地上の荒れ果てた集合住宅の廃墟。その一室は電気と水道は未だ生きており、この世界において高水準と言える生活環境が揃っていた。
とはいえこれらの環境は唯一の住民であるクラコが必死になって整備したおかげであり、現在はユナの手も借りて定期的なメンテナンスを実施する事で快適な環境が維持されている。
そんな一室の、ユナとクラコが最も長い時間を過ごすリビングは現在山と積まれたカザヨミ関連の書籍や資料と、数台の情報端末。殴り書きされたメモ用紙が乱雑に置かれた異様すぎる空間へと変貌していた。
部屋の中心で情報端末と夫婦結晶の片割れより映し出される映像に集中しているクラコは時折片手でメモを取り、もう片方で情報端末を操作するという行動を数時間は続けている。
机の上の空いたスペースには栄養ドリンクの小さな空き瓶が数本と、後から栄養ドリンクの飲み過ぎは健康的にも金銭的にも危ないと気付いてコーヒーに切り替えた形跡として空のマグカップが置かれていた。
「ん~……思ったよりも都市の下級のレベルが低い……のかしら?」
ユナのピアスから送られてくる映像を覗き込み、クラコは思わず疑問を口にする。クラコの見る映像には下級が必死にホバリングしている様子が映っているが、ほとんどの下級は最近空を飛び始めたのだろうか? と思わずにはいられないほどのお粗末さだった。
ユナが例外であることはクラコも承知しているが、一級のセキレイは言わずもがな、三級の瀬黒と同格と言えるような下級さえぽつぽつとしかみられず、例え瀬黒が例外であったとしても同じ三級のカザヨミでも実力に大きな差があるのだとクラコは感じた。
「これじゃあ飛行隊を組んでも意味がなさそうな……そのための合同訓練という事なのかしら」
合同訓練におけるカザヨミの技術向上という目的はクラコにとってはそこまで重要ではない。都市のカザヨミがどれだけ力を付けようと都市外に住むユナとクラコには関係のない話だからだ。
なのでクラコは早々に下級のカザヨミから視線を外し、楽し気に交流を深めているユナたちを見る。
「ふふ、瀬黒さんもセキレイさんもいい子たちね。流石ツグミちゃんたちの後輩。……いえ、瀬黒さんは先輩だったわね」
クラコがユナを合同訓練に参加させた目的は同世代のカザヨミの友人を作ることだ。クラコや店長は保護者の枠から出られず、ツグミたちは先輩としての面が強い。対して瀬黒やセキレイの距離感はどうやらユナとしても心地よく感じるらしい。徐々に口調が柔らかくなり敬語も外れ、受け答えも難なくこなすくらいには打ち解けてきたようだ。
「それにしても……思ったよりも静かね、嶺渡の妹は」
送られてくる映像の隅にちらりと映り込むのは今や世界的な有名人である嶺渡姉妹の妹イスカだ。イスカとユナの確執をクラコはよくよく知っており、だからこそ今回の合同訓練において最も懸念していた事項でもある。
ユナが全く意識していない事や、何かあれば監督係であるミサゴとヒタキが助けに入るという話なので多少安心していたクラコだが、実際に再会すればどうなるのか分からない。
そう考えていたクラコだったが実際のユナとイスカは会話するどころか対面することも無く、チームも分かれたので映像から見える範囲にイスカが近づく事すらなかった。
「まあいいんだけどね……」
イスカからのリアクションが無いのならばそれでいい。ユナはとっくに過去の出来事を文字通り過去のものとしているし、それならばクラコも不満は無い。謝罪を求める事も、厳しく糾弾するつもりも無い。けれどクラコは心を許した訳では無い。
あれほどまでにユナを痛めつけ、挙句に置き去りとした嶺渡の者たち。関わらずにいられるのならばそれが一番だと考えていた。
「けど、それもユナ次第ね」
彼女らがした仕打ちはユナ本人が一番よく、それこそ痛いほど理解しているはずだ。そんなユナが彼女たちが昇級した知らせを聞いてその努力を認めるような発言をした事はクラコを大いに驚かせた。ユナの言葉が本心からのものならば、もしかしたらユナは嶺渡の姉妹との関係改善を望んでいるのかもしれない。
「ユナは大人ね……」
ユナと嶺渡との関係ほどでなくても苦手な存在とわざわざ仲良くなろうという意識を持っている人間はそれほど多くない。降害によって荒廃した世界では助け合いが重要とはいえ、それが許容されるのは馴染み深い関係に限られる。致命的なまでに悪化した関係性をわざわざ修復するよりも切り捨てる方がよほど楽なのだ。
しかし、ユナは楽だからという理由で人と人との繋がりを断ち切るつもりは無いらしい。
容易く命が圧壊するこの世界でその考えは尊く稀有なものだ。それがユナをユナ足らしめている彼女だけの精神なのかもしれない。
「さて。私もやることやりますか」
ホバリング訓練を終えたユナたちが楽し気にチームメンバーと談笑している光景を横目にクラコは端末を操作し、訓練内容を詳細にメモしていく。今後のユナの飛行訓訓練の参考になる、貴重な時間を一秒たりとも逃さないとばかりにクラコの手はその後も止まることはなかった。
◇
クラコが大量の書籍と資料に埋もれ、不健康な生活を続けているなど露も知らぬユナは空の上で翼を大きく広げ、湖の光景をじっと見つめている。
「ユナちゃーん、次の訓練始めるって」
「次……ソアリング訓練」
「ソアリングですか……湖の上を通るのでしたよね?」
「そうそう。これ指定されたルート表ね」
「……思ったよりも長いですね。湖の端から端まで飛ぶのですか」
「時間はたっぷりある……お昼まだだからスタミナ勝負……」
合同訓練の午前最後の訓練はソアリングの基礎訓練となっている。早朝の基礎座学が二時間程度、ホバリング訓練が一時間程度、その後に始まるソアリング訓練が終われば昼食なのだが、それはつまりこれから昼食までのまとまった時間を全てソアリングの訓練に充てるという事だ。
空の上に居たユナへ飛び寄った瀬黒とセキレイは次の訓練に関して話し合いを始める。瀬黒がユナに見せた携帯端末には湖周辺の地図が表示されており、そこに訓練用の空路が重なるようにして表示されている。
「私達……、ええと"瀬黒チーム"は湖北訓練用空路Aを用いてオウミ都市方面へと南下、その途中に見える調査対象物011番を折り返してチクブへと帰る……っていう感じだね」
湖上に細かく設定されている訓練用空路の中でもオウミ都市へと帰還する際に多用される空路A、その途中には降害によってもたらされた廃墟がいくつも湖に突き刺さっているが、その中でも高層ビルの廃墟である調査対象物011番は湖に存在する降害廃墟の中でも有数の巨大さと危険性を誇っている。オウミの都市が過去に調査を実施した11番目の廃墟であるこの高層ビルは当然だがメンテナンスなどされるはずもなく、風化が進む一方。そのため窓ガラスや外壁が剥がれ小さな崩壊が頻発し、いつ本格的に倒壊してもおかしくない。
けれどもその巨体は遠方からも容易に見つけられやすく、訓練中のカザヨミが空で迷子になった時は11番を見つけろと指導されているほどだ。
「あれ? 他にも何か書いてありますね」
「指示ルートと制限時間、その他諸々のルールみたいだね」
携帯端末に表示されている情報は瀬黒の説明したルートを通るようにと指示されているだけでなく指定ルートを飛行する前に準備時間が一時間ほど設けられていることと、指定ルートを渡り切るまでの制限時間など時間に関する指示内容が記載されていた。その他にも空路Aから011番へ向かう際の空路Aからの離脱ポイントの設定やルートを折り返す際に監督係への連絡を入れる、帰還後のルート環境の報告などの細かなルールが書き記されていた。
流れとしては全チームがまとまって訓練を開始し、そこから一時間が準備時間。準備時間後にすぐさま空へ上がる。制限時間はどのチームも同じらしく、どのチームが最も早く帰ってくるのかも見るらしい。そして帰還後に監督係に報告。飛行ルートに関する内容報告で訓練は終了となる。
「特に障害物も無い……停滞雲も無い高度……常用空路を使うよりも簡単……」
「簡単って言えるのはセキレイちゃんくらいだと思うよ……」
「私も何度か通ったことがある空路ですね……でも、制限時間と……準備時間ですか?」
オウミ周辺の空路を飛び慣れた瀬黒に、一級のセキレイ。雲海さえ飛べるユナの三名にとって指示された空路の飛行はそこまで難しい訳では無い。はっきりと言うのならば、楽勝の域である。
とはいえ瀬黒チームに課されたルートは他の下級チームにとっては非常に難易度の高いルートだ。なにせルート上の何処にも休憩できるような場所が見当たらず、一度チクブから飛び立てば帰って来るまで飛行し続けなければならない。そんな長距離を飛行するには気流に乗って飛ぶソアリング技術が必須。他のチームがソアリングが出来るかどうかの確認的な飛行ルートを指示されているのに対し瀬黒のチームはソアリング前提のルートを指示された訳だ。
だがそのことに瀬黒たちは特に思うところは無い。他のチームがどのようなルートを指示されたのか知らないというのもあるだろうが、彼女らはしっかりと覚悟を持って空を飛んでおり、そのための訓練を積んでいる。
カザヨミというものはエーテルによる災害に対して都市が運用できる唯一の戦力であり何時何処を飛ぶのかを選んでいられない事態も想定される。降害直後だろうと停滞雲だろうと、雲海の未踏破領域だろうと命じられれば飛ぶしかない。
昨今は先生の尽力によってカザヨミを使い潰すだけの無茶な飛行計画が実施されたことは無いが、それでもカザヨミは不測の事態に備え、覚悟しておかなければならないのだ。
そんな分かり切った事よりもユナが気になっているのは飛行前に準備時間なる項目が挿入されているところだった。
「みれー……前の合同訓練にもあった?」
「うーん……無かった、かなァ? そもそもこんな長距離のソアリング訓練が無かった気がするんだよね。ホバリングと一緒で島の周辺を軽く飛んだくらいだったと思う」
「……実践形式、のようなものでしょうか?」
「あ、確かに。都市周辺の警邏とか降害の被災状況確認の時は基本的に飛び続けるし、最後に報告書も出すっけ」
通常業務の一つである都市周辺の警邏に関してはそこまで詳細な報告書は必要とされておらず、報告書に一言"異常なし"と書き記すだけでいい。だが、過去にミサゴたち第十七飛行隊が降害後のオウミとキョウトを繋ぐ空路の確認を行った時のような、非常時の調査においては精密な報告書の提出が義務付けられている。
指示されたルートの距離や求められている報告内容を考慮すると今回のソアリング訓練は一般的な業務と非常時調査の中間あたりの位置付けのように思われた。
「どうしましょう瀬黒先輩」
「準備時間と言われても……何すればいいのか分からない……」
「うーん、そうだなァ……でも、この準備時間……」
瀬黒チームの三名は雑談を交えながらソアリング訓練について話を進めていく。訓練内容はソアリングの技術だけでなくその前後でカザヨミとして必要な事務仕事的な部分までも含まれており、ただの下級には中々難しい内容だ。まあ、だからこそ訓練するわけだが。
そんな事を考えていたユナたちと同じように合同訓練に参加しているカザヨミたちが訓練開始場所へ徐々に集まってきた。上級のカザヨミも現れ、どうやら午前中最後の訓練が始まる時間らしい。
「っと、もうそろそろ始まるみたいだね」
「む……まだ準備時間に何をするか考えてない……」
「それも含めての準備時間なのかもしれませんね」
港に集まった下級カザヨミたちは皆どこか疲れた表情をしている。訓練が始まってまだ数時間、それも基礎的な内容の復習しか行っていないが、それでも精神と体力を酷く消耗している。それが都市に所属する下級カザヨミの現状らしかった。
だが、その中でもイスカやツグミは涼しい顔をしており、チームメンバーを気にかけている様子さえ見られる。
「あっ、」
「どうしたユナ……?」
「あ、いえ……何でもありません」
そこで初めてユナは周囲のカザヨミたちの様子を見た。チームメンバーとの交流に集中していたという事もあるが、初めての環境と初めての本格的な訓練はユナから無意識に余裕を奪っていたのだろう。ようやく瀬黒、セキレイと雑談出来るまでの余裕が出てきた事で周囲の状況を改めて観察出来るまでに落ち着いてきた。
そして、そこでユナは嶺渡の妹イスカを見つけた。たった一瞬、目が合っただけ。イスカが慌てたように視線を外した事にユナはどこか残念そうな声を漏らし、僅かに眉を下げる。その後もイスカをちらりと覗き見るユナだが、その後イスカがユナへと視線を向けることは無かった。
「さて、それじゃあ私達も行こうか」
「うん。みれーの先導。頼もしすぎる」
「過度に期待しないで欲しいんだけどねー……ユナちゃん?」
「は、はい! 今行きます!」
監督係である上級の号令によってソアリング訓練が始まった。まずは準備時間としてこれから一時間カザヨミたちは思い思いに"準備"を始める事になる……が。
「一体何を準備すればいーってワケ?」
「まじだる……腹減ったしよぉ」
「休憩でしょ? 羽を休めて飛ぶための準備をするって事でしょ」
周囲のカザヨミは疲労と困惑からその場に留まりチームメンバーと相談を始める……ように見えて実際は愚痴を言い合っているだけでそこまで建設的な話はされていない。
とはいえこの状況なら仕方ない事だ。上級も準備時間に関してはあえて詳細に説明は省いている。飛ぶ準備として休憩を選択しているチームもあれば端末に表示された指示ルートを確認したり、ホバリングの復習やソアリングの予習をしているチームもある。
つまりは、この互いにコミュニケーションを取りながらソアリング飛行訓練をどのように挑むかと話し合う状況。これこそが上級カザヨミが望んでいた状況なのではないだろうか。
座学では全員が同じ問題を解き、その場に留まるホバリング訓練では周囲のメンバーと会話をしながら訓練を行った。そしてソアリング訓練では、よほど慣れていないと飛行中に会話する事は困難だと判断され、準備時間が設けられたという事だろう。
「あの、瀬黒先輩」
「ん? どしたのユナちゃん」
「準備時間って、準備をする時間なんですよね?」
「ま、まあそうだね。……その準備が何をすればいいのかよくわかんないけどね」
「なら、してみたい事があるのですけど」
そう言ってユナの提案した準備時間の使い方は瀬黒を驚かせ、セキレイに感心されるような内容だった。僅かに口角を上げ、クラコにするような悪戯っ子の顔で微笑むユナは呆れるようにキラリと光ったピアスの瞬きも気にする事無く、楽し気に翼を動かすのだった。