実況パワフルプロ野球恋恋アナザー&レ・リーグアナザー   作:向日 葵

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第五一話 九月一日 カイザース "vsバルカンズ 矢部との決着"

 九月一日

 

 

 パワプロが調子を取り戻したことが流れを変えたのか、カイザースは再び再点火し、勝ち星を稼ぎ始めた。

 八月が終了し、順位はキャットハンズ、パワフルズ、バルカンズ、カイザース、バスターズ、やんきーズのままだが、キャットハンズとパワフルズの差が1,5。パワフルズとバルカンズとの差が2ゲーム、そして、四位カイザースと三位バルカンズとの差は0,5ゲーム。

 四球団が四ゲーム差の中にひしめくという大混戦の様相を呈している。

 そして、残り試合は三〇試合。いよいよペナントレースも終盤。

 カイザースは九月最初の試合を本拠地猪狩ドームで迎える。

 対戦相手はバルカンズ。かつてのパワプロの盟友である矢部と、ライバル林、六道聖が在籍するカイザースが苦手とする球団である。

 俊足選手が揃っていることを利用した波状攻撃に、カイザースは辛酸を嘗めさせれてきた。

 だが、カイザースにとっては今回も同じようにやられる訳には行かない。

 今日勝てばカイザースは三位に浮上する。残り試合数が少なくなった今、四位に燻っている余裕はない。

 目先の試合を必勝し、順位を上げて首位に近づいていく――、残された優勝への道は、それしかないのだから。

 

 

                   ☆

 

 

 矢部は誰よりも早く球場入りした。

 

(今日はパワプロくんとの試合。……今日は絶対に勝たなきゃいけないのでやんす)

 

 ユニフォームに着替えてストレッチをしながら思う。

 矢部は今日、新垣に向けて試合のチケットを送ったのだ。

 引退すると決めて練習に姿を見せなくなった新垣は、矢部に一切の姿を見せなくなった。

 オールスターが開けてから声を聞くどころか姿さえ見ていない。

 そんな彼女に向けて、わざわざカイザース戦のチケットを送ったのは、訳が有った。

 ――パワプロは、矢部にとって最高の親友であり、最大の壁だ。

 自分を野球に引き戻し、道を拓いてくれた大親友であり、立ちはだかった最高のライバル。

 対戦成績こそバルカンズが有利だし、矢部だってパワプロ相手に何度も盗塁を決めている。

 しかし、まだ乗り越えられたとは言えない。

 盗塁した後は本塁に帰らせてくれない。気付けば、ヒットを打った後は進塁させてくれない。勝利を手にしたと思っても、気付けば立ち上がり、徐々に成長して、気付けば此方を超えている、そんな感覚を抱かせるのが、あのパワプロという男だ。

 そして、恐らくこのペナントレースの大詰めでこそ、パワプロは真の力を発揮する。

 そのパワプロを越えてこそ、壁を乗り越えた、そう言えるのだ。

 

(その姿を、オイラは……見せるのでやんす)

 

 あの子が抱いた理想を体現する自分が壁を乗り越えて優勝する姿を見せてこそ、彼女に言えることが有る。

 その一言を伝える為に、今日は絶対に勝つと矢部が拳を握りしめた所で、目の前に最大のライバルが現れた。

 

「矢部くん、早いな」

「……パワプロくん」

「? どうした? 怖い顔で」

「……オイラ、今日は負けられないのでやんす」

「……、そうか」

 

 矢部の言葉を受けて僅かに逡巡したパワプロは、柔和だった表情を引き締めた。

 

「俺も、絶対に負けられない。……勝負だ、矢部くん」

「……やっぱり、パワプロくんは最高の親友でやんすよ」

 

 理由も聞かずに闘争心を露わにしてくれた、ライバルであり同時に親友でもある彼に微笑んで、矢部は後ろを振り向く。

 

「――新垣に最高の試合を見せてやろうぜ」

「! ……そうでやんすね」

 

 背後から掛けられた言葉にそれだけ答えて、矢部はダグアウトへと歩き出す。

 この観察眼に、高校時代の矢部達は幾度も救われてきた。

 それが、敵となる。

 今まで『頼りになる』と思ってきたその観察眼を、今度は向けられる立場になって、矢部は恐ろしさを感じつつも、野球選手としての当然の欲求を覚えた。

 

(――その眼を、越えてやるでやんす)

 

 ライバルに勝つ。

 そんな男として当然の、欲求を。

 

 

                ☆

 

 

 午後六時が近くなり、試合がいよいよ始まる。

 俺は先発の山口の投球練習のボールをキャッチングし、投げ返した後、バックスクリーンに目をやった。

 バルカンズのスタメンは殆ど不動のメンバーだ。

 一番、矢部、ショート。

 二番、林、セカンド。

 三番、六道、キャッチャー。

 四番、猛田、ライト。

 五番、八嶋、センター。

 六番、後藤、ファースト。

 七番、桐谷、サード。

 八番、田中、レフト。

 九番、大西、ピッチャー。

 開幕メンバーに入っていた六番の南戸は不調の為二軍落ち中で、代わりに上がってきた後藤がそのまま六番に入る形になっている。

 後藤は大卒七年目の二九歳。左投げ左打ちという、起用がファースト、外野に限定されてしまう選手で、今までは代打としての出場が多かった。

 しかし、今年に入ってファーストの守備が上手くなり、持ち前の打撃力を発揮して南戸のレギュラーを完全に奪った形になっている。

 こういう風に好不調で選手が入れ替わることは多々ある筈なんだけど、レ・リーグは近年稀に見る大混戦。

 皆、空気を変えるのを嫌がっているのか、どの球団もレギュラーを大きく変えずにここまで戦い抜いている。

 また、怪我人も殆ど出ていないのも大きいだろう。……何よりも、殆どの主要メンバーは猪狩世代。

 近年稀に見る黄金世代と言われたメンツの殆どが、二軍や控えの選手たちに脅かされることがない程に実力を伴っているせいで、メンバーの入れ替えが殆ど『出来ない』のだ。

 それは俺達カイザースも変わらない。

 一番、相川、センター。

 二番、蛇島、セカンド。

 三番、友沢、ショート。

 四番、ドリトン、ファースト。

 五番、春、サード。

 六番 近平、ライト。

 七番、飯原、レフト。

 八番、葉波、キャッチャー。

 九番、山口、ピッチャー。

 変わったのは六番でレフトを守っていた近平がライトに回り、レフトに打力が優秀な飯原さんが入ったことくらいだ。

 捕手から今季外野にコンバートされた近平が守備に慣れてきたということで、肩の強さを活かしてライトへ。守備的な負担が少ないレフトには、守備は劣るものの打撃能力が高い飯原さんがレギュラーに座った。

 谷村さんはどちらかというとスーパーサブ的な扱いの選手だったが、ここまでレギュラーを守ってきた。

 しかし、レギュラーでの出場で疲れが溜まったのか、此処最近はバットが湿りがちだった。

 それでこんなスタメンになったのだろう。

 間もなく、午後六時。

 バッターボックスに矢部くんが歩いてくる。

 始球式のボールを矢部くんがわざと空振りして、マウンド上のアイドルにお辞儀をした。

 矢部くんは、俺の方を向かない。

 殺気みなぎる、という表現が正しいのか、矢部くんは今日の試合にいつも以上に気合を入れている。

 矢部くんが、そんな風に気合を入れる理由は決まってる。……新垣が、来るんだ。

 引退が決まった、矢部くんのパートナー。

 きっと、このプロという舞台でも共に戦おうと誓っていたはずの、恋人なんて甘い関係じゃない、大切な人。

 その気持ちは――誰かを想い、試合にぶつける気持ちは、俺にも解る。

 だからこそ負けられない。相手が全力で来るのなら、真正面からぶつかり合えばいい。

 相手が親友なら、尚更のことだ。

 

「バッター一番、矢部」

「プレイボール!」

 

 後ろの審判から声が上がる。

 俺は、マスク越しに山口を見た。

 ブルペンでの調子は悪くない。問題はそれをマウンドの上でも出せるか、ということだけだ。

 それを見極める為にも、まずは山口の調子のバロメーターであるフォークを使ってみよう。

 初球はフォーク。内角から落としてくれ。

 俺のサインに頷いて、山口が右腕を振るう。

 放たれたボールに、矢部くんが反応して初球から振っていく。

 その手前で、ボールは重力に逆らえずにストン、と落ちる。

 バウンドしたボールをミットでしっかりと捕球し、素早く山口に投げ返した。

 

「ストラーイク!」

『初球決まってストライク!』

『いきなりフォークから来ました。矢部選手を相当警戒していますね』

 

 よし、良い落ちをした。これなら決め球と分かっていても打てないだろう。いい時の山口だ。

 二球目は外角低めへのストレート。

 矢部くんはそれを右方向への力の無いファールにした。

 ツーストライクと追い込んだ。ここで一球高めへ外す。

 高めへのストレートの後にフォークを落とすのはセオリー通りの配球だ。矢部くんは嫌でもフォークを意識してしまっているはず。

 ここでその意識をズラすように別の変化球を投げさせるのも手だけど、ここは王道のリードで行く。

 今日の山口のフォークは分かっていても手が出てしまう程のキレが有る。当てることも出来ないだろう。

 俺のサインに山口が頷く。

 ツーワンから、山口が投じたフォーク。

 それを、矢部くんは振っていった。

 狙った場所よりも低めだが、十分バッターが手を出してしまうコース。

 三振を取った――俺がそう確信すると同時、矢部くんのバットがワンバウンドする程の強烈な落ちをしたボールを捉えた。

 ボール自体に力は無い。ボテボテのゴロを蛇島は前進して捕球し、ファーストへと投げてワンアウトを奪う。

 

「アウト!」

『フォークを打つもセカンドゴロ!』

『よく当たりましたねぇ。当てられるだけ凄いですよ』

 

 矢部くんが表情を変えずベンチに戻っていく。

 ……当てられた。今日の山口のフォークなら、確実に空振りを奪えた筈なのに。

 これは、この後の矢部くんの打席には最新の注意を払わないといけないな。

 調子も然ることながら、今日の矢部くんの集中力には恐ろしいものを感じる。

 思えば、昔から『ここ一番』という試合、場所では矢部くんは確実に結果を残していた。

 試合前に気合が入ってたのもあるし、今日はまさにその怖い矢部くんだろう。

 

「バッター二番、林」

 

 林が打席に入ってくる。

 林は典型的な俊足巧打。ラインドライブ系の打球を多く放つ。

 この手の打者に有り来たりな非力さを持つが、懐が深く内角を単純に攻めただけじゃ打ち取れない。

 ゴロを打てばヒットの確率が上がる打者。それも考えると、ゴロは打たせたくない所だが――ここはあえて、内角へのカーブでゴロを打たせてみよう。

 左打者である林の内側を攻めてそれを引っ張り打ってくれば、必然的に打球はファースト方向だ。

 内角に来た緩いボールであるカーブを流し打つには相当な技術が必要になる。林には悪いが、林は内角のボールを流し打ち、尚且つ間を抜くような強い打球を放つミートもパワーも無い。内角のボールをヒットにするには引っ張るしか無いだろう。

 引っ張り打ったゴロなら林の俊足を持ってしてもアウトに出来る確率は高いし、それを見極められても次のボールへの布石にもなる。

 山口のカーブはフォークと比べれば精度、球威共に劣るものの、十分プロの一線でも使えるボールだ。信頼して投げさせよう。

 思惑通り、山口が投じたボールを、林は引っ張っていく。

 ファーストドリトンがそれをキャッチし、そのままファーストベースを踏んでツーアウト。

 続く三番は六道。

 目が良い打者だが、ランナーが居ないのならば単打は怖くない。低め低めを丁寧に攻めていけば問題なく打ち取れる。

 ストレートを中心に、カーブを交えて追い込んだ後は、フォークで空振り三振に打ち取る。

 一回の表は順調に終わらせる事ができた。よし、この調子で次の回以降も抑えていくぞ。

 

「ナイスピッチ、山口」

「今日のボールは良さそうだが、パワプロの目から見てどうだ?」

「ん、俺も同意見。ただ、もうシーズンも終盤だし累積疲労も有る。調子に乗りすぎると痛い目を見るから、気をつけていかないとな」

「……うむ。では、そこら辺の手綱は任せる」

「ああ、任せろ」

 

 山口とグローブを合わせてベンチに戻る。

 さて、切り替えてこっちの攻撃だ。

 相手のピッチャーは大西。

 データ的に見ればカイザースは得意としている相手だけど、油断は禁物だ。

 

「バッター一番、相川」

 

 ウグイス嬢に名前を呼ばれ、相川さんが打席に立つ。

 大西の初球は、ストレートだった。

 パァンッ、と小気味いい音がベンチまで響く。

 審判が手を上げて「ストライク!」とコールした。

 バックスクリーンの球速表示を見れば、球速は一四九キロ。

 恐らく、自分がカイザースを苦手としているのを知っていて、飛ばして投げているのだろう。

 二球目は高めに浮いたシュート。

 しかし、コースは厳しく、球威抜群のシュートに相川さんは詰まらせてしまい内野フライとなる。

 林が手を上げてそれを捕球し、ワンアウト。

 続く蛇島、友沢も変化球を打たされ、三者凡退のチェンジになる。

 ふむ、変化球主体のリードだったな。

 六道のリードはデータ主体ではなく、投手の気持ちや調子を優先する傾向にある。

 ということは、今日の大西はブルペンから変化球の調子が良かったのだろう。

 まあいい。どうやって攻略するかは置いておいて、今は目の前の打者を打ち取るのに集中しないとな。

 キャッチャーズサークルに移動する。

 続くバッターは猛田から。

 今シーズン、猛田は三割を打っていてチャンスに強く、得点圏打率は脅威の四割。名実共にバルカンズの得点力の中核を担っている。

 春と似たような選手だが、春には申し訳ないけど打棒ならば春よりも数段格上だろう。

 流し打ちも上手く、外角に甘い球を投げてしまえばまずヒットになる。

 そういう打者を打ち取る時はインコースを上手く使うことが重要になる。

 幸い猛田の長打力はそこそこ程度。ホームランも一〇本にやっと到達したばかりだ。

 ツーベースはそこそこの数を放っているが、山口の球威ならばスタンドインはまず無い。

 データ的に見れば決して内角に弱い訳ではないけど、ここは内角を使おう。

 ただし、一応一発は警戒して低めにフォークを投げさせる。

 猛田は積極的に来る打者だ。交通事故があったら怖い。

 俺のサインに山口が頷き、フォークを投じる。

 猛田のバットが空を切った。

 

「ストライクワン!」

『初球からフォーク!』

『今日のフォークはキレてますね』

 

 これでフォークを印象付けることは出来ただろう。

 元々猛田は考えて打ってくるバッターではないが、否応でもこのフォークは意識してしまうはずだ。

 次はスライダーを内角低めに投げて貰おう。

 フォークの後、ストレートを意識してしまう所を曲げて打ち取る。

 見極められても内角に二球で目付けは済む、外角にストレートを投げさせればまず踏み込めない。それならバットに当たってもゴロになるだろうし、仮に安打を打たれても単打で済むはずだ。

 山口がボールを投じる。

 多少中に入ったスライダーを猛田はフルスイングするが、ボールはぼてぼてのサードゴロになった。

 春が丁寧に処理し、ファーストにボールを投げてこれでワンアウト。

 

「良いぞ山口!」

 

 審判からボールを受け取り、山口へとボールを返す。

 続く八嶋は五番だが俊足だ。

 バルカンズの足での攻めを象徴するかのような打者と言っても良い。八嶋が塁に出れば、八嶋も盗塁してチャンスを作ることが出来るからな。"どこからでも攻撃の起点を作ることができる"という印象を濃くしている打者と言ってもいいだろう。

 更に、五番に入っている事からも分かるように、打力もバルカンズ屈指と言っても良い程に高く、バッテリーにとってはかなりやりづらい打者だ。

 あのあかつき大附属の一番を三年間守りぬいた奴だからな。センスも技術も超一級品。

 そんな打者を打ち取る方法は小細工じゃなく、投手が出来る最良のピッチングをすることのみ。

 俺の役割は少しでもその最良が輝くよう、導くことだ。

 八嶋も山口のフォークが良い事は重々承知のはず。追い込まれればストライクゾーンを広げて、多少際どいボールでも振っていかなければならない。そうなれば、山口のフォークは最大限に活かされる。

 つまり、俺は打者をいかにして追い込むかを考えればいい。

 逆に言えば、八嶋は追い込まれる前に打とうとしてくる。

 バルカンズベンチは恐らく八嶋へ『積極的に打て』という指示をしているだろう。ワンアウトランナー無しのこの状況……普通の五番なら長打をベンチは望むだろうが、バッターが八嶋なら単打でも盗塁で進塁出来る公算が高い。

 それを考えると、八嶋の狙いは少なくとも出塁出来るよう、外角の甘い球を狙っているはず。

 なら、まずはインコース低めへストレート。初球だけはしっかりと力を入れて投げて貰おう。

 俺のサインに頷き、山口が腕を振るう。

 唸りを上げる豪速球はインコースへと投じられる。

 多少ボールが高くなったものの、スイングした八嶋のバットをすり抜けて、山口の全力のストレートが俺のミットに収まった。

 ズドンッ! という音と共に表示された球速は一五一キロ。山口の自己最速だ。

 八嶋が一度バットを降ろし、足場を均す。

 一度頭をリセットするための動作だろう。インコースは頭に無かったんだ。ここでインコースが強く意識づけられたはず。

 これでワンストライクノーボール。追い込めば勝ちと言っていい。

 そこで要求するボールはフォークだ。見極められても並行カウント。今日の山口のフォークなら、ストレートの後に投げさせれば確実に空振る。

 俺は八嶋が意識しているであろう内角に構える。

 山口がボールを投じた。

 コースはストレートならば甘いコース。

 八嶋はそのボールを振っていくが、ボールは空気抵抗によって深く沈み、バットをくぐり抜けてワンバウンドする。

 そのボールをしっかりと捕球し、審判にボールの交換をして貰って、山口へとボールを投げ渡す。

 追い込んだ後は、一球内角高めに釣り球を投げて貰って上体を起こし、ツーストライクワンボールからフォークで空振り三振に八嶋を打ち取る。

 よし、計算通り。完璧だ。

 六番バッターの後藤を打ちとって、バルカンズの二回の攻撃は終わる。

 続くカイザースの攻撃はドリトン、春、近平と続く。

 ドリトンは大西の多彩な変化球で三振。春は内野フライに打ち取られ、ツーアウト。

 続くバッターは近平だ。

 クリーンアップからは外れたものの、近平はここまで三割をキープし、ホームランも二十本打っている。

 捕手という守備の負担が大きいポジションから外野へコンバートしたことで打撃に集中出来るようになったことが功を奏していると言っていいだろう。

 流石神下監督だ。適正をしっかりと見極め、近平を諭して外野にしたんだ。この采配は凄いぜ。

 新人捕手である俺をレギュラーにして、昨年まで正捕手だった近平を外野にスパっと転向させるなんて真似、普通の監督に出来ることじゃない。

 首脳陣にバッティングを期待され、それに見事に答えている近平も流石だ。打撃の才能はチーム内でもピカイチだな。

 ツーアウトランナー無し。近平はバッターボックスで悠然と大西の投球を待つ。

 ネクストに座る飯原さんが、そんな近平の後ろ姿を頼もしげに見つめていた。

 大西がボールを投じる。

 投げられたボールはスライダー。

 そのボールを、近平は見事に流し打った。

 カァンッ! と快音を奏でながら、ボールはライト線を破る。

 

「おっしゃぁ! 俺をホームに返してくださいよ! 飯原さん!」

「ナイスバッティング!」

「飯原、続けー!」

 

 セカンドベースに滑り込んだ近平が大きく拳を握り、突き上げる。

 それを見ながら飯原さんがバッターボックスに向かった。

 ツーアウト二塁。バッターは七番飯原さん。

 六道が投手に寄って行き、口元をグローブで隠しながら何やら話している。

 大西はそれに対して何度か頷いた。

 

「バッター七番、飯原」

 

 飯原さんはボールをしっかり見ていく打者で、大西とは相性が良い。対大西の通算成績を見ても三割以上を記録している。

 その打者と俺を天秤に掛け、バルカンズバッテリーの出した結論は、

 

『おっと! 捕手の六道、立ち上がります! 敬遠!』

『勝負強いとは言え、打率が三割無い葉波選手の方が御しやすいということでしょうね』

 

 ネクストから立ち上がり、バッターボックスへと移動する。

 自分の成績が伴っていないせいとは言え、やっぱり前の打者を敬遠されるとムッとするぞ。

 二度バットを素振りして、バッターボックスに立つ。

 

『バッター八番、葉波』

「悪く思わないでくれ、パワプロ。お前の方が知っている分やりやすいし、打力が劣っているのは確実なのだ」

「分かってるから気にするな。まぁ、俺がそこに座ってても、同じ選択をしたとは限らないけどな」

「そうか。……それならば遠慮なく、まずはインコースから攻めさせて貰うぞ」

「何……?」

 

 六道が淡々と言って、サインを送る。

 コースを自分から宣言しただと……? ささやき戦術、ってやつか?

 六道のやつ、なりふり構わず俺を抑えるつもりだな。

 バットを構え、しっかりと大西を見据える。

 インコースと宣言してバカ正直にインコースを投げるとは限らない。

 かと言って、インコースを投げないとも言い切れない。

 それならば、ゾーンを大きく広げて、投じられたボールを強く叩こう。

 大西が投球動作に入る。

 来い! どこに来ても打ってやる!

 ビュッ! と投げられたボールは――内角へのカーブだった。

 

「っ!?」

 

 強く打とうと思うあまり、全力でスイングした俺をあざ笑うかのように、抜いたボールは俺のタイミングを完全に狂わせながら、六道のミットに収まった。

 

「ストライク!」

「宣言通りだぞ」

「……っ」

 

 しまった……っ。コースを意識しすぎて、緩いボールを思わず振っちまった……!

 落ち着け。大西はストレートも速く球種も多彩だが、コントロールはかなりアバウトな打者だ。必ず甘いボールは来る。

 息を吐いて、構え直す。

 惑わされるな。六道が何を言っても、俺は俺の考えで打てばいいだけのことなんだから。

 

「インコースだ」

「……」

 

 さっきは宣言通りにインコースに投げてきたけど、まだ、続けるつもりなのか。

 それなら読みを上回ればいい。それに、宣言通りにボールを投げられるとは限らない。つまるところ、甘いボールだけに狙いを絞って打っていけば良いだけだ。

 大西が二球目を投げる。

 投げられたボールは、内角高めへ外れたストレート。

 そのボールに向かって俺は全力でスイングをするが、ボールにバットは当たらなかった。

 

「追い込んだぞ」

「く……っ」

「パワプロ、ボール球だぞ。落ち着いて見極めていけ」

 

 ベンチから友沢が声を張り上げる。

 くそっ。結局乗るつもりはなくても、打ち気にさせられちまってる……!

 甘い球を必ず打っていくと言うことは、プロのボールに対して選球眼の甘い俺にとって『積極的に振っていく』ということとほぼ同義だ。そうなれば高めの速いストレートには必然、手が出やすくなる。それを狙って、六道は高めへ速球を投げさせたんだ。

 六道にコースを宣言されるだけで、球種の読みと積極性を完全に狂わされ、あっという間に追い込まれた。

 特に俺は思考型のバッターだ。考えて打席に立つ分、情報に惑わされる確率は高くなる。

 ささやき戦術に惑わされて余計なことを考えてくれれば、こういう風に追い込むのは容易い。

 完全に六道の思う壺だな、くそう。

 コン、とバットでヘルメットを叩く。

 プロで一流のバッターになろうというのなら、配球を読むことも勿論大切だが、それ以上に読みを超越した『反応』で打てなければならない。俺にはそのセンスが圧倒的に不足している。

 いくら肉体的にホームランを打てるようなスイングが出来るようになっても、反応して真芯でボールを捉えなければ意味がないのだ。

 センスが不足しているからといって、打席からは逃げられない。野球は打って点を取るスポーツ。センスが無いからといって諦める訳にはいかないんだから。

 それなら、どうすれば良い? 

 ……簡単だ。センスが足りない分――考えて、集中しろ。

 目の前の一球に全ての情報を注ぎ込み、後はボールに集中して、余計なことは考えるな。

 投げられたコースは二球ともインコース寄り。カーブ、ストレート。

 大西の球種はカーブ、スライダー、シンカー、シュート。

 ここで三球勝負は無い。大西のコントロールが悪く、無駄なボールカウントを増やしたくなかったとしても、六道の性格から考えても少なくとも一球は外してくる。

 大西が、投球モーションに入る。

 バットを引き、タイミングを測る。

 投じられたボールはスライダー。

 外へ流れるボールは外角低めにハズレてボールになった。

 これでツーストライク、ワンボール。

 序盤だが、ここは勝負どころの一つ。シーズンのことを考えればもうお互いに一敗も出来ないこの状況。カイザースは先制点を絶対に取りたいし、バルカンズは取られたくない。

 それならば石橋を叩いて細心の注意を払ってくるはず。

 カウントがフルカウントになったら次は投手だ。最悪の場合満塁策も考えられる。

 つまりは、もう甘いところには投げさせない。

 次はインコースにストレート。

 腰を引く程に厳しいボール球を見送り、ツーストライクツーボール。

 嫌というほどインコースを突いて来る。俺の九分割した打率のデータを見ても、俺はインコースに弱い。特にインコース低めの低打率は目立っている。

 ついでに球種別で見れば、一五〇キロ近い速球の打率が一割台前半だ。

 速いボールに対する俺の打率の低さも六道も知っているはず。だからここまで徹底してストレートとインコースを使っているのだろう。

 並行カウント。使ったボールはカーブ、ストレート、スライダー、ストレート。コースは順に内外内内。

 カウントがフルカウントになれば敬遠も視野に入る。

 バッターはストレートに弱く、インコースが弱点である俺で、六道は投手を盛りたてるリードをする、慎重型の捕手。

 この上で、俺が六道の立場で大西をリードするのであれば。

 ――投げさせるボールはアウトコースへのシュートだ。

 徹底してインコースを使って、苦手であるインコースを強烈に意識させ、アウトコースへの警戒を薄れさせつつ、速い球に弱いという俺の弱点を突いて、意識の薄れた外へ、速い球を投げさせる。それが最も打ち取れる確率が高いだろう。

 ストレートでも打ち取れる公算が高いが、更に慎重に行くのならば、万が一ストレートに反応された時の事も考えてシュートを投げさせれば、左の大西に対して右打者である俺からボールは逃げるように変化する為、インコースを意識して踏み込めないであろう俺が空振るか打ち損じる確率は高い。

 バットをぎゅっと握りしめ、息を吐き出す。

 狙いは決まった。後は、自分を信じて思い切りスイングしてやるだけだ。

 大西が頷き、クイックモーションからボールを投じる。

 同時に、俺は思い切り踏み込んだ。

 

「な――っ!」

 

 六道が息を呑む。

 投じられたボールは、

 

 外への、シュートだった。

 

 逃げていくボールをバットの真芯で捕え、月まで吹き飛ばすような勢いで、バットをフルスイングする。

 音は、一瞬遅れて聞こえた。

 弾き返したボールはファーストの頭を越えていく。

 

『打ったー! 葉波の放った打球はファーストの上を越えてライト線に落ちるー! ボールは転々と転がっていきます! セカンドランナー近平ホームイン! ファーストランナー飯原もサードを蹴って戻ってくるー! 葉波、先制二点タイムリーツーベースヒット! 前の打者を敬遠された葉波、どうだと言わんばかりの意地のバッティング!』

『少々ボール気味の外への変化球を良く打ちました。バッテリーとしてはボールと判定されれば投手の山口選手勝負で良い場面ですから、厳しい所を攻めたんですが、葉波選手の打撃が上を行った形ですね』

 

 よしっ! 完璧っ!

 ぐっとセカンドベースの上でガッツポーズを作る。

 これで二点先制。山口としてもピッチングがラクになるはずだ。

 

「……今の、完全に読み打ちだったでやんすね」

「矢部くん。流石に分かるよな」

 

 ショートの矢部くんが外野から戻ってきたボールを握りながら、俺に話しかけてくる。

 

「分かるでやんすよ。パワプロくんがここぞという場面で勝負強いのは分かりきってるでやんすからね。オイラがキャッチャーなら、勝負なんかしたくないでやんす。……一番近くで、パワプロくんがなんとかしてくれるのを、見てきたでやんすからね」

「そう言われると照れるって。……でも、俺も知ってるからな」

「自画自賛でやんすか?」

「いや、違うよ。――どうしても塁に出てほしい時、必ず道を切り開く一番打者が、バルカンズには居るって事をさ。……一点でも多く取らないと――一気に、劣勢にされそうだ」

 

 矢部くんと視線が交差する。

 矢部くんはふっと笑って、俺に背を向けて守備位置へと戻っていった。

 謙遜はしない。矢部くんも分かっているからだろう。

 この劣勢の場面で、道を切り拓くのが矢部くんだ。

 そうすることが、自分の役割だと本能で知っている。だから否定もしないし肯定もしない。それが当然のことだからだ。

 続く山口は三振で打ち取られ、これで二回の裏が終了し、三回の表に入る。

 三回の表のバルカンズの攻撃は、七番桐谷を三振、八番田中をショートゴロ、ピッチャー大西をサードゴロに打ちとって攻撃を終了する。

 その裏のカイザースの攻撃は一番からの好打順だったが、一番の相川さんがライトフライ、二番の蛇島がヒットで出塁するものの、三番友沢がレフトライナー、四番ドリトンがセカンドゴロに打ち取られ、無得点で終了する。

 そして、四回のバルカンズの攻撃は、一番の矢部くんから。

 正直に言えば、この打順でのスタートが一番怖い。

 矢部くんが塁に出れば、まず間違いなく足を絡めてくる。

 仮に出塁させた上に盗塁を許してしまえばノーアウト二塁の場面が作られ、林までヒットで繋げられれば、最早失点は免れないだろう。

 矢部くんが先頭打者で出塁し、ツーアウトになるまでに盗塁が成功した場合の得点率は脅威の九割。つまり、矢部くんに盗塁を許せばほぼ確実に得点を許してしまうということだ。

 まさに矢部くんは理想の切り込み隊長と言っていい打者だ。……恋恋高校時代も、その能力に何度も助けられてきたっけ。

 でも、その矢部くんは今は敵なんだ。全力で抑えに掛かるぞ。

 左バッターボックスに矢部くんが入る。

 一打席目は完全に打ちとった当たりだったが、それでもフォークをバットに当てられた。

 フォーク、ストレート、ストレート、フォークという配球で、フォークをセカンドゴロという結果だった。

 ……フォークか、ストレートか、カーブか、スライダーか。

 一打席目と同じくフォークを投げさせても良いが、内野安打の可能性が高いゴロは打たせたくない。

 フォークは当てられればゴロになる可能性が高い球種だ。先程の打席の最期に見たフォークなら当てられる可能性も高いし、ここはフォークじゃなく、ストレートで行こう。

 矢部くんは速いボールでも内角をコンパクトに弾き返す技術を持っているが、今日の山口のストレートを一二塁間に飛ばすのは難しいはず。

 初球にストレートを見せていれば、矢部くんは嫌でもフォークとのコンビネーションを意識するだろうし、追い込まれたくないという思いが有るはずだから初球から積極的に振ってくるだろう。

 ここは内角の低めにストレート、それもボール気味に投げて貰おう。

 俺のサインに、山口が頷く。

 ストレートは、俺のミットから僅かに内側に逸れた厳しいコースへと投じられる。

 それを、矢部くんはしっかりと見逃した。

 

「ボール!」

「ナイスボール、山口!」

 

 厳しく来すぎたな。まあいい、見極められてボールになるのも織り込み済みだ。

 次は先程より甘い内角へフォークを投げさせる。

 当てられてゴロになるかもしれないが、ストレートを一球見せた分、空振りする可能性は初球に投げさせるよりも高い。

 山口が頷き、フォークを投げる。

 そのボールを待っていたとばかりに、矢部くんはしっかりとバット振っていった。

 打席の手前で勢い良く落下する超一級品のフォークボール。

 それを矢部くんは、バットから左手を離して掬い上げるようにして引っ張って弾き返した。

 

「な――にっ!?」

「狙い通りでやんすっ!」

 

 放たれた打球はファーストの頭の上を越えてライト前にポン、と落ちる。

 矢部くんはそれを見やり、ファーストベース上でガッツポーズした。

 ……狙い通りだって? 確かに読まれるかもしれないリードをしたけど、それは『読まれても絶対に打てない』という自信が有ったからだ。

 実際、山口のフォークの被打率は脅威の零割台。まさに『打たれるはずのない魔球』のはずなのだ。

 それを、矢部くんは敢えて狙って行った。

 それも、初球にストレートの厳しいコースの後に。

 確かに初球よりも甘いとは言え、内角から鋭く落ちる投げ損ないではない天下一品のフォークを狙って打つなんて真似、普通はしないし、出来ない。

 だが、矢部くんはそれをやってのけた。

 両手で握っていたらバットが引っ張れない低めのボールを、左手を離して無理やり身体に巻き込むようにして弾き返したのだ。

 金属バットならまだしも木製バットでそんなことをやろうとしたら、真芯に当てなければとても外野までは届かない。内野ゴロか、せいぜいで内野フライが関の山だ。

 素晴らしいバットコントロールと集中力。

 拓かない筈の道を無理矢理にでも切り拓く。高校時代に何度も助けられた矢部明雄という選手の最大の魅力だ。

 ……これが、矢部くんか。

 シーズン終盤の取り返しの付かない場面で相手にしてみて初めて分かる、脅威の出塁能力。

 高校時代の一発勝負の場面で相手してきた捕手はこんな気持ちだったんだろう。人事を尽くして確実に抑えられた筈なのに、気づけば矢部くんは一塁に居て、次の塁を狙っている。

 まさに切り込み隊長という言葉がぴったりだ。……お陰で、二点差だっていうのに生きた心地がしないぜ。

 

『バッター二番、林』

「よし! 僕も続く!」

 

 左打席に林が立つ。

 ……さて、問題はファーストランナーの矢部くんだ。

 この場面、矢部くんは必ず盗塁を狙ってくる。

 それを刺せるかどうかは置いておいて、矢部くんは今シーズン、既に盗塁数は四〇を数え、五〇を伺おうかという所まで伸びている。

 残り三〇試合残っているこの状況で四〇という数字は驚異的の一言だ。……昨年の林は六〇盗塁って数字だったけど、それは代走を含めての数だ。矢部くんのように常時スタメンに立つようなバッターがこれだけの数の盗塁が出来ているということは、出塁率が高い何よりの証拠だろう。

 そんな走者を一塁においているこの状況で、分かりやすいフォークを投げさせるリードをすれば、確実にファーストランナーの矢部くんは次の塁へ盗塁を試みるだろう。

 かと言って、変化球を投げさせない訳にはいかない。

 全く、厄介な敵だな、矢部くんは。

 バシッバシッ、とミットを叩きながら、頭をフル回転させる。

 とりあえず牽制を入れて貰う。

 山口は牽制が上手い牽制死を奪ったことも多々ある。それを矢部くんも知っているだろうから、かなり走りづらくなるはずだ。

 矢部くんが頭からファーストに戻る。

 さて、まず初球。林はこの場面、ストレートを一本狙いだろう。

 矢部くんも初球からは走らない。この場面ならボールカウントを稼げば有利になるし、ボール先行になれば林も出塁する確率が上がるからだ。

 それなら、まず初球はカーブ。

 一応はスライダーも投げられる山口だが、コントロールもアバウトで球威もカーブやフォーク、ストレートに比べたら雲泥の差がある。

 慎重を期すためにも、ここはカーブを選択しよう。

 ランナーが一塁にいる場合ならフォースアウトもあるし、ちょこんと当てられて内野安打という確率はかなり低い。なら、まずは外角に投げてストライクを取ろう。

 初球のカーブを山口が投じる。

 多少甘く入ったものの、ストレート狙いだった林はカーブを見逃した。

 

「ストライク!」

 

 よし、入ってよかった。

 ファーストストライクを取れなかったらこの林の打席は矢部くんが帰ってくることを覚悟して、同点を避けるリードをするしか無かったが、まだこちらに有利な形を作れた。これならまだ無失点を狙える。

 俊足のランナーが一塁に居る状況。並行カウントになったとしてもまだ投手有利なこのカウントならば、矢部くんは走れない。一球外される確率が高いからだ。

 なら、ここで使うボールはフォークが良いだろう。追い込めば林はどうとでも料理出来る。

 じり、と山口が長くボールを持つ。

 矢部くんがタイミングを見計らってベースから一歩、二歩と離れる。

 ピッ、と山口が一度ファーストにボールを投げ、矢部くんは頭から滑りこんでベースに戻る。

 ドリトンからボールが戻ってきて、山口がもう一度構える。

 さぁ、来い。

 山口の手からボールが離れる。

 林がフォークボールを勢い良く空振った。

 矢部くんは一塁からダッシュをするが、途中で足を止めてファーストに戻る。

 読み勝った。これでツーストライクノーボール。

 追い込まれたのを見て、バルカンズベンチも仕掛けてくるだろう。

 ヒットエンドランか、単独スチールか。

 前者は確率を考えればほぼ在り得ないと言っていい。山口は三振を奪うことに長けた投手だ。その投手相手にヒットエンドランを仕掛ければ、三振ゲッツーという可能性も大いにあり得る。

 とりあえず一球外しておこう。見せ球にもなるし、警戒しているというのをファーストランナーの矢部くんやバルカンズベンチに見せておく必要もある。

 一球ウェストボールを挟み、ボールを返してこれでツーストライクワンボール。

 これでカーブフォークストレートという順で投げさせた。

 セオリーでいけば次はフォークが濃厚なカウントだが、矢部くんもそれは承知だろう。

 山口のクイックの速度は平均程度。それを考えれば変化球でスタートされれば矢部くんの盗塁成功はかなりの高確率になる。

 全く、頭を使わせてくれるぜ。

 林でアウトカウントを取るのは当たり前として、できれば矢部くんをセカンドまで進ませたくない。

 ストレートを投げさせれば、矢部くんはセカンドで刺せるはずだ。

 ここまで上手く林を追い込めたし、いい流れなんだ。案外ストレートでも打ち取れるかもしれない。

 指でストレートのサインを出そうかとミットを動かした所で、俺はぐっと思いとどまる。

 ……、落ち着け、欲張るな俺。ストレートで林を確実に抑えられる保証はないんだ。なら投げさせるべきじゃない。

 俺は俺と、チームメイトを信じる。

 たとえ変化球で走られたとしても刺せる可能性もあるし、仮にセカンドに進まれても必ず矢部くんがホームに生還するとは限らない。

 生還されたとしても、まだ一点勝ってるんだ。カイザースの打線なら追加点も取れる。

 俺は山口にサインを送る。

 送ったサインに山口が頷き、矢部くんから目線を離す。右投手である山口はファーストに背を向けなきゃ投げられないからな。

 矢部くんが一歩二歩、ベースから離れる。

 そして、山口がクイックモーションからボールを投じた瞬間。

 

 ダンッ! と力強い踏み込みと共に、矢部くんがスタートを切った。

 

 ボールは林の手前で激しく急降下し、林はそれを空振りする。

 ここからは先は俺の仕事。

 弾んだボールを捕球する。

 素早く右手に持ち替え腕を振るう。

 空気を切り裂く弾丸が俺の右手から射出された。

 俺の捕球してからセカンドへ到達のベストは1,81秒。

 勝負だ、矢部くん――!

 送球は寸分のズレもなく走りこんできた友沢の膝の高さに構えられたミットに吸い込まれる。

 そのままミットを地面に付けるようにして友沢がタッチに行く。

 そのミットをかいくぐるように、矢部くんがセカンドへと滑りこんだ。

 塁審がその瞬間をじっと見つめ、

 

「セーフセーフ!」

 

 両手を横に広げた。

 

『と、盗塁成功……!』

『タイミングは際どかったですが、矢部選手のスライディングがうまかったですね……! 僅かな減速すらありませんでした!』

 

 ちっ、惜しい……っ。手応えはバッチリだったんだけど。

 投げさせた球種がストレートならアウトだったかもしれないが、これで良い。ヒットをワンアウトランナー二塁。この状況なら、後続をアウトにすれば得点は入らないからな。

 

「ワンアウト! 山口、ナイスボール!」

「ああ」

『それにしても今の葉波選手の送球、早かったですね。コースもドンピシャでした!』

『ストップウォッチで測っていたんですが、捕球してからセカンドへの到達時間が1,8秒でした。球界最速は1,79秒と言われていますから、それに肉薄する素晴らしい数字です。球界ワーストの許盗塁を許した選手と同じ人物だとは思えませんね。送球技術と肩の強さでいえば、彼は今、日本球界一かもしれません』

『バッター三番、六道』

 

 さて、次は六道か。

 シーズン終盤になった現時点で、六道の打率は三割まで及んでいない。

 打率は二割九分二厘。四〇〇打数一一七安打の成績で、ホームランも二桁打っていない。

 これだけ見るとクリーンアップの三番を打っているにしては力不足だと思うかもしれないが、特筆すべきはその選球眼だ。

 ここまで全試合、一一〇試合に出場している六道の打席数は四七一打席。

 打数は打席から四死球、犠打、犠飛を引いた数だ。つまり、六道は四七一打席のうちの七一打席でそれらの結果だということ。

 長打力の無い六道は犠飛は殆ど打たない。ライナー性の打球が多く、外野手も殆どが前に出る。

 バントは上手なものの、俊足の矢部くん、林は脚で攻撃することが多く、殆どバントはしない。今年に至っては僅かに三本決めたのみだ。

 犠飛と犠打を合わせて七本。残りは全て四死球で出塁している。

 つまり、一一〇試合終えた時点で六道は六四もの四死球を選んでいるのだ。

 これを出塁率に直せば、六道の出塁率は脅威の三割八分六厘。これはリーグ三位の記録で、友沢、東條に続いている。

 つまり、大体五打席に二回は塁に出るバッターなのだ。

 そして、次の四番打者には得点圏打率四割を超える猛田が控えている。

 矢部くんと林がかき乱し、六道がきっちり繋げて四番が返す。これこそ、バルカンズの黄金得点パターン。

 六道は選球眼と動体視力が抜きん出て高い。ここに捕手としての読みまで加わるとなると、アウトに取るのはかなり難しい打者の一人だろう。

 さて、と、ワンアウト二塁。矢部くんの足ならライト前ヒットなら十分に帰ってこれるこの場面。六道もおそらく右打ちを心がけてくる筈。

 ここは内角を厳しく突いて行こう。まずは上体を起こさせて、外中心でカウントを整えて内角へのフォークで三振を狙う。

 勿論六道のリアクション次第ではリードを変える必要は有るだろうが、基本はこれで攻める。

 内角の厳しい所を突かれて上体を起こされれば、右打ち狙いで外のボールを狙っていたとしても山口のストレートを弾き返すのは難しい。もう一度体勢を整えるまでに外でカウントを整えられれば、内角のフォークで確実に打ち取れるはずだ。

 内角高めのストレートのサインに頷いた山口がボールを投じる。

 だが、そのストレートが甘く入った。

 

「!」

「ふ――っ!」

 

 六道はそのボールを逃さない。

 カァンッ! と捕えたボールが二遊間を抜き、センターへと抜けていった。

 矢部くんがサードを蹴る。

 

「バックホーム!」

「おらぁっ!」

 

 センターの相川さんからボールが戻ってくる。

 矢部くんが快速を飛ばし、ボールよりも早くホームベースを駆け抜けようと向かってきた。

 帰らせて、たまるか!

 足でホームベースを隠してブロックしつつ、ボールをミットで捕球し、タッチしようとしたその瞬間。

 

 矢部くんの姿が、目の前から消えた。

 

 しまった! 横から……!

 衝突を避けるように、矢部くんは俺の真横をスライディングで滑り抜け、そのまま身体を捻りホームベースをかすめるようにタッチした。

 

「セーフセーフ!」

『六道タイムリーヒット! バルカンズ、すかさず一点を返す~!』

 

 ファーストランナーの六道を牽制しつつ、チラリと矢部くんを見やる。

 上手いとしか、言葉が出て来ない。

 タイミングは際どかったけどアウトに出来たタイミングだったのに、俺のタッチとブロックを避けながら、身体を捻ってベースにタッチした。

 まさに職人芸レベル。ベースランだけじゃない、スライディングまで一級品じゃなきゃ、今のはアウトだった。

 矢部くんがゆっくり立ち上がり、俺を一瞥してベンチへと戻っていく。

 まだ一点。こっちが勝ってる。後続を切れば、俺達の優位は揺るがない。

 逆を言えば、後続を切れなきゃ大ピンチってやつだ。

 続くバッターは四番の猛田。

 ここはもうなりふり構っていられない。

 フォークのサインを連続して出し、フォーク二球で追い込む。

 ストレートとカーブを見せた後、最期はホームベース上に落ちるフォークで猛田を三振に打ち取った。

 その次のバッターの八嶋もフォーク中心のリードで内野ゴロに打ち取り、四回のバルカンズの攻撃は終了する。

 続く四回裏、カイザースの攻撃、相川さん、蛇島が変化球で打ち取られ、友沢がフォアボールで出塁、ドリトンがライト前に安打を放ち、チャンスをツーアウトから一、二塁と作るも、春が痛烈なサードライナーで打ち取られる。

 五回はお互いにチャンスすら作れず三者凡退で、試合は後半戦に入る。

 ここまで試合は二対一。カイザースが勝っているが、ロースコアの試合になっている。

 七回表、バルカンズの攻撃は九番大西から。

 バルカンズの中継ぎはそこまで厚くはないが、ビハインドである以上、ここで代打を使わざるを得ないだろう。

 

『選手の交代をお知らせ致します。バッター九番大西に代わり、バッター、大崎』

 

 大西がベンチに下がり、代わりに出てきたのは大崎さんだ。

 大崎さんはプロ一五年目のベテランだ。

 左打者として安定した成績を残し、バルカンズの屋台骨を支えてきた選手だが、近年はその経験を活かして代打に回っている。いわゆる代打の切り札だ。

 足はそこまで速くはないが、一五年のキャリアの内、タイトル獲得こそ無いものの年間打率三割を七度も経験している柔らかいバッティングには定評が有る。

 広角に打ち分ける打撃センスを持ち、ラインドライブを掛けた打球で外野の間を抜いていく打撃を得意としている。

 弱点という弱点は見当たらないが、しいて言えば速球への反応が遅れ気味な点が大きいだろうか。その証拠に大崎さんの直球の安打率は他の球に比べて低く二割三分程度。ヒットゾーンも左打者の大崎さんにとっては流し打ち方向のレフトの方向ばかりだ。

 それを考えるならば、ストレートとフォークのコンビネーションを持つ山口は苦手だろうが、気になるのは毎年シーズン後半になって上げてくる打率だろう。

 昨年に至っては後半戦で代打出場だけで七打席連続安打を記録しているし、安易に攻めれば手痛いダメージを被ることになりかねない。

 それに、回は七回。フォークを多めに投げさせているのもあって、そろそろ山口も疲労してくる頃だし、握力が低下してくる頃でもある。

 ここは山口の状態を確認しつつ、ストレート中心で攻めていくか。

 外角に構え、ストレートを要求する。

 山口はボールを投じた。

 大崎さんはそのボールを見逃す。

 

「ストラァイ!」

 

 やっぱり疲労が見えるな。球速が二、三キロ落ちている気がする。

 バックスクリーンにちらりと目をやれば、球速は一四三キロ。

 山口のマックス球速は一五二キロだが、平均球速は一四七キロ程度。それを考えればやはり疲労しているのかもしれない。

 もう一度ストレートを、今度は内角に投げさせる。球威の確認と、打たれる確率の低いボールを選択を兼ねた配球だ。

 今度は大崎さんがバットを振り、ファールになる。

 バックネットにボールが当たる音を聞きながら、審判からボールを受け取って山口に投げる。

 やっぱりストレートの球威は落ち気味だ。

 この次の回、カイザースの攻撃は山口から。監督はそこで代打を出すつもりだろう。

 今頃、ブルペンでは一人目の中継ぎである佐伯さんが肩を作ってる頃だろう。

 なんとかこの回は〇点で行きたい。

 幸いカウントは2-0。強気で攻めて行けるカウントだ。

 もう一度外。ストレート二球続けた後、見せ球も兼ねてカーブを外して投げて貰う。

 大崎さんはそれを見逃した。

 2-1。次は内角にストレート。ゆるい見せ球の後、速いボールを対角線上へ、というお決まりのリードに対して、大崎さんは果敢にバットを振っていく。

 甘く入ったストレートを、大崎さんはバットでしっかり捉えるが、球威に押されたのか、レフト線へ左へ切れるファールになった。

 しかし、打球自体は痛烈だ。

 次はフォークを投げさせたいが、山口のスタミナは大丈夫だろうか。

 ……打球自体は痛烈だったが、ボールに押されてファールになったのも事実。厳しい所にきちんと投げられれば打ち取れるだろうし、大崎さんの頭にはフォークがちらついている筈。ここはストレートでも打ち取れる確率は高い。

 少し悩んだ末、ストレートのサインを出すが、それに対して山口は首を振った。

 む、悩んだことを山口に悟られたか。

 これは山口からの『俺に遠慮をするな』というメッセージだろう。

 それなら遠慮はしない。お前の最高の決め球を頼むぞ。

 もう一度出したサインに山口が頷き、ワインドアップから腕をしならせ、投じる。

 内角への、フォークボール。

 投じられたボールは、意志を持っているかのようにバットを避け、打者の手前で大きく降下する。

 それを、大崎さんは豪快に空振った。

 

『ストライクバッターアウト! 代打大崎、空振り三振!』

 

 或いは、大崎さんはそのボールが来ると分かっていたのかもしれない。タイミングはばっちりだった。

 だが、バットには当たらなかった。

 分かっていてもヒットに出来ない。――それこそ、伝家の宝刀という表現が相応しいウイニングショットだ。

 全く、頼りになる投手陣だぜ。

 ワンアウトで打順は頭に戻り、矢部くんに戻る。

 先頭打者を取って流れに乗ってるんだ。ここは抑えるぞ。

 

『バッター一番、矢部』

 

 矢部くんは何も言わず左打席に立つ。

 元は右打者だった矢部くんを左打席に立つようアドバイスしたのは他でも無い俺だけど、こんな恐ろしい打者として戦うなんて思ってもみなかったな。

 矢部くんに対して取れる方法はフォークを中心に攻めるだけだ。

 さっきヒットにされたけど、あんな打撃、狙って二度も出来るもんじゃない。

 俺のサイン通りに、山口が投げる。

 矢部くんは初球から、フォークボールを打っていった。

 

「甘い、でやんすっ!」

「な、にっ……!」

 

 快音を残し、ボールが一、二塁間を抜けていく。

 ライト前ヒットで矢部くんに出塁される。

 く。読まれてたとは言え、ああも完璧に捉えられるなんて。今のは失投なんかじゃないのに。

 切り替えよう。ここはワンアウト一塁。さっきと違って一つアウトカウントが有る分かなり戦いやすい。

 矢部くんは盗塁の機会を伺っているだろうが、ワンアウトの上に後半ということも考えれば、成功したとはいえ先程の盗塁がかなりギリギリの勝負だったことも有り、安易にはスタートは出来ないだろう。ここは林との勝負に集中だ。仮に、スタートされても俺が刺す。

 続く林をフォークとストレートのコンビネーションで内野フライに打ち取る。

 これでツーアウト一塁。六道か猛田か八嶋。誰かで一つアウトを取れればチェンジだ。

 疲労の見える山口の甘いストレートを六道がライトへ弾き返し、ツーアウト一、二塁とされるが、この後の猛田はフォークに全く有っていないし、山口はここでお役御免となるだろう。

 ならば、と、ここは山口にフォークを連投させる。

 フォークでファーストストライクを取り、二球フォークを見逃され1-2となるものの、もう一度フォークで追い込んだ後、最期もフォークで内野ゴロに打ち取る。

 これでスリーアウトチェンジになり、山口とゆっくりとベンチへ向かう。

 

「ナイスボールだったぜ、山口。ちょっとキモが冷えたけど」

「ああ、流石に疲労を感じるな。バルカンズが相手だけあって、かなり気を使った」

「仕方ない。でも、結果的に七回一失点だ。九〇点だろ」

「同点にされなかったのは大きいか」

「そういうことだ。良いピッチングだったぜ」

「山口、良かったぞ。良くここまで抑えてくれた。次の打席はお前だが、そこで代打を出す。ゆっくり休んでくれ」

「はい」

 

 神下監督と山口ががっちりと握手を交わし、山口がダグアウトへと下がっていく。

 お疲れ様、山口。クオリティスタートをきっちり記録してくれたんだ。後は任せてくれ。

 七回の裏の攻撃。

 山口の代わりに、谷村さんが打席に入る。

 最近不調とは言え、レギュラーを守れる打撃力は備えている。代打の厚さに少し不安の有るカイザースにとっては、代打の切り札と言っていい存在だろう。

 バルカンズの投手は代打を出された大西に代わり、佐藤という中堅投手が入る。

 ここまで三〇ホールドを記録し、防御率も二点台と安定している、勝ちパターンの右投手だ。

 一敗が重くなる後半戦。バルカンズもこの一戦を重く見ているんだろう。

 軟投派でコントロールとテンポが非常に良く、かなり打ちづらい印象の有る投手だが、その佐藤に、谷村さんはレフトフライ、相川さんがライトフライ、蛇島がライトライナーと打ち取られる。

 完全に打たせて取られてたな。ここで追加点が欲しかったけど、こっちはこっちでもう勝ちパターンの継投に入れる。そう簡単に同点にはさせないぜ。

 八回表は佐伯さんがマウンドに上がる。

 八嶋、後藤、桐谷という打順だが、佐伯さんはその三人を内野ゴロにきっちりと打ちとった。

 流石のコントロールと変化球だ。

 老獪なピッチングという表現がぴったりだろう。要求通りに投げてくれるコントロールを使い、外の出し入れでカウントを整えて、決め球であるシュートやカットボールで打たせて取る。

 更にテンポよく投げることで試合のリズムを損なわず、勝ちパターンを勝ちパターンのまま、絶対的守護神である一ノ瀬へ繋げることが出来る。

 たまに被弾はしてしまうものの、連打は殆ど浴びない。

 ベンチが最も頼りにしているリリーフと言ってもいいベテラン中継ぎが、佐伯さんなのだ。

 

「リードが随分良くなったぞ、パワプロ」

「ありがとうございます。でも葉波です。佐伯さん」

「皆がそう呼んでるんだ。俺もそう呼んで良いだろ?」

「まぁ、そうですね、はい」

「はははっ、そんな不服そうな顔をするな。今日勝ったら一杯奢ってやる。今日で俺も二七ホールドだからな!」

 

 機嫌よく佐伯さんが俺の背中をバシバシと叩いてダグアウトに戻る。

 あんまりうれしくはないけど、アダ名で呼んで貰えるようになったということは、ベテランとも上手く打ち解けられている証拠かもしれない。

 まだ終わった訳ではないけど、今の所試合も上手く行っているし、手応えも感じる。

 でも、優勝しなきゃこんな手応えはただの気のせいで終わってしまう。そのためにも、今日は絶対に勝たないと。

 八回裏、カイザースの攻撃は三番、友沢から。

 クリーンナップからの攻撃だが、続投した佐藤の前にテンポよくゴロに打ち取られてしまった。

 そして、ついに試合は最終回、九回に入る。

 この回を抑えれば、カイザースの勝利だ。

 打順は下位打順の八番から。代打が出るだろうが、油断せずにきっちりアウトを取れば、矢部くんと林には一発はない分ラクに攻められるようになるはずだ。

 登板するのは、勿論、

 

『ピッチャー、佐伯に変わりまして、ピッチャー、一ノ瀬』

 

 絶対的守護神、一ノ瀬だ。

 ウグイス嬢の声にライトスタンドが大歓声を上げる。

 その歓声を背に、一ノ瀬がマウンドに現れた。

 

「一ノ瀬、アウト三つ、しっかり取ってくぞ」

「ああ、任せてくれ」

 

 一ノ瀬にボールを渡した後ミットを合わせ、キャッチャーのポジションに戻る。

 何球か投球練習をする。

 シーズンも後半で疲れが溜まっていないか心配だったけど、その心配はなさそうだ。良いボールを投げてくれているし、コントロールも構えた所にぴしっと来る。

 

『バッター八番、田中に代わりまして、バッター、片岡』

 

 代打の片岡が右打席に立つ。田中は左打者だし、左投手に対してかなり打率が悪い。一ノ瀬は左投手だから、当然の代打だろう。

 この片岡は典型的な巧打者タイプだ。

 外の球を上手く流して打つのが上手な俊足打者だが、唯一守れるセカンドの守備に難があってレギュラーでは使われていない。

 しかし、こと打撃走塁に関して言えばレギュラークラスの能力はしっかりと備えている打者だろう。

 二対一、バルカンズから見れば一点ビハインドのこの状況なら、絶対に出塁をしたいだろうし、得意な外のボールを待っているだろう。

 なら、そこに敢えて投げさせてやる。

 外角低めギリギリのゾーンにミットを構える。要求はストレートだ。

 一ノ瀬が頷き、ボールを投じる。

 スパァンッ! と構えた所に、キレの良いストレートが投げ込まれる。

 

「ストラァイク!」

 

 次はもう一球、今度は外角のボールからストライクゾーンに入ってくるスライダーだ。

 打者の手前で鋭く曲がるスライダーが、またもストライクゾーンを掠めるように外角のギリギリを通過する。

 片岡はそのボールを振っていくが、当たらない。

 

「ストラックツー!」

 

 相手の得意なコース二つで追い込んだ。これなら遊び球は要らない。三球で決めるぞ。

 ストレートを要求し、内角に構える。

 一ノ瀬から放たれたボールは、打者の内角へ食い込むような角度で内角に突き刺さる。

 

「ストライクバッターアウト!」

「なっ……」

 

 片岡が不服そうに審判を振り返る。

 片岡にはかなり厳しいコースに見えただろう。

 だが、一ノ瀬が左腕でサイドスロー。右打者のインコースへ投げるボールの軌道はストライクゾーンを掠めるようになる。片岡にはボール球に思えたかもしれないが、今のは完璧なストライクだぜ。

 完璧な投球で八番を見逃し三振に打ちとった一ノ瀬は、続く九番、佐藤に対して出た代打篠森も完璧に封じ込め、ピッチャーフライに打ち取る。

 これでツーアウト。お膳立ては整った。

 ここでバッターは一番、矢部くんに戻る。

 

『バッター一番、矢部』

 

 その瞬間、レフトスタンドから祈るような歓声が沸き起こる。

 観客も知っているのだろう。この絶体絶命の場面で一番頼りになる男が誰なのか。

 ゆっくりと矢部くんが打席に立つ。

 さぁ、今日の最期の勝負するぞ。矢部くん。

 調子も集中力も、おそらく今シーズンの中で矢部くんはベストの状態だろう。

 まずはインコース、ストレート。

 スパァンッ! と投げられたボールは構えた所に凄まじい勢いで投じられる。

 

「ストライク!」

 

 ファーストストライクを取ったが、矢部くんの集中は乱れない。

 ……く。ファーストストライクを取ったっていうのに、何故かこっちが追い詰められているような気分になるぜ。

 今日の矢部くんは三打数二安打。その一つの凡退も、痛烈なセカンドゴロだった。

 続く二球目はカーブ。

 矢部くんのカットボール、シュートなどの芯を外すようなボールに対してのアジャスト力は凄まじい。

 逆に、変化の大きいボールにはまだ対応するのが遅れる傾向にある。

 このシーズン中も、矢部くんを打ちとったのは山口のフォークや久遠のスライダー、ゆたかの縦スラなどが多い。

 一ノ瀬の最も変化するボールはカーブだ。

 インコースにストレートを投げさせたが、今度はアウトコースのギリギリを狙ってカーブを投げさせる。

 左対左の矢部くんになら、一ノ瀬のカーブは逃げていくような軌道を描く。厳しいコースに投げさせれば、初球のインコースのストレートも相まってかなり遠くに見えるはず。

 緩急も着けているし、そう簡単にはヒットには出来ないボールだ。

 ミットをボールゾーンに構える。

 並行カウントで良い。ここはしっかりカーブを矢部くんに見せて、三球目の布石にする。

 一ノ瀬がカーブを放る。

 寸分の狂いもなく、一ノ瀬のボールは俺のミットへと投げられる。

 矢部くんは、そのボールを、

 

「ふ――ぅっ!」

 

 しっかりと、狙って行った。

 快音を残し、ボールはサードの頭を越えてレフト線を転がっていく。

 

「くっそっ……!」

 

 なんで今の球をヒットに出来るんだよ! インコースのストレートの後の、外角に外した低めのカーブだぞ!?

 速い球ならともかく、緩いボールを、しかも外に外れた遠く低いボールをあそこまでしっかり飛ばせるなんて。

 アレをヒットにされちゃ、抑える方法が見つからない……!

 

「ボール中継! セカンド無理だ!」

 

 矢部くんがセカンドに到達する。

 スタンディングツーベース。完全に、やられた。

 これでツーアウトランナー二塁。もし前の打者二人を抑えられて無かったと思うとゾッとする。

 ここで打席には、林が立つ。

 

『バッター二番、林』

 

 ……最終局面、勝つぞ。絶対に。

 

 

                ☆

 

 

 矢部がセカンドに到達するのを見て、林はバットにすべり止めを塗りつけ、ゆっくりと打席に向かった。

 

(矢部くんが、繋いでくれた。……ここで打たなきゃ、男じゃない)

 

 本日の成績は三打数無安打。前の矢部がこの安打で猛打賞だったことを考えると、今日の流れを分断しているのはこの林と言われてもしょうがないだろう。

 点差は一点。もう負けられないこの場面で、チャンスが回ってきたということは、神様が打てと言っているのだと林は自分に言い聞かせる。

 気付けば、カイザースは背後に迫っていた。

 キャットハンズに三タテを決められている時は、バルカンズとパワフルズとキャットハンズ、いつも通りのこの三球団のうちのどこかに優勝争いをするんだろうと何処かで思っていたが、それは大きな間違いだった。

 

 カイザースは、強い。

 

 元々、役者はどこの球団よりも揃っていた。打の友沢蛇島ドリトン、今シーズン頭角を現した近平に、春。

 投手はもっと凄い。猪狩守、久遠、山口、一ノ瀬、ローテに食い込んだ稲村。ローテーションピッチャーの六人のうち、猪狩守、久遠、山口が二桁勝利を既に記録し、稲村も現在八勝で、後二勝すれば二桁勝利の大台に到達する。

 なのに、順位は奮わなかった。

 理由は簡単だ。それを一つにする『要』が無かったからだ。

 そう、扇の要が。

 林は、背後に視線を向ける。

 そこに座る一人の男は、鋭い目付きで自分の様子をつぶさに観察していた。

 一度弱点を突かれて完全に崩れたはずなのに、おおよそルーキーとは思えない速度で弱点を克服してそこに座る男は、カイザースの破竹の勢いを支え、自分たちの前に立ちはだかっている。

 個性が強すぎるが故にまとまりきらなかったカイザースを一つに纏め、優勝争いに食い込ませた、その男。

 一見してライバルが見つかったと直感した自分の勘は正しかったのだと、林は微笑んだ。

 そして、そのライバルを打倒してこその、野球選手だ。

 一ノ瀬がボールを投じる。

 インコースへのストレートを、林は見逃した。

 コンビを組んできた矢部が、セカンドベース上で自分を返してくれと目で訴えてくる。

 それに答えるのが、一、二番を組んだ自分の、今求められる最大で最低限の仕事だ。

 一ノ瀬が二球目を構える。

 狙いはインコース低めのシュート。

 林が速球系に弱いという情報を最大限に利用して抑えに来ると予想しての、一点読みだ。

 

 野球には、流れが有る。

 

 そんなオカルト、と笑う人がいるかもしれないが、確かに『それ』は存在するのだ。

 雰囲気がそうさせるのか、確率論の奇跡なのか、それは分からない。

 だが、二点先制したカイザースが一点を返された上、直前の八回はクリーンアップにも関わらず三者凡退で終わり、そのまま無得点で迎えた最終回。

 今日唯一の得点に絡んだ矢部がツーアウトながら出塁した、この場面。

 まるで、魅入られたかのように、一ノ瀬とパワプロの選択したボールは、インローへのシュートだった。

 待ってました、と、林が全力でバットを振るう。

 快音を残し、痛烈な当たりの打球が一、二塁間を抜けていく。

 

「矢部くん、行っけぇ!」

 

 声を上げ、林は一塁へと走りだした。

 言われた矢部は、弾丸のようにサードへと走る。

 

(帰るでやんす。このまま振り出しに戻して、勝って、新垣に――)

 

 コーチャーが腕をぐるぐると回す。

 そのまま一切減速せず、寧ろ加速さえ感じさせるような速度でサードベースを蹴る。

 そんなホームベースに戻らんとする矢部に、パワプロの声が届いた。

 

「――バックホームッ!」

 

 その瞬間、矢部は思い出す。

 

(――ライトは、元捕手の近平でやんす)

 

 つい、と視線を僅かにライト方面へ向ける。

 矢部が見たのは、明らかにライトの定位置よりも随分と前に居る近平が声を上げながら腕を振るう所だった。

 

「うおおおおお!」

 

 それは白い光線のよう。

 まっすぐに伸びた白い糸が、目の前のパワプロのミットへと吸い込まれていく。

 そう、打球は痛烈だったのだ。

 普段の林に長打が少ないことが災いした。そのお陰で、捕手にとってはそのサインを出すことへの迷いが消えるのだから。

 更に、二塁走者が矢部だったことも仕方ないこととは言え、不幸だった。

 コーチャーもチームも、全員が俊足での攻撃を軸にしている分、前進守備を見ても、コーチャーは腕を回したのだから。

 

 パワプロが投球前に出した指示は、外野前進守備だった。

 

 林も矢部も、その場面に集中するあまり、内野守備はともかく外野の守備位置までは見て居らず、気が付かなかったのだ。

 野球には、流れがある。

 空気を支配し、試合の結末すら変えることも有る、流れが。

 だが、それを断ち切ることが出来るのもまた、野球の面白さの一つだ。

 ヒットを打たれても、打者を帰らせなければ良いだけのこと。

 安打を打たれないのが勿論一番良い。だが、カイザースはそれを見越して外野を前進させていたのだ。

 しかし、それでも。

 

(帰る……っ! 帰るでやんす!)

 

 まだ試合は、分からない。

 矢部が身をかがめ、滑り込む。

 並の走者ならアウトだったろう。だが、こと走塁に関してなら矢部は日本球界ナンバーワンだ。その技術力を持ってセーフになろうと、スライディングに入る。

 

(帰らせないっ!)

 

 それを受けて、捕手であるパワプロも対応する。

 先程外から周り込まれたのを加味し、足を伸ばしてブロックする面積を増やす。

 

(読まれてるでやんすよねっ! わかってたで、やんすっ!)

 

 矢部の狙いは、それだった。

 外を回る事を意識して捕手が足を伸ばせば、その分股の下の空白は増える。

 

 即ち、股下に足を通す範囲が広がるということだ。

 

 そこを狙って、矢部が足をくぐらせる。

 勝った――矢部がそう思った瞬間。

 矢部は確かに、パワプロの鋭い眼光を見た。

 ドガンッ! と二人の身体が激突する。

 パワプロは身体の角度をサードベース側に倒し、足が股下を通るのよりも速く、矢部の身体をブロックしにいったのだ。

 矢部がそのままその場で停止する。

 パワプロは、脇腹を抑えながらその矢部の身体に、ポンとミットでタッチをした。

 

「アウトー!」

『あ、アウトー! 試合終了~! 最期はホームクロスプレーで近平が矢部を刺しましたー! 二対一! カイザースが勝利を収めました!』

 

 矢部はそのまま転がって、天井を見つめていた。

 完全に、負けた。

 腕を回したサードコーチャーが悪いという意見もあるかもしれない。でも、それでも矢部は、絶対にセーフになると思ってサードベースを蹴ったのだ。

 前進守備の確認を怠った自分の落ち度も有る。だが、それ以上に、カイザースの、パワプロの作戦に、絡め取られた。

 それが悔しくて、矢部が拳をぎゅっと握りしめたと同時に、一ノ瀬の声が耳に届いた。

 

「パワプロ! 大丈夫か!?」

「あ、ああ、大丈夫だよ」

 

 慌てて身体を起こすと、目に飛び込んできたのは脇腹を抑え、その場に蹲るパワプロの姿だった。

 

「あ……パワプロくんっ、だ、大丈夫でやんすかっ!?」

 

 慌てて立ち上がるが、矢部の身体に殆ど痛みはない。

 激突の瞬間、まだボールは到達していなかった。

 パワプロは足でブロックするつもりだったが、矢部の狙いが中央、股下だと読んだ瞬間、身体をぶつけにいったのだ。

 そのため、腕は伸ばした状態で、矢部の身体を脇腹で受ける形になった。

 防具を付けているとはいえ、全速力で突っ込んでくる人間一人の身体を脇腹で受ければ、痛めるのも当然のことだ。

 急いで駆け寄る矢部に、パワプロはにっと笑みを浮かべる。

 

「俺の勝ちだ。矢部くん。だからそんな顔をするなよ」

「……パワプロくん……」

「楽しかったな、矢部くん。また勝負しようぜ。次も俺が勝つけど」

「……そう、でやんすね。うん、悔しいけど、楽しかったでやんす。次は、勝つでやんすよ」

「ああ。それじゃ、整列とヒーローインタビューに行ってくるよ。……それと、お礼は要らないぜ」

「……? 良く分からないこというでやんすね。パワプロくんは」

 

 ゆっくりと立ち上がり、パワプロが整列に向かう。

 パワプロの言葉の意味を理解出来ないまま、矢部はゆっくりと、ダグアウトに戻っていった。

 

 

                ☆

 

 

 ゆっくりと身体をマッサージし、シャワーを浴びて着替えた頃には、時間は二三時を回っていた。

 矢部は、ゆっくりと猪狩スタジアムの外への通路を歩いていた。

 

「結局、勝った所は見せられなかったでやんすね」

 

 ぽつりと呟き、廊下を歩く。

 自分をヒーローだと言ってくれた新垣に、ヒーローになるところを見せたいと思って今日は張り切ったが、ヒーローどころか、勝てすらしなかった。

 悔しさと無念さを胸に抱きながら歩く矢部の前に、マネージャーが現れる。

 

「お疲れ様です、矢部さん」

「マネージャー。ちょっとゆっくりしすぎたでやんすね。待っていてくれたでやんすか」

「ええ、少し業務連絡がありまして……」

「珍しいでやんすね。そういう連絡は大体がシーズンオフに入ってからが多いでやんすのに」

「ええ、人事のことですから……実は私、矢部さんのマネージャーを降りて、球団の営業部の方に異動になったんです」

「あ、そうなんでやんすか。了解でやんす。寂しくなるでやんすが、今までありがとうございましたでやんす」

 

 矢部が頭を下げると、こちらこそとマネージャーも頭を下げる。

 

「それで、後任のことなんですが、今から紹介していいでしょうか」

「? 明日じゃダメなんでやんすか?」

「ええ……新しいマネージャーがどうしても、今という話で」

「む……分かったでやんす」

 

 試合で疲れている自分に、マネージャーがどうしても今が良いと我儘をいうのはどうなんだ、と矢部は思ったが、仕方ない。

 大方途中採用の新人か、今シーズン終わりまでの繋ぎだろう。自分に対して踏み込んで良いラインは今後教えれば良いかと思い、矢部は頷く。

 まずは、こんな時間に連絡はあまりしないで欲しいと言おう、と矢部が心に思った所で、

 

「どうも"初めまして"。矢部さん」

「……え……」

 

 目の前に現れたのは、

 

「マネージャーとして球団にお世話になることになった、」

 

 黒髪を揺らし、勝ち気なツリ目の、

 

「新垣あかりです。今日から貴方のマネージャーを務めさせて頂きます。一生懸命頑張りますので、よろしくお願い致します」

 

 いつも自分を支えてくれていた、パートナーだった。

 

「あら、かき……」

「……え、えと、怪我が治ったから、正式にマネージャーとして採用されたの。球団から話は有って。あ、今日からって言っても怪我してる間にちゃんと勉強もしてたから大丈夫だとは思うわ。ただ、まだ始めたばっかりだし、色々失敗したらごめんね。頑張るけど、何か間違ってることとか有ったら言ってくれれば治すから」

「……っ」

「だから……えっと……よろしくね。矢部さん」

 

 にこり、と目の前の新垣が微笑む。

 野球を止めて伸ばし始めたのだろう、髪の毛は前に見た時よりも長くなっていた。

 紺色のスーツに身を包んだ姿は初々しい新入社員そのもので、どちらかというとスーツに着せられているかのような印象だった。

 何よりも矢部が驚いたのは、新垣が随分と女性らしくなっていたことだった。

 そんな彼女を、矢部は思わず抱きしめる。

 

「きゃっ、ちょっ!?」

「なんで相談しなかったでやんすか……! めちゃくちゃ……めちゃくちゃ心配したでやんすよ!」

「……ごめん。でも、ずっと悩んでたんだよ。マネージャーになること。余計な心配かけたくなくて、あんたには黙ってたんだけど、彩乃さんとか、七瀬さんとかに」

「そう、だったんでやんすか?」

「うん。そうしたら、パワプロの耳にも入ったみたいで。……やれよって言ってくれたの」

「パワプロくん、が?」

「そうよ。『ここまで野球をやったことは無駄じゃない。プロ選手だった新垣にしかわからないこと、そして、新垣でしか支えられない人が必ず居る。だからやれよ。普通の野球選手とは違う道かもしれないけど――それが新垣の野球道なんだから』、って」

「……あ……」

 

 そこで、矢部は試合終了の時にパワプロが言ったことを思い出した。

『お礼は要らない』というのは、この事だったのだろう。

 思わず新垣の身体を離して、矢部がぶんぶんと頭を振るう。

 

「で、でも、なんで決めた後オイラに言わないでやんすか!」

「それもパワプロ。『正式に決まってから、矢部くんを驚かせてやろうぜ』って」

「ぱ、パワプロくんっ……!」

「でも、あんたのマネージャーになれたのは、監督やコーチが推薦してくれたの。私に、あんたを一番近くで支えなさいって。そう言ってくれたのよ」

 

 新垣の目に涙が浮かぶ。

 その姿を見て、矢部の脳裏に新垣の引退を知った時のことが思い浮かぶ。

 

『ずっと見てる。もう、キミの一番近くには居れないけれど、それでも、誰よりも貴方を見てるから』。

 

 形は、変わった。

 一緒のグラウンドに立って、一緒に白球を追うことは、もう出来ない。

 それでも――彼女は、また。

 マネージャーという立場で、自分の近くに、居られるようになったのだ、と。

 

「……新垣」

「な、何……?」

「今まで支えてくれて、ありがとうでやんす。そして、これからも、よろしくでやんすよ」

「……うんっ」

 

 新垣が笑顔を浮かべる。

 その笑顔を見て、矢部も笑顔を浮かべたのだった。

 

 

                十月五日

 

 

 カイザースは、苦手としていたバルカンズとのこの三連戦を三タテし、三位に浮上した。

 二位、パワフルズとの差も1,5ゲーム差と肉薄する。

 熾烈な戦いを繰り広げる三球団の争いは九月の下旬までもつれ込み、残り試合数が二桁を切っても殆どゲーム差は変わらなかった。

 そして、一〇月。

 残りいよいよ、二試合。

 普段のペナントレースなら順位が決まっていてもおかしくない場面でも、今年の優勝フラッグの行方は、まだわからない。

 一位キャットハンズ、二位0,5ゲーム差でパワフルズ、三位、首位と1ゲーム差でカイザース。

 四位のバルカンズ以下の球団に優勝の可能性はなくなり、覇権争いはこの三球団に絞られた。

 カイザースが残すのは、雨天中止になったキャットハンズ、パワフルズの二球団。

 まるで仕組まれたかのような残りカード。

 そして、この球界史に残る程の接戦となったこのシーズンの決着を占う試合が、今日、十月五日に行われようとしていた。

 キャットハンズ対カイザース。

 球場はキャットハンズの本拠地、肉球場。

 他のカードは無く、プロ野球ファンの視線が一点に集まる好カード。

 それを目の前にして、パワプロは一ヶ月前から痛めている脇腹にテーピングを施し、寮を後にした。

 ――本日の予想先発。

 早川あおいvs稲村ゆたか。

 ゆたかの二桁勝利と優勝を賭けて、パワプロはゆっくりと、肉球場に向かったのだった。

 

 


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