「次!」五人…。「次!」四人…。「次!」三人…。「次!」ふたり…。「次!」ひとり…。
聖地マリージョアの地下で獄卒達が声を張り上げる。呻き声さえ稀なほど、この空間には死が充満していた。
陽の光が届かない湿っぽい地下牢で、焼鏝を炙る炎だけが囚人たちを照らしていた。頭に黒革の悪趣味な被り物をした刑吏が真っ赤に焼けた忌まわしい印で人々の尊厳を奪っていた。劣悪な地下牢は汚物は垂れ流し、害虫と鼠が這い回る地獄であった。鼻をつく臭いに誰もが顔を顰めていたが、今となっては表情などという贅沢は許されていなかった。死ぬより酷な終わりの許されない地獄の中では誰一人として正気を保つことなどできていなかった。多湿な中で灼熱を発するストーブが虚な囚人にも、彼らの尊厳を嬉々として破壊する刑吏達にも平等に発汗を強いたのは、立場が違えど彼らが人間には変わりないと言いたいのだろうか、足元に出来た汗の水溜まりが壁を這う火の照りつけにより嫌でも自らを写す鏡となった。
痩けた頬、折れそうな手足、燻んだ髪、乾いた切れた唇、窪んだ目元、深い隈。地獄の住人は望んでここにきたわけではなかった。だが辿り着いてしまった以上、彼らにはここで生きるしか許されていなかった。
生まれとは、環境とは理不尽である。弱肉強食を宣うこの世界そのものが、理不尽を許容してしまっている。自由の意味すら知らぬ若人が、誰かの自由を奪う。この世とは真っ事滑稽なり。死んだ目の行列に従い終点はどこか知らぬままに進めば、焼鏝の痛みにのたうつ人間としての断末魔が待ち受けている。これが死か、奴隷となって初めて知る人間の死は吐き気を催す醜悪さであった。
どれだけ我を失おうとも、従順な…それこそ環境に適応しようと試みても、他ならぬ殺戮者達がもたらす痛みにより彼らは引き戻される。地獄ではなかったのだ、と。これが現実だったのだ、と。
あまりにも酷い、だが己という当事者がその人としての死ではなく人間としての尊厳の死を目前にした時、彼らは何を考えることができようか。暴力、暴言により人間は容易く尊厳を喪失する。どれだけ些細なことであろうとも、人間は容易くその尊厳を奪われてしまう。
目の前で自分の番が来たことを悟った少女は三人姉妹の長女として震える足取りで前へと踏み出した。妹達を背後へ、少しでも死から遠ざけんとする懸命は、しかし刑吏にとってひと匙の価値もない行為であった。言葉や悲鳴を発すれば全てが無に帰してしまう気がした。少女は何も声を出さなかった。尊厳が奪われる覚悟が由来ではならない、妹達の模範でなくてはならない。何の模範なのか、否、模範ではあるまい。少しでも自らの後にこの苦痛を受けねばならない妹達の受けるその痛みを、あくまでも軽んじるべき些事へと貶めようという彼女に許された有らん限りの反抗だったのではないか。決して砕けぬ気高さは、何人にも侵犯を許さぬ人間存在のもつ真の美しさに違いなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「さぁ、嬢ちゃん次はおめぇさんだ、すぐに終わるから大人しくしてな。」
両脇の刑吏が穢らしい手で妾の両肩を掴んでいた。あぁ、これで終わりなのだ。目の前で焼鏝が赤く燃える。何の罪犯したのか、何を間違ってしまったのか、何度目なのかもわからない問いが頭をよぎった。この期に及んでそんな考えは無駄でしかないというのに、数分と経たずに全てが奪われてしまうというのに、益体もないことだけを考えていた。肩を押さえつける蛮力は加減を知らないようだった。手垢を拭われているようできっと不快なはずだというのに、目の前の絶望に比べれば何でもないように感じてしまう。
「ほぉら焼けたぜ、後ろを向きな。」
刑吏の声に身がこわばった。呼吸もできない。吸ったはずの息がそのまま体を食い破ってしまいそうなくらい心臓が打ち鳴らされた。嫌だ嫌だ嫌だ!!だれか、誰でもいいから妾達を助けて…。
言葉にならない声が吐き気と共に迫り上がったが、顔を上げることも、吐き出すこともできなかった。今顔を上げれば妾の次を待つ妹達がいる。妾の顔はきっと酷いものだろう誰にも見せられるわけがなかった。精一杯の虚勢は沈黙することだった。じりじりと近づいてくる焼鏝の熱で背中が熱くなってきた。悪辣な刑吏達は笑っているに違いない。本当の地獄に落ちるのは誰か、火を見るよりも明らかだった。でも妾が欲しいのは死んだ後の裁きなんかじゃなかった。今、現実の地獄で殺される妾を救って欲しかった。生きている妾を傷つける、生きている悪者を裁いて欲しい。あぁ、熱い。体が痙攣し始めた。焼鏝はまだ来ないというのに、体が震える。必死に震えを抑えるけれど、一度噴き上がった憎しみも悲しみも、羨望もどれも止められそうになかった。あぁ、一度でいいから島の外の広い世界を見たかった。妾は、妾たち姉妹は結局自由なんていうふざけた言葉に夢を見てしまった。誰かを傷つけることも、誰かから奪うことも、理想を押し付けることも自由なんかじゃない。そんな自由なら要らなかった。
噴出した全ては妾の中から溢れ出て止まらなかった。母代わりのような人に感謝を伝えることも出来ていない。色々な町も見ていない。素敵なオトコとも出会っていない。婆が言っていた、恋を一度でいいからしてみたかった…。
今際の灯が一層燃え上がるように、尊厳の死を目前として全てを沈黙の最中に出し切った少女の頬を堰を切ったように涙が伝った。声を殺して泣く少女のやるせない思い。理不尽への憤怒は鋭い気配の様に地を走り、一際厳重な独房に封印される漢の目を覚ました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
少女は涙を止めることができなかった。体を押さえつけられて尊厳を犯される恐怖に幼い精神は決壊してしまった。情けなさと悔しさが絡まり合い、解きようもないほど苦しかった。
「俺が変わろう…。」
そんな時、聴こえるはずのない言葉が聞こえふと顔を上げると、そこには手枷が嵌められた一人の屈強な男が立っていた。
「だ、誰だぁてめぇ!」
「ヒィ!どうして貴様が檻の外にいる!?」
混乱する少女や囚人達を置いて、刑吏達が男を取り囲んだ。刑吏達の顔には恐怖が張り付いていた。囚人達も雰囲気のおかしい状況に困惑していた。
「……もう一度言う。俺が変わろう。」
男は確かに言った。だが、何のことなのか理解できない。冷や汗を浮かべながらも刑吏が食ってかかった。
「テメェ、自分が何を言ってるのか理解できてんのか?コレを変わろうってのか?テメェが?ん?どうなんだ?」
男を囲む刑吏の詰るような声音に対して、男は鉄の様な表情のまま答えた。
「あぁ、俺が変わろう。俺の背中にその焼鏝を押すといい。」
男の言葉にざわめきが立った。
「ほぉ…いいだろう、ただし。受けるからにはこの娘っ子以外の奴らのも受けてもらおう。正義の味方気取りの偽善者じゃなけりゃあ、全員分受けられるよな?ん?どうだ?それならやってやらんこともないが?」
刑吏は自分を奮い立たせるようにそう言った。頼むから檻に帰ってくれ、そんな祈る様な震える声音だった。
「あぁ、それで頼む。」
男は言った。刑吏は数人が腰を抜かし、言った男もあんぐりと口を開けてしまっていた。状況をやっと飲み込むことができた少女は安堵からか、呆然として座り込んでしまった。我を取り戻した彼女は、嗚咽する妹達にひしと抱きつかれながら男の姿を瞳に焼き付ける様に見つめていた。
男は自ら焼鏝の前に進むと、膝を折り言った。
「さぁ、始めろ。」
鷹のように鋭い瞳に射抜かれて、腰を抜かしていた刑吏が起き上がり男の両肩を抑えた。
「正気じゃねぇ…。」
真っ赤に焼けた焼鏝を構えた刑吏の呟きは、男の背中の肉を焼く音と共に消えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「100…101…102…103…104…105…お、終わりだ、もう奴隷はいねぇ!も、もう勘弁してくれ!!ヒヒィいいいいいギャぁぁぁ!?!?ウッ!?」
泡を吹きながら一人、また一人と刑吏が気を失っていった。転がる焼鏝にこびりついた肉には未だ血が乾いていない。使いすぎて熱に負けてひしゃげた鏝を見るに、これはもう使い物にならないだろう。
「そうか、なら俺は行くぞ。」
それだけ言うと男は立ち上がった。よろける素振りすら見せずに、背中に百人分超の火傷を背負ったまま男は手枷を力任せに引きちぎった。足元に死屍累々の刑吏達は人を罰する側の自分達が味わった恐怖を生涯引きずることだろう。
一度切りでさえ死にたくなるほどの苦痛を与えられるソレを、一人で百人分以上受けるなど正に狂気であった。しかし、男は終始沈黙の中で顔色ひとつ変えずに受け切った。両腕の自由を取り戻した男は振り返り囚人達に問うた。
「俺はこれからここを出る。地下牢を出るのではない、奴隷という身分から出るためにマリージョアから脱出する。俺に付いてくるか?」
問いかけは簡潔であった。その言葉に込められた意志は強靭であった。男の堂々たる姿はあらゆる恐怖を跳ね返し、理不尽を淘汰する真の超越者たる男の強さをその場にいる者達全員に理解させる最高のデモンストレーションであった。
囚人達は口々に言った。
「あんたについていく!何でもする!だからここから連れて行ってくれ!!」
「俺は戦士だった、この鎖がなけりゃ足手まといにはならねぇ!」
「ここを出たら必ず恩返しをする、だからどうか俺たちを解放してくれ!」
それまで生気を失っていた囚人達は一斉に男の元に詰め寄った。男は着いて行くと言った者の錠前を片っ端から破壊していった。あっという間に百人以上が手足の自由を取り戻した。自由を喜ぶのはまだ早かった。だが、その喜びには魚人も巨人も関係ないように見えた。
逃げるために気絶したままの刑吏やらから武器を取る者達もいれば、他の囚人達の鍵を探すものもいた。逃亡志願者が膨れ上がる中、少女は妹達から揺さぶられるまで我を忘れたように男のことを目で追っていた。
我を取り戻した少女達の元に男が来たのは同時だった。
「逃げるならついてこい。」
男はそれだけ言うと踵を返した。
「は、はい!」
訳もなく少女は嬉しくなって返事をした。自分の存在をあの男は認知していたのがわかったからだろうか。お礼を言えなかったことを思い出し、次に会ったときは必ずお礼を言おうと思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
聖地マリージョアをフィッシャー・タイガーが攻め入ったことは記憶に新しい。しかし、彼が最初でも最後でもないことも真新しい事実であった。
モンタナ・バルバスバウ
懸賞金25億9600万ベリー
元海兵でありながらトップクラスの懸賞金を誇る新世界の怪物である。その危険度は常に単独犯である点を考慮して四皇に次ぐ金額に設定されている。
この男の所業たるや、新世界という過酷な世界の常識をさえ超越している。
現在確認できているだけでもマリージョア討ち入り13回(非公式)、天竜人暴行13回、バスターコール生還13回、海軍大将撃退13回(非公式)、インペルダウン自首及び投獄13回、インペルダウン脱獄13回(非公式)、インペルダウン不法侵入13回(非公式)、天竜人の奴隷身分となること13回、天竜人の奴隷を解放すること13回、マリージョア脱出13回、自らマリージョアに帰還すること14回…etc
13回以降はピタリと襲撃が止んだのも事実だが、文字通り逃げ足の速さと生存能力にかけてこの男を超える逸材は現状何の界隈にも存在しないと言われている。
これで無能力者だと言うのだから恐れ入る。