「え……」
一体、どうして——そしていつから僕の後ろに立っていたのか、見当もつかない。でもそれは、泣きたくなるほど美しい、涅色の髪の紳士の姿をしていた。
どこか悲壮を湛えた神秘の瞳は、灰桜。
上質なロングコートは漆黒に艶めいて、覗く裏地は朱、手には細い剣——仕込み杖のように見えるのは、僕の見間違いだろうか? 後から持つようになるならまだしも、召喚した時点でそんな凝った暗器を持つ者など、今まで聞いたことがない。しかし
「——どこにいるんだ?」
すると、彼が、唐突にそう呟いたように聞こえた。そよ風の騒めきと聞き違えそうな、今にも消え入りそうな、ごく小さな声で。
「何も見えない、
盲目。悲嘆。最優のセイバー。
この三要素を受けて、僕の壊れた脳が弾き出した結論は、不愉快なくらいに明快だった。発条仕掛けのごとく跳び上がり、がばりと御足にすがりつく。顔中に作り笑いを浮かべて、頭を上げれば、薄氷の眼が冷ややかに見下ろす。
「わ……あ。素敵なコートですね。すごく知的そうだし。出立ちがスマート! イケメンだなあ。あ、あなたのマスターになる人間は、とてもとても、幸運なんだろうな!」
——魔法も、根源も。この世には無い。
この世にあるのは欲望と打算だけだ。魔法のように見える奇跡も、奇跡のように思える伝説だって、その全てが、元を辿れば、個の願望に鍍金された緻密な策略の産物なのだ、と……僕にだっていい加減、そんなことはわかっていた。勝てるのは勇者や英雄などではない。金と権力を持つ者が、結局のところ、全てを得る。魔法なんていくらあったって、何の役にも立ちやしない。だから——媚びる。ただ、媚びること。最終的にはやっぱりそれだ。それしかないのだ。僕にできることなど。僕の存在価値など。せいぜい無様に笑われることだけが、僕の利用価値なのだ。このろくでもない喜劇が終わるまで。
じゃあ、なぜあの場に立った?
……だから当然、信じてなんていなかった。あの時、あのグラウンドで。たった一基の、信頼関係も戦闘力もないサーヴァントで。少なくとも五基の神霊級サーヴァントを従えて、控えめながらも誇りに満ち、貴族じみた柔らかな微笑を浮かべる首席の彼を倒せる、などと。思っているはずが、なかったのだ。
じゃあ、逃げればよかっただろ?
……だって逃げても、追われる。どうせ。
わざわざお前を追いかけてまで触媒にしようとはしなかったさ。代わりに他の弱いマスターを捕まえるだけで。生贄なんて、そこら中にいる。だからさっさと逃げればよかった。お前はただ、逃げればよかった。なぜだ? なぜそうしなかった?
僕は。
……そうだ、僕は。
「っ……」
追従笑いが、蝋のように固まり失せる。
ああ、こんな、今更になって。
何もかも手遅れになった後に、ようやく思い出すなんて。
そう。
たとえ、道化でしかなかったとしても。
人として、マスターとして。何もかもが間違っているとしても。道理に合わないとしても。
あの時。僕は。
だって、こんな世界、何もかも間違っているじゃないか、と——腐った心のどこかで。澱んだ井戸の深底で。独り燃えゆくちいさな蠍のような、燻る自分の思いだけは、最期まで裏切りたくない、と。
そう、思ったのだ。
「……でも、それだけ、だろ」
絞り出す掠れ声で、そうして。
心にもない世辞を謳いたがる口を留めて。人差し指を突きつけて。血と吐瀉物に塗れたままの髪と、ぼろぼろの顔で。狂人のように笑って。嗤って。やった。
「お前は……お前も。中身は、クズだ!」
訪れるのは、予想通りの退屈な静寂——
なんとか皆の反応を待ちたかったが、情けないことに、僕の気力体力は、とうに限界を迎えていた。ふいに目の前が暗くなり、眩暈を起こして、再び血の中に倒れ込む。動かない。動けない。でもきっと死ぬことはない。誰もこの程度のこと、間違っても大事にはしない。しかし、だとしても、これは“死”だ。100%間違いなく。今ここで、僕の魂は死ぬ。どんなセラピーでも治せない。未来永劫蘇らない。そこには奇妙な確信がある。
取り返しのつかない終幕を予感しながら、微睡むように目を閉じる。
かすかに手の甲に熱を感じたが、きっとこれも、自律神経がくたばる兆候か何かでしかないのだろう。燃えるような頭部の熱に、凍える身体。まともに機能している器官は耳だけになっていた。遠い街の喧騒のように、クラスメイトたちの会話が聞こえる。
「セイバー、どうか気になさらないでください。彼は……ええと。何と申しますか。私たちも、これまで何度も忠告をしたのです。しかし彼はいつも、ああなのです。あなたが気にされることは何もございません」
そう。僕はいつだってこうだ。だから誰に気にされる必要もないし、誰かを気にかけるべきでもない。ただ一人、僕だけが僕の真実を知り、そして忘れる。精神ごと。でも……ああ。もし今際に一つ、願ってもいいのなら。この世で、たった一人でいい。覚えていてほしかった。僕のことを。誰かに微笑みかけてほしかった。識ってほしかった。それすら叶わないというのなら、せめて誰かの記憶……残酷で冷たい記録ではなく、ただ温かく、儚くも優しい記憶の一片に残りたかった。誰かに微笑みかけてみたかった。誰かの助けになりたかった。誰かを——救ってみたかった。
「……ごめん、叔父さん」
苦痛からではない涙が、出ない声の代わりに、頬を伝う。
もう、どこにも、痛みはなかった。