ニュークの生まれは偶然であった。
この存在が生まれたのは遥か遥か遠方の地。銀河の彼方のさらに先、宇宙の果てを突き抜けた先の一点にての出来事である。
その存在の名前はニュークといった。敢えて性別をつけるとするならば単一生殖も叶わず、また母胎たり得ることもできない一方で種子と言えるものは持ち合わせているがために雄、男として判断するのがニンゲンの便宜上適切であろう。
さてこの男ニューク、彼は宇宙の外の望外の世界において反崩壊が真理とされる、即ち創造を是とする虚壊の大地にて生まれた。その大地に無数に点在する空間の中から彼の生誕地を割り出すことは甚だ困難を極めるため、仮の出身地として虚壊の大地の第n世界としよう。彼はそこの墓所で生まれた。
望まれることなく、しかして疎まれることもなく存在していた空間の中でも、彼の生まれた墓所というものは極めて特異な空間であった。いわば、望まれないものの中の、望まれたものとして生まれたのである。
万物の断は二面性と矛盾である。そして、消耗は免れない心理である。愛と言われるものすらも宇宙の遥か遠くに存在する青い星では一大消耗品と言える。
そのような中にあって、彼の生まれた土地は望まれずして望まれた存在として矛盾を抱えていた。名付けるならば空白の墓所である。この墓所は欠陥を抱え、その欠陥は万理に反するものであり、つまりは消耗しないということで有る。
宇宙外のその地において、創造こそ是である。空白の墓所もまた、矛盾に苛まれつつも唯一の傑作を創造した。それこそがニュークであった。
ニュークに与えられたものは矛盾に対する答えを創造することである。創造こそが是、その是を果たせない者に安息は訪れない。ニュークに与えられた使命こそは彼から安息を未来永劫に奪うということと何ら変わりのないものであった。
かくして、ニュークは外の地から矛盾の答えを求めて遥か遠方の青い星へと旅立ったのである。
ティアマトという者が存在した。
この存在は明確に性別というものを持ち合わせており、その外見からも予想できる通り、雌、女性である。
彼女は青い星において後にも先にも唯一無二の存在であった。人類という狭い括りに阻まれることなく、凡ゆる生命に対して強く働きかける母性を持ち合わせた、万物の母であった。
彼女はしかし創造の第一人者であったが故に常に孤独であった。故に、その孤独の克服のために彼女は励んだ。自らの血肉を以って自身が愛するべき存在たちを生み出した。
それを子といい、彼女が愛し、ほかならぬ彼女自身を愛するために彼女が生み出した自己愛の結晶であった。概念の不在により彼女の努力への声援はなく、かと言って否定もなく、根拠なき愛を子供に与え、単に畏敬と生出の恩に依る未熟な愛が子供たちから捧げられた。
彼女は本当の意味で神になりきれなんだ。彼女はあまりにもニンゲンであった。神は失敗を許されず、決して失敗しないものである。彼女はその点、血と汗を以って愛を求めた原初の存在と言える。愛とは決して孤独からは生まれ得ないものである。
「ごきげんよう」
初めて会った存在だった。
「私はニュークという。これから貴女について教えてほしい。今この瞬間からよろしくだ。」
初めて会った存在。初めて私が生み出した存在では無い存在に出会った。彼は言った。私を教えて欲しいと。何故私なのか、貴方は誰なのか、どこからきたのか。そんなことはどうでもよかった。
私を教えて欲しい。
初めてだった。初めて純粋な興味を以った言葉を味わった。知りたいという強い思いを感じた。私は何も答えられずに、ただ愕然と彼を見つめていた。
「早速だが、貴女のお名前を教えて欲しい。あと言葉で教えて欲しいな、貴女の声が知りたい。」
目の前にいる存在は私のことを何も知らない存在だった。そして、彼は知らない私の全てを、私も知らない感情を込めた声で求めてくれた。
「…ティアマト…私はティアマト。」
私の声は震えていた。今思えば、初めて名乗ったのだ。私は名前を問われたことがない。誰しもが私を知っていて、私は誰のことも知っている。今、私の前にいる彼以外のことは全て。
「ティアマト…私が初めて貰った名前は君の名前だ、ティアマト、てぃあまと…!」
私が名乗った名前は、本当に自分のものだったのか不思議に思うくらい頼りない声で紡がれたものだった。けれど、彼は私の名前を聴き拾うと、すぐさま復唱しては何度も何度も噛み締めるように自分の口を使って紡いでは飲み込んだ。
彼は私にニュークという彼の名前を教えてもらった。初めて私が誰かから教えてもらうことだった。そして、私は彼に一つのことを教えた。私は初めて誰かに自分のことを教えた。
彼の呟き、彼が紡ぐ言葉は私の名前を意味していた。私が教えた言葉、私が初めて口に出した自分の名前。私が初めて捧げた言葉。愛の言葉じゃない。慈しみの言葉じゃない。感慨のない名前という言葉。
彼が繰り返し口に出すその名前は私のもので、私がさっき口に出したものと何ら変わりのないもののはずだ。けれど彼の口から湧き出したそれは言語というよりは意志だった。同じ意味の同じ音の同じ言葉のはずなのに、私の体を駆け巡ったその力強い波動といったら言いようもない快感だった。心の奥底の不満や情動を無理矢理にこじ開けられるような勢いを感じる。
彼は危険な、そう、私が初めて感じた危険な存在だった。きっと、いや必ず彼の存在は私の生み出したものたちにとって抗い難い猛毒になるのだ。推し量るまでもなく、絶対の真実のような幻視を覚えた。
「…そう…私もなの…わたしも、私が初めて貰った名前よ…貴方の名前…ニューク…」
目の前の相手を排除しなければ。私は母として、神として目の前の存在をこの世界から奪う必要がある。なのに、なのに…なんで、こんなにも満たされるのか。
ほんの少しの間、時間を用いて表すならば数分たらず。ほんの数分の間に私は身も心も目の前の未知の存在に囚われてしまった。貴方のことが知りたいの。私のことは全て教えます。差し上げます。だから、どうか貴方のことも教えて。
「…そうか…なら、おそろいだな。」
「えぇ、おそろい…」
私は何も知らない無垢な感情を言葉に変換するのに必死になる。貴方のことが知りたいけれど、貴方に私を知って欲しいけれど、私はあまりにも知らなさすぎるから。
「じゃぁ、おそろいも初めてになるね。」
「えぇ、私と貴方の初めてになるわ…ねぇ、ニューク。」
でも、それは貴方も一緒のはず。だからね、ニューク。
「ん?なんだい、ティアマト。」
「…私のことを教えるわ。だから貴方のことも私に教えて欲しいの。」
一緒に大きくなりましょう。一緒に相手のことを知りましょう。貴方は私のことを、私は貴方のことを。そしていつか貴方と私と、私の子供達とで仲良く暮らしましょう。貴方のことはニュークという名前と、貴方が初めて貰った名前が私の名前だってことと、貴方と私はこれから一緒だってことしか知らないけれど。きっと貴方なら私の子供達のことも知りたいと言ってくれる。子供達も貴方のことを知りたいと思うわ。
そして、いつかは貴方と出会った私のことを子供達に知って欲しい。