嶺渡姉妹の姉、嶺渡アトリは物心ついてしばらくした頃には母親を異常な存在だと認識するようになった。
テレビに映る人々や情報端末で得られる家族の在り方と、自分たちの家族の姿があまりにもかけ離れていたためだ。
アトリは妹のイスカと共に母親と暮らしていた。母親は姉妹を自分の良いように教育し、自身が絶対的存在だと洗脳まがいの教育を施した。
けれど早々に母親を異常だと断定していたアトリは母親に反抗し、アトリは母親の"標的"となった。妹のイスカを甘やかし、明確に姉より上だと囁きアトリを貶す事を肯定した。
まだ幼かったアトリにとってそのような理不尽な扱いは想像以上にアトリの心に深い傷を残す結果となった。そしてより母親の異常性を認識し、険悪するまでになった。
そこまで母親を嫌い軽蔑していても、アトリはまだ幼く、一人で生きていくには難しい世界だった。結果としてアトリは母親に反発しながらも母親の庇護がなければ生きられない故に理不尽な環境に身を置かざるを得なかった。
そんなアトリに転機が訪れた。自身の理不尽な扱いが突然終わり、イスカと同等の扱いに変わったのだ。貶されることも暴力を振るわれる回数も減った。
アトリは心底安堵した。母親が悪いのだと思っていても幼いアトリが延々耐えられるような環境ではなかった。あの環境から抜け出せた事にアトリは心の底から安堵し、変化した母親の態度に嬉しささえ感じてしまった。
だから、アトリは見て見ぬふりをした。
自身が理不尽な境遇から抜け出せた理由が何であるのか。かつて自身が陥っていた役割を次は誰が担う事になったのか。
ただ、ごめんなさいと何度も心の中で謝罪しながら事実に蓋をした。
「……は、ぁ」
雲海廃墟"灰色ホテル"の最外周を回る衛星から星々の動きを呆然と見つめていたアトリは手に握りしめていた銃の重さに肩を落とし、粘つく息を吐いた。それだけでアトリは喉の痛みと異物感に吐き気を催す。
「まだ……もう少し、だけ……」
銃を持つ手と反対の手のひらをじっと見る。意識していないのに小刻みに震えている手の感覚はかなり鈍い。血中のエーテルが雲海の高濃度エーテルに反応して微細な停滞結晶として析出しているのだろう。最新鋭の装備で体外のエーテルは防げても既に体内に侵入したエーテルの結晶化を抑える事はできない。
頭はうまく働かず、足元はふらつき、自身が足で立っているのか飛んでいるのかさえ曖昧だ。視線を下に移せば見えるのは瓦礫の上にしっかりと立っている自身の足と……おびただしいほどの
「あ、……うぁ、」
もう一度アトリは大きく息を吸って、吐く。吸っても吐いても痛みが胸に走り思わず気が遠くなる。
このまま雲海に留まればアトリの命は長くないだろう。それはアトリも理解していた。理解していて、死んでもいいと思っているからアトリはまだ此処に居た。
「あ、は、は……」
枯れた喉で嗤う。誰でもない自分自身を嗤った。手の中の銃を見る。これをこめかみに突きつけ引き金を引けばすぐに楽になれる。けれどそれは逃げでしか無い。
もっともっと苦しんで、もっともっとぼろぼろになって、そうして死なないといけない。そうしないと由奈に許してもらえないから。
アトリは翼を広げた。羽が所々抜け落ち
アトリの立っていた場所に設置された機械は生物のような規則正しい脈動を続けていた。
触れてはいけない禁忌的な脈動、刺激すれば爆発するような不安定な揺らぎ。漏れ出るエーテルの微かな光。
「ねえ、由奈……、私に、どんなふうに……」
アトリはそれに向かって銃口を向け、
「どんなふうに、死んでほしい……?」
引き金を引いた。
◆◇
都市管理部はカザヨミにも雲海にも興味がない。あるのはそれらを利用して得られる資源のみ。故に都市管理部はカザヨミの運用方法についても雲海の危険性についても理解が浅い。それらの情報は都市管理部に直接的な利益をもたらさないからだ。
しかし都市管理部が入都を許可したエーテル技術者にとってはそうではなかった。彼らはエーテルの特性を解明するべくあらゆる実験と考察を繰り返した。どれだけ高リスクな実験でも逆灯台から得られた潤沢な停滞結晶が試行錯誤を可能とし、技術の確立を促進した。そしてあらゆる実験結果は都市管理部が吸い上げた。
アトリとイスカが手渡された銃はそんな彼らが都市管理部へと実験結果の一つとして提出した代物だ。弾頭に仕込んだ停滞結晶はエーテルの特性である停滞を無効化し、更には空気抵抗や発射時の摩擦抵抗などの弾の減速要因の"発生タイミングを停滞"させる事に成功した。
通常弾頭以上の速度で飛翔しながらも反動やソニックブームも停滞させているのでアトリやイスカのようなカザヨミはおろか銃を扱ったことのない一般人でも使える危険な武器となっている。
停滞結晶を用いた兵器。人類が感知できないエネルギーを用いた兵器は、その発射を感知することはもちろん、迎撃する事さえできない。その事実は一部の強硬的な都市管理部の上層部を狂喜させた。
アトリとイスカに手渡された試作機の運用データが収集され次第、都市管理部は本格的に停滞結晶を兵器に転用する研究を始めるつもりだった。
二人が帰還し、兵器のもたらした破壊力が都市管理部へ伝えられれば、都市管理部の思惑は一部だけに留まらず、方針として"其方"へと傾くだろう。
「っ!!」
アトリが放った銃弾は機械に命中した。金属の破断する音と共に結晶の砕ける音が響き、一瞬の静寂の後、機械は周辺を巻き込み高濃度のエーテルを放出する。
バランスを崩壊させたエーテルは周囲の空間へ連鎖的に影響を及ぼしていく。着弾したエーテル弾頭が機械的に抑え込まれていた停滞結晶を起動させ、粉末状に加工された停滞結晶を瞬時に拡散させる。瞬間的に衛星とその周囲は停滞結晶の粒子に満たされ、エーテル濃度は極限まで上昇していく。灰色ホテルの領域に停滞しているエーテルは突然現れた濃いエーテルに強く誘引される事になった。
ユナとクラコが通信手段として用いる夫婦結晶からも分かる通り、エーテルの誘引特性は距離による減衰を受けない。エーテルそのものの濃淡、強弱によってのみ誘引される範囲は決定される。
結果として最外周の衛星は拡散する結晶の粉末によって巨大な停滞結晶の塊と認識され、灰色ホテルの全領域のエーテルを誘引することになった。各衛星はエーテルの誘引特性によってしばらくは形を維持していたが、エーテル化物質よりも純粋な結晶の方が誘引性が強く、エーテルを奪われたすべての衛星がその形を崩壊させていく。
雲海に敷かれた法則に劇物を投入することで法則そのものを崩壊させる用途の兵器。それはかつての雲海で発生した事件の再現だった。
かつて雲海調査計画においてミサゴたち熟練のカザヨミが遭難した事件。混沌ながらも一定の法則を持って安定的な空間を維持している雲海に突然高濃度のエーテルが合流した結果エーテルの流れが大きく乱れ、中層と下層の境界線を消失させるほどの変化をもたらした。結果として下層は嵐の中のように荒れに荒れ、雲海の入口が下層から中層へと移動してしまった。
研究者たちはこの事件を人為的に発生させる方法を見つけたのだ。既存の雲海の状況を破壊することで人類にとって都合の良い環境に変化させよう、というのが彼らの言い分だが、その言い分はこれらの実験が秘密裏に行われていることから詭弁である事は明らかだった。
知られたくない実験の数々。アトリが手にしているものはそんな実験のごく僅かな一端に過ぎないのだろう。
「……由奈……ユナ、見てる……?」
最外周の衛星に近い衛星から次々に形を崩していく。まるで悲鳴を上げているかのように引き裂かれる瓦礫がけたたましい騒音を立て、灰色ホテルの空間に散っていく。最外周の衛星に誘引されたエーテルは機械より散布された停滞結晶の粉末に取り込まれ析出し停滞結晶として固定されてしまった為、再び空間に戻る事はない。空間内のエーテルの総量としては変化が無いが、空間に平均的に満たされていたエーテルが結晶化によって極端な濃薄差を形成する事態となった。
そして、析出したほとんどの結晶は一つの衛星に集まり、それ以外の衛星はエーテルの支えを失った。
星の崩壊は止まることなく、むしろ加速していくしかない。
「いま、逝くからね」
アトリは瓦礫の散乱する空間を飛んでいく。エーテルによる衛星の周回運動という法則を破壊されたその空間はエーテルによる流れが停滞し、大小様々な瓦礫の破片が散乱しているがそれをアトリは構うことなく飛んでいく。体や翼にどれだけ傷がつことも、それはアトリにとってなんの問題にもならない事柄だった。
「あうっ、!!」
突然空間全体を襲ったエーテルの衝撃に思わずユナは小さな悲鳴を上げる。最外周に存在する衛星より放たれたエーテルの波紋が何度も打ち付ける波のように断続的に到来し、ユナの身体を揺さぶった。
アトリが起動した装置によって散布された停滞結晶の粉末が周囲のエーテルを即座に誘引した結果生まれたエーテルの空白領域と、その領域を埋めるように周囲のエーテルが空白領域を移動して濃度上昇を引き起こし、上昇したエーテルは結晶の粉末に誘引され空白領域を形成……という現象が繰り返され、ユナは空間全体のエーテルが一斉に動き出す衝撃を何度も受ける結果となった。
『ユナ!!』
「っ……!」
クラコの言葉にユナはケスケミトルの隙間から勢いよく翼を発現させる。ケスケミトルや皮膚に析出し始めていた停滞結晶はその勢いで剥がれ落ち、地面に散って空気に溶けた。
ユナは頭を振って断続的に襲いかかる衝撃に耐え、ケスケミトルと翼で身体を守るように動かし、マフラーで口元をしっかりと守った。
「っ……!」
ユナが視線を横に向ければ、少女がエーテルの波に動じることなく立ち尽くしていた。意識を失っているようにも見えたが、少女の瞳はしっかりと開かれ青白い燐光を煌めかせたまま波紋の起点をじっと見つめていた。
「あ……」
ユナは少女へ大丈夫なのかと言葉をかけようとするが、そこで言葉を詰まらせる。ユナは彼女の名前を知らず、どのように声をかけるべきかわからなかった。
「ユナお姉ちゃん」
少女が視線を向こうへと向けたままユナに話しかける。
「思い出した、よ」
印象強く口角を上げユナへと視線を向ける。煌めく瞳はどこを見ているのかわからない。エーテルの光を纏う髪は風でなびくようにエーテルの波にはためく。少女は三日月のように口を開け、自身の身体を自身の手で強く抱きしめた。
「やっと……やっと」
ふわりと少女の身体が浮く……いや、浮いているのでは無い。何か、見えない何かに少女が腰掛けている。
「やっと……
少女の服の内側から青白い触手が湧き出すように現れる。幸せそうに身体を抱く少女をその上から抱くように触手がまとわりつき、少女は愛おしそうに触手の一束を手繰り寄せ頬を寄せる。
『ユナ、離れなさい!』
「でもクラコさん……!」
クラコの言葉にユナは反射的に異を唱える。何が起こっているかはわからないが、此処を離れるということは彼女を置き去りにする事になる。彼女の体に何が起こっているのか分からず、声音さえも変化した様子にユナは動揺を露わにするしかない。
困惑に固まるユナを叱咤するかのように、クラコは余裕の無い声で少女を指差す。
『見てみなさい!』
少女は不可視の何かに乗り、上機嫌で触手を使役している。彼女の感情を表現するかのように触手は踊り、蠢いている。少女の周囲は青白い光が異常なゆらめき方をしており、通常のエーテル光とは思えないほどの異様さを表していた。
『エーテルを誘引しすぎて降害が発生してる! この星も崩れるわ!!』
「!!」
ユナが飛び立つと同時に星全体が崩れ始める。遠くの衛星で引き起こされた衝撃と、少女の覚醒によって空間のエーテルが両端へと集まっている。それ以外の空間は恐るべきスピードでエーテルを失い、瓦礫同士の結束が崩れる。いくつかの山が集まり形成されていた中心の星は元々の姿へと戻っていき、岩石が剥がれ落ち空中に舞い、同様に鳥居と祠も崩れる大地と共に星を離れていく。
「っ! ……あの子は……!」
極端にエーテルの薄くなった空間ではうまくエアリングが出来ない。ピンボールのように不規則な動きを繰り返す瓦礫は四方八方より飛来し、上下さえも無視して迫ってくる。ユナの翼の動きは制限され、エアリングによる瞬時回避もおぼつかない。
それでもユナは迫りくるすべての瓦礫の位置を正確に把握し、素早く安全領域へと避難する。もちろん数秒後には安全領域ではなくなるので絶えず移動を繰り返し、その中でユナは少女の位置を把握しようと目を凝らず。
『ユナっ、あそこ!!』
「!!」
ユナの視界外に注意を向けていたクラコが叫ぶ。すぐさま視線を変えクラコの叫ぶ方を見ればそこにいたのは少女ではなく一人のカザヨミだった。
カザヨミはボロボロな羽を必死に動かし、決して美しいとは言えない動きでこちらへと接近する。途中何度も瓦礫の破片に衝突しかけ、それでもなお前へと進む事を止めないカザヨミに、ユナは驚き声を出すことすら出来ない。
ユナが驚いた理由はそのカザヨミが酷く傷ついているからでも、こんな場所に単独でやってきたことでもなく、そのカザヨミの顔を知っていたから。
まだカザヨミでもなかった頃、イスカの隣に居た、こちらを憐れむような罪悪感に濡れた瞳をいつも自分へと注いでいたもう一人の姉。
「アトリお姉ちゃんっ!!」
文字通りユナは飛び出した。遠くでクラコの制止の言葉が聞こえた気がしたが、それでもユナは止まらない。不安定な瓦礫の小惑星を飛び石代わりにしてスピードを出し、エーテルの空白地帯へ突入しても勢いに任せて翼を無理やり動かし僅かな気流をつかみ取る。
何重もの網の目をかいくぐるような芸当を高速飛行の中でやってのけ、もう少しでアトリに手が届くというところでユナはいつの間にか真横に浮かんでいた少女を目端に捉えてしまった。
「あは!」
「!」
そして少女は手を振りかぶり、勢いよく振り下ろす。
「ばーん!!」
無邪気な少女の声と共に振り下ろされた腕、それに追従するように上空より巨大な……とてつもなく巨大すぎる停滞結晶の巨柱がユナ諸共アトリへと振り下ろされた
『そのまま真っすぐ! 飛び抜けて!!』
ユナは迫る巨柱に気付いた。けれどアトリはまだ気づいていない。
「お姉ちゃんっ!」
クラコの指示に従いユナは頭上より迫る結晶の巨大さに動揺するよりも先に回避行動に移る。幸いまだスピードの落ちていなかったユナはその勢いのままアトリの手を掴み、まっすぐに飛翔する。多少の瓦礫が体に当たるが、それを回避している時間さえ惜しい。
アトリを支えているとはいえユナが全力で飛べば瓦礫まみれの空間の飛行はそれほど難しいことではない。かつて降害の最中をミサゴを抱えて飛んでいた時と比べれば幾分楽と言えるだろう。
それでもユナが振り下ろされた巨柱の落下範囲より脱するのは間一髪といったところだった。空間に浮かぶ瓦礫は巨柱の動きを制限する力など皆無で、むしろ瓦礫を弾きながら落下してくる。そうしてユナとアトリが居た場所を通過した巨柱はその場で停止し、再び上へと戻っていく。
『……なんてこと……』
幾分落ち着きを取り戻し、空間全体に意識を割けるようになったクラコは戻っていく巨柱が一体何であるのかを知り愕然とした。
それは柱ではなかった。太く、長く、結晶でできたそれは晶動体の一部。
灰色ホテルの中心にかつて存在していた星を絡め取る、巨大なクラゲの晶動体のほんの僅かな触手の先端でしかなかったのだ。
「あはっ」
少女が笑う。なんてこと無いように、新しいおもちゃを手に入れた幼子のように。
あるいは、なくしたものを取り戻した幸福に酔うように。
「ねえユナお姉ちゃん。私、全部思い出せたよ」
少女は笑う。幼子が親に褒めてほしいとねだるように、かつてのユナのように。
少女……灰色ホテルを支配するクラゲの晶動体はニッコリと怪しげに笑った。