実況パワフルプロ野球恋恋アナザー&レ・リーグアナザー   作:向日 葵

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第四四話 五月三一日 バスターズ "受け継がれるもの"

 五月三一日

 

 

 怪我。

 それはおそらく、才能あふれるプロ野球に入ることを許されるほどの能力の持ち主達がその輝きを失ってしまう、最大の理由。

 

「引退、か」

「はい。アマチュア時代に壊した肩です。……元から限界だったのかもしれません」

 

 それは、葉波風路が憧れの念を抱いていたほどの相手でも、同じだ。

 

「あと一年、リハビリを頑張ってみないか」

「限界ですよ。……もう、肩が上がらないんです」

「一軍監督は、お前に夢を見ていたんだ。その夢をもう少しだけでいい。見せて欲しいんだ」

「……期待して、いただいていたのにこんなザマで、申し訳無いです」

「――ッ、東条……ッ」

 

 東条。

 天才と呼ばれ、中学時代には葉波に立ちはだかるライバルとして君臨した、もしかしたら猪狩世代の主役の一人になっていたかもしれない男。

 

「今まで、お世話になりました。監督」

 

 彼は今日、ユニフォームを脱ぐ。

 二軍監督が何かを言おうと口を開くが、言葉は出て来なかった。

 辞表代わりにユニフォームを脱ぎ、東条が監督に万感の思いを込めてユニフォームを手渡した。

 筋肉のついた身体は彼がここまで、どのような努力を重ねてきたかを物語るようで。

 その右肩に走る手術痕は、彼自身の壮絶な戦いの跡だった。

 

「失礼します」

 

 東条は頭を下げ、監督室を後にした。

 

「雅に、連絡しないとな」

 

 自分とは違い、春がトレードで出された後、順調に一軍で姿を見せ始めた元チームメイトを想い、東条は自嘲気味に笑みを浮かべる。

 長い、戦いだった。

 彼が最初に肩を痛めたのは、高校一年の頃だった。

 捕手にとって、肩は生命線だ。

 それを壊したせいで高校を転校。転校した先のときめき青春高校で、仲間たちと出会った。

 外野手として復活し活躍して、三位でバスターズに入団。そこまでは順調だった。

 プロ三年目で、肩の腱板を断裂した。

 試合中に肩を抑えてうずくまる姿は滑稽だったろうと東条は思う。

 同じ所にメスを入れることになった時点で、もうダメなのかもしれないという想いは頭をよぎった。それでも、もう一度フィールドに立つことを願ってリハビリを続けていたが、結局、肩は上がることは無かったのだ。

 何気なしに、外を見る。

 まだ昇ったばかりの日差しが東条をあざ笑うかのように元気に輝いていた。

 

「もう、夏か」

 

 高校時代の三年間が終わりを告げた日を、思い出す。

 こんな風に鬱屈したような感覚は無かったけれど、清々しくも悲しい終わりだったけれど。

 自分の球道は、終わりを告げたんだ。

 あの時と変わらない感じ方のまま。

 あの時とは違う、もう二度と瞬間を競う為にボールは握らない。プロ野球選手としての、終わり。

 もし、自分が怪我をしなかったらどんな選手になっていただろう。

 カイザースを引っ張り始めた葉波風路のように、なれただろうか。

 葉波風路が東条慎吾にあこがれていたように、東条慎吾も葉波風路に憧れていたなんて葉波が知ったら、笑うのだろうか。

 ふいに熱いものがこぼれたのを感じて、東条は頬に手をやる。

 濡れている。涙だ。

 こんなふうに涙を呑んだ選手なんか幾千も居る。その中のありふれた一人だと自分でも理解しているのに、あふれた涙は止まってくれやしない。

 もう一度戻りたい。怪我する前の自分に。

 けれど、それは叶わない願いだ。進んだ時は戻らない。この一瞬一秒だって貴重な時間で、だからこそ高校時代の時間はあんなにも尊く、愛おしく、眩しいのだから。

 

「……っ……」

 

 ぽたぽたと涙が床に落ちる。

 無念だった。

 二軍監督に夢をもう少し見せてくれと言われた時、思わず頷きそうになった。

 それでも、肩が発する鈍痛は一向に良くなる気配なんか見せてくれなくて。

 ぎゅうう、と己の右肩を握り締める。

 

「――――――っ!」

 

 言葉にならない叫びがバスターズ寮にこだまする。

 五月三一日。

 東条慎吾は、引退した。

 

 

           ☆

 

 

 夕暮れ。

 突然葉波は、東条に河原へと呼び出された。

 私服姿のまま、二人は久しぶりに顔を合わせる。

「よう、東条」

「久しぶり、葉波くん」

「メール貰って驚いた。いきなり会いたいだなんてな。……引退するって?」

「ああ。うん」

「……そっか」

「……精悍な顔つきになったね。一皮むけたのかな」

「かもしんねーな」

 

 東条が地面へと座り込んだ。

 葉波は立ったまま川の流れを目で見つめている。

 

「コーチでも、やってみたらどうだ?」

「……そうだね。スコアラーとかも面白いかもしれない」

「ああ、だろ。お前にピッタリだよ」

「うん。……葉波くん」

「ん?」

「……プレーヤーとして、僕は終わったよ。……だから、キミに預けたい。選手としての、僕の魂を」

「……魂、か」

「うん。今日やっと分かったよ。無念なんだ。ものすごく」

 

 東条が笑いながら、それでもしっかりとした声色で葉波へと告げる。

 それを否定する気など葉波には起こらなかった。

 

「それでも、もう自分にはどうしようもない。……それを、どうやって消化するかって言ったら。託すしか無いんだ」

 

 託す。

 その言葉のウラに隠された東条の気持ちを、葉波はなんとなく察する。

 "キミに預けたい"。

 その言葉を思い出して、葉波は空を見上げた。

 暮れていく空が物悲しい。

 

「……受け取ってくれるかな」

「……ああ、当然だ」

「ありがとう」

 

 微笑みながら東条から差し出されたキャッチャーミットを、葉波は受け取る。

 

「確かに、受け取った」

「ありがとう」

 

 きっと、ライバルでありながら仲間だったんだろうと葉波は思う。

 自分が怪我をした時、もしもあのまま復帰が遅れていたら東条のようになっていたのだろうか。

 東条の顔はスッキリしているのに、どこか儚い。

 

「俺は、お前のことをライバルだと思ってた」

「……僕もだよ」

「ありがとな。……野球から離れんなよ」

「離れられないよ」

「そか。ならいい。"後は任せろ"」

「――うん」

 

 それっきり、二人の間に会話は無かった。

 陽が沈んでいく。

 斜陽。

 夕暮れの日差しが、道をオレンジ色に染めてゆく。

 

「そろそろ帰らねぇと」

「うん。わざわざ、ありがとう」

「ああ、こっちこそな。……またな、東条。今度は一緒に野球しようぜ」

「喜んで」

 

 座り込んだままの東条に背を向けて、葉波は歩いて行く。

 その後ろ姿を、東条はじっと見つめていた。

 歩んでいく葉波と、座り込んで動かない東条。

 まるで対比させられているかのようだ。

 先に進む葉波の姿が見えなくなっていく。

 東条は、その背中をいつまでも見つめていた。

 葉波の姿が見えなくなっても、そのまま、その先を眩しそうに、ずっと見つめていた。

 

 

                ☆

 

 

「引退しちゃうの?」

「うん」

 

 東条はキャットハンズの寮の前にかつてのチームメイト、小山雅を呼び出した。

 金髪のツインテール。長い睫毛、整った顔立ち。猪狩世代、ドラフト指名された五人の女性選手のうちの一人である。

 思えば、東条は辛い時はずっと彼女に支えられてきた。

 東海大付属を中退して入ったときめき青春高校で、初めてキャッチボールをした相手。

 野球をやりたいという彼女に引っ張られて、青葉と一打席勝負を繰り広げたり、部員集めをしたり……色々、一緒に頑張った。

 あおいと葉波、春とみずきのような恋人同士なんて甘い関係じゃない。

 そうなりたいと小山雅は思ったことがあったが、結局言い出せなかった。

 彼女から見た東条はそういった感情を抱く暇もないと思える程にずっと戦っていたのだから。

 肩を痛めてとき春に入ってきた彼とキャッチボールした日を、小山雅は忘れない。

 僅か一〇メートルでワンバウンドするボール。

 野球をやっていたなんて嘘を吐いているんだ、と疑うほど力のないキャッチボールだった。実際、彼の打撃練習を見るまでは疑っていたのだ。

 たかだか一〇分程キャッチボールをしただけで、肩を抑え、呻く。

 それでも必死に笑顔を作って、自分にボールを投げ込んでくる。

 ある日は肩に鍼を打って。

 ある日は肩にテーピングをして。

 徐々に徐々に、投げれるようになって、最終的には外野を務めるまでになって。

 やっと、東条は神様に打ち勝ったのだと雅は思っていた。

 これから彼は野球選手として輝いていくのだと、勝手にそう思い込んでいた。

 ――東条が再び肩を痛めたと聞いたのは、葉波のドラフト指名前、昨年の八月のことだった。

 メスを入れると。

 既に肩は慢性的な痛みに支配されているから、いい機会だと、東条は言っていたのに。

 多分その時には覚悟していたんだろう。

「どうして、話してくれなかったの」

「雅が、頑張っていたから」

「……もっと……頼ってきてよ……」

「心配掛けたくなかったんだ。僕より雅の方がレギュラーになれなくて苦しんでいるから」

「そんなことっ……!」

 

 二の句を紡ごうとした雅の唇に、硬い人差し指が押し付けられる。

 豆がタコになった、硬い指。

 それ以上言わなくていい、というかのように東条は首を横に振る。

 

「僕はそろそろ行くよ」

「……ぅ……」

 

 待って、という言葉も彼は言わせてはくれなかった。

 ただただ優しいほほ笑みを浮かべ、頑張れ、と応援してくれる。

 目頭が熱くなる。

 どうして神様は、彼にばかりこんな試練を与えるんだろう。

 こんなにも優しいのに。こんなにも野球を愛しているのに。

 こんなにも手が硬くなるほど、努力していたのに。

 

「雅」

「……な、に?」

「僕がここに居た理由が、やっと分かったんだ」

「……え?」

「僕は"託す"為に野球をやっていたんだよ」

 

 捕手としての意志を、葉波に。

 野球選手としての魂を、雅に。

 彼と彼女に、魔法を掛けるために――。

 時に彼に立ちふさがり、時に彼女と共に走り。

 そうして、彼と彼女の足りないものを埋めて、野球選手として成長させるために、きっと東条は野球を始めたのだ。

 

「僕は主役になり損なった脇役かもしれない。けれどね、雅」

 

 東条は笑う。

 どうしてそんな風に笑えるのかと思うほど、嬉しそうに。

 

「そんな僕の『意志』を。『魂』を。受け取ってくれる人が居てくれるなら――こんなに幸せなことは無いんだ」

 

 怪我で野球を諦めた人は掃いて捨てるほど居るのだろう。

 けれど、彼らが標した軌跡は絶対に潰えない。

 その背中を見て、『先輩の分まで自分がやる』と火のついた仲間がいるだろう。

 その怪我を見て、『あいつの分までやってやる』と誓った仲間がいるだろう。

 その"意志"を――。

 その"魂を――。

 受け継いでくれるライバルが、仲間がいる限り、絶対に。

 

「……っ……う、んっ……」

 

 もう、声が出なかった。

 ポロポロと涙が溢れだし、地面に染みを作る。

 受け継ごう。

 彼の『魂』を。

 そうすることこそが、道半ばでバットとグローブを置く彼への、最高の"恩返し"なのだから。

 

「がんば、る。がんばるよ……っ」

「……頑張れ」

 

 涙の止まらない雅を、東条はぎゅうっと抱きしめる。

 

「ひ、ぐ……うぁ、うぁぁ……」

「頑張れ、雅。……頑張れ」

「うああああああ……!」

「頑張れ……」

 

 とっくに涙の枯れた自分の代わりに涙を零す彼女を胸に収めたまま、東条は夜空を見上げる。

 夏が、始まる。

 長い長い、夏が――。

 


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