個人的安全保障   作:ヤン・デ・レェ

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個人的安全保障

個人的安全保障

 

人類の軍事とは狩りのために石を投げることから始まったのではないだろうか。

 

数万年、或いは数千年の時を経た現在では我々の先祖が投擲したであろう拳ほどの重量の石と同程度の大きさの核物質を利用して、文字通りウランの石ころから想像もつかないような大規模殺戮が可能となった。

 

人類の軍事史は石、或いはより文明的な棍棒により始まり棍棒により終わりを迎えるのかもしれない。そう思えてしまうほどに、人類は争うことを或いはより直接的な暴力の研究と開発、発展を目指してきた。奇しくも人類の生活水準の向上と、人類の軍事技術の向上は全く同じ足並みを辿ってきたのだから。

 

無線通信の誕生により、人類はその傾向をより強めたといえる。人類は無線通信以前にも増して情報を武器として、暴力の威力をより最大化するための手段として又、価値として重用するようになった。

 

空への進出もまた、人類の軍事に大きな革命を起こした。情報は言い方を変えれば数値であり、空から地上を見下ろせば人間一人の存在など小指の爪にも満たない些細なものである。

 

地球という世界が実際に肥大したり、或いは縮小したりすることは我々人間が完治しうる範囲では微々たるものでしかなかっただろう。しかし、人類が生み出した概念の世界は常に肥大化し続けてきた。近代の終わりまでに人類は既に全世界を我が者とした。手の届かぬところは目に見えぬ世界と目の届かぬ世界。そして、手の届かぬ世界だけであった。航空技術と電子情報技術は正にこの内の多くを人類に開放したのだ。人類は遂に生物として感知可能な世界、概念の範疇外へとその手を届かせたのだ。その目で見ることが可能となったのだ。

 

空と電子の海は人類により便利で豊かな世界を提供した。人間という存在はその概念が縮小化され、飛行機やインターネットにより円滑かつ迅速に飛び回れる様になった。

 

そしてこれらの事実は即ち、世界を繋ぐことと世界を分断することは余りにも手軽で、広範に対して徹底的なものが可能となったことを意味した。

 

あらゆるものが情報に変換されて世界中を漂っている。それは人間も同じであり、一人分の情報など巨大な情報の海の中では数値上の誤差にすぎない。世界を満たす概念は只管に肥大化し続けている。しかし、にもかかわらず人類自体は進化することなく自らが生み出した概念世界の中で、情報の中で溺死しかけている。

 

人間は確かに進歩した。し続けてきた。今後とも進歩し続けるだろう。だが、人類が進化するにはまだまだ遠大な時間と経験値が必要になることだろう。人が人を殺す。石一つで人一人殺せればよかったものが、石ころほどの大きさで数十万人もの人を殺せるまでになるのに百万年もかからなかったのである。人類が致命的な戦争に辿り着くまでの時間は地球規模で見れば恐ろしく短時間に行われたことなのかもしれない。しかし、人類が戦争の対義語としてしばしば引き合いに出す平和という言葉の意味が定義されるにはまだまだ時間が必要なのだろう。

 

人類の現状に暫定的な結論を求めるとするならば、今現時点において人類が辿り着いた先は終末戦争<ラグナロク>では無かったと言える。しかし、世界は九つ存在し内人類が手にした八つの世界の中で平和を達成した試しのあるものは有史以来存在していないという、ただそれだけの話である。

 

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1990年代のこと。

 

日本である1人の男がボランティアを始めた。

 

ボランティア活動の内容は「貴方の心身を御守りします」という一項目だけだった。国際郵便を利用して世界中の公的機関宛に一万枚近くの葉書をばら撒いて世界中に仕事を募った。

 

男の初仕事は葉書をばら撒いた一年後のことであった。依頼主は隣接する大国からの迫害を受けている高僧で、某国の公的機関から逸れた葉書を受け取ったのだという。

 

初仕事の内容は国外への亡命の為の護衛であった。必要経費は向こうが持ち、男の仕事は高僧のボディガードだった。ボランティアと言いつつ念のためなのか報酬に関しても記載されており、約100万円相当の現金が用意されていた。高僧は影武者を置くことで亡命を決意したらしく、道中の安全と報酬は周囲が用意した様だった。

 

仕事の依頼が届いた日から三日後、男はチベットの奥地にいた。依頼主との顔合わせの後、早速状況が開始された。実績が全くない男に依頼をした高僧のメンタリティもさることながら、依頼を受けた男の格好も極めて不可思議なほど軽装だった。

 

全身をリクルートスーツで固めた男の先導の下で亡命者の一行は山中を駆け巡り、約五日の行程ののちに隣国の協力者の元に辿り着いた。全く初めての土地でありながら男は寸分の狂いもなく、また一度として偵察の兵は愚か野生動物などとの遭遇すらなく行程を完遂した。結果のみを言えば、亡命者一行は拍子抜けするほど呆気なく亡命を達成してしまった。

 

初めての仕事を終えた男は亡命者一行を受け入れ先の協力者に引き渡すや否や、用意されていた報酬から五日間の食費と空港までの旅費のみを納めるやその足で空港に向かい当日中に日本への便の貨物庫に忍び込み出国したのであった。

 

男が恙無く日本に帰還したのはそれから一日後のことであった。初仕事を気味悪さすら伴う手際で完遂した日を境に、男の元には各国政府関係者からの依頼や、亡命希望者による依頼が殺到する様になった。男は全ての依頼に対して「Yes.」とだけ直筆のサインを入れて紙面で返信し、三日以内に依頼主の元に辿り着き、それから一週間以内に自らの仕事を淡々と完遂した。

 

完遂するまで他の仕事には手をつけず、しかし一度請け負った仕事は全てを完璧な精度で、かつ一人の死者も出さずに完遂した。

 

男は極めて無口であった。最初の顔合わせの時にブリーフィングを行い、その場で僅かな言葉を依頼主と交わす。仕事中は殆どが無言だった。唯一仕事中に話すことは、依頼者やその周囲の人間に細かい指示を出す程度である。

 

仕事に取り掛かれば鋭い気配をまといつつも誰よりも自然体で誰よりも頼もしかった。身体的特徴は少なく、強いていうならば平均的な身長で細身、容貌はアジア人にしては色白でどの人種でも見たことがないような絶世の美男であることだった。

 

一つ仕事を完了するごとに男はその行程と日数にかかった食費と家に帰る為の旅費として適正な額の現金のみを受け取った。そして、大概の場合その日の内に飛行機に乗り日本へと、或いは次の仕事場へと向かった。

 

男の登場は突然のことであり、その全てが異様だった。男は絶世の美男であることを除けば、特徴らしい特徴がなく、日本のどの戸籍にもその存在が認められなかった。また、男の格好はどのような場所を仕事のために出向いても常に一定であった。背広の柄やネクタイの柄、あとは腕時計のブランドが異なることを除けば男は文字通りどんな場所にでも…砂漠に行っても、海上に行っても、雪山に行っても…必ずスーツ姿で通した。無論それらに防寒具を纏うなりのバリエーションは存在したが、基本初対面では必ずスーツ姿であった。

 

また幻想的な程に無口であり、自らのことはほとんど話さなかった。依頼主との顔合わせの際も依頼主に会話の主導権を譲り、自らは淡々とブリーフィングを傾聴した。そして、最後に仕事を受ける上での唯一の条件として「仕事中は僕の指示に絶対に従って下さい。従っていただければ貴方の心身の安全を保証します。」と言うのだ。

 

確かに男はその保証を守った。そして、そのことこそが男の最大の謎にして最大の魅力と呼んで差し支えなかった。

 

男は武器を持たなかった。イリジウムの携帯電話と契約書にサインする為のペンとハンカチと三つ折りの革財布だけが男の持ち物だった。

 

男は銃も、刃物も、格闘術も、詐欺師のような言葉を弄することもなかった。ただ男に仕事を依頼したことにより恐るべき平穏が訪れたという事実だけが残った。男は下調べと、その人間離れした勘と嗅覚、そして何より人の身に降りかかる不運、幸運が複雑に入り混じった本来ならば不可視の運命を一種の映像としてまるで予め観てきたかのように凡ゆる危険を紙一重で回避することによって凪の如き平穏と絶対の安全を依頼主に提供してきた。故に依頼者を含むほとんどの者にとって男はただ淡々と予定日を過ごすだけのサラリーマンに見えてしまっても無理はなかった。

 

男は人を守るためだけに力を振るい、そこには貴賎が存在しなかった。男が実績を重ねれば重ねるほど、依頼の数は加速度的に増加した。そして、その中には金銭を用意できない者や、文字通り餓死寸前の環境下に身を置く一般人からの救援要請も少なくなかった。男は常に無作為に仕事を受けた。時には100万ドルを報酬として用意した某国大統領の護衛を放棄し、アマゾン奥地のシャーマンを祈祷のために安全に都市部まで送り届ける仕事を採れたての果実と獣肉だけで完遂したこともあった。

 

男は何処へでも、誰の元へでも向かった。仕事を受け、誰よりも完璧に依頼者とその周辺の者の身の安全を守護した。

 

そして、男のキャリアは二十年以上に渡り今も尚更新され続けていた。その技術は研ぎ澄まされ、極められ、信頼性にかけては地球上を見渡しても核シェルターと雖も男の隣に比べれば最も安全な場所とは言い難いと言わしめる迄になっていた。

 

南北アメリカ大陸、ユーラシア大陸全域、アフリカ大陸、オーストラリア、日本、イングランド、大西洋、太平洋、南極、北極…男は何処へでも、誰の元へでも向かい、依頼主の心と身体を守り通し続けた。武器を持たない凄腕のボディーガードは唯一無二の存在として世界中の表と裏の世界両方から引っ張りだことなった。憧憬と尊敬と感謝と憎悪と好奇と嫉妬に晒されながら、男はただ愚直なまでに誰かを守り続けた。質素に暮らし、一年中世界中を飛び回った。

 

男はいつしか生ける伝説となった。伝説となっても尚、男が世界各地に対して…現在ではネット掲示板やホームページを通してゲリラ的に投稿する依頼窓口の説明文は初めて依頼を受けた時から全く変わっていない。

 

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依頼募集中

 

貴方の心身を御守りします。

 

・報酬は行程と日数にかかった食費と旅費のみ。

・現金での支払いが難しい場合は現物でも可。

(タバコ1本、木の実1掴み、ライター1つ…などでも可)

 

依頼受領条件は仕事中は必ず僕の指示に従うことのみ。

 

依頼は下記住所まで国際郵便でどうぞ

 

日本 XX県 XX市 XX番XX号

 

NPO"Personal Security"代表

 

ウィアド・ブランク 筆

 

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男の本来の名前を知る者は今となっては誰1人いなかったが、当時から既に男の本名を知る者は誰一人として存在してはいなかった。

 

男は自ら名乗った仮名と、周囲の人々により名付けられた通称で呼ばれていた。その通称は2000年代の現時点でも有効である。

 

まるで運命や未来を予め知り尽くしたトリックスターのように不気味なほど鮮やかで完璧な仕事ぶりからいつしか男は"ロキ"と呼ばれ始めた。

 

男の名前はウィアド・"ロキ"・ブランク。

 

年齢40代で日本に拠点があること以外の全てが謎に包まれた世界で唯一ボランティアと趣味を兼ねて要人護衛の仕事を担っている男の名である。

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