もはやオウミ都市の代表と言ってもいい立ち位置にいる嶺渡の母親、嶺渡シトはアトリの代わりとしてイスカに雲海へと向かうよう命じた。理由は単純なもので、新たに発見された雲海廃墟の調査の為だった。
現在人類が唯一拠点として開拓した雲海廃墟である逆灯台、そこは多くのカザヨミと多くの都市によって管理、運営されており、それはつまり多くの都市が逆灯台で生まれる利益を享受しているに他ならない。
シト、あるいはその背後に居る都市管理部はその状況が気にくわないらしい。地上に落ちてきた灯台とそれに付随する停滞結晶をほぼ独占しただけでは満足せず、次に灰色ホテルの資源を独占すべく探索を強行したのだ。
既に各都市のカザヨミ管理部によって不法な雲海への侵入が制限され、ユナの配信によって危険性が周知された現状、無理やり灰色ホテルへと侵入するような無謀なカザヨミはほとんどいなかった。けれど、そんな事はカザヨミ管理部と距離を置いている都市管理部にとって重要では無く、中でもカザヨミを無敵の存在と考えているシトは一連のカザヨミ管理部の動きを、都市管理部を牽制する卑怯な情報操作、としか考えていなかった。
テレビを始めとしたメディアはシトを英雄のように扱い、オウミの都市を英雄の都市として称えている。オウミと繋がりのある小規模都市も同様の反応を見せ、シトの言葉こそが真実であると肯定した。その結果オウミ都市管理部の独断専行を制止出来ず、カザヨミ管理部は強い非難声明を出すくらいしかできなかった。
「……お姉ちゃん、入るわよ」
シトに雲海へ行けと命じられたイスカはまず姉であるアトリとの面会を希望した。イスカが空路を引き継ぐ形になるのでアトリから空路と環境について情報を得ておきたいという考えもあったが、何より優秀なカザヨミである姉があれほどまでに疲弊している理由が知りたかったのだ。
かつてはシトに気に入られていたイスカとそうでないアトリ、現在はシトと距離を置いているイスカとそうでないアトリ。今も昔も姉妹が共にいた時間はそれほど多くなく、現在では会話をする事すらシトにお伺いを立てなければいけない状況になっていた。上記のような事柄を述べてシトを説得し、イスカはようやく姉と久しぶりに会話する事となった。
だが、その時イスカはアトリの声を聞くことはできなかった。アトリの疲弊は想像以上のもので、それこそシトの部屋ですれ違った日以降ベッドから起き上がる事が出来ないほどだった。
イスカはアトリの返事を待たずに部屋へと入り、近くへと寄っていく。シトの部屋とは打って変わり質素な室内はアトリの私物と思われるものはほとんど無く、窓の傍に設置されたベッドが寂しい部屋に浮いているようにさえ思えた。
体のあちこちが酷く損傷し、けれどカザヨミの体に明るくない者たちのせいでろくな治療も行われないままベッドに横にされている。これでも数日前よりは治った方なのだが……。
「聞いてよお姉ちゃん。今日も
「……」
「ようやく私も分かったわよ、お姉ちゃんの事。少しだけ、だけどね」
「……」
アトリは返事をしない。いや、返事が出来るような状態ではなかったというのが正しいだろう。体の損耗具合は見ての通りであり……それ以上に精神の消耗が致命的なレベルに達している。アトリの瞳は何も映さず、部屋に入って来たイスカを見ようともしない。ただ息をして、そこにいるだけの存在。
まるで心を失ったかのような姿にイスカは顔を歪ませながら姉の指先に触れた。
「……」
けれどアトリはなんの反応も見せない。
「……お姉ちゃん、あの子も元気そうだよ。今日も配信してた。ホント、すごいよね」
アトリの指先が僅かに動いた気がした。けれど無表情のままで動かない。イスカはわずかに口元を緩ませる。
その笑みがアトリの心がまだ死んでいないことに対する安堵なのか、それとも過去に痛めつけたユナの成長を自身が報告している事に対する自嘲なのかは本人にさえ分からなかった。
イスカはベッドの横に腰掛け、空虚を見つめるアトリに話しかけ続ける。意識がない訳ではない……言葉を返してくれる時だってある。
「ねえお姉ちゃん。私、お姉ちゃんに嫉妬してた。……どうして
かつてのイスカならまず口にすることの無かった想いは、けれどアトリに届いているかは分からない。それでもイスカは話し続ける。その手を握り、悲しみに歪みそうになる顔を見せないように。
ユナに雲海で助けられて以降、自身の研鑽を怠らなかったイスカはユナの自由さを知り、カザヨミの過酷さを知った。常々カザヨミである事の責任を語り自分を律していた姉の思いを少しは理解できるようになった気がした。
だからこそ、イスカは姉が早々に母親の呪縛から抜け出していた事を知った。母親に愛情を求め、故に母親に依存していた自身とは異なる道を既に見つけていた姉。
……けれどそんな姉は今、母親に縛られている。
雲海でイスカがユナに助けられた時、アトリもユナの姿を見ている。自身が見殺しにしたと思っていた存在の出現はこれまでアトリの胸中に隠されていた罪悪感を最悪な形で漏出させた。
そこを母親に……いや、都市管理部のシトに付け込まれた。
(私がシトと距離を置いていたタイミングで仕掛けられたわけね……ユナへの罪滅ぼし、か……。まあ、シトはそんなこと知る由もないでしょうけど)
おそらくだがシトは自身が置き去りにした少女が"配信者ハヤブサ"でありユナであると気付いていない。気付いていたならばユナを確保しようと躍起になっているはずだ。
精神的に不安定となったアトリの心に言葉巧みに入り込み、自身の思い通りに操った。きっとシトはそのように考えているだろう。
だが実際はそうではない。アトリはシトの言葉が自身を操るための言葉であると気付いていたはずだ。イスカの尊敬する姉ならばその程度、察するのは難しくはない。ではなぜアトリはシトの言いなりになっていたのか。
「……お姉ちゃんが残してくれた空路を辿れば灰色ホテルに行ける。だからね、お姉ちゃん、全部終わったら一緒に──」
"何処か遠い場所まで逃げよう"
ユナへの罪悪感に押しつぶされようとしているアトリは自ら死地へと赴き、死にたがっている。シトの言いなりになっているのも、シトが死に場所を提供してくれているからに過ぎない。
体を傷つけ、心を壊し、かつてのユナのようになってからアトリは死のうとしているのだ。
イスカは立ち上がり部屋を出ていく。姉に代わりシトの為に空を飛ぶと決めたイスカは、けれどもシトと決別する事を決めた。イスカの心の中で、母親の恐怖が占める領域はほとんど無くなっていた。
イスカは母親という鳥かごから飛び出そうと、巣立つ準備をはじめた。
◆
ヒエイ雲海の中層入口辺りに存在する逆灯台の街は多くの都市が関心を寄せる土地である。
これまで数多くの都市があらゆる手段を用いて探索を行おうと手を伸ばし、けれど今まで届かなかった雲海の奥。停滞雲発生から数十年ものあいだ続けられてきた探索と研究の果てに予想されていた廃墟の集積地は、整然とした都市の様相を維持しながらも空っぽの状態でそこに在った。これまで雲海内にこれほど大規模な廃墟群がかつての形を遺したまま存在しているなど考えられておらず、雲海の構造を解明する足がかりになるだろうと多くの研究者が強い関心を示していた。
さらに、逆灯台の領域は重力や呼吸可能な酸素さえも廃墟と共にその場で停滞しており、比較的自由に行動出来るにも関わらず、雲海内の領域であるため時折あちらこちらで純停滞結晶が新たに発見される事もある。
新たな技術の構築のため、あるいは希少な結晶確保の為。それらの理由から逆灯台は数多くのカザヨミが雲海探索の拠点として利用する重要な土地となっていった。
「ねえねえ聞いた? 例の噂」
「噂? なんかあったけか?」
「ほら、すずめちゃんの配信でさ」
逆灯台は元々逆さになった灯台が存在していた雲海廃墟であるが、逆灯台の発見と共に灯台そのものは地上へと落下、現在は廃墟の街並みだけが残っている。廃墟となる前の街並みをそのままに維持されたそこの家々が居住可能なように整備され、やってきたカザヨミが休息を取れるようになっていた。
少なくない数のカザヨミが方々の都市より来訪し、カザヨミによる大きなコミュニティが形成されていた。そうして出来上がった雲海探索の拠点では様々な情報が集まり、それらはカザヨミ間で綿密に共有されていた。
そんな情報の中でも現在まことしやかに囁かれている噂話がある。
「小さな女の子の、声が聞こえるんだって」
坂灯台の街はなだらかな傾斜になっており、灯台の存在などからかつては山と海岸の間に作られた街だったのではないかと言われている。とはいえ雲海がかつての地形そのものさえも丸ごと雲中に飲み込んだのか、それとも雲海の空間で土地がナナメに固定されただけなのかは判明していない。そもそも坂灯台の街がかつて地上のどこに存在していたのかさえも分かっていないので仕方のない事ではあるが。
「……」
そんな坂灯台の最も高い場所からは雲海に飲み込まれた街並みを一望することができる。まだ大半は廃墟のままである街の中心部だけは都市による探索と開拓により疎らな明かりが灯され、命の流れを感じる事ができる。墜ちた灯台のあった空間はぽっかりと穴が開いたように土地が切り取られ、厚い雲が時折せり上がってくる。
そんな光景をイスカは屋根に腰掛け翼を風に預けて見つめていた。
「……まさか来てくれるなんて思ってなかったんだけど」
呆れたようにそう口にしたイスカが後ろを振り返れば、そこにはいつの間にかカザヨミが佇んでいた。大きく艶やかな青灰色の翼を収め、その少女はイスカの隣へと同じように腰掛けた。
「! ……アンタ、ちょっと不用心よ。保護者に怒られるんじゃないの?」
「えへへ、クラコさん、少し呆れてます」
「笑い事じゃないでしょ……、はあ」
隣に座った青灰色の翼を持ったカザヨミ、ユナの邪魔にならないようにとイスカも広げていた翼を収める。ユナはピアスの明滅をなだめるように耳元を撫でてニコニコと幸せそうな笑みをイスカに向けた。
イスカはその笑みに複雑な思いを抱きながら視線を外し、街の遥か向こうへと視線を戻す。
「イスカお姉ちゃん、それで、アトリお姉ちゃんは……」
「先に連絡した通りよ。話せる状態じゃないわ。
先日の合同訓練を経てユナとイスカの距離は一気に縮まった。イスカとしてはもう会う事は無いだろうと考えていたのだが、ユナはクラコも驚くほどの積極性を見せて再度イスカとの連絡を取り付けた。
合同訓練に参加していたカザヨミの中には今後都市管理部へと組み込まれる予定のカザヨミも何名か参加しており、そのカザヨミの中にはユナと仲良くなったカザヨミも含まれていた。
ユナはツグミを通して十三飛行隊のリーダーであるミサゴと連絡をとり、ミサゴ経由でそういったカザヨミたちと接触。同じく都市管理部所属のイスカの連絡先を教えてもらった、というわけだ。
シトの忠実な手足として働いていたイスカとアトリの個人的な連絡先を知っている者はほとんどおらず、それはカザヨミ全体を指揮する立場にある先生であっても例外ではなかった。実際は二人に余計な情報を与えず、思うままに操るためのシトの一手であったが、一緒に空を飛ぶカザヨミ同士の交流を妨害するまでには至らなかった。
「話せる時は話せるんだけどね」
「そう……ですか……」
「なんでアンタがそんな暗い顔してんのよ。……関係、ないでしょ」
「……」
「……私はどうしてもあっちに行かないといけないの。それがあの人との約束で、お姉ちゃんの為だから」
アトリの状態から雲海の正確な情報を得るのは難しいと考えていたイスカのもとへやって来たユナの存在はまさに渡りに船といったところ。むしろ現時点であの雲海廃墟の全容を知っている唯一のカザヨミと言っていい。
けれどイスカはそんなユナに何かを求めはしなかった。これ以上与えられても返せるアテも無く、そもそもそんな立場にないと理解していたからだ。
だが、そんなイスカへとユナは積極的に近づいていった。他のカザヨミのように目の前に広がる坂灯台の街を探索するわけでもなく、常に雲の向こうを見ていたイスカの様子と、事前にクラコより教えられていた都市の派閥争いなどの話からイスカが灰色ホテルを目指していると推測するのは難しくはなかった。
だからユナはイスカに話をした。新たなる雲海廃墟へと至る道と、その向こうの光景について。
「本当に行くの?」
「これが終わればキリが良いのよ。私たちが居なくなってもあの人の地位が崩れる事はもう無いだろうし。逃げ出してもしつこく追いかけまわされはしないわよ」
心配そうに見つめるユナの様子にイスカは無意識で頭を撫でてやろうと手を伸ばし、慌てて手を引っ込めた。雲海より助けられてからのイスカは自身の研鑽だけでなく同じ都市管理部所属のカザヨミたちとのコミュニケーションも重んじるようにしていた。
イスカと共に空を飛ぶ都市管理部所属のカザヨミは都市外の人間が想像する通りな態度を取るカザヨミがほとんどだが、イスカの命令には従おうとする。生意気ながらも空を飛ぶ先輩に対する尊敬が見え隠れする彼女たちの様子はかつての自分自身を見ているようで、イスカは自分でも驚くほどに彼女たちとの交流を大切にしていた。中にはイスカよりも幼く、翼を発現してまだ数日程度という子も所属しており、慣れない環境に不安そうなそういった子に寄り添ったりもしていた。
それは一種の罪滅ぼしだったのかもしれない。幼い子をユナに見立てて、大切にすることでユナへの贖罪とする愚かな行為。そう理解しているからこそ、イスカはユナに触れようとはしなかった。
イスカが引っ込めた手を何処か残念そうに目で追いながらユナは言葉を重ねる。
灰色ホテルと呼ばれている雲海廃墟はユナとクラコでさえまだ未解明な領域と現象が多数徘徊している。生物的な奇妙さと不気味さを併せ持った空間は中心部に佇む巨大な晶動体の存在感が支配し、まるで空間そのものが
「でも……」
「もしもの時は先生にお願いしてるから大丈夫よ。ワタリドリとも話はつけてるし」
体の小さいユナの視線は座っていてもイスカより低く、ユナは不安そうな顔でイスカを見上げ瞳を揺らした。対してイスカはそんなユナに大丈夫だと言葉を返しながらも動揺に心を乱していた。
なぜこうもユナは自身を心配してくれるのだろうか、自分の所業をユナはよくよく知っているはずだというのに。近づく事さえ拒絶しても仕方がないだろうに。
「……」
「お姉ちゃん?」
じっとユナの目を見つめれば不思議そうに首をかしげる。そこにイスカに対する嫌悪は見て取れず、どこまでも澄んだ瞳の奥が覗き見えるだけ。
きっとユナはイスカとアトリ、そしてシトの所業を綺麗さっぱり忘れ去るだろう。そうして空いた心にいっぱいの幸せを詰め込んで、誰も見たことの無い空の果てを見て、大切な人に見て見てと自慢するように胸を張るはずだ。
だから、イスカはこれ以上ユナの幸せに踏み込みたくはなかった。
なかった……けれど、イスカにとってアトリは姉であり、失いたくない唯一だった。
「……アンタは声の噂、聞いたことがある? お姉ちゃんもね、雲海で声を──」