彼は何を言っているのだろう。
幼いハンコックの頭の中はその言葉でいっぱいだった。
「俺が変わろう。」
全てはその一言から始まった。
「だから!何度言ったらわかるんだよ!?天竜人の所有物にゃあこの焼印が必要なんだよ!!てめえ一人が全部受けたからって何の意味があるんだよ!!えぇ!?それともなにか!?テメェがマジでここの奴隷全員分の焼印を受けてくれるってのかい?!」
「全員分受ければ良いんだな?」
「ぷっ!ギャハハ!!マジかよ!おー!いいぜー!できるんならな!ぎゃはひひひひ!!こりゃ傑作だ!」
「ならば、受けよう。」
「ぎゃはは…は、は…へ?」
「さぁ、始めてくれ。」
「…ま、まじかよ…」
「く、狂ってやがる!!お望み通りにしてやるよ!オラっ、ジャンジャンもってこい!鏝が溶けるまで刻んでやるよ!」
自分の番だったはずが、気がつけば自分を遮るように屈強な男が立っていた。刑吏達は戦き、ハンコックは呆然と男の強い眼差しを見つめていた。
男の言葉は淡々と、それでいて力強かった。そして、男もまた強かった。焼鏝が次から次へと持ち替えられ、ついには酷使しすぎたのか熱でひしゃげて使い物にならなくなってしまった。
数百人分の焼鏝は数時間休みなく続いた。ジメジメとした地下牢で汗だくになりながら焼き印が重ねられていった。劣悪な環境下で誰もが正気を保つことなどできずにいた。だが、そんな状況下にいるすべての囚人達でさえ目の前の異常事態に我を取り戻していた。
女ヶ島という閉じられた世界から一足外に出たハンコック達が連れ去られた先は糞尿は垂れ流し、害虫や鼠が蔓延る地獄だった。地獄での生活は幼いハンコックと彼女の大切な妹に深い傷を負わせたが、それでも尊厳だけは守り通そうと必死だった。何故かマリージョアの外で大乱戦が起き、焼鏝を押される本来の期日が延期されたおかげで彼女達の背中には傷ひとつなかった。
そうして今、目の前では彼女達を含む数百人分の焼鏝を自ら進んで受けている男がいた。屈強な男は腰のブリーフ以外は全裸であった。鷹のように鋭い目つきの男は、汗をかきながらも顔色ひとつ変えずに背中を差し出していた。
悲鳴をあげるはずの絶望と苦痛を自ら一身に受け続ける姿は、幼いハンコックには理解し難い神々しさとも美しさともとれる感動を与えた。一人でに涙を流す彼女を両脇で妹達が支えた。三人は片時も目を離さなかった。自分達のために男の背が焼け爛れて行くのを目に焼き付けるように見守った。
「ひ、ひ、ひひ!!ひゃはは!う、うそだ!数百人分だぞ?な、なぜそんな平然としていられる!ひ、ひぃぃぃ!!」
「ばけものだ!化け物がぁぁぁ!!」
「もう終わりだな。では、俺は行くぞ。」
恐らく三百人分はくだらない数の焼灼を受けても、男の背中は揺るぎなかった。焼け爛れてはいるものの、そこに恥はなく、また恐れも疲れもなかった。気が狂ってしまった刑吏達が次々に泡を吹き死屍累々と男の足元に転がっていく。男は彼らを歯牙にもかけずに両腕の枷を力任せに引きちぎると囚人達に向き直った。
ブリーフパンツ一丁の姿で男は言った。
「俺はこれからここを出て行く。あとは好きにすると良い。」
それだけ言い残した男は力任せに壁を突き破り、最短距離でマリージョアの「城」に向かって爆進を開始した。
うおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!という雄叫びが地下牢に響き渡った。
大人達は我先にと刑吏から鍵を奪うと枷から解放されていった。親切なものは自分の枷を外すとすぐに周りのもの達の枷を外していった。幼いハンコック達は自分達で枷を外すと、確かめるように互いの体を抱いた。手首の跡はきっと消える筈だ。けれど、もしもこの背中にあの焼き跡がついていたら…考えたくもなかった。
逃げる者、戦う者、惑う者…そしてあの屈強な男を追う者。解放された者達は各々で分かれると進むと定めた道を進み出した。幼い三人は満場一致で恩人の後を追った。
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ハンコック達が炎上するマリージョアの「城」に辿り着いた時、火の中からあの男が現れた。
男は燃え盛る火炎を背に顔面崩壊気味の天竜人数匹を引き連れて堂々と正門をくぐり抜けた。
「ぎゃぁぁぁぁ!や、やめるんだえぇえ!!」
「黙ってついて来い。」
「ひ、ひいいぃ!!げぶ!?」
「もう一度言う、黙ってついて来い。」
「ひぃ!ひゃい!」
歯がほとんど残っていない天竜人の首に荒縄でできた輪を括りつけ、それを後ろの天竜人に…と言うのを繰り返した状態で天竜人は連行されていた。男は返り血まみれだったがブリーフパンツだけは雪のように白かった。
ハンコック達は男について行く。男は立ち止まらなかったが、ハンコックについてくるなとも言わなかった。ハンコックは一言も交わしていないにもかかわらず、男についていけることになにか熱いものを感じていた。
男は天竜人を引き連れてどこに行くのかと思いきや混乱気味の海兵を呼びつけてこう言った。
「バスターコールを発動させろ。モンタナ・バルバスバウはここにいるぞ。」
モンタナ・バルバスバウ
その名前を聞いた途端、海兵は脱兎の如く逃げ出していった。
モンタナは眉ひとつ動かさぬままに天竜人とハンコック達を引き連れて崖へと辿り着いた。
崖の下に辿り着くと男は初めて振り返り、ハンコック達や、途中で合流したモンタナの後を追いかけてきた者たちに向けて言った。
「ここからは覚悟を決めてもらう。二度と世界政府の傘の下には入れぬことを理解しておけ。では、暫し待機。」
それから間も無く海兵を満載した海軍艦艇が現れた。将校から悲鳴のようなものが上がるが男は気にしなかった。武器らしきものも持たず、ブリーフパンツ一丁で男は数十隻の海軍艦艇に向けて声を張りあげた。
「ここに天竜人がいる。今から言う指示に従うように。従わない場合はここにいる天竜人を一人ずつ抹殺する。そして、あらかじめ忠告するが侮辱や刺激するような言動は指示に従わなかったこととみなす。注意するように。」
淡々と申し述べられた言葉に戦慄する将兵たち。進み出た数人の将校が上官に逐次報告しつつ交渉を開始した。
「わ、わかった!!指示に従う!!要求は何だ!」
「海軍軍籍から抹消された軍艦を10隻用意すること。爾後480時間追跡を禁止する。追跡が確認された場合は即刻天竜人を一人抹殺する。この場にある軍艦で構わない。物資は現状を維持しろ。海兵は全員船から降りろ。降りる際に武器は全て残しておくこと。金銭は乗客一人頭現金1000万ベリーだ。天竜人の受け渡しは、船等の準備が爾後五時間以内に完了することを条件に考慮する。一時間以内に完了しなかった場合は一人抹殺する。抹殺する天竜人は現場で今回のバスターコールの指揮権を担う大将に指名する義務を付与する。義務を履行しなかった場合もう一人抹殺する。指名義務は海軍本部元帥に付与する。履行しなかった場合はもう一人抹殺する。もう一人は現場将校の満場一致で行う。ただし議論は三十分までとする。それを越えた場合、俺はマリージョアで"火の巨人"となり城が全焼するまで行動する。それでも対応しなければバスターコールの大将を抹殺する。ひとまずは以上だ。これから五時間を計測する。」
「ま、待ってくれ!「では、はじめ。」ひぃ!」
怒涛の勢いで始まった交渉は一方的に締め切られた。時間の遅延が一秒でもあれば、天竜人の命はない。デモンストレーションも兼ねて男は手近な天竜人の人差し指を引きちぎり現場の将校に投げ渡した。
「敵対的な姿勢またはその兆候が確認された場合、この場にいる天竜人の指を一本ずつ引きちぎる。俺から指を投げ渡された将校はそれを食べること。食べなければもう一本別の天竜人から引きちぎる。引きちぎる指が俺が前回投げ渡した将校にあるものとする。では、後悔の無いように準備を開始することを推奨する。」
男は本気であった。将校は相手が自らの手に負えないことを理解すると速やかに将兵を船から下ろしていった。
一人頭1000万ベリーと設定された金額により、後方から続々と男の元に集まってきた元奴隷たちにより膨れ上がっていった。
最終的には数十億ベリーも下らない額となり、海軍本部は今や火の海となっているマリージョアからの認可を得るより先に天竜人のための接待費や海軍予備費まで注ぎ込んで現金約50億ベリーを用意し、軍籍を抹消された艦艇10籍にこれを満載して送り届けた。
乗り込みが完了したことを確認した男は海軍将兵に対して宣告した。
「一ヶ月後に指定した場所に天竜人を保管しておく。取りに来るように。以上だ。」
ゆっくりと遠のく艦影は歓声の坩堝と化した。軍官から奪取した物資を目一杯使って宴会が全ての船の甲板で行われた。夜になっても自由を掴み取った者たちの喜びは収まらなかった。魚人も巨人も関係なかった。デッキでたたずむモンタナの純白のブリーフパンツが西日に照らされて美しかった。
一人細身の葉巻を蒸すモンタナを、ハンコックは静かに見上げていた。聖地マリージョアから逃れられた者のどれだけが世界政府からの追手から逃れ続けられるだろうか。ふと、ハンコックはそう思ったのだ。これだけ世界政府を虚仮にしたのだ、必ず前例のないほど苛烈な報復が待ち受けているだろう。
「あなたは、怖くないの?」
いつのまにか声が出ていた。ハンコックは口を抑えたが、あの鋭く強い瞳に見染められては叶わなかった。こちらを見つめる鋼の視線をしかしハンコックはうっとりとして受け止めた。
屈強な男は言った。
「恐怖することは生物として必要なことだ。恐怖が俺を死から遠ざけてくれる。だが、恐怖に振り回されてはならない。それに…再び捕まることを恐れるなら最初からこの世界の過酷な理不尽に抗おうとはしないだろう。君もマリージョアから逃れようとはしなかっただろう。だが、現に君はマリージョアから逃げたんだ…君は自分で自由を選んだのだ。自らの選択の先にあることを恐れることは間違いではない。寧ろ恐れるべきだ。そして、その恐れを凌駕することだ。その為に、俺は自由を掴んでこの船に乗ったもの達に一人頭1000万ベリーを支払う。君たち姉妹にも、一人当たり1000万ベリー支払う。これは、君たちの勇気の対価だと思うといい。」
男の声をこれほど長く聞いたことはなかった。男の声は冷徹だが温かい人間の声だった。モンタナの低くて力強く、どこか優しい声をハンコックは気に入った。
ハンコックは鷹のように鋭い瞳をもつこの屈強な男を陶然と見つめながら太陽の沈んだ水平線の向こうに明るい朝日を思い描いた。