深夜の東京。その裏路地にて、一人の男の命運は今今尽きようとしていた。小柄な女の濁りきった呟きがコンクリートの壁に響く。
「どうして、どうして君は私から逃げようとするんだい?」
「いつも、いつも、いつも、いつも……」
「…君の身体に刻みつけられた忌々しい傷痕…私がそんなモノを気にすると心配してるのかな?」
「…だったらソレは、君の優しい勘違いだ。」
「だから…だから、早く私の隣に来ておくれ?」
高層ビルの狭間の闇、電灯の光で女の顔には陰ができていてその表情は伺いようもない。しかし、女の声からは明らかな焦燥が感じられた。初めこそ怒りを疑問に込めていた女の声は、すぐさま弱々しく落ち込んでいた。不安げな瞳に見つめられているような気がする、そんな気持ちを抱いた男はしかし背中にざらついたコンクリート塀の冷たさを感じて我に帰った。
「……」
男の答えは沈黙であった。女の顔に塗りたくられた陰の奥に潜む "紅眼" を、穏やかだが厳しい視線で見つめ返す。男は何も言わない。男の頬に冷たい汗が伝う。
「ダンマリかぁ…ふふふ、いいね。想い人との沈黙っていうのは言葉を無闇矢鱈と重ねるよりも雄弁に相性の良さを教えてくれそうだよ…」
「……」
男が沈黙を続けること1分弱。遠くにフクロウの聲が響いている。トクトク、と男の鼓動は徐々に逸っている。
「でもなぁ…私は…」
アナタの聲が聴きたい、その言葉が男の耳に届く前に小柄な女は瞬く間に男との距離を詰めた。歯を食いしばった男はコンクリート塀に背中を擦るように体を脚で跳ね上げた。
弾かれるように体を浮かせた男は腰の位置にあるコンクリート塀の上辺に手を付いて先程の路地裏からは真反対の路地へと着地した。離脱を果たした男は後ろから聞こえる女の笑い声から離れようと一目散に夜の東京の闇へと消えていった。
地平線の向こうに朝日が顔を出すまで男は逃げ続ける。
「みぃつぅけた……」
くぐもった様な、掠れた女の声が後ろからまた響いてくる。
「……ッ」
先程の路地裏からの脱出劇の緊張も冷めやらぬうちにすぐ後ろまで声は近づいてきていた。男にとっては日常、まさに悪夢の様な日常だ。心底御免被りたいという男の思いをよそに、遂に女の影の形が大きく変貌した。
大きく膨らんだ肉体は、肉というには悍ましいほどに凶悪な外見を現していた。女の上半身だけが変わりなくその巨体の上に存在している。肉塊から生える様に上体を大気に晒す女の顔は月明かりに照らされて美しい微笑を湛えているのが確認できる。
ハァハァと荒い息を吐き出しながらも男は走るのをやめようとしない。まだだ、まだだと自分に言い聞かせながら今日も男は走り続けている。
「ねぇ君、家族になろうよっ…」
すぐ後ろまで迫る肉塊、女の体が前のめりに倒された。女の声が男の耳元で囁く。すぐ捕まえられる距離なのに遊ぶような素振りを見せるのは彼女なりの男から捕まえられたいという乙女心故か。
「…愛支ッ!私はまだ結婚するわけにはいかんのです!!」
それに対して男は振り返らずに初めて声を発した。悲痛な叫びは女の強者の笑みを崩すだけの威力は持っていなかったがしかし、男の底力を呼び起こすのには一役を買った。
「だぁ〜〜メッ!」
「うぉぉぉぉぉ!!!!」
タイミングを見計らったように女の腕が男の首に回る。
あと1センチの所でその腕が男を捉えることは叶わなかった。男は己の限界に挑戦するような速力でアスファルトの荒野を駆け抜けていく。
それからさらに1時間の鬼ごっこの末、CCG本局の眼前まで来た所でついに追撃は止んだ。男は今日も勝利した。
地平線の向こうから勝者を称える陽光が現れると瞬く間に世界を駆け抜けていった。
今日も、今日も男は大女難の咎へと叛逆を果たしたのだった。朝日が綺麗である。
男side
朝日が間も無く登る。
今日も今日とて何とかなりそうだ。私は何としてでも彼女から逃れなければならない。彼女…愛支から。そして何としても守らなければならない…私の貞操を!
私は決して彼女のことを嫌ってなどいない。むしろ心から愛していると言っていい。だがしかし、私には決して操を任せることができない歴とした理由があるのだ。
第一に彼女はまだ若い、私は決して少女趣味ではないのだ。子供扱いすると彼女は怒るから決して直接は言わないが…だとしてもまだまだ青い春に甘酸っぱい愛を求めてもいいくらいの歳である。
私など…彼女と同じ時は恋どころか友達すらいなかったのだ…心から愛しいと想う彼女には是非ともソコソコの普通というモノを経験していただきたいのである…私の話はまたそのうちにでもしよう。
それより、私などはいわば例外であって、彼女がヒトなのかそれ以外かなんぞ何の障壁にもならないのだ。
…彼女は今でこそ成功を果たしたと言えるかもしれないがそれは彼女の類い稀な才能と、何よりも人並み外れた努力の継続に他ならない。怠け性の私なんかとは比べるまでもない。彼女が幸せかはともかく、彼女が生きる上でより多くの選択肢を得られたこともまた事実だ。
だから私はさっさと彼女の人生から出ていくことにしたのである。私という存在は外見や中身は人間と同じでも、本質的には到底人間と同じとはいえないから。彼女の人生に居座り続けたとして、彼女にとっての不利益を呼んでしまうかもしれない。そんな恐れを日々抱いていては私としても不安で眠れないし、何より彼女へ申し訳なかったのだ。
そんなこんなで出奔した日から1ヶ月。私は自分が愛した彼女から毎晩のように追いかけられている。
当初こそ何事もなく再開を喜んだものだが、よく考えればおかしいことだった。どうして全て捨てて家出したやつを数日で見つけられるのか、どうしてそんな奴に出会い頭に抱きつけるのか。
…どうしてそんなに笑顔なのか。私は彼女の瞳に覗き込まれながらも必死に違和感の答えを探した。
ギュッと締め付けられるほどの力で抱きしめられながらも私は違和感の答えを見つけた。…なるほど、私にとって彼女が愛しい存在であると同様に、彼女にとっての私というものも中々に捨てがたいモノだったようだ。
私を話すまいと抱きしめる彼女の腕、背中に回った彼女の手には確かに婚姻届が握られていた。
その日からまた、私の女難の日々は始まった。
朝起きれば視界を埋める愛支の顔。彼女の美しい顔を朝から観察し放題なのは嬉しいが、徐々に距離を詰められるところから1日が始まるのだからたまらない。
私は断じてうら若き乙女の青春を奪い、あまつさえ人生の楽しみを知らぬ内に人生の墓場への片道切符を切らせるつもりはない。ないったら無いのだ。
だが、そんな私の気持ちとは裏腹に、彼女の攻撃は苛烈を極めたのである。…私とて少しくらいは思っていなかったわけでは無い。彼女は美しいし、可愛いし、正直好みのタイプだし、尽くしてくれるし、才能もあるし、経済力もあるし、何だったら私を大事にしてくれる。
たが、だが、朝っぱらから肉食獣に襲われるような毎日は流石に気苦労が凄いのである。私は彼女の愛を受け止めきれずに逃げ出したのだ。情けない。私もそう思う。
しかーし!私は後悔はしていない。何故なら、あのまま暮らしていたらいつか必ずお腹を大きくした彼女と共に市役所へと結納していたビジョンがありありと見えるからである。