪い浮遊感を感じる。カザヨミとして訓練をしてきたミサゴや、常に空を飛んでいるユナに取ってはそれらの感覚は珍しいものではないが、この状況においてはその感覚は死を明確に感じる要素である事は間違いない。
(……あれ? これ……)
ユナが写真立ての中の両親を指先で優しくなぞると、写真立てからポロリと一かけらの結晶が零れ落ち、ユナの手のひらに収まった。それはまるで小さな結晶となったイルカたちが意思をもってユナの両手に収まった光景を想起させた。
その瞬間、ユナは手に収まった停滞結晶を見てクラコとの日々を思い出す。さながら走馬灯のように駆け巡る記憶の数々の中で、ユナはクラコと共に学んだエーテルと停滞結晶の特性について思い起こした。
空を飛ぶのが役目だとばかりに狭く深い知識だけを学んでいたユナを窘めるように膝に座らせ、エーテルの特性や性質に関する知識を丁寧に教えていったクラコ。
ユナはそんなクラコに疑問を投げかけた。空を飛ぶ自分に、このようなエーテルの専門的な知識が必要なの? と。
それに対してクラコは笑顔で「もちろん」と頷いた。
ユナは狭く深い知識を学び、クラコは広く浅い知識をため込んだ。
そして、重要なのはその二つを合わせる事。クラコはユナに、ユナはクラコへ互いの知識を共有し合い、そうして安全な空の道を形作った。ユナは狭く深い知識を持っている。だが、それは決してそれ以外に知識に疎いというわけではない。
ただ、単純に経験としての知識がなかったにすぎないのだ。
ユナはクラコから与えられた知識を持って、現状の打開方法を模索し……そして実行した。
「ミサゴさんっ! 窓から離れてくださいっ!」
『何を、するつもりだ……?』
ユナは手のひらに落ちた純停滞結晶をそのまま窓ガラスへと押し付けた。小さな結晶はガラスに傷をつけるほどの威力もなく、ミサゴはユナが何をしているのか分からなかった。
というのも、ユナの行動は都市でカザヨミたちが習う授業には含まれていない、エーテルの特性についての知識によるものだからだ。
エーテルの結晶体である停滞結晶は空気中に存在するエーテルよりも濃い特性を有し、それによって周囲のエーテルを強く誘引している。それは大きさや純度によって、よりさらに高まり、より純度や濃度の高いものほど下位のエーテル物質を誘引させる。
ユナは手に持った純停滞結晶とエーテル化物質であるガラスを接触させた。それによりガラスの表面を覆っていたエーテルを結晶へと誘引させ"停滞"の特性を弱まらせた。ガラスそのもののエーテル化はどうすることも出来ないが、衝撃が伝わらない原因である停滞の特性を取り除きさえすれば、エーテル化していても脆いガラス製品を破壊する事はカザヨミにはそれほど難しくはない。
空を飛ぶカザヨミには本来必要のない知識、
エーテル化物質がそもそも脆いガラスだった事、自然発生したエーテル化現象だったため人工的に生成されたエーテル化物質と比べて組成が不安定だった事、用いた結晶が通常の結晶よりも純度の高い純停滞結晶だった事。
それらの要因が奇跡的に重なった結果、結晶を押し付けていたユナの手を中心としてガラスに放射状のヒビが走る。
『な!?』
「ミサゴさん、飛ぶ準備を!」
そのまま勢いよくユナがガラスに触れていた手を振り切れば、エーテル化していたガラスはいとも簡単に砕け散った。散乱するガラス片をものともせず、翼を広げたユナは同じく翼を発現させたミサゴの手を取り、エアリングによって静止状態から一気に加速。
『ぐっ……!』
今まで経験したことのない瞬時加速に思わず声が漏れるミサゴだが、ユナの手を離すことなく飛び立つ事に成功する。家を抜けた先の空は大地に反射した光が雲海の下部をおぼろげに照らし、山々の輪郭を映し出していた。
「もう雲を抜けてる……! 急ぎます!」
雲海を脱し、比叡の山間を降下する灯台は本来の落下速度を取り戻し一気に地面へと落ちていく。ユナとミサゴは灯台から離脱し、大きく翼を広げて何とか落下速度を落とそうとする。
「ミサゴさんっ! 掴まって、こっちに!」
『だがそれでは君が!』
翼を広げて速度を落とそうとするが周囲の瓦礫は容赦なく落ちてくる為、広げた翼ぶん被弾する面積が増加する。それでもユナは翼を広げ続け、その陰にミサゴを隠して瓦礫から守る。
「大丈夫ですっ! さっき"見ました"から!」
だが、ユナの大きく広げた翼に瓦礫が衝突する事はなかった。多少の細々した破片がぶつかる事はあったが、それらにユナの飛行を阻害するほどの力はなかった。雨あられと降り注ぐ瓦礫の中を縫うように飛行するユナの目に迷いはなく、次にどのルートを通れば最も安全を確保出来るのかが見えているとしか思えないほどの飛び方だった。
(こんな、こんな飛び方が可能なのか! これがハヤブサ……これが、彼女の……)
エーテルを視認できるミサゴにはユナがエーテルの濃淡やエーテル化した瓦礫の位置と落下速度を感覚で把握し、それを基に飛行ルートを設定しているのが理解出来た。だが、その速度が尋常ではない。
落下する瓦礫はそれそのものがエーテル化し、僅かな停滞の特性を帯びている。それが落下速度に微妙なバラツキをもたらし、さらには空間に広がるエーテルの濃い領域の有無によってさらに動きは複雑化している。
ユナはそれらの情報を即座に把握し、予測したうえで安全な飛行ルートを見つけ出しているのだ。エーテル関連だけでなく、瓦礫の大きさや形状による落下時の動きや、空間を流れる気流や地上の地形など、さらには連れているミサゴの存在も考慮しなければ全く瓦礫に接触せずに飛行するなんて芸当は不可能だろう。
ユナに連れられユナと同じ光景を見ているミサゴでさえ、目の前に提示された瓦礫やエーテルといった情報を、それらが落下するまでの間に処理して飛行ルートを設定するなんて事は不可能だと思えた。
少なくとも初見でこの状況に放り出された場合ユナと同じような事は出来ないだろう。ミサゴには、まだそこまでの力は無い。
「ミサゴさん! もうすぐ範囲から出ます!」
『! 分かった!』
降害の発生地点から離れるように飛行していたユナの声に応えミサゴはユナから離れ自力飛行へと移る。まだ多少の瓦礫が降ってはいるが、先ほどと比べればそれらを避けるのは難しくない。
降害発生地からの離脱と共にエーテルの影響下から脱出したミサゴは近づいてくるカザヨミの姿を確認し、ようやく安堵する。
「ミサゴ先輩っ!」
『ヒタキ、其方は無事か?』
「灯台から離れてたんで全員無事っス! さすがに全員抱えながら空を飛ぶのは難しかったんで近くのトンネルで避難してたんスけど……通信危機が全滅しててまだ先生に連絡つかない状態っス」
重苦しいマスクやボンベを脱ぎ捨て身軽になったヒタキはミサゴの無事を確認し、疲れたように笑顔を見せる。とはいえここは雲海の直下であるため気を緩める事は出来ない。すぐさま意識のないメンバーを抱えて雲海を離脱するか、観測所まで帰還しなければならないと語るが、対してミサゴはそこまで焦ってはいないようだった。
『それなら問題ないだろう。雲海で突然降害が発生したとなれば先生が無視するはずもない……おっと、噂をすればだ』
ミサゴの言葉通り国城はヒエイの山々に設置されたカメラや地震計から降害の発生を確認。その規模の大きさから明確な異常であると判断し、観測所に残されていたカザヨミを降害の発生地域周辺まで急行させていた。
国城が送ったカザヨミは元々イスカを連れ戻すために雲海へ突入予定だったカザヨミたちであり、その実力ならば雲海外の空などたやすく踏破出来る。降害が発生してからそれほど時間が経っていないにも関わらず調査の為に赴いたカザヨミたちはすぐにミサゴたちと合流する事に成功した。
「大丈夫ですかミサゴさん。こちらに」
『ああ……先生は私たちが此処にいると言っていたのか?』
「いえ。ですがその可能性は高いとおっしゃっておられました」
やってきたカザヨミはキョウトのカザヨミを含め、物資輸送などでも活躍しているカザヨミたちばかりだった。彼女たちはミサゴたちと合流した事にあまり驚いた様子は見せず、意識のないメンバーと疲労困憊なミサゴとヒタキを軽々抱えてしまう。
おそらくは国城がこのカザヨミたちをあえて選んで急行させたのだろう。降害にまぎれて雲海を脱出するという、普通ならば想像もつかないような方法を用いると国城が判断し、物資輸送の経験の多いカザヨミたちなら負傷者を搬送できると考えて。
「……ハヤブサ様も、どうかご同行頂けますか?」
「……んー?」
降害の調査、もといミサゴたちの救助に来たカザヨミの一人が慎重に言葉を選びユナへと語り掛ける。彼女だけではない。ミサゴやヒタキを抱えているカザヨミや意識のないメンバーを横抱きにしているカザヨミ、彼女たちの補助として同伴しているカザヨミたち、その誰もが目の前にいる幼いカザヨミ、ユナへと視線を向けていた。
彼女たちもユナの存在は国城から少し聞かされてはいた。もしも降害を利用してミサゴたちが雲海を脱するならば、そこにハヤブサの姿もあるだろうと。だから心の準備もしていたはずだった。場合によってはミサゴたち同様にボロボロになっているであろうハヤブサの搬送も行う事になるかと考えていた彼女たちは目の前のハヤブサたるユナの姿を見て、初めて相対したミサゴたち同様に、息をのむ。
「んー……ごめんなさい。今日はもう帰らなくちゃ、クラコさんが心配するから」
ユナの肌は雲海を突破したとは思えないほどに美しい。怪我を負うような事故を軽々回避し、微細な瓦礫の破片による傷はすぐさま再生され残らない。日頃より丁寧に羽繕いされた翼は過酷な環境を飛んだ後とは思えないほどに艶やかに整っていた。
それはユナのカザヨミとしての能力と経験値によるところが大きいが、それに加えてユナをサポートしている人物がとても優秀であることを示している。カザヨミとの接し方を熟知し、少女個人との接し方も心得ているそんな人物。
それ故に国城はユナと遭遇した場合どのように対処すべきか決めかねていた。相手が優秀なカザヨミだけならば保護すればいい。ややこしい背景を抱えていたとしても、カザヨミ管理部として保護したならばそこまで酷い扱いはされない。何より国城がそれを許さない。
だが、相手がカザヨミだけでなく、そのサポートをしている人間と共に行動し、既に整えられた生活環境に身を置いているのならばそこからカザヨミを引き離すのは決して幸せな結果を生むとは限らない。
BWに投稿されている動画の内容やクラコとの会話で彼女たちが都市にそこまで執着していないと察した国城は都市への勧誘を止め、過度に干渉しない事と決め、そのように救助に向かうカザヨミ達にも言い含めていた。
「……そう、ですか。分かりました。……雲海の影響範囲外までお送りします」
だからユナに声をかけたカザヨミはユナのやんわりとした拒絶にあっさりと引き下がった。もしも此処に都市管理部の息のかかったカザヨミが居たならば無理やりにでもユナを都市へと連れて行こうと画策しただろうが、そうならないように国城はしっかりと人を選んでいたようだ。
「ううん、大丈夫です! じゃあもう行きますね。ミサゴお姉ちゃん、ヒタキお姉ちゃんばいばい。ツグミお姉ちゃんによろしくね」
そう言ってユナは翼を広げて一気に加速。瞬きをした後には既に遠くで青灰色の光が線を残すのみだった。
『ふふ、振られたな』
「……よしてくださいよミサゴさん。彼女、とんでもないプレッシャーでしたよ」
彼女と会話をしていたハヤブサは緊張で強張ったまま息を吐き出し揶揄うミサゴに抗議の視線を向ける。幼いながらも歴戦のカザヨミのごとき眼光でこちらをうかがっていたユナの姿は特級レベルの威圧感があった。
ユナが攻撃的に見えたとか、こちらを威嚇するようなそぶりを見せたわけではないが、エーテルを視認できるその瞳がカザヨミたち一人ひとりをくまなく観察する際の視線は何もかも見通しているかのように思え、それがプレッシャーのように感じたのだろう。
「無理やり連れていくなんて言ったら会話さえできずに逃げられていたでしょうね」
別のカザヨミが同意を示し、ユナの消えていった空の向こうを見つめ続ける。同じカザヨミとしてユナの在り方はマネできるものではなく、故にある種の憧れさえも抱いていた。それは都市に住まう上位のカザヨミたち全員に言える事だ。
「まあ今後も顔を合わせる事になるとおもうっスよ。……それよりお腹すいたっス。早く帰りましょうっス」
『まったく、相変わらずだなヒタキは……しかし、そうだな。帰ろう』
ミサゴの言葉でカザヨミたちはすぐさま雲海観測所へと帰る準備を始めた。今回の雲海調査計画はあまりにも予想外な出来事が大きく、最悪の場合一級複数名に加え特級のミサゴさえも失うかもしれないほどに計画が崩れていた。
それでも、誰も失うことなく計画は完遂された。当初の予定とは大きく異なるものの、オウミのカザヨミは中層に突入し、そして数多くの情報を持ち帰り帰還した。
それは都市管理部が得意とするいくつもの偏向と拡大解釈をもって都市内外へと報道されるだろう。
しかし、それはミサゴたちにはどうでもいい事だ。誰一人失う事もなく帰ってこれた。それだけで今は十分だった。
遠くに消えたハヤブサ……ユナの姿を未だ視界に収めようと空に視線を向ける救助に参加したとあるカザヨミは、自身の心臓が今まで以上に速く脈動している事に気が付かなかった。無意識に早くなる動悸と呼吸の乱れは彼女のカザヨミとしての能力を著しく削り取る。
それでも、そこまでしてでも消えていったユナの姿を信じられないとばかりに目を見開き空を見る。
いや、そもそも空など見ていないのかもしれない。かつての古い記憶の奥にある、決して思い出したくない"誰か"を探しているかのように。
「なんで……なんで……!」
彼女は吐き出すように言葉を紡ぎ、頭を振る。酷い頭痛に頭を抱える彼女は、まだ現実を受け止められない。
受け入れられるわけがなかった。自分の、忘れたい罪の証のような存在が生きていたのだから。
(なんで……だって、
突然現れたユナの存在、それは彼女……嶺渡アトリが心の奥に閉じ込めていた記憶を想起させるには十分すぎる存在だった。